ディナーとおばけ
ホテルの地下一階にあたるテラスに、幾つものランプとバーベキューグリルが用意され、ささやかなディナー・タイムが始まろうとしていた。
虫よけの香りが立ち込めるテラスの小さな庭には、美しく手入れされた木々や草花がたっぷり茂り、小さなプールがオアシスの様に、水面をのんびりと揺蕩わせている。それらの向こうには、砂浜と黄昏に染まる波が煌めいている。
「何故かしら。帰って来たって思うのは」
潮風に心ほぐされて、ディオールはテラスのテーブルに頬杖をつき、この場所に蕩けそうになっていた。
「家はニューヨークの高層マンションだろ?」
「はぁ、分かってないのね。リゾートに行く度に思うのよ。だからこう呟くのは、儀式でもあるワケ。」
「それはそれは。失礼しました~。リゾートなんか、そう何度も行ける身分じゃないんでね」
ディオールは、フランスパンをちぎって口に放るクラウスを無視した。従業員がいよいよグリルにシーフードを並べ始めたからだ。
「傍で見ては駄目?」
「見張らなくても誰も取りゃしねぇよ。それより、ほら。ディオールの部屋取っておいた」
彼は、「最上階だぜ」と、得意気に言って、カードキーをディオールへ手渡した。
ディオールはコロコロ笑った。
「最上階って言っても、このホテル二階建てじゃない」
乗り合いバスから見た風景の中に、高層ホテルは全然見当たらなかった。ここが島のどの辺りか分からないけれど、島では低層ホテルや高級ヴィラが多いのかも知れない。でも、このホテルはもっともっとこじんまりとしていて、宿泊客も、とっておき感のない、旅慣れた風ばかりだ。
ディオールはホテルの地下の、庭と砂浜へ続くテラスから、ホテルを見上げる。
建物は、南欧風の白い漆喰塗りで、角が少ない輪郭が愛らしい。
一階はロビーとデッキ、客室のバルコニーが二つ。バルコニーの白い柵の間から、華やかなピンクのサフランモドキが盛んに溢れ出ている。
割り当てられた二階は、ルーフバルコニーがあるらしい。サンパラソルの内側が、凪風に揺れているのが見える。下からだと、そのくらいしか様子を伺えなかった。そんなディオールの代わりに、庭からしなやかに伸びるマモンの木の枝が、ルーフバルコニーの中を覗いている。枝にはたっぷりと小さな実を実らせていた。こういうところは初めてだけれど、ディオールはこのホテルを気に入った。
「最上階は最上階だ。オーシャンビューだぞ。オーシャンビューは階が低い方が良い」
「そう?」
「そうさ。海に近いもの。それに、リゾートで高層ホテルを好むのはバカだ。客が多くてレストランは混むし、エレベーターが少なかったらヤバいぞ、定員オーバーを何度もやり過ごして、長い廊下歩いて……最上階からビーチまで何十分掛かるんだ?」
何かトラウマでもあるのかクラウスは力説するが、レストランどころか、使う階や棟やエレベーターなど、一般客と違う場所やルートを用意されるディオールにはピンとこない。
「そのぅ、大変ね」
「まぁガキにはまだ分かんねぇよな」
クラウスは、なんだかディオールを慰める態でそう言って、再びフランスパンを齧る。
食欲をそそる華やかな香りが立ち込め始める中、ディオールは退屈しのぎに、再び庭の向こうの海へ視線を移す。夕日が水平線につま先を浸そうとしていた。
「クラウス、夕日が海に沈むわ」
「毎日沈むよ」
「今日は初めてよ」
クラウスはニヤッとして、ディオールの向かい側から隣の椅子に座り直すと、静かに夕日を眺めた。そして、いよいよ水平線に夕日がくっついた途端、ディオールの耳元へ唇を近づけ、「ジュッ!」と声を上げた。ディオールは思い切り不快そうに目を細め、クラウスに向き合った。
「なに!? 素敵な瞬間が台無し!」
「あ、あれ? ロマンチックだろ?」
「意味わかんない。どういう嫌がらせ?」
クラウスはディオールが喜ぶと思っていたから、彼女の静かなる剣幕にタジタジだ。
「え、だから……海に夕日が沈むから……」
「から?」
「火がさ、水で『ジュッ』って消える音……」
「……あ、そ」
「面白くない?」
「ぜ、全然……!」
血色の良い頬を膨らませたディオールと、しゅんとするクラウスのテーブルへ、グリルされたシーフードを盛った皿が運ばれて来た。
怒った手前、苦し気に頬を膨らませていたディオールは、大きなエビのヒゲが曲がっていると理由をつけて、笑い転げた。
