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地下の留まり木  作者: 石筍
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出会い

 まだまだ寒さの残る三月の初め頃、微かな茜色の夕陽に照らされた薄暗い駅のホームで一人の女子高生が電車の来る方角を浮かない表情で眺めながら立っている。ホームには他に、その少女の後ろに並んで立ち携帯をいじっている男性、仕事帰りに見える、少し疲れた表情のスーツ姿の壮年男性、それとベンチに腰かけて喋っている老夫婦がそれぞれ離れた場所にいるだけで、反対側のホームも同じように人影はまばらだ。少女が身に着けている制服はこの辺りの地域ではかなり知られている進学校のもので、それに加え乱れのない服装で、よく手入れされた鞄を携え姿勢良く立っている姿は優等生という言葉がよく似合うと思われるようなものだった。何もない時間がしばらく過ぎると、駅から少し離れた踏切が下りて甲高い音を鳴らし始め、その向こうからこの駅を通過する電車が、こちらを照らしながら走ってくる。その光がだんだんと強まり、列車の先端がホームに差し掛かろうとしたところで少女は体を前に傾けそのまま線路へ身を投じた。


 男はその日、毎年行われる、数少ない友人達との集まりに参加していた。彼は比較的整った顔立ちで三十歳程度に見え、跳ね気味な髪や少しよれた私服からは外見にはあまり気を使っていない人物なのだろうという印象を受ける。男は久しぶりに友人との食事や談笑を楽しんだ後家路につき、駅の改札をくぐりホームへ向かう。ホームには人影はまばらで、彼のほかにはサラリーマンに見える壮年男性、ベンチに腰かけて喋っている穏やかそうな老夫婦、浮かない表情で電車が来る方向を眺めている女子高生がいるだけで、向かいのホームも似たようなものだった。そのまま、特に何を探すわけでもないが周囲を見回しながらホームの上を移動していると女子高生の様子がふと目に留まった。特段珍しい光景ではないとは思うが、男はその少女を見たときに何となく、強いて言葉にするなら少女の表情や今の時間帯に違和感を覚えたのか、嫌な予感が頭をよぎった。男の嫌な予感はあまりあてにはならないが当たってしまうこともそれなりにはあるので、男は少女の後ろに並んで携帯をいじりながら彼女の様子を見ることにした。しばらくすると踏切の甲高い音とともに電車の明かりがこちらを照らし始め、その光がだんだん強まってきたところで目の前の少女の体が前に傾き始めて線路に落ちようとした。


 電車は速度を落とすことなく何事もなかったかのように通り過ぎて行った。少女が体を傾け始めた段階で、男は彼女の制服の襟に手を引っ掛け、ホームへ引き戻した。場合によっては不審者扱いされるようなタイミングではあったが、ホームに人影が少ないおかげで他の人には見られておらず、少女も黙ったままなので一旦はこれでよかったのだろうと考えることにした。

「…」

「…」

少しの間互いに沈黙していたが彼女はやがてこちらに振り返り目を合わせてきた。

「…あなたとはお知り合いでしたでしょうか」

「いいや。まったくの赤の他人だな」

「…なぜ止めようとなさったんですか」

「目の前で人が死んで気分良くなるやつがいるかよ。…中には居るかもしれんが、少なくとも俺はそうは思わねぇの」

「…」

苦い顔をしながら話す男の様子を少女は何とも言い難い表情で見ている。

「…お前、家はどこだ?」

「…」

「…親の電話は?」

「…」

「…」

「…」

「高校はもう閉まってるかもしれんし、このままだと俺はお前を警察に連れてく位しか出来なくなるぞ」

「…」

そう言うと少女は少し動揺したように見えた。警察に連れていかれれば、身元が判明して迎えが来るまで身動きが取れなくなると考えたのだろうか。高校に連れていかれても結局同じことだろうが、どうやらそれは嫌らしい。家に帰るのが嫌なのか親にこのことが伝わるのが嫌なのか、あるいは両方だろうか。

「嫌だって言うんなら出来れば無理にそうしたくはないんだが。…なんで線路に飛び込もうと思ったんだ?」

「…理由を聞いてどうするんですか」

「どうにかできそうならそれが一番いいんだけどな。お前は問題を解決できるし、俺は目覚めの悪い朝を迎えずに済む」

「…」

言ってどうにかなるとは思えないというような思いと、他人に話す気にはなれないというような感情が少女の顔に浮かんでいたが、一度線路に飛び込もうとしたことで半ば自暴自棄な感情も抱いていたのか、少ししてから、少し小さめの声で俯きがちに話し始めた。

