成実と聡
三月中旬ごろ、ある大学の構内で在校生らしき青年が、ちらほらとやってくる新入生たちを眺めている。この青年は今年四月から三回生となる学生で、この日は部活動で大学に来たのだが、近所の知り合いが今年この大学に受かったと聞いていたので今日の入学手続きに姿が見えないかと立ち寄って見に来ていたところだった。
(あいつあんまり人混みに混ざるタイプじゃないから早めに来てるかと思ったんだけどな。まあ、待ち合わせとかしたわけでもないし…、ってそういえばあいつに聞けばいい話だったな)
青年は今朝学校に来るまでは今日が入学手続きの日だということを特に気に留めていなかったし、忘れていたのでその相手に連絡もしていなかったのだが、そういえばと気がついて携帯を取り出してメッセージを打ち込む。
成実は自分が通うことになっていた、来ることはなかったはずの大学を訪れていた。今日は入学手続きの日であり、母との約束であった休学届も出す予定で来ている。入学したばかりの新入生の休学届が受理されるのかはわからなかったが、もしされなかったらそれはそれで仕方ないし、母も諦めざるを得なくなるだろうと考えていたのでそこまで気にはしていなかった。手続きの会場まで向かっている途中、携帯の着信音が鳴ったので取り出して見てみると見知った名前からのメッセージが届いていた。成実は一瞬反応するかどうか迷ったが、結局成実がメッセージを確認しないうちに少し離れたところから声が掛かる。
「成実」
聞き覚えのある声。声がした方に目を向けると、先ほどのメッセージの送り主である近藤貴志(こんどう たかし)がこちらへ向かってきていた。貴志は成実の二つ年上で、昔から近所に住んでおり、それなりに一緒に遊んだりしていた相手だ。年上だからか成実に対しては時々兄のようにふるまうこともあり、成実からしても、貴志の事は仲のいい近所のお兄さんというように思っている。
「貴志さん。久しぶり。何でここに?」
高校の授業が終わってから受験が終わるまではほとんど家から出ておらず、合格を確認してから卒業式の日までは外出することもあったが、そのあとは聡の家で暮らしているので貴志とは最近は会っていなかった。
「久しぶり。最近成実と会ってなかったから、今日成実が大学に来たときに会えるんじゃないかってさっき思って立ち寄ってみたんだよ。最近はどうだ? 元気にしてたか?」
「…うん。元気だよ」
「…そうか。もし大学が始まって何か問題があったら相談に乗るよ。これでも成実よりは大学生活長いし、力になれるかもしれないからさ」
「ありがとう。じゃあ、私入学手続きしに行ってくるね」
「ああ、またな」
「じゃあね」
いつまでも隠し通せるものではないかもしれないが、それでも今貴志に何か勘付かれて家を出ていることや休学届の事などを話すことになるのは避けたかったので、成実はそこで話を切り上げ、貴志と別れて手続きの会場へ向かことにした。
「…」
成実と別れた貴志は先ほどの彼女の様子を思い返す。成実に声をかけたときと近況を聞いたときに若干戸惑っていたように見え、何かあったのかと思ったが結局聞くことはしなかった。話したくなさそうにしている雰囲気も感じたし、もともと近所に住んでいてさらに同じ大学に通うことになったのだから今後は会う機会も増えるだろうと思い、成実が話す気になったり、明らかに様子がおかしいと感じたりしたらその時聞けばいいと考えていた。そもそも些細なことだったり思い違いだったりということもあり得るので、貴志はそこまで深く考えることはせずに部活動に戻ることにした。
成実が聡の家で暮らすようになってから三週間と少しがたち、今日は成実が自宅に顔を見せに帰る日だ。一人だとまだ親と顔を合わせづらいのか、昨日成実から家には一緒に来てくれないかと頼まれていたので聡も同行しているが、成実も前回一緒に家へ向かっているときに比べて重い雰囲気ではなくなっており、時折ぎこちなくはあるが雑談を交わしながら向かっている。やがて彼女の家の前までたどり着き、成実は少し立ち止まったあと呼び鈴を押す。少し待って扉が開くとそこには彰子と裕文の姿があった。彼らは成実の姿を見るなり彼女に声をかける。