クラウスは、曲がっていないエビのヒゲなど見た事が無かったから、何が可笑しいのか分からず、これがジェネレーションギャップか、と、ため息を吐いた。
海では夕日がほとんど沈みかけ、夕刻最後の波を橙色に煮立たせている。
*
ディナーが終わると、プールサイドの長椅子で、クラウスと島の地図を見た。
島の中央を国境が走り、南北に分かれている。
「北がフランス領、南はディオールがいた空港があるオランダ領」
「うん。シント・マールテン。首都はフィリップスバーグ」
「そうだ」
ディオールは「えへん」と胸をはる。
「カレシに教えてもらったの」
「さいですか。十歳のクセにマセてるな」
「十二歳よ」
「はいはい。十二歳のディオールお嬢様がいるところは、ここ」
クラウスは島の北側、フランス領サン・マルタンを指さしてスーッと動かし、観光ビーチから少し逸れた海沿いの場所で指を止めた。
「空港近くのホテルを取り直してくれればよかったのに。迎えが来たら早く対応できるし、このホテル、オールインクルーシブじゃないから、不便だわ。せめてまとめて後払いシステムなら、クラウスに気兼ねしなくてもいいのに」
「別に気兼ねしなくても、トロピカル・ジュースでもアイスクリームでもなんなりと。後でパパとママにたっぷりお礼を頂くからさ。俺にとっちゃ後払いシステムだよ」
クラウスはそう言って片手を上げると、テラスの従業員へフルーツの盛り合わせを頼んだ。
「むしろご馳走になります、お嬢様」
「……ならいいけど。で、私のお迎えが来るまで、どんな風にエスコートしてくれるの?」
ディオールはクラウスが「観光に連れてく」と言っていた事をちゃんと覚えて期待していた。
エスコート役がいるなら、島を楽しまない手はない。
それに、ディオールは小さな頃から、ライオンやトラを散歩してみたかった。クラウスは美しい獣役にピッタリだ。迫力のある体躯と、甘く端正な容貌の彼を連れて歩くのは、きっといい気分だろう。
ライオンやトラと一括りにされているとは知らずに、クラウスは地図に指を滑らせる。
「明日は夕方七時に、マリゴのフレンチレストランへ行く」
「それまでは?」
「特に考えていない。街をぶらぶらしようぜ」
フレンチレストランが、明日のメインらしい。
それにしても素っ気ないじゃない、と、ディオールは思った。
ディオールの『なあんだ』が伝わったのか、クラウスが慌てて言った。
「ほら、ディオールは手ぶらだろ? 街でいろいろ揃えようぜ。服とか……ハート型のポシェットとか」
「ハ、ハート型のポシェットなんてしないわ!」
「ピンク色のだぞ?」
「そんな子供っぽいの、ティーンには必要ないの!」
「いらねぇならいいさ」
クラウスはちょっと寂しそうに言った。彼は、女の子にはハート型のポシェットが似合うと思っているオジサンだった。
「水着なら欲しいわ」
クラウスがパッと顔を輝かせる。
「ミッキーのオンナみたいなのにしよう」
「いやよ!!」
「いやか……」
それからもなんやかんやと買い物するものを決めて(二人はことごとく趣味が合わなかった)、フルーツの盛り合わせも食べてしまうと、早々に部屋へと追いやられた。クラウスは、子供の前で酒を飲むのが嫌いらしかった。
疲れていたので、ディオールは反抗せずに大人しくカードキーを持って部屋へと向かった。
部屋はルーフバルコニーを臨むガラス戸が開け放たれていて、ディナー時のバーベキューの匂いが入り込んでいた。
ディオールはこういう事もあるわよね、と、肩を竦め、海を一望するルーフバルコニーへ出ると、庭から覗き込んでいたマモンの枝を捕まえた。たくさん実が実っている所の香りを嗅ぎながら、背伸びして庭を見下ろす。
木々の茂みに丸い電球が連なって優しく光り、庭中にくるくると線を描いてプールに映り込んでいる。
そのプールの傍で、クラウスがサマーベッドに寝転んでビールを飲んでいた。
観察しようとジッと見つめると、クラウスはすぐにディオールに気づいてしまった。
彼はディオールに向ってビールを掲げる。「ご馳走様」そう唇が動いてる、気がする。
ディオールはプイとバルコニーの柵から離れ、小さなバスルームへ飛び込んだ。
「汗を流して、さっさと寝ちゃおう」
バスルームは、大きな窓がルーフバルコニーに面していて、気持ちよかった。しかし、シャワーの水圧が弱い上に、ちっともお湯にならない。アメニティも無いから、頭にきて正面に備え付けられた鏡を割りそうになった。
渋々水を浴びて、考える。
クラウスは何者だろう?
