猫の罪滅ぼし。
僕が自分の過ちに気付いたのは、全てが手遅れになった後だった。
◆◆
僕にはミラという幼い頃からの婚約者がいたけれど、僕は彼女の婚約を破棄した。理由は、僕が当時ミラとは別に心を寄せていた別の少女、エミリーに悪質な嫌がらせを行っている、という話を耳にしたからだ。
目に涙を浮かべて「助けてください」とエミリーに言い寄られた僕は、彼女の言葉を鵜呑みにして、ミラの話を聞かずに大勢の貴族たちの前で婚約破棄を宣言した。
婚約の破棄だけでは飽き足らず、ミラが今まで行った所業の数々を周りの人間に聞こえるよう、わざと大きく言ったのだ。
ミラは「違います」と言う。けれど、エミリーは「どうしてそんな酷いことが言えるのですか」とミラに返す。エミリーは社交界の中でも人気があり、彼女の味方は多い。
ミラを見る目は、二人の言い合いが進むにつれて次第に冷たいものへとなっていく。ミラは泣いていた。誰も助けなかった。
中にはその状況の異常さに気が付いていた者もいるのかもしれないが、あの場でミラの味方をすることは、エミリーと彼女の家の派閥を敵に回すことと同じであり、社交界で孤立することは目に見えている。
誰しも我が身は可愛いものだ。だからこそ、ミラの味方をする者は誰一人としていなかった。
こうして僕たちの婚約は破棄されて、僕たちは赤の他人となった。
一ヶ月後、ミラは死んだ。ミラの両親が言うことには事故だそうだが、本当は自殺ではないだろうかという噂が立った。
そして、数年後、僕は漸く自分の過ちに気が付いたのだ。エミリーは僕が思っていたような人ではなかった。
彼女に楯突く者たちは皆、不自然な死を遂げていて、それはエミリーがその者たちを死へと追いやっていることが明るみになった。ミラも、その犠牲者の一人だった。
ミラの汚名はそそがれて、彼女の墓には哀れんだ者たち、見てみぬふりをした者たちが自らの罪悪感を少しでも軽くするために花束を添えている。
僕は彼女の墓の前に立つ。僕は雨に打たれながら、何も言わぬ冷たい墓石を見つめて「…悪かった」と呟いた。
「婚約者だったのに。君の言葉を信じてやれなくて。…本当に、すまない」
そして、僕も彼女が生前好きだと言っていた花を添えた。心に渦巻く罪の意識は全く消えることはなかった。
その晩。僕は持病で呆気なく死を迎えた。元々昔から心臓が悪かったのだ。成長するにつれて健康になったと思っていたけれど、間違いだったらしい。
突然、何の前触れもなく心臓の発作が起こって、苦しみ、のたうちながら醜い死体となった。
薄れ行く意識の中、あぁこれが報いなのか、と僕は思っていた。
◆◆
腹が痛かった。そして、寒い。僕は目を開けた。
空には雨雲が立ち込め、雨が降ってきた。僕は外にいるようだ。土の匂いがする。どうして、と思った。
僕は助かったのか。それとも、ここは所謂死後の世界というものなのか。
声を出そうと試みる。が、出されたのは、掠れた妙な声だった。まるで動物の鳴き声のような。
何が起こっているのか確かめたくとも、僕の身体はピクリとも動かなかった。
腹が痛いのは、極度の空腹を感じているからだ。寒いのは、ずっと雨に打たれて身体が冷えきっているからだ。
苦しい。苦しいーーーーー。
「大丈夫ですか?」
声をかけられた。それは聞き覚えのある声で、その声を耳が拾った時、僕は涙が溢れ落ちそうになった。
もう聞くことはないと思っていた声。
目の前に、かつての婚約者が立っていた。まだ幼い姿の。ミラが傘を差し、しゃがんで僕を見つめていた。
「…可哀想に。親猫に捨てられてしまったのでしょうか?」
彼女は僕を抱き上げた。
「私の家に来ませんか? あたかかいミルクなら、用意できますから」
優しくてあたかかい手。死人ではあり得ない温もりのある手に抱かれ、僕は「ニャア」とか細い返事をした。
◆◆
何故か時が遡り、そして僕は猫になっている。
こんな非現実的なことがあるなんて、と最初は驚いたけれど、生きて動いているミラを見ればそんなことどうでもよくなった。
