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ルミナは自分の目を疑った。

というのも、亡くなって久しい母の姿があるのだから。


「お母様…?」


ルミナが立っている場所は、荘厳な王城の一角、彼女が幼少期を過ごした別棟だった。自分と同じ色を見つけたルミナの胸中に、様々な感情が浮かんでは消える。

母は何も言わず、ただ優しく微笑んでいた。


「本当に…お母様なのですか?」


しかし、ルミナが一歩踏み出すと、イルエは首を横に振った。戻りなさいと告げられた気がした。


「戻れと言われても…」


王城(ここ)がルミナの居場所だ。良い思い出も、辛い思い出も、全部が詰まったこの場所以外にどこへ戻れば良いのか。

ルミナは困惑の眼差しを母に向けた。それでも相変わらず、母は微笑んでいるだけであった。


───…ルーナ


誰かの声が、空間の静寂を破った。

ルミナはきょろきょろと周りを見回す。無意識のうちに、左胸のあたりを握り締めていた。


───ルーナ!


その名は違うものなのに、自分が呼ばれていると直感した。とても焦ったような声に、ルミナは心臓を掴まれた心地になる。


───ルーナッ!!


ひときわ大きな呼び声がルミナに届いた瞬間、彼女は思い出した。これまで何の為に、誰の為に闘ってきたのかを。頭のてっぺんから爪先まで、びりびりとしたものが突き抜け、目が冴えわたった。

ルミナは息を大きく吸い込み、全てを捧げると誓った相手の名を呼び返す。


「ユスト様っ!!」


主人と定めた人が、呼んでいる。ならば何としても戻らなくてはいけない。心の奥深くに息づいている忠節の教えが、ルミナを突き動かす。

いつの間にか、二人のいる場所は城のバルコニーへと移っていた。声が聴こえてくるのは柵の向こう側、眼下に広がる底知れぬ暗闇からだ。けれども恐れはなかった。飛び込む前にもう一度だけ、ルミナは母を見た。


「…お母様。わたくしを強くしてくださって、ありがとうございました」


息絶えそうな母を前にして、ルミナができた事と言えば、泣いて震えるのみ。それが大きな心残りだったので、たとえ幻の中であっても、感謝を伝えられて良かった。

ルミナが母に背を向ける間際、イルエの唇が動いた。


『いきなさい』


バルコニーの柵に足をかけ、ルミナは虚空に身を躍らせたのだった。




重い瞼を持ち上げても、すぐには焦点が合わなかった。意識も霞がかったみたいで、夢か現実かの区別がつかない。ただ、右手だけがやけに温かかった。


「ルーナ…!」


思うように首は動いてくれず、ルミナは視線だけを横にずらした。目の焦点が合った時、ルミナの瞳に映ったのは、顔を歪めているユストであった。思い出に残る子供の頃のユストも、こんな顔をしていた。ルミナが恐々と話しかけたら、哀しそうな顔をやめてくれた記憶がある。


「……ユ、スト…さま…」


だからルミナは、呼びかけてくれる彼に応えようと、懸命に掠れる声を絞り出した。

ユストは眉根を寄せながら、安堵の吐息を漏らす。次いで、泣きながらルミナを見下ろしていたシャーラとシャルテルが「姫様」と連呼し始めた。


「二人とも…泣かないで……大丈夫、だから…」


慰めたつもりが、二人は余計に激しく泣きじゃくるのだった。


「すぐにお食事をお持ち致します」

「とにかく食べませんと。まずは消化に良いものから順番にですよ」


涙を拭った二人は弾むような足取りで、調理場へと急いだ。しかしユストはルミナの手を握ったまま、その場を動こうとしなかった。


「ユスト様…?」

「………」

「…あれから…どう、なったのですか?」


ルミナの記憶は、ユストの腕の中で幸せを感じながら、目を閉じたところで途切れている。見慣れない部屋で寝かされているのも気になった。

ところがユストはすぐに答えず、低く小さな声で「貴女まで失うかと思った」と呟くだけであった。ともすれば不機嫌だと捉えられそうなユストの表情と声色に、ルミナは思わずおろおろする。


