ココアクッキーとスノーパウダー
雪が降っていた。
鶴橋駅の近鉄線からJR環状線に向かう乗り換え口の階段脇に立って、止まっては人を降ろし、人を乗せては走り出す電車を眺める。
電車が止まるたび、駅のホームにははらはらと雪が舞い込んで、電車が走り出すたび、ふわりと浮き上がった雪が電車を追いかけていく。
時計を見ると、昼の十二時を過ぎていた。
読み終えた本を、カバンにしまい込む。今日このために持ってきた本は次で最後。3冊もあれば十分だろうと思っていたが、あれはいつも予想の上をいってくれる。
どうもあれの生きてる世界の時間軸は、俺の世界の時間軸とズレているらしい。「あと少し」とは、1日後と読み替えてやればいいんだろうか。
最後の1冊を手に取る前に、あれに電話をかけてみることにした。出れば幸運。出なければ本を読む。それぐらいの期待値で電話すると、3回目のコールで電話が繋がった。
おぉ、繋がったよ。
そんな当たり前のことに感動しながら、それを表に出すことなく話し掛ける。
「取り敢えず、あと何時間待てばいい?」
「あ、こうし?形がなかなか上手く作れなかったんだけど、やっとできたんだよっ。これから焼くからね。だから、あと1時間半?2時間かな?」
名乗らない俺も俺だけど、悪びれもなく待ち時間を告げてきたこいつもこいつだよな。
「……3時間は待たねぇからな」
「はぁい」
電話を切る。
電車が通り過ぎるたび、人が通り過ぎていく。
すれ違うだけの人たち。
それはこの先一生出会うことのない人かもしれないし、もしかしたらどこかで偶然またすれ違う人かもしれない。
駅のホームに着いて3時間半が過ぎていた。
その間に何人とすれ違ったのか検討もつかない。
『今日さ、渡したいものがあるから、鶴橋で待ち合わせね』
学校に行く電車であっても遅刻することが日常茶飯事な彼女が、待ち合わせ時間を守れるとは思ってなかった。
最初の頃は時間に現れない彼女を心配し、不安になったけれど、繰り返されればそれもすっかり慣れてしまった。
これも、飼いならされた内に入るんだろうか。
ここまで来るとどこまで待ち時間記録を更新するのか、そっちが楽しみだ。
そんなことを思いながら、通り過ぎる人々の姿を眺める。
3冊目の本は、人間観察に飽きたら読むことにしよう。
とりあえず目的に向かって進んでることは分かったから、いつかは目的を達成してここに来るだろう。
その時にちゃんと待っててやらないと、また独り、迷子になるだろうからな。
「おまたせ」
そう言ってあれが待ち合わせ場所にやってきたのは、午後3時過ぎだった。
くすんだ黄緑のような鶯色のボアコートに黒のタートルネックのセーター、それからプリーツが入った黄褐色のロングスカート。
暗い色だけど、自然の温もりを感じる服装は、どこか白い雪と対象的な色合いにも見えた。
「で?今日はこのあとどうすんの?」
「その前にこれ、はいっ」
そう言って差し出されたのはピンクに薄紅色の縦のラインが入った巾着型の不織布でできた容れ物。縛り口には赤と白のリボンでラッピングされていた。
「ありがと。開けるのは帰ってからの方がいいのか?」
「今がいい!」
折角のラッピングを、渡してすぐに開けてしまうのはなんだか勿体ない気持ちもあるが、使った本人が期待の眼差しでこちらを見ているのだから、開けないわけにはいかなかった。
「クッキー?」
「ココアパウダー入れたクッキー。いい感じの大きさに作るのが難しくてさ、最初のは大きすぎたみたいで、中が生焼けになっちゃったから、もう一回作り直したんだよね」
「……それで時間かかったのか」
平然と寝坊してることもあるから、今回もそうかと思ったが、今日はそういうわけではなかったらしい。
「食べて食べて」
焦げ茶色をした一口サイズの小さな丸いクッキーを一つ手に取ると、そのまま口に含んで見る。ココア特有の僅かな苦味と甘みが……。甘みが?
「どう?」
「ちゃんと焼けてる。でも、あんまり甘くない」
「えぇ?ココアパウダーちゃんと入れたよ」
「ココアパウダーだけだと、甘み足りないだろ」
「甘くなりすぎないように砂糖少なめにしたからなぁ」
「まぁ、でも、焼き加減はいいし、美味しいんじゃない」
ココアパウダーに含まれる甘みを加味して、糖分を少な目にしたとか、相変わらず考えてるけど抜けてる。
レシピ通りに作ればいいだけなのに、自分なりに納得したやり方でなければだめっていうのは、いつものことだ。
頭が良いのか悪いのか。要領がいいのか悪いのか。それなりに一緒にいるはずなのに、未だによく分からない。
そう思って、次のクッキーをつまもうとすると、唇に何かが触れた。
それが彼女の指先に摘まれたものだと気づいて、とりあえず咥えてみる。
甘い。
「ミルクキャンディー。どうぞ」
言われて、改めて口の中に含んでみた。
ミルクの甘い感じが、ココアの苦味と絡まって、少しだけ、市販のココアのような味がした。
「こうしだから、ミルクとココア」
「甘い」
「良かった」
甘い……んだろうな。
きっと。
何が、というところは敢て考えずに、今はただ、口の中で交わったミルクとココアの甘みを楽しむことにした。