「碌な理由なんてありませんよ。ただ、私は世間的にいい人生だって言われているような、何か目標に向かって努力したり働いたりして、周囲から認められたり出世したりして、自分の役割を持ちながら暮らしていくような生活に意味を感じられなくて、それよりも自分が興味のある本とか漫画とか、音楽とか動画とかを楽しんでいるような暮らしのほうがずっと楽しく感じて。多分、私は他の人より、働くということに価値を感じられないんだと思います。でも、そんな生活できませんよね。高校でさえ試験勉強とか課題とか受験勉強とかで時間に追われていたのに、このまま大学へ行ってもまた課題や試験勉強をしながら今度は就職のことも考えなきゃいけなくて、大学を出たら生きていくためと幾らかの自由のために毎日働かないといけなくて。今までも同じことを考えていたんですけど、今日高校を卒業したら今まで以上にそういったことが頭をよぎるようになって。自分の将来に希望が持てないまま、ずっとこんなことを考えながらこの先過ごせるのかとか考えたら、自分の将来から逃げることしか考えつかなかったんです。我が儘だって思いますよね。自分でもそうだろうとは思っていますけど、だからと言ってこの考えを変えられそうにもありませんし、どうすることもできそうにないんです」

少女は自嘲気味な口調を交えながら静かな調子で一気にそう言い終えた。

「…今の話は誰かに相談したことは?」

「先ほどのような言い方ではありませんけど、親に話したことはありますよ。私の両親は私が言うのもなんですが、いい親なんだろうと思います。普段も私の事をよく見てくれていますし、親に話したきっかけも、私の様子を見て悩みがあるのかとか何度か尋ねてくれたからですので。話も真面目に聞いてくれましたし真剣に悩んでくれました。それでもやっぱり世間との感覚の違いを感じてしまって。両親はどうすれば私が一人前の大人になって立派に暮らしていけるのかを考えているみたいで、そのために何か方法はないかといろいろ考えてくれました。両親が私のためにそう考えていることも、世間的に言えば私の感覚の方がおかしいんだろうということもわかっています。それでも私は、立派に暮らすということに興味を持てないんです」

「…じゃあ例えば、何もしなくても毎月金をやるから、それで何も心配せずに暮らせばいいって言われたらそれで暮らすことはできるのか?」

「…」

そう聞かれると彼女は少し言い難そうな表情を浮かべて、少し間を開けて答える。

「家事とか、そういうのが…あまり得意ではないので難しいと思います」

彼女は得意ではないと言ったが、先ほど聞いた話と合わせると興味をもてないというのが正確なように思える。

「成程ねぇ。…だったらうちに来る気はねぇか?」

少女は、今度は怪訝な表情を浮かべて男を見る。

(見知らぬ奴にそんなこと言われたらそりゃあ意味がわからんだろうな。ていうか、普通なら通報もんだろうし)

「家事とか生活費とか、変に気を使われたり将来のことを急かされたりする心配とかせずに、好きに暮らせばいい。悪い話じゃ無いんじゃねぇか?」

「…あなたがそんなことする義理は無いんじゃないですか?」

「そりゃあ義理はねえだろうな」

「なら、そんなことを言う理由は何ですか?」

「さっきも言ったろ。目覚めの悪い朝を迎えずに済むってな」

「…」

「…まあ、他に言うとしたら、同じってわけじゃねぇけど俺もお前が話したのと似たような感覚も持っててな」

「…」

「だから、お前の感覚も理解できるし共感もできる。それに俺は、人は誰にでも自分の幸福を追求する権利があるべきだとも思ってるからな。そうじゃなけりゃ、どんな感覚を持って生まれたかによって人生の幸不幸がある程度決まるなんて理不尽だろ? だから、それでお前が幸福に暮らせるようになるって言うなら、そうしたほうが正しいんだろうと思ったんだよ。幸いそれぐらいの金なら何とでもなりそうだしな。これじゃあ納得できねぇか?」

「…。」


 少女は目の前の男が話を聞いて、戸惑い気味ではありながらもしばらくそのことについて黙って考えこんでいた。理性的に考えるなら、赤の他人に対して、世話をするから家に来て好きなように暮らせばいいなんて話はどう考えても怪しいように思われたが、理由を話していた彼の様子からは、善意からの言葉なのかはわからなかったが、嘘をついていたり悪意を持っていたりするようには感じられなかった。

