24
澄んだ雪解け水が小川を流れ、春を待っていた蕾達が膨らみ始めた。新たな季節がやって来る前に、悪しき過去は清算される。
断頭台が設置された広場は、大勢の人でひしめきあっていた。もう間もなく定刻だ。
冷たい檻の向こう側にいるのは、いつも自分の方だった。義母に嬲られ、父に見過ごされてきた過去が、否が応なく思い出される。
独房へ続く階段を下り、そこに捕らわれている罪人の前に立った。
「お前は…っ!!」
「…この姿でお会いするのは久しぶりですね」
純白の娘は、檻の外からバサノスを見下ろした。玉座で踏ん反り返っていた父親は、随分と老け込んだように見える。獄中での生活と死の裁きに、心労が祟ったのだろう。肥えた体に反して、顔だけはげっそりしているものだから、変にちぐはぐな印象を受けた。
「おお!ルミナよ!私を助けに来てくれたのだな!はやく…はやくここから出してくれ!」
薄暗い独房で過ごすのに慣れてしまった彼女と違い、バサノスがこんな扱いを受けるのは、最初で最後だ。落ち窪んだ目元には、刻々と迫る処刑への慄きがありありと表れており、鉄格子を掴む両手が目に見えて震えている。
「…ルーナ・アスンクリト」
「……な、なに?」
「それがわたくしの名前です」
外との繋がりを断たれた為、何も知らずにいたバサノスは開ききった目を血走らせた。
「アスンクリトだと!?ど、どういう事だ!?あの皇子に取り入ったのか!?」
「いいえ。わたくしは最初から、貴方の味方ではありません」
「ではお前がっ、私をこんな目に遭わせたのだな!?私を責めるなら、血を分けたお前も責められるべきだろう!!」
「仰る通り、わたくしは貴方がたと共に、断頭台へ登るつもりでした。民それを望むのなら、すぐにでもそう致しましょう。しかしながら、民の間でルミナ王女という人間は、既に死人となりました」
死んだ人間に、死ねと命じるのは不可能だ。彼女が言わんとしている事を理解したバサノスは、途端にころっと手の平を返した。
「頼む!殺さないでくれ!私はまだ、死にたくないのだ!」
「…お別れです。お父様」
「待ってくれ!私が愛していたのはイルエだ!そしてお前のことも愛している!本当だ!信じてくれ…!」
『ルーナ』は父親と同じ色の瞳を忌々しげに細めると、金貨の入った小袋を投げつけた。金貨は無機質な音を立てて散らばり、バサノスの足もとにも転がっていく。
「…貴方が愛したのは"それ"でしょう」
「ち、ちがう…」
「お母様のお墓があることすらご存知ない貴方に、愛を語る資格があるとお思いですか」
「ルミナ!我が娘よ!助けてく」
バサノスが国民に慈悲をかけなかったように、ルーナも無慈悲に扉を閉じたのだった。
「…大丈夫か?」
「はい。無理を言って、申し訳ありませんでした」
独房の出口で待っていたユストに、ルーナは頭を下げた。
処刑される前に父と話がしたいと、彼女は願い出た。やや逡巡する素ぶりは見せたものの、ユストはその希望を叶え、最後に会う機会を設けたのだった。
カーラルは錯乱し、まともに言葉が交わせる状態ではなくなってしまった為、別れの挨拶はできなかった。
「………」
「何があった」
「…初めて、お父様から『愛している』と言われました。嘘だとわかっていても、どこかで喜んでいる自分がいて……呆れてしまいますね。親だと感じた事なんて、なかったのに…」
何かをこらえるように、ルーナは自分の腕を握り締めた。ユストは黙って手を伸ばすと、優しく彼女の頭を引き寄せ、ルーナもその手に甘えた。かたい胸板に耳をつけると、ユストの温かな鼓動が聴こえてくる。
「…辛いなら、見なくてもいい」
「…いいえ。きちんと、見届けます。自分の務めから、逃げたくありません」
「貴女なら、そう言うと思った」
あんな男の為に流す涙など無いと、ルーナは思っていた。でも心の片隅には、父と思う気持ちが僅かでも残っていたらしい。