神の仕業か、それとも悪魔の悪戯か、ただの偶然か。何でもいい。一つだけ明らかなことは、僕にはチャンスが与えられたということだ。この先の未来を変えることができるというチャンス。
僕が上手く立ち回れば、ミラは死なずに済むのかもしれない。けれど、失敗すればミラは死ぬ。
この人生は、彼女のために使おうと決めた。
今度こそ彼女が幸せになるように。笑ってくれるように。
これが僕にできる、彼女への贖罪だ。
◆◆
彼女は、正妻の子ではなく愛人の子だった。
これは僕が一度死んで猫になってから知ったことだ。ミラに拾われた僕は、ミラの屋敷で飼われることになった。
屋敷を歩き回っている時に、偶然メイドたちがそう話しているのを耳にした。
ミラの母親となっている女性は、本当は実の母ではなく、本当の母親は既に死んでいる。行き場のないミラを哀れに思って、ミラの父は、彼女を正妻との実子として育てることに決めたのだ。
他の女性との子供。そんな子供を正妻が純粋に愛せるはずがない。ミラは屋敷で肩身の狭い思いをしていた。
「お母様は…今日も挨拶をしてくれませんでした。ミラが悪い子だからでしょうか? 私はお母様のことが好きなのに。私がいい子にしていたら、お母様たちは私のことを見てくださるのでしょうか?」
ミラは独りぼっちだった。人間の話し相手がいなかったから、猫の僕をいつも話し相手にしていた。
僕は静かに彼女の話を聞き、時折、相槌を打つように鳴くだけだ。人間の言葉で、慰めることはできない。
ミラは寂しそうだった。
「聞いてください。私ね、婚約が決まったんです。お相手はどんな子でしょうか。仲良くできるといいのですけど」
最低最悪、人を見る目が致命的に欠けている男だよ。と言ってやりたかった。我ながらこの頃の僕は屑だ。屑野郎。今もそうなんだろうけれど。
あんな奴こっちから婚約を破棄してやれ。そうどうにか伝えようと暴れたが、全く通じることはなかった。
エミリーとミラの出会いを邪魔しようとした。二人が始めに出会ったのは、春の茶会だったはずだ。だから僕はどうにかしてミラが茶会に参加するのを阻止しようとした。…結局、無駄に終わった。二人は出会ってしまったのだ。
僕は何をしているんだろう。
エミリーと交友関係を持つようになって数ヶ月経った頃、ミラの様子がおかしくなった。顔色は悪くなり、夜も眠れない日々が続くようだった。
「どうして…この屋敷の人以外は、私の本当のお母様のこと、誰にも知られていないはずなのに…」
そう言ってミラは、いつも泣き声を殺しながら静かに泣いていた。彼女の母も、父も、屋敷の使用人たちも。誰も彼女の真の味方ではなかった。僕は泣く彼女に寄り添うことしかできなかった。
ミラが婚約を破棄された。この世界の僕も、救いようがない馬鹿だったらしい。エミリーに対しての不信感を少しでも植え付けられるように、色々とヒントを与えたのに、この世界の僕は気が付かなかった。
帰ってきたミラの「婚約を破棄された」という言葉に、最も反応したのは彼女の母だった。今まで溜め込んでいた、彼女への不満が爆発したせいだ。
母親はミラを責め立てた。父親は止めることもせずにただ見ているだけだ。使用人も冷ややかに見つめるだけ。
見ていられなくなって、僕はその輪の中に飛び込んだ。シャーとミラの母親に威嚇する。
どうして彼女ばかりが責められなくてはならないんだ。悪いのは僕だ。僕と、エミリーと、他の奴らだ。彼女は何も悪くない。
母親は僕を無視して、ミラを部屋に閉じ込めた。外側から鍵を閉め、使用人に反省するまで食事を持ってこないように、と言う。信じられなかった。
僕は抵抗した。母親のドレスの裾に爪を立て、できる限りの抗議をした。
「嫌だわ。薄汚い猫が、私に触らないでちょうだい」
彼女は僕の腹を蹴った。がんっ、と内臓に衝動が響く。僕の軽い身体は、固い壁に叩きつけられた。胃酸が逆流して僕は吐いた。当たりどころが悪かったのか、そこで僕は気を失ってしまった。
僕は目を覚ました。どれだけ気を失っていたんだろう。はっ…と身体を起こすと、自分が酷く腹を減っているということに気付いた。意識を失う前までは腹など減っていなかった。ならば、数日が経っているということか?