「ゆっくり考えてくれりゃあいいがな。今お前がとれる選択肢は、自分の感覚にどうにか折り合いつけて大人しく自分の家まで送られるか、俺のことを何とか振り切ってまたどこかから飛び降りたりでもするか、一縷の望みをかけて怪しい誘いに乗るか、主にこのどれかだろうと思うぞ」

「…」

彼の提案が本当だったとして、見ず知らずの男の家に世話になることになれば家族や知り合いにも心配をかけるかもしれない。でも、だからと言って他にどうにかすることができるのだろうか。少女が他に考えられる行動は、男の言った残り二つのどちらかくらいで、少女が自分で命を絶ったと知ればどのみち家族や知り合いに動揺を与えることになるだろうし、自分の感覚に折り合いをつけて生きていくなんて、そう簡単にできるなら最初から苦労はしないだろう。もし少女が自分の抱く感覚を抑えて、抑えて、この先何年も抑え込み続ければいつかは諦めがつけられる日が来る可能性はあるのかもしれないが、そこまでして世間でいう一人前の生活を続けていく意味が見出せない。それに、彼の話が本当だとしたら命を絶つ理由もないように思えた。

「…」

「…」

「…あの…、それじゃあ、お世話になっても…いいですか?」

少女がそう答えると、男はいくらか明るい表情で応えた。その表情が、少女が彼を振り切る選択をしなかったことによるものなのかどうかは少女にはわからなかったが、とりあえず一つ決定を下したことで小さく一息ついた。

「そうと決まれば親御さんに電話掛けてくれねえか? 俺は誘拐犯にはなりたくないんでな」

当然自分も親と話さないわけにはいかないだろうということと、親にこのことが伝わるということを考えると気が引けたが、少女は携帯を取り出して電源を入れた。通知を見ると、卒業式にしては遅すぎると心配していたのか、母から何件か連絡が来ていたようだった。

「それと、俺が話すときに親に伝えて欲しくないこととかあるか?」

「…いえ、必要なだけ話してください」

そう答えて少女は母親の番号に電話を掛けた。

「…もしもし」

なる? 帰りが遅いから心配していたわ。何かあったの?』

「…ごめん。…今日、知り合いの人の家に泊まらせてもらうことにしたの」

『えっ?』

「その人に電話変わるね」

親への後ろめたさからかあまり長く話していたくなくて、少女は母の言葉を待たずに携帯を男に手渡した。

「…もしもし、お電話代わりました。初めまして、藤山聡(ふじやま さとる)と申します。今日、お宅の娘さんが私の家に泊まる許可を頂きたいと思いお電話いたしました」

『~~~』

「…実は先ほど、娘さんが駅の線路に飛び込もうとなさってましてね」

『~⁉』

「ええ、それでその場に居合わせた私が引き留めようとして娘さんのお話を伺いまして」

『~』

「娘さんが言うには以前親に話したこともあるそうですが、お心当たりありませんか?」

『…~~』

「ええ、そのことだそうです。それで私が、それなら世話はするからうちで好きなように暮らせばいいと娘さんに提案致しまして。そのことについては明日直接お伺いしてお話しようと考えているのですが、それで、ひとまずは今日、娘さんがうちに来ることを許可していただけませんか?」

『…~』

彼が少女に目線を送る。恐らくもう一度電話を代わるよう頼まれたのだろう。

「ただいま電話をお戻しします」

男から電話を受け取る。

「…もしもし」

『…』

「…」

『…』

「…」

『…本当なのね?』

「…ごめんなさい」

『…わかったわ。とりあえず今日は藤山さんのお宅にお邪魔させていただきなさい。それで、明日もう一度お話ししましょう?』

「…うん」

「…藤山さんに代わってもらえる?」

小さく返事をしてから男に再度電話を渡す。想像はしていたが、ショックを受けていたようで母親の口調は若干乱れを隠しきれていなかった。

「はい、藤山です」

『~~~~』

「こちらこそ、急に無理を言って申し訳ありません。それでは、また明日お伺いします」

『~』

「はい」

男は電話を切ると携帯を少女に返し、話しかける。

「…もう遅いけど、外でなんか食べてくか?」

「…」

黙って首を横に振る。

「…そうだな。そういやお前、名前は?」

「…山咲成実(やまさき なるみ)です」

「さっきも聞いたかもしれんが俺は藤山聡だ。…それじゃあ行くぞ、成実。」

そうして成実は、聡に付いて彼の家へ向かった。


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