この世でたった一人、ルーナだけは、国中から嫌忌された王の為に一粒の涙を流した。
「……そばにいて、くださいますか?」
「それは私から望んだ事だ」
バサノスとカーラルの処刑は、定刻通りに執行された。その場には、目を逸らさずに立ち続けたルーナと、彼女の傍を片時も離れなかったユストの姿があった。
前王は葬られ、新王の戴冠式を控えたアスンクリト王国は、明るい希望と興奮で満ち満ちていた。
王城には、がらりと雰囲気が変わった国を見渡す、金色の瞳が在った。
「お名前が変わってしまって、悲しくはないのですか?」
新王の妃は『ルーナ・アスンクリト』だと、宣言されたのと同時に、あの反乱を影から支援していた女人であるとも公表されたので、国民から抗議の声は上がらなかった。
けれども、ルミナ王女が死んだと扱われる事に、心を痛める人間もいた。彼女を知る、数少ない者達だ。
シャーラの躊躇いがちな質問に対し、ルーナは凪いだ声音で告げる。
「お母様がくださった名前は、一つではないでしょう?わたくしとシャーラ達を繋ぐ名を、手放す気はないわ。永久にね」
母から教え込まれたホシオテースの精神も、パテールを受け継ぐ事への誇りも不滅だ。
ルミナであろうと、ルーナであろうと、魂に刻まれた誓いが変わることはない。
「ユスト様の…いえ、違うわね。皆のおかげで、わたくしは新たな生を受けた。その感謝を決して忘れずに、一歩一歩を大切に踏みしめて生きていくつもりよ。悲しんでる暇なんてないわ」
その答えを聞き、シャーラとシャルテルは満足そうに大きく頷いた。
「つきましては、これからは王妃様とお呼びしなければいけませんね」
「姫様と呼び慣れてしまったので、些か違和感があります」
「女王」と言うと嫌な人を連想させられると、双子は拒絶反応を示した。どうやら国民も同じ気持ちだったようで、大半が「ユスト様」と「ルーナ様」と親しみを込めて呼んでいる。
「ですが、今の王妃様を見ると、姫様なんてとても呼べません」
「ご立派ですよ」
白を基調とした衣装を着たルーナには、人間離れした美しさがあった。隠す必要のなくなった髪は、彼女本来の純白が露わにされ、抜けるような白い肌の中に、煌めく金色が一等輝いている。
「三人揃って夜明けを眺めるという約束、これで認めてくれるかしら?」
大幅に時刻は過ぎていたが、新しい時代の幕開けという意味では『夜明け』と称しても間違いでは無いだろう。
笑いかけるルーナに、シャーラとシャルテルは思わず涙ぐんだ。
「しっかり者のシャーラが、すっかり泣き虫さんになったわね」
「…王妃様のせいでございます」
「もともとシャーラは、割と感情的ですよ」
「ふふっ、そうね」
一時は危篤状態にあったルーナだが、双子の熱心な看病に加えて、ユストと並び立つという強固な意志のもと、驚異的な回復をしてみせた。
「本当にたくさん、苦労をかけてしまったわ」
「上等ですよ」
「むしろこれからも苦労を共にする所存です」
「わたくしもよ。家族だものね」
ルーナと名を変えてから、彼女はよく笑うようになった。不恰好だった笑顔も、徐々に自然な可愛らしい笑顔になりつつある。双子からすれば、それが何より嬉しい事だった。
支度部屋を出て廊下を歩くルーナの前に、初老の騎士が現れる。恭しく頭を垂れたロムファイアへ、ルーナも丁寧な礼をとった。
「ルーナ妃、本日は誠におめでとうございます」
「ありがとうございます。ロムファイア公爵」
「黒髪もお似合いでしたが、そちらの方が貴殿らしい」
ルーナの申し出を快諾し、ユストに味方したロムファイアは、その功績を認められ、以前よりも高い爵位が与えられた。
「この日を迎えられたのは、公爵の御尽力もあったからです」
「光栄の至りですな。貴殿のような素晴らしい王妃に、そう言っていただけるのは」