ミラが閉じ込められている部屋から、か細い、今にも消えてしまいそうな、彼女の許しを乞う声が聞こえてくる。今にも死んでしまいそうな声。
僕はすぐに、屋敷の厨房へと走った。パンやチーズをハンカチに包んで、腹を空かせているであろうあの子の元へ届けようとした。
幸運なことに閉められたのは部屋のドアだけだ。僕は隣の部屋から窓を使って、ミラに食事を届けた。
ミラはやつれていた。ずっと泣いていたのか、目を赤く腫らしている。痛々しい姿に、前の自分がどれだけのことをしてしまったのか、その罪深さを改めて実感した。
ミラは食事を少ししか食べなかった。僕は無理矢理にでも口の中へ入れようとしたけれど、食欲がないと言われて断わられる。その代わりに抱っこをさせて欲しいと言われた。
「寒いんです。何故か…とても」
今は冬だ。使用人が入っていないから、暖炉の薪は既になくなっていて、部屋は冷えきっている。
猫の身体は毛並みもあるし、暖を取るくらいの役には立つだろう。僕はそう思って彼女の好きなようにさせた。
「あったかい…。貴方は本当に不思議な猫ですね。いつも、いて欲しい時に側にいてくれる。貴方に会えてよかった…」
ミラは弱々しく微笑して、やがて寝息を立て始めた。その寝顔は穏やかだ。久しぶりにちゃんと食べることができて、安心したのかもしれない。
せめて、彼女の見る夢が幸せなものであって欲しい。僕もそう思いながら目を閉じた。
…朝起きると、彼女の身体は冷たくなっていた。何度呼び掛けても、返事をしてくれない。目も開けてくれない。
あぁ、僕は何をしているんだろう。
◆◆
雨が降っていた。僕は雨に濡れ、道を歩いていた。どこを歩いているのかも分からない。
寒い。苦しい。
頭をかきむしりたかった。いっそのこと気が狂ってしまいたかった。殺してしまった。まただ。僕は未来を知っていたのに。何一つして変わっていない。彼女はずっと不幸だった。不幸のまま死んだ。せっかくもらったチャンスだったのに。
僕は、また。
カラカラと音が聞こえてくる。
ギイィィィィ。耳障りな音が響く。
はっとすると、目の前には車輪があった。馬車だ。気がつかなかった。
僕は馬車に跳ねられた。地面に倒れる。痛い。身体がだるい。
あぁ、僕は何をやっているんだろう。
視界が真っ黒に染まる。
◆◆
「大丈夫ですか?」
どうして。また、あたたかいまま生きて、動いている彼女を見て。僕は今度こそ泣いてしまった。
「…可哀想に。親猫に捨てられてしまったのでしょうか?」
彼女は僕を抱き上げた。
「私の家に来ませんか? あたかかいミルクなら、用意できますから」
僕は、君を幸せにしたいだけなんだ。
◆◆
「猫には九つの魂があるって本当でしょうか」
ミラは絵本を読みながらそう言った。九つの魂? 僕が首を横に傾げると、彼女は読んでいた絵本を見せてくれた。
「猫って不思議な生き物だそうです。九回も生きるらしいですよ。貴方もびっくりするくらい大人しい猫ですから、生きるのが何回目かなのかもしれませんね」
絵本の内容は、主人公の猫が九回生きて、九回の異なる人生を送る話だった。その話を聞いて僕はすとんと腑に落ちた。そうか。九回なのか。猫には、九回の命があるのか。
だから、また僕は生きているのか。また巻き戻せたのか。
チャンスを、九回も。
「ふふ。貴方の前の生は、どのようなものでしたか?」
「ニャア」
「うーん、貴方の言葉が分かったならよかったのに」
僕は幸せだったよ。死んだ君にもう一度会えて、君のことを知れて。優しくしてもらえた。今も幸せだ。…でも、君は幸せじゃなかった。結局死んでしまった。だからね。