なんの頼りもなく、海外でパスポートすらないディオールには、今のところ彼が頼みの綱だが、なんか怪しい。
パパとママ……もしくは親しい人へ、自ら連絡を取った方がいいのではないか。けれど、クラウスを疑っていると思われるとなんだかマズイ気がする。信用しないのかって放り出されてしまうかも。それは困る。
空港での事を回想し、警察に泣きつく選択肢をもう一度考えたものの、絶対にニュースになる気がする。ニュースは嫌だ。ヒルトン姉妹みたいに注目されて、スキャンダルを期待してマスコミに追い回される様になったら堪らない。
『良い人そう』の勘も働かない。もっとも、『良い人そう』なんて一番怪しいから、それはヨシとする?
キュッとシャワーを止めて、バスローブを羽織ると、ディオールは鏡を見た。
鏡には、くすんだ金色の髪の、緑の目をしたディオールが映っている。
自分の事ながら、嬉しくなってしまいそうな美少女だ。陶器の様な白い頬を、なんとなしに撫でた。
すると信じられない事に、滑らせる手のひらに合わせて、頬に大きく深い傷がついていく。
「……え?」
ディオールは目を見開いて、自分の頬に広がっていく傷を凝視し、悲鳴を上げた。
悲鳴はバルコニーを突き抜けて、ちゃんと庭まで響き渡った。
*
クラウスが部屋のチャイムを鳴らしまくったので、ディオールは余計に怖がって悲鳴を上げ続けた。
「おいおい、どうした!?」
ドアの向こうからクラウスの声が聴こえると、ディオールはようやくホッとしてドアに飛びついた。
ドアを開けると、クラウスがいて、その後ろには野次馬が何人かディオールの部屋を覗き込んでいた。
泣き顔で身を縮めるディオールを庇って、クラウスが野次馬を追い払う。
ディオールはバスローブ姿な事も忘れて、彼に縋った。彼は、片腕でひょいとディオールを小脇に抱え、ベッドへ運ぶと、とても苦々しい声を出した。
「お前なー、なんなんだよ、ホテル追い出されるぞ」
「おば、おばおばおばけ……」
「おばけ?」
青い顔で深刻に頷くディオールに、クラウスは「ギャハハ!」と笑って床にひっくり返った。
「ああーっビビった!! おばけかよ!!」
ディオールは真っ赤になって抗議した。
「ほん、ホントにいたの! 鏡に映ったのよ!」
ディオールが鏡に映ったモノを説明しようとすると、笑っていたクラウスが突然慌てて遮った。
「待て待て、言うな! おばけの姿を見たヤツから聞くと、聞いたやつもソレ見ちまうから!」
「クラウスだって怖いんじゃない!!」
「違う違う、要らないイマジネーションを刺激するなって事。疲れてるから、なんか見間違えたんだろ? 大丈夫だよ」
クラウスはそう言って、バスルームへノシノシと入って行き、鏡を覗き込む。
鏡には、濃い褐色の肌をした、全部のパーツが大きい顔が映っている。クラウスの顔だ。
彼は自分の顔が好きなので、鏡にウインクをしてから、「やべぇ、めちゃめちゃ色男が映ってる!」と、ディオールを励ました。
ディオールはベッドのシーツに包まって、絶対にバスルームに行かない所存だ。
「ディオール、疲れてたんだよ。ゆっくり寝な」
「やだやだ! クラウス、部屋を交換して! ううん、ダメ! このホテルでは、絶対一人で眠れないわ」
「ええ~、どうすんだよ」
「クラウス!」
ディオールはキッ、と、クラウスを見た。
「おお……」
構えるクラウスに、ディオールはじりじりとにじり寄り、顔をくしゃくしゃにして縋りついた。
「一緒に寝て……」
*
クラウスの部屋はロビーのある一階で、ディオールの部屋よりも、見晴らしが悪かった。けれど、波の音が近くてこれはこれで良い。彼は意外にもすんなりと、ディオールの望みを叶えてくれた。
ものすごくホッとした半面、すんなり過ぎて心配になる。
