3
荒れ廃れた屋敷の清掃が忙しく、かれこれ三日は費やしている。黙々と作業をするユストだが、慣れない事をやっている為、剣を振る以上に疲れを感じていた。
そんな昼下がりのこと、別荘地に珍客がやって来た。テル・アゼカ王家の問題児、ルミナである。扉を開けた先に、艶やかな黒髪の姫君が居た時の衝撃といったらない。冷静沈着なユストも流石に度肝を抜かれ、目を見開いた。
「……ルミナ姫、何故こちらに?」
「お母様が『とても見目麗しい皇子様』だと仰るので、気になってしまって。昨日はほんの一瞬しかお会いできませんでしたから、ちゃんとお顔を見たいと思いましたの」
「…光栄です」
およそ王族がするような思考ではなく、理解が追いつかないユストは、そう返すのがやっとだった。
アスンクリト帝国の敗北という形で戦争は終結した。だからこそ、ルミナの行動は軽率と言うよりほかならない。帝国からの恨みを買っているとは考えないのだろうか。衝動的に殺されるかもしれない危険を孕んでいるのに、ルミナはただ無邪気に笑うだけであった。
「ここへは久方ぶりに来ましたが、湖がとても綺麗なんですよ。ユスト様はもうご覧になりまして?」
「いえ。窓から眺めた程度です」
「でしたら一緒に見に行きましょう。わたくしが案内致しますわ」
「…ルミナ姫。私はアスンクリト帝国の者です。数年前まで敵同士だったのです。出過ぎた事を申しますが、もっとご自分の身を顧みられた方が良いかと」
湖は一応、別荘地の敷地内にあるので、ユストが行く分には問題無いのだが、ルミナと二人きりというのが大問題である。ひと気の無い場所なんて、殺害現場にうってつけだ。王女として当然の危機感くらいは持つべきだろう。ユスト本人に殺す気は無くても、それはあくまでも"今は"の話なのだから。
わざわざ丁寧に教えてやる必要はないのだが、ユストはつい苦言を呈をしていた。ところが、彼の親切心はいとも簡単に跳ね除けられてしまう。
「ユスト様ったら、可笑しな事を仰るのですね。和平の象徴としていらした方を、どうして警戒しなければいけないのです?」
まさかそんな見え透いた嘘を信じる者がいたとは驚きだ。しかも情勢に詳しいはずの王族の人間が、笑顔でこのような台詞を吐くなんて。
(…やり易いと、思っておくか)
軽い頭痛を覚えたユストは、上機嫌なルミナの気分を害さないよう、彼女に大人しく従う事にした。
オルナンにひと言伝えてから、ユストはルミナに先導されて湖へと向かった。ダグラスが今朝から出掛けていたのは不幸中の幸いだった。いくら頭の足りない姫でも、見知らぬ男がいたら不思議に思うはずだ。
(この方なら、誤魔化しも効くだろうが…)
不思議とまでは思っても、不審には思わなさそうだが、今はどんな小さな危険因子も漏らしたくない。どこからユスト達の反攻が気取られるかわからないのだ。たとえルミナが相手でも、細心の注意を払って行動しなければいけない。
「着きましたわ!」
「これは…確かに絶景ですね」
気を張り詰めていたユストは、無意識のうちに感動の溜息をついていた。無風のおかげで、鏡のような水面には、山や森の木々が見事なまでに映り込んでいる。澄んだ水は空と同じ美しい青色で、まるで巨大な絵画を鑑賞している気分だった。
じっくり眺める時間も、心の余裕も無かったせいで、なんとなしにしか見ていなかったが、ルミナの言う通りとても綺麗な場所だ。
「…そういえば、お一人で来られたのですか?」
「ええ。そうです」
「よく衛兵が通行を許可しましたね」
「あら、あんな目立つ所からは行きませんわ」
「…と、仰いますと?」
「あちらの森の中をこう、まわって抜けますとお城の西側に出るのです」
ルミナは湖の向こう岸を指差しながら、得意げに説明し始めた。
国王が大臣達を召集して会議を開いているのをいい事に、部屋を抜け出してきたと言う。
「外出となると、手続きが面倒なんですもの。お城には隠し通路がいくつかありますし、森の中にまで騎士はいませんから。こっそり出て行った方が遥かに楽ですわ。それにわたくし、馬車よりも自分で馬に乗る方が好きなんです」
「左様ですか」
思わぬ情報を得たと、ユストは内心喜んだ。見張りに察知されず城へ近付く方法と、複数あるのは厄介だが抜け道の存在を知れた事は、かなり大きな収穫だった。
「私はこの敷地から出ることはできませんが、そのご様子ですとルミナ姫は街へ下りた事もおありで?」
「街へ?ありませんわ。欲しい品は、頼めばお城に届きますから、わざわざ足を運ぶ意味がわかりませんもの」
「…今の民の暮らしについて、何も思う事は無いのですか?」