「素晴らしいかどうかは、王妃の務めを終えるまで分からない事です。わたくしが判断を誤った時は、かつてのように進言してくださいませ」
「そうでなくては公爵など名ばかりになってしまいます」
「公爵には要らぬ心配でございましたね」
立場が高ければ高いほど、謙虚でいるのは難しくなる。しかし、ルーナならば驕る事は無いだろうと、ロムファイアは確信していた。逆境の最中にあっても己を見失わず、命を賭して民を救おうとしたルーナこそ、本物の王族だ。騎士として、これほど仕え甲斐のある人間はそうそういない。
「では私はそろそろ失礼致します。式典の護衛がありますゆえ」
「頼りにしています」
「ようやっと、騎士の宣誓を全うできる機会が訪れたのです。心してかかりますよ」
そう言うと、彼は豪快に笑ってのけるのだった。
ロムファイアと別れて、さらに廊下を進む。
その先で待っているのは、アスンクリト王国の新王であり、ルーナが心に決めた主人であり、そして終生の伴侶だ。自然とルーナの顔は綻び、歩調は速くなる。
美麗な衣装をなびかせながら近付いてくる王妃の、健気な様子といったら。ユストは面映い気持ちになった。
「お待たせ致しました」
「王妃様、すごく綺麗です!」
「…オルナン、私が褒める前に口を挟むな」
「あっ、申し訳ありません」
後ろにオルナンを従えたユストもまた、一新された王族の衣装を身に纏っていた。華美な装飾は控えられ、上品さだけを残した白色の衣装は、真っ新な状態から始める二人に相応しかった。
皆、ルーナに似合うと褒めてくれたが、当の本人はユストの方が誰よりも白が似合うと思っている。それこそ出会った時からずっと…
「ルーナ、手を」
「はい」
深い慈しみを含んだ笑みを浮かべるユスト。彼の手をとることに、もう何の迷いも無かった。ルーナはまだ少しぎこちない、でも心からの笑顔で応える。
「ユスト様」
「どうした?」
「あなた様の隣にいられる事が、すごく…すごく幸せなのです。感謝を申し上げるのは、わたくしの方です」
ユストと共にいる未来、それは都合の良い空想に過ぎないはずだった。でも今、ルーナは奇跡のような未来に、こうして立っている。同じ熱の燈った手を、握り返す事ができる。それがどれだけ幸福か、ユストに伝えたかった。
ルーナの心の内は、穏やかで温かみのある瞳に、透けて見えていた。そんなものを直視させられたユストは、堪ったものではなかった。
「…ルーナ」
「っ!!」
ユストは繋いでいない方の手で、ルーナの純白の髪を優しく梳いた後、そっと唇を重ねた。瞬間、頭の芯が痺れるような、甘い感覚に支配される。顔を離した時、ルーナの白い頰は可憐に染まり、瞳は確かな熱を孕んで揺れていた。
ユストはこのまま込み上げる感情に任せて、力強く抱擁してしまいたい衝動と闘う羽目になった。だが、侍女達が丁寧に着付けた衣装が崩れてしまっては、ルーナも悲しむだろう。第一、戴冠式がもう始まろうとしている。こんな所で時間を食っている場合ではない。そんな言い訳がましい事をつらつらと考えて、どうにか理性を保ったのだった。
指先までほんのりと赤くなったルーナを、心底愛おしいと思いながら、ユストはその手を引いた。
「いこう」
「はい」
ユストとルーナは手を取り合って、国民の前へと進んで行く。
待ち望んだ統治者の登場に、集まった民衆からどっと歓声が湧き上がる。あまりの声量に、お腹がびりびりするくらいだった。
戴冠式は鳴り止まない拍手の中で執り行われ、彼らに救われた民達は、新たな王と王妃を心から盛大に祝福した。
凛とした王の隣に並び立つ王妃が、まさしく月の女神のようだったと、民は口々に誉めそやすのであった。
───それから千年という長きに渡って繁栄を極めるアスンクリト王国。
これはその始まりの物語である。