「おかえりなさい。成実」
「おかえり。来てくれて嬉しいよ」
「ただいま。…休学届、ちゃんと受理されたよ」
「お願い聴いてくれたのね。ありがとう。藤山さんもお世話になっております」
「お二人ともお元気そうで何よりです」
彰子も裕文も以前訪ねたときは少し憔悴した様子が見られたが、今回は落ち着いた様子で二人を出迎えてくれている。成実も若干俯いてはいるが彼らの方を見て話そうとしておりいくらか落ち着いているように見える。
「…家に上がっていく?」
「…」
「無理はしなくていいわ。私たちはいつでも待ってるからね」
「ああ、それだけ覚えておいてくれれば十分だからさ」
「うん、ありがとう。またね」
「またね」
「またな」
「藤山さん、ありがとうございました」
「またお越しください」
「ありがとうございます。これで失礼します」
それだけ話し終えると成実は元来た道を歩き出し、聡も彼女と一緒に歩き始める。ごく短いやり取りだったが、それでも成実も彼女の両親もいくらか表情が明るくなっていたように感じられた。帰りの道中は、また特に会話もなく静かな時間が過ぎていたが、空気は重苦しくなく、そのまま聡の家へとたどり着いた。
一度実家に顔を見せに帰った日から一週間ほどたったころ、成実はリビングでくつろぎながら聡のことについて考えていた。それまでは特に気に留めていなかったのだが、思い返してみれば聡は外出自体は割としていたが、仕事に出かけているような姿は見た覚えはなく、かといって暮らしに困っているようなこともなく、むしろいくつかの点ではそれなりに高い水準の生活をしていた。そのわかりやすい例が食べ物に関することで、聡は一人暮らしをしていたようなだけあって料理も上手かったのだが、加えてそれなりに質のいい食材も使っているようでご飯の味はかなりのものになっている。一方で装飾品の類や衣類などは一般的な水準を下回っているように見えるが、これはどちらかというと特に興味がないから手を付けていないという感じだった。その上、「要るもんがあったら俺に言ってくれてもいいけど、いちいち言いに来るのも面倒だろ」と、月に一度、成実にお小遣いとしては十二分な金額を渡してくれている。聡は金遣いに関しては全く荒いわけではなかったが全体としてみると今の生活にはまずまずの収入は必要に思える。そうなるとインターネット上で何かしら収入を得ているのか、もしくは聡の実家が裕福だからだという可能性もあるだろうか。
「藤山さん」
成実は同じくリビングでくつろいでいた聡に声を掛ける。
「どうかしたか?」
「藤山さんって何か仕事はしているんですか?」
「仕事って言えば仕事になんのかな。生活費は投資で増えた分から出してる」
「投資ですか。そういえば最初に会った時、働くことに関して私と似たような考えをしてるって仰ってましたけど、どういう意味だったんですか?」
「別に働くことに限った話じゃねぇけど、俺は自分の価値判断に対して妥協ができねぇんだ。ていうより、妥協する意味が分からないって言った方が正確だな。その選択をした時に、自分が支払うものと手に入るものを比べてちょっとでも割に合わないって感じたらそうする気が微塵も無くなるんだよ。何が悲しくて自分からライン下げて損失を引き受けなきゃならねぇんだって思ってな。俺は働くこと全般に対して割に合わないって感じるわけじゃねぇけど、何に価値を感じるかなんて人によって違って当たり前だし、仕事全般に対してそう感じるやつがいても何もおかしく無いだろうって思ってるから、そういう意味では立派に暮らすってことに意味を感じないっていうのも理解できるし共感できる。そもそも俺自身も立派な生き方とやらには興味ないし、実際、ほとんど起きて食って好きに時間つぶして寝てっていうような生活してるしな」