「なぜですの?だって先生方はそんなこと教えてくれませんでしたわ。それはつまり、わたくしが知る必要は無い、という事でしょう?」
ユストは二の句が告げなかった。
ユストを見上げる金色の瞳は、残酷なまでに無垢だったからだ。
(その気になれば、貴女の言葉一つで国が動く事を知らないのか…)
王族の言動が、国を守りもするし、滅ぼしもする。事の重大性に、美しい姫君は気付いていない。確かルミナはあと数年で成人だったとユストは記憶している。そんな歳にもなって、この程度の知能しか持ち得ないのかと、怒りを通り越していっそ憐れみを感じた。
無知は罪と言うが、彼女はまさにそれだった。
「この湖を見ていると、なんだか懐かしくなってしまいましたわ。後でお屋敷にお邪魔しても構いませんか?」
「元は陛下の別荘なのですから、ご自由に出入りしてください」
客間は掃除が完了しているので、ルミナが入っても大丈夫だろう。数日前の惨状を見せたら、どんな顔をしたのか気になるところではあるが、要らぬ不興は買いたくない。
ルミナと一緒に屋敷に戻ると、オルナンが慌てた様子で駆け寄ってきた。彼は小声でユストに耳打ちする。
「…どうしましょう、ユスト様。姫君にお出しするお茶も何もありません」
ここに運ばれてくるのは、二人分の食材のみだ。当然、嗜好品の類いは一切与えられず、限りある食糧をダグラスを含めた三人で分け合っていたのだから、余分など有るはずも無かった。『我儘姫』に茶菓子すら出さないなんて、どんな仕置きをされるのか。オルナンは恐怖に震えそうになった。
だがしかし、無いものはどうしようもない。仕方なく、ユストは正直に打ち明けた。
「ルミナ姫。大変申し訳ございませんが、ただ今、茶葉の用意ができず、お茶をお出しする事が叶いません。どうかご容赦ください」
すると意外や意外。ルミナはぱちりと瞬きをしてから、微笑んで「お気になさらず」と返してきた。どうやら本日はすこぶるご機嫌らしい。ユストの背後で、安堵するオルナンの気配が伝わってくる。
きょろきょろと部屋を見渡していたルミナは、ぽつりと独り言のような呟きを落とした。
「やはり子供の頃の記憶より、古びた印象を受けますわね。地下室もまだあるのでしょうか。よくあそこで遊びましたわ」
「地下室…?」
その存在を知らずにいたユストとオルナンは顔を見合わせた。
「それはどちらに在るのでしょうか」
「少し見つけにくい場所になりますが…」
ルミナが向かったのは、以前は書斎として使われていたと思われる部屋だった。埃を被った机を退かそうとしたので、すぐにオルナンが代わった。
「ここですわ。絨毯に切れ目がありますの。これをめくると…」
しゃがんだルミナが色褪せた絨毯をめくる。
そこだけ床板が外れるようになっており、木でできた板を退けると、暗闇へと続く階段が現れた。
ユストの隣でオルナンも、興味津々に眺めている。
「乳母から隠れるのに、よく使いましたわ。すぐに見つかってしまいましたけれど」
後で実際に入ってみなくてはわからないが、大の大人が入れるだけの広さはあるらしい。
(大量の武器を隠すのに丁度良い)
武器の調達の目処すら立っていないので喜ぶのはまだ早い。しかし、秘密の部屋が在ると判明したのは嬉しい誤算だった。
それからルミナは、ひとしきり屋敷をぐるりと歩いたら満足したのか、来た時と同様、いきなり帰ると言い出した。大方、国王の会議が終わる頃なのだろう。
全く予期せぬ来訪だったものの、得られた情報は有意義であった。わずかばかりの感謝を込めて、ユストはルミナを見送る。
「お気をつけてお戻りください」
「今度はお花を持って来ますわ。花瓶はあるのに、お花を活けていないなんて、つまらないんですもの」
「お心遣いは大変嬉しいのですが、花の手入れをした事のない我々では、すぐに枯らしてしまうでしょう」
「花瓶に挿しておけば数日は持ちますわよ」
くすくすと笑うルミナだったが、次の質問を投げかけた際、微かに纏う雰囲気が変わったようにユストは感じた。
「ユスト様は何色がお好きですか?」
持ってくると言った花の色についてだろうが、ユストはさして草花に詳しくないし、どんな色だろうと花は花だ。何色でも構わない、むしろ男所帯に華やかさは不要というのが本音である。しかし答えない訳にもいかないので、ユストは素直に好みを答えた。
「…白色ですね」
「そう、なんですね。ユスト様によく似合う色だと思います」
そう話すルミナの表情は、何と形容するのが正しいのか。ユストは的確な言葉を持ち合わせていなかった。変わらず微笑んでいるのだけれども、何か違う意味を含ませた笑みに見えたのだ。
一つだけ確かなのは、その時のルミナの笑みが、妙にユストの胸をざわつかせた事であった。