「もしや…何か不測の事態でも…?」

「…いえ。私達は本懐を遂げました。真の立役者がいたからです」

「…ユスト様の、功績ですわ」


真っ直ぐなユストの視線から、ルミナは目を逸らす。英雄視なんかされたくない、彼女の態度はその思いを物語っていた。


「民を救ったのは貴女です」

「………」

「……いつも私は、貴女に見せてもらうばかりでしたね。今度は私が素晴らしい光景を、貴女に見せて差し上げる番です」


何を言い出したかと思えば、ユストはいきなりルミナの体を軽々と抱き上げた。彼女は硬直し、びっくりするあまり声も出せない。急にユストの顔が近くなった所為で、ルミナの心臓は高鳴り、病み上がりには辛いほど、どくどくと脈打っていた。

立ち上がる体力も無いだろうと、ユストなりに気遣ってのことだったが、朴念仁の彼では女性の心情を察せられなかった。シャーラが居てくれたら、肌着のような薄い衣を着た女性に、断りもなく触れるとは何事かと、物申したに違いない。

頼りない布地から伝わってくるユストの体温に、ルミナは激しく困惑する。初めて身体を駆け巡った感覚に、翻弄されるがままだ。


「民の声が聴こえますか?」


恍惚としかけたルミナを現実に引き戻したのは、彼女の白い髪を撫でる冷たい風だった。


「……ええ。聴こえます」


窓の外には、王城から見下ろすのとはまた違う景色が広がっていた。

ルミナの髪色と同じ、真っ白な雪に覆われた銀世界。太陽から降り注ぐ光が降雪を照らし、星が瞬くように輝いている。冬の風が運んでくるのは、苦しみに喘ぐ声ではなく、かすかな笑い声だった。

自然豊かな美しい王国に、失われていた人々の笑顔が戻ったのだ。大きく見開かれた金色の瞳から、自然と真珠のような雫が転がり落ちる。


「…この先、二つの国は統合されます。父上は私に王位を譲ると言ってくれましたが、相応しいとは到底思えません」

「…でしたらわたくしはもっと、王女として相応しくありませんでした。国にではなく、たったひとりの人間に、誓いを立てたのですから…」


ユストはそっとルミナを寝台に下ろすと、今度は彼女の目線に合わせるように片膝をついた。


「…テル・アゼカ王国の両陛下は斬首刑が、王太子殿下は幽閉塔行きが決まりました。そして、王女殿下は既に亡くなった事になっています。ルミナ姫と呼ばれていた方は、もう居ません」

「え…?」


両国民はルミナの姿を見たことが無い。王城で働いていた者ですら、彼女の本来の姿は知らない。見知った顔の貴族達は、軒並み断罪された。だからユスト達を除き、ルミナが王女であると暴露できる人間は誰もいないのだ。

ユストはルミナを処罰するつもりは毛頭無かった。王女の死を偽装したのも、最大の味方でいてくれた彼女を生かす為だ。仮にシャーラとの約束が無かったとしても、同じ行動をとっていただろう。ルミナを救う道はないかと、何度も何度も自問自答してきたのはユストだからだ。