「そうですか? 自分で収入を得て生活できてるんですから、十分立派だと思いますよ。私は自分でお金も稼げないし家で家事とかの仕事ができるわけでもないのに、好きなことして暮らしたいとか我が儘ばかり言ってるような人間ですから」
「別にそんなことは思わねぇけど」
「実際そうじゃありませんか」
「俺が自分で生活できてるのは単に運がよかっただけだ。もし俺が今の成実と同じ立場に居たら、今お前が言ったようなことなんか微塵も考えずに、勝手気ままに暮らすだろうよ。それに、さっきお前は自分の事を我が儘ばかり言ってるって言ってたが、俺からすればむしろ逆に見えるけどな」
「…どういう意味ですか?」
「そのまんまの意味だよ。だってお前、碌に興味もねぇ高校のために受験勉強して高校に通って、また大学のために受験勉強して合格もしてたんだろ? それも、わざわざ偏差値高いところにな。今までのお前の話とか様子とか見聞きしてたけど、親に気を遣ってそうしてたんじゃねぇか? 親を悲しませたくないとか、期待を裏切りたくないとか、気を遣わせたくないとか。その気になって話せば、お前の両親だったらずっと家で生活させてくれそうに感じたし、お前もそれは分かってたんじゃねぇのか?」
「…世間の目を気にして、とかは考えないんですか?」
「確かにそれもそれなりにあったんだろうな。でも、それが一番の理由だったんなら、見知らぬ男の家で暮らすなんてそれこそ世間体良くねぇだろ。それでも俺の家に来ることにしたのは、自分がそこまで追い込まれてたって両親が知ったらどのみち自分たちを責めることになるだろうし、だからと言って自分の感情を押し殺して生きていくのも、両親に気を遣わせながら実家で暮らしていくのも精神的に無理だって思ったからなんじゃねぇの?」
「…もしそうだとして、いつも私の事を考えてくれてる両親に気を遣うのは、おかしいことですか?」
「…それだけ追いつめられるまで親のために自分を殺して生きてきたような奴は我が儘ばかりとは言わねぇってだけの話だよ。そんなに自分の事を卑下しなくてもいいと思うぞ」
「…私はそんな大層なこと、してませんよ」
「そうか」
「…ところで、話が戻りますけど」
「うん?」
「投資してるって言ってましたけど、元手は要りますよね。それはどうしてたんですか?」
「あぁ、証券口座を作ったのが高校に入ったくらいのときで、その時はそれまでためてた小遣いとかお年玉とか入学祝を元手にしてて、そのあとアルバイトした給料も全部口座に入れてたな。まあ、アルバイトって言っても俺はさっき言ったとおりの性格だから、仕事は選ぶし、私生活削られんのも嫌だったからあまり長時間は働かないしで大した金額でもなかったけどな。それでも、自分でいうのもなんだが、幸い運と才能にはそれなりに恵まれてたみたいで、大学出るころまでそうしたことしてたらそれなりの金額にはなったから、大学出てからは今の一人暮らししてるんだよ」
「就職の事とかは最初から考えていなかったんですか?」
「よほど条件が良くなけりゃあ一日何時間も働くとか想像できなかったのは確かだな」
「じゃあ、どういう目的で高校とか大学に通ってたんですか? 」
「学生でいる間は生活費とか学費とかは親が出してたから自分の金は減らさずに済んだんだよ」
「藤山さんなら、さっき言ってたみたいに実家に住むこともできそうな気がしますけど」
成実がそういうと聡は少し楽しそうに笑って言った
「言ってくれるねぇ。まあ、確かに俺の方は気にしなかったかもしれんが、俺の親、特に父親は実力行使してでも家を追い出してきそうな人だったから、流石に難しかっただろうな」
そのあと、成実は聡といつもより長めの他愛のない話をしながら、いつも通り気ままに過ごして一日を終えた。