気がついたらセントマーチン島
確か、あなたってどこから来たの? って聞いたんだ。
そしたら、私の部屋の床をモップで擦りながら、セントマーチン島って答えた。
「セントマーチン島のマホ・ビーチには、飛行機が頭すれすれで飛んできて、物凄い轟音を立てて着陸するんだぜ」
私はベッドに寝転んで、スナック菓子をほおばっていた。
「へー、それってカリブ海だよね?」
「そう。セントマーチン島のマホ・ビーチに面するプリンセス・ジュリアナ国際空港」
「行ってみたい」
「ディオールなら簡単に行けるだろ?」
「まぁねー、パパのプライベートジェット機でビューンよ」
あなたは舌打ちして笑い、モップをせっせと動かしていた。
私は、十四歳のあなたに釣り合うように、十二歳って事にしてたから、一生懸命十二歳っぽく微笑んで誘った。
「ね、一緒に行かない?」
「……あんたのパパが怒るよ」
「バカね、内緒で行くのよ」
「やだ。バカンスは正々堂々楽しみたいから、ディオールとなんか行かね~」
「もう!」
私は謝りたい。
掃除中に、スナック菓子なんか食べてごめんなさい。
だって私、十歳だったの。
*
懐かしい夢の最中、ディオールは優しく肩を揺すられて目を覚ました。
「お嬢様、もうすぐ空港へ着陸ですよ」
「う、ううん……?」
ディオールは、白い革張りソファにゆったりと足を伸ばして座り、伸びをしながら辺りを見渡す。
たった四人分しかない向き合った革張りソファと、三人掛けの貝殻みたいなソファが一つ。55インチのスクリーンと、新進気鋭のアーティストがデザインした照明が窓と窓の間に飾られている。
白と薔薇色に統一した機内のデザインは、ディオールが希望したものだ。
ディオールは、父が娘の希望を叶えたビジネスジェット機に乗っていた。
因みに、ディオール好みのインテリアが叶ったのは、これが四機目だからだ。ディオールの父は、こんなに可愛い機内のビジネスジェット機で主賓や抜け目ない部下を運んだりしない。
「空港? どこの?」
馴染みの専用キャビンアテンダントに、ボンヤリと問い返す。キャビンアテンダントは微笑んで、倒れていたシートを起こしてくれた。
「プリンセス・ジュリアナ国際空港でございます。セントマーチン島のマホ・ビーチでの着陸の様子を、ご覧になりたいと仰っていたじゃないですか」
「え!!」
ディオールはパッと背もたれから起き上がり、窓に罹ったカーテンを開けた。
エメラルド色に煌めくカリブ海の先に、黄金のビーチが見える。憧れて、ネットで漁り尽くした写真の通りの風景だった。ビーチには人だかりができていて、皆こちらを向いている。ジェット機の到着を、目を輝かせて待ち構えているのだろう。
ディオールは手を叩いて喜んだ。
「わー、すごい。本当に砂浜のすぐ近くに空港があるのね!」
「はい。ビーチの名物でございますよ」
キャビンアテンダントが微笑んで、ミネラルウォーターをグラスに注いでくれた。
ディオールは、ビーチから機内は見えないだろうと分かっていたけれど、熱心にこちらを見ている人々へ手を振って、笑い声を上げた。
「お嬢様、着陸しますのでお気を付けください」
「はいはい。私も早く、ビーチから飛行機を見たいわ」
「楽しいバカンスになるとよろしいですね」
キャビンアテンダントへ満面の笑みを返し、ディオールは再び窓の外を眺めた。
それから、笑顔のまま固まり、「なにこれ?」と、スーッと肝を冷やし始めた。
確かにセントマーチン島へ訪れてみたいな、とは思っていた。
思っていたけれど、実行に移した覚えが全くない。
プライベートジェット機を父に頼んだ覚えも、乗り込んだ覚えもない。荷造りした記憶さえも無いのだから、何が何だか分からない。
ついさっき、揺り起こされて目覚める前は、バイクの後部座席に乗っていた様な気がする。
いやいや、と、ディオールは首を振る。
バイク?
超お嬢様の私が、なんでバイク?
余計に首を捻って、グラスのミネラルウォーターを飲み干した。
それから、「まさか」と、グラスを見る。
変な薬を飲まされて、誘拐されている?