僕の、九個の魂を君に捧げるから。
君はどうか幸せになってくれ。
◆◆
二回目。前と違うことが起こった。婚約が破棄される前に、ミラの母親が、ミラに沸騰した湯を浴びせようとしてきた。代わりに僕が受けて、僕は全身の火傷を負って死んでしまった。ミラのその後は分からない。彼女の幸せを願うことしかできない。
三回目。この世界の僕と、ミラが婚約しないように、夜中に城に忍び込み僕の顔に跡が残るような傷痕をつけておいた。どうかこの情けない男の顔を見て、婚約を結ぶことを考え直してくれ。僕は城の兵士に捕まって、剣で首を切断された。
四回目。エミリーに毒を飲ませてみた。前回、僕自身に傷をつけることには何の躊躇いもなかったけれど、エミリーに毒を盛ることに関しては罪悪感を覚えた。でも、ミラのためなら、と実行した。
こんなことをするなんて、九回目の生の後、僕はきっと地獄に落ちるんだろうな。苦しむエミリーを見ながら、僕はそう思った。どうせ地獄行きは決まってるだろうけれど。
エミリーは死には至らなかったものの、ベッドから起き上がれないくらい病弱になった。それでも結果は変わらなかった。ミラは婚約を破棄され、一回目と同じ死に方、一回目と同じ言葉、そして「ありがとう。私の味方でいてくれて」と言って死んでしまった。
五回目、人間の僕を殺そうとした。失敗した。また兵士に捕まって死んだ。けど、エミリーが、ミラが愛人の子であることを知ったのは、屋敷の使用人の一人が漏らしたからだと分かった。次はその使用人をどうにかしてみよう。
六回目、七回目…。
八回目。また、死なせてしまった。
◆◆
婚約の破棄を阻止するのは無理だ。それが僕が八回生きて出した結論だった。
どうやっても人間の僕とミラは婚約してしまうし、ミラはエミリーに会ってしまうし、ミラは婚約を破棄されてまう。だから、僕は最後に賭けに出ることにした。
婚約を破棄されたミラが、屋敷に帰ってくる。彼女の母親が激昂し、彼女を部屋に閉じ込める。
まだだ。我慢しろ。一回目の時のように、気を失うわけにはいかない。僕は彼女が責め立てられるのを静かに見守っているだけだった。
ミラが閉じ込められ、母親は去る。漸く僕は動き出した。隣の部屋へ行き、窓を使ってミラの部屋へと入る。そして、ドアに向かって謝罪を繰り返す彼女に近付いた。
「ニャア」
彼女が振り向くと、僕は今度は窓へと顔を向けた。また彼女を見る。その動作を繰り返した。
「もしかして…逃げろ、と言いたいのですか?」
肯定するように一回鳴く。これが九回目の作戦だった。今ならまだ逃げる体力は残っている。ここにいても死ぬだけだ。それならば身分も何もかも捨てて逃げてしまった方がいいのではないだろうか、と思っていた。
でも、運が悪いことに今は冬だ。あたたかい季節ならば逃げやすかったのかもしれないが、冬は下手したら凍死の危険もある。だからこれは賭けだった。
僕はもう一度隣の部屋へと渡って、ハンカチに包んだ金貨を渡した。外で生きるためには金がいるだろう。あらかじめ屋敷にあるものから少しだけ盗んでいた。
「ニャア」
逃げて。君はここにいるべきじゃない。
◆◆
僕はミラと共に町を走っていた。
もうどれだけ離れたのだろうか。あの夫婦ならば、用済みになった娘を捜索することなどしないかもしれないが、万が一のこともある。もうあの屋敷に戻るわけにはいかないのだ。
ミラの体力は限界に近そうだった。疲労も溜まっている。
元々運動をする機会なんてほとんどなかったし、今は心理的な疲労も溜まっているせいもあるだろう。婚約破棄の後は、母親に責め立てられ、今度は逃亡劇だ。疲れないはずがない。