「今更だけど、ロリコンではないわよね?」
「お前なー、ぶっとばすぞ」
目を剥いて言うクラウスに、ディオールは果敢に念押しする。
「絶対襲わない?」
「もう、萎えっ萎え」
クラウスは死にそうな声で返事しながら、ソファに身を沈める。大きなソファだったが、足がはみ出してしまっていた。
「クラウス……」
「なんだよもう! お話でもしてやろうか!?」
「え、ホント?」
ディオールは喜んで、ベッドにいそいそと寝転んだ。お話を聴きながら眠るなんて、久しぶりだ。こんな怖い目にあった夜は、お話に限る。
反対にクラウスはソファから身を起こす。
「え、本気?」
ディオールが「そんなの要らない」とでも言うと思ったのだろう、うーん、と唸り始めた。
「早く。どんなお話?」
「ちょっと待て……そうだなぁ、お姫様のお話なんかどうだ」
ディオールは寝返りを打って、手をパチパチと叩いた。
クラウスは一つ咳をして、面倒くさそうに、たどたどしく話し始めた。
「むかーし、むかし、お姫様の宮殿を掃除する子供がいました」
「子供は男の子? 女の子?」
「口を挟むなよ、男の子だ」
ディオールは目を閉じて、宮殿のお姫様と、掃除をする男の子を思い浮かべる。波の音がするから、きっと海辺の宮殿ね、だとしたらどこの国かしら、なんて思いながら。
「男の子とお姫様は恋に落ちた」
「きゃー」
「けれど、王様がそれを許すはずがない。身分が違うからな。それに、男の子は差別されてる人種だった」
「……」
ディオールは薄く目を開ける。
部屋の中は真っ暗だ。月明かりで窓の外は明るくて、不思議。
『人種』という言葉に、ディオールは少し緊張する。
この話は、クラウスのルーツに纏わる話かしら。
お姫様と男の子の肌の色が気になるわ。白い肌は悪者にされるかしら……。感想を求められたら、なんと答えればいいかしら。その時は寝たふりをしよう……。
ディオールの緊張を他所に、クラウスの話は続く。
「お姫様は、男の子と仲良くするのを反対した王様に怒っていたが、王様に勝てやしない。男の子は、故郷に帰る事になったんだ。しかたないよな、男の子にはお姫様を幸せに出来ないからな。だから、お姫様と男の子は、最後に思い出を作ろうと思ったんだ。二人で花火を見に行こうとしたんだよ。そして、永遠にお別れしたんだ」
「……」
「寝たか」
「……おしまいなの?」
尋ねると、しばらく返事が来なかった。
シンと静まる暗闇の中、クラウスがふっと息を吐く様に笑ったのが聴こえた。
「……そうだよ」
「魔法は?」
「魔法?」
「ないの? 花火で呪いの解けた男の子は王子様だったとか、お姫様に翼が生えて二人で遠くへ飛んで行ったとか……少なくとも、王様が心を入れ替えるとか」
「ないない、なんだ魔法って。もう寝ろ。明日はまた、乗り合いバスに乗るんだからな」
ディオールは、何故だか涙が零れた。
こんなお話ってある?
お姫様と男の子は、身分も人種も超えて恋に落ちたのに、どうしてあっさり永遠にお別れしたの?
けれど、これ以上クラウスに面倒がられたくなかったし、部屋を追い出されたら困るので、ギュッとシーツに包まって、眠る事にした。
*
あなたの差し入れてくれるスナック菓子が、好きだった。
だって、そんなの食べた事なかったから。
いろんな味を持ってきて欲しいと頼んで、二人でコッソリ食べた。
ある日、あなたは私の部屋の隅に転がっていた、ピンクのハート型のポシェットを、おずおずと欲しがった。
妹にあげたいって。
私は、「飽きた、要らない」と言ったクセに、ポシェットをクローゼットにしまい込んでしまった。それなのに、あなたは私に怒らなかった。私の嫉妬を見抜いて笑ってた。それから、……どうしたんだっけ?
そうそう、さっきは、とても怖かった。
もう当分鏡なんて見ないんだから。