しかし、着陸後、キャビンアテンダントは美しく微笑んで立ち上がり、すんなりとディオールをジェット機から降ろしてくれた。
「ディオールお嬢様、十二歳おめでとうございます。よいバカンスをお過ごしくださいませ」
「う、うん。ありがと……」
そのまま専用ルートへと案内されて、パスポートの心配もなくスイスイと空港から出てしまった。
移動は毎度ビジネスジェット機のディオール、入国審査やパスポートチェックなんて元々意識した事がなかったので、疑問にも思わなかった。
空港から出て潮風に迎えられていると、ちょうどジャンボジェット機の着陸音が聴こえてきた。
それを聴いてしまうと、ディオールの足は俄然ビーチへと歩き出した。
あとでパパかママに連絡をすればいいわ。空港にはうちの傘下の航空会社も入ってるし、その辺のホテルだって、幾つかは自由にできるでしょうよ。
*
ディオールは、何としてでもキャビンアテンダントに泣きつくべきだった。
太陽が眩しいビーチで、エールフランスの優雅なジャンボジェット機と、カーマインレッドが眩しいシルバー・エアウェイズの小さなジェット機に歓声を上げた後、喉が渇いたわ。と、思った時に、ようやく自分が手ぶらだと気が付いた。
濃厚なトロピカルジュースも、フローズン・フルーツスティックも味わえない状況に、ディオールは愕然とした。現金で支払い? しかもコインで? そんな事、したこともない!
史上初の経験「お金が無い!」に直面し、慌てて空港に戻ったが、海外な上にサービスカウンターが末端過ぎて、誰も彼女の顔にピンと来てくれない。どころか、全く相手にしてくれない。ディオールの父ならまだ話が通ったかも知れないが、その末娘の顔を知っている人間は、もっともっと上層部にしかいない。
バカンス客の迷子として保護されたものの、一向に話がかみ合わない。
「パパとママは何処だい? 滞在先のホテルの名前言える?」
サービスカウンターの前で、ディオールは腕を組む。ジャンボジェット機でも到着したのだろう、観光客がわんさとやってきて、騒がしいディオールを流し見て行く。
アルマーニのスーツを着た男ときたら、通り過ぎ様にサングラスを上げて目を見開き、何度も振り返って彼女を見ていた。ディオールは失礼なソイツに親指を突き下げて舌を出した後、再びサービスカウンターへかじりつく。
「何度言ったらわかるの? パパとママはニューヨークよ。私は一人で来たの。早く言う通りの番号へ電話をしてよ!」
迷子係となった不運な男女二人の警備員が、困ったなぁという様子で顔を見合わせる。
「連絡したよ。でも、ディオールさんは旅行中だと言っていたよ」
「そうよ。ここにいるでしょ?」
「ハネムーンと言っていたけど?」
「はぁ!?」
「ちなみに、家に十二歳の女の子はいないそうだが?」
「ど、どういう事……あ、あなた番号を間違えてない? もう一度連絡をして私と取り次いでよ!」
「念のため、小さな女の子連れかも尋ねたさ。親戚も知り合いも連れて行っていないって。なんせハネムーンだからなぁ」
女性の警備員が、ディオールの背を優しく撫でながら「本当はどこの子かしら?」と困っている。
さっきのアルマーニ野郎が、何故だかまたサービスカウンターの前へやって来て、通り過ぎる。サングラスをしていても、ディオールをジロジロ見ている事が分かった。
なに、あのオジサン。
ディオールはイライラした。
「乗機履歴を検索しましょう」
「そうだな。同乗者とも連絡がつくだろう。何日のどの便でやってきたのか言えるかい?」
「私が航空会社なんか使うわけないでしょ! 自分の家のジェットで来たの!」
警備員二人が揃って黒目を回し、口笛を吹いた。まるで信じてない。
「一時間か二時間前よ! ビジネスジェットの着陸履歴を調べなさいよ!」
激怒していると、まただ。また、アルマーニ野郎がディオールを盗み見ながら通り過ぎていった。
常夏のリゾート地にスーツなんかで来て馬鹿じゃないの? と、ディオールは心で毒づく。
「午前中はディオールさんのビジネスジェットだけだよ」
「シケた空港! てゆーか、それに乗っていたのは私よ! そのディオールさんとやらの滞在ホテルを教えてちょうだい!」
「お嬢ちゃんもしかして、誰かにディオールさんの滞在ホテルを聞き出すように言われて来たんじゃないのかい?」
「は、はぁ~?」
「そうだとしたら、あなたを安全に保護してあげるわ。誰に指示されたの?」
「警察に連絡しよう」
ディオールは目を白黒させて、唇を震わせた。
警察?
「私に指図出来るのはパパとママと兄たちだけよ……」
怖い。でも、保護してもらった方が話が早い?
この訳の分からない状況に、疲れてしまった。
ディオールが降参気味に肩を落とした時、アルマーニ男がこちらへ両腕を広げて大声を上げた。
「ディオール! やっと見つけた!!」
男はそのまま、両腕を広げてディオールに近づいて来る。
ディオールは思い切り顔を顰め、「あんただれ?」と叫びそうになった。
けれど、すぐに思い直す。
ディオールは一年の四分の一をパーティや食事会で過ごす。入れ替わり立ち代わり何百人と挨拶を交わすから、その内の一人かも知れない。だとしたらスーツ姿も頷ける。ビジネスでたまたまこの島に訪れて、ディオールをたまたま見かけて……助けてくれる?
「すみません、俺の姪っ子なんです。はぐれてしまって……」
「え……」
なんかちょっと違う。姪? なんでそんなウソを?