「未熟な私には補ってくれる者が必要です。貴女には私の妃として、共に新しい王国を導いて欲しいと…そう願っています」


ルミナは口を覆った。そうしないと、嗚咽が唇から漏れてしまったに違いない。

ほんの時折、夢を見てしまうことがあった。かの伝説の王と僕のように、自分もユストの隣に立っていられたら。陰ながらではなく、堂々とユストに力を貸せたら…と。

そんな叶うはずもない夢を思い描いては、掻き消し、力無く笑っていた。自分の素直な気持ちに蓋をし、たった一つの願いさえ、次第に心にのぼる事も減っていった。


「『ルーナ・アスンクリト』として、これからも私を支えていただけませんか」


そう告げて、手を差し出すユスト。

ルミナが押し留めてきた本心は、その手をとりたいと切に望んでいた。でも、できない。


「…わたくしは愚王の娘、嫌われ者の王女です。ですからどうか、皆が望む裁きを」

「誰一人、裁きなど望んでいません。貴女に処罰されるべき罪など無いからです。私の目の前にいるのは、素晴らしい忠節を示したホシオテース家の『ルーナ』です」

「っ、…あなた様のご友人を殺しました。充分な大罪です」

「貴女とて彼の所為で死にかけたでしょう。それに、元を辿れば原因は私にあります。貴女がしたのは、単なる正当防衛です」


到着が遅いユストを捜しに行った際、彼に剣を向けながら「殺す」と憤る男がいた。主人を守らなければという意識がルミナの中で弾け、死力を振り絞って戦った。

そこで死んでいても悔いは無かった。この身に悪王の血が流れている以上、初めから断頭台へ上がる覚悟をしていた。しかし、ルミナは生かされた。生きているだけで、何か悪い事をしている後ろめたさがあった。ルミナは俯き、なおも首を横に振ろうとした。


「わたくしは…っ」

「貴女の問いに、今答えます。貴女以上に、その色を持つに値する人間を私は知りません」

「…っ!」

「私も、そんな貴女と同じで在りたい」


それはルミナが最も聞きたかった言葉だった。しかも、最も言ってほしかった相手から贈られた。ルミナはとうとう、涙の止め方がわからなくなってしまった。体の内側から大きな喜びが突き上げて、痛いくらいだった。苦しみや哀しみ以外でも、痛みを感じる事があるのだと、ルミナは初めて味わい知った。


「……本当に、わたくしで…っ、良いのですか?」

「私が闘う時、背中を預けるのは貴女が良い。私が倒れそうな時、隣で手を握ってくれるのは貴女であってほしい」


ルミナは守られるだけの貧弱な姫君ではない。武器を手に怯まず戦い、背中で守れるほどの強さがある。そして何より、一点の曇りもない真心を持っている。ルミナの愛と、絶対の信頼にユストは心を揺さぶられ、今や、魂が離れ離れになることを拒絶するまでになっていた。

守ってくれでも、守らせてくれでもなく、共に闘い続けてほしいと請われた事は、ルミナにとって最高の誉れであった。

他の誰でもないユストが、共に在りたいと望んでくれるのなら、もう、固辞する理由は無い。いや、したくない。ルミナは激しい葛藤も包み込んでしまうほどの幸福で満たされていた。

たとえ死んでも後悔が無かったのは本当だ。でも、ユストに寄り添い、歩んでいきたいのも本当だった。


(…もし、許されるのならば、ユスト様と一緒に生きてゆきたい…っ)


『生きなさい』と、どこからか声が聴こえた気がした。

おずおずと自分の手を伸ばして、ひと回りも大きな手の平に触れる。痩せ衰えてしまった体では、強く握りしめることはできなかったが、精一杯の力を込めた。

はらはらと涙を流しながらも、金色の瞳はユストを一心に見つめ続けていた。


「…わたくし『ルーナ』は今一度、誓います。ユスト様への忠節は、死してもなお滅びません」


作り笑いは非の打ち所がない癖に、ルミナの純粋な笑顔は、何とも不器用なものであった。心から笑う事を忘れて、幾年も経っていたからだ。それでもユストは、その不恰好な笑顔がたまらなく愛おしかった。


「私も誓おう。貴女の純白に劣らぬ正義を、未来永劫貫き通すと。ありがとう…ルーナ」


それからどちらともなく体を寄せると、互いにしっかりと抱きあった。背中に回された両手の温もりと、重なる心音がこの上なく貴くて、もう二度と離したくないと思うのだった。

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