やはり連れ出すのは失敗だったのかーーーー。
僕がそう後悔を噛み締めていた時だった。ミラが誰かにぶつかった。若い男だった。その男は慌ててミラに手を差し伸べ「ごめん。大丈夫だった?」と声をかける。
「あ…」
緊張が緩んだのだろう。ミラは目から涙を溢した。ぶつかったと思ったら突然泣かれて、男は心配そうに何度も大丈夫かと尋ねてくる。そしてミラの様子を不思議に思って、「君は、何をそんなに怯えているの?」と尋ねた。
ミラはつっかえながら言った。助けてください、と。彼女は彼に助けを求めた。
男は旅をしている商人だった。彼はミラの事情を聞いて哀れみ、少し迷ってから、自分と一緒に来るかと聞いた。世界を旅しているから身を隠すのにはいいだろうし、自分ももう一人、人手が欲しいところだったのだと。
ミラは頷いた。
◆◆
旅をしている内に、ミラと男は恋仲になって、やがて夫婦になった。
僕はほっとした。彼女が屋敷にいる時はあり得なかった、心からの笑みを浮かべられるようになったからだ。誰が見ても幸せな表情。
やっと。九回目で、やっと彼女は幸せになれたのだ。
妬みなんて湧かなかった。猫になってから彼女を想う気持ちが芽生えていたけれど、自分では彼女を幸せにできないことは痛いほど分かっている。
ただ純粋に嬉しくて。肩の荷が下りた気分だった。
ミラたちに子供が生まれた。ちっちゃくて、弱くて、柔らかくて、あたたかい。
「ねこちゃ!」
その子は何故か僕がお気に入りみたいだった。
小さい頃は僕はころころと転がる玩具にされ、少し大きくなってからは縫いぐるみ代わりになった。
子供はケラケラとよく笑った。花が咲いたみたいな、明るい笑顔だ。その子が笑うと、ミラも笑った。とても、幸せそうに。
その子は、ミラの、幸せの結晶みたいな子だった。
◆◆
だから。
ミラと子供が買い物に来ていた時のことだ。子供の目前を、綺麗な蝶がヒラヒラと飛ぶ。その子は目を輝かせて、その蝶の後を追おうとした。
カラカラと音が聞こえてくる。僕は嫌な予感に襲われて、周りを見渡した。馬車だった。大きな馬車が、速いスピードで走っていた。子供がいる方向へと。
僕は考える暇もなく、駆け出していた。
駄目なんだ。その子は駄目なんだよ。死なせるわけにはいかない。幸せの結晶みたいな子だ。いるだけで周りの人間を幸せにしてくれる子だ。…ミラを、幸せにしてくれる子なんだ。
僕は体当たりをして、その子を突き飛ばした。「わぁ?!」なんて間抜けな声を上げて、先へと倒れた。
あぁ、よかった。そこなら馬車には当たらないーーーー。
がんっ、と身体に衝撃が走った。
痛い。身体は固い地面へと打ち付けられた。
身体から何かが流れ出ていくのが分かる。血だろうか。あたたかいものが流れ出て、段々と寒さを感じるようになってきた。
誰かが叫んでる。でも、耳が音を上手く拾えない。どうしてだろう。眠いな。すごく眠い。
ぽつっ、と身体に水滴が落ちてきた。あれ、今日は雨だったかな。さっきまで確かに晴れていたはずなのに。
僕は睡魔に抗って、うっすらと目を開けた。ミラが泣いている。雨だと思っていたのは、彼女の涙だった。
あぁ、そうか。僕は死ぬのか。
彼女の泣き顔を見て、漸く僕は自分の死を自覚した。
もう九回目の命も終わりだ。今度こそ僕は死ぬ。
よかった。最後の最後に、君を幸せなところまで連れてくることができた。あたたかくて、苦しくない場所に。僕の努力は無駄じゃなかった。
僕は目を閉じた。もう意識を保つのが限界だった。
ミラ。
あの時、君を信じてあげられなくて、すまない。
そして、こんな僕のために泣いてくれて、ありがとう。