「親戚ですか? R財閥のお嬢様とか言っていますが」
「わはは、ディオール! またそんな妄想を言って人様を困らせているのかい!?」
「な!? ち、違う、本当に……!」
「すみません~、この子、同じ名前だからかR財閥のご令嬢に憧れていて、たまにこうやって『ご令嬢プレイ』するんですよ~」
そう言って、男はディオールの頭に手を置いた。グイッと、頭を下げさせようとする。
「ちょっと!」
「コラ、謝らないと駄目だろディオール! 今回は一番タチが悪いぞ、大人を巻き込むもんじゃない」
警備員たちは怪しそうにディオールと男を見比べ、ディオールに「本当におじさん?」と聞いた。
ディオールは一瞬迷ったけれど、頷いた。
よくわからないが、警察よりはマシだと思った。
警備員たちはまだ怪しそうにしていたが、男に身分証の提示を求め、男も素直に従ったので納得し、さっさと自分たちの持ち場へと戻って行った。
「さて、行こうか。ディオール」
男がディオールへ、手を差し出しニッと笑った。ディオールはこれ以上怪しまれない様に、彼の手をとった。手を引かれながら、一体誰だろうと記憶をひっかき回す。
男はアフリカ系アメリカ人に見える。随分日に焼けた人だなと思ったが、間近で見ると元々の肌の色だとなんとなく分かった。
見覚えはないけれど、ディオールはちょっとだけ彼に気を許した。昔彼女の豪邸を掃除に来ていた少年と、同じ人種だったからだ。彼女はその少年が大好きだった。
男はバスターミナルへ移動し、ディオールに「ラッキー、五分で来るよ」と片目をつぶる。
「どこへ行くの? 早く話の分かるところへ連絡してよ」
「まず、俺の滞在しているホテルへ」
「そこで連絡してくれるのね?」
「そうしよう。ジュースでもいる?」
喉がカラカラのディオールは激しく頷いた。男はオーケーと言って、売店へ駆けていく。
ディオールは男と離れて少し不安になった。戻ってこなかったら、話が振り出しに戻ってしまう。
不安げに辺りをキョロキョロしていると、男がすぐに戻って来たので、ホッとした。差し出されたのは色の薄いオレンジジュースのペットボトルだ。
ディオールは文句を言わず、笑顔でありがとうとお礼を言った。本当に喉が渇いていた。
「あーん、おいしいよう!」
「あんまり飲み過ぎて、バスが走っている間にトイレって言うなよ」
「バスに乗るの?」
「おう。ほら来たぞ。さぁ乗って」
「きゃあ、乗り合いバスなんて初めてよ!」
ディオールは歓声を上げてバスに乗り込む。おかしな登場のセリフに、乗客がクスクス笑っていたが、ディオールは初めての乗り合いバスと、初めての満員立ち乗りにワクワクしていたので、全く気にしなかった。
ディオールが窮屈にならない様に、男がバスの揺れや他の乗客から、身体を盾にしてくれた事も気に入った。
*
ディオールは満員の乗り合いバスがやって来た時に、逃げ出すべきだった。
バスは空港から一時間半も走り続けた。こんなに過酷な経験を、ディオールはした事が無かった。
バスから降りてから男の滞在先のホテルまでは、男に背負われる羽目になってしまった。
男はディオールが足を踏み入れた事が無いような無名の、小さなホテルに滞在していた。
男はディオールを背負ったまま、こじんまりしたホテルロビーへ入って行き、ロビーで一番大きなソファへ降ろしてくれた。
ディオールはソファに倒れ込んで呻く。
「死ぬかと思ったわ」
「大袈裟だな」
「大袈裟なもんか! さぁ、さっさとパパたちに連絡して!」
男はニッコリ笑った。
「ジュースを買いに行った時にした」
「え、そうなの? じゃあ……」
「迎えをよこしてくれるらしいぜ」
「良かった……」
ディオールは心底ホッとして、男に微笑んだ。
「本当に助かったわ。ありがとう。それで、迎えがくるまでの滞在先はどこかしら?」
「全部任せると言われたから、ここでどうだ?」
ディオールは鼻の頭にシワを寄せた。
「ここ?」
「精一杯おもてなしするから。明日は観光地を回ってやろう」
んー、と、ディオールは考える。
「おじさんが?」
「オジサンといると楽しいぞ」
「おじさんって誰なの? 会社名は?」
男はちょっと目をくるっと回し、答えた。
「名前はクラウス。R生命保険だよ」
「そう……叔母様のグループね」
「そうそう……」
ニコニコする男に、ディオールも微笑み返した。それから、じわじわと肝を冷やす。今日は二度目だ。
R生命保険は、年の離れた兄の傘下だ。叔母はD銀行を牛耳っている。目の前の男はそれを知らない。
よっぽど下っ端か?
それとも……?
ひゅう、と、潮風がロビーを抜けていく。
ロビーの床とつづきになっているバルコニーから、海がさざめいているのが見えた。