21
人間は相手より優位に立った際、どうしても油断が生まれる。
黒髪を鷲掴みにしたダグラスは、勝機を見出した。ルミナが自分の髪を切断する暇さえ、与えるつもりはなかった。しかし、艶めく黒髪は彼女の地毛ではない。動きを止める事に成功したと喜んだ瞬間に、ダグラスの敗北は決していた。
漆黒を脱ぎ捨てたルミナは、その勢いを殺さずに体を沈め、相手の防具の隙間を狙った。鎧では覆えない関節部、つまり細腕でも攻撃の通る弱点部位である。
膝を砕かれたダグラスは堪らず体勢を崩した。そして、激痛に歪む顔を上げた先には、上段の構えを取る純白の娘がいたのだった。
渾身の力で振り下ろされた槍は、ダグラスの体を防具ごと斬り裂いた。
「…….っ、あんたが、あいつの『ルーナ』かよ…」
味方であると見せかけ最後に裏切った者と、敵である振りをしながら最初から味方だった者の決着はついた。
鮮血の飛沫を上げながら、ダグラスは倒れていく。他方、辛くも勝利を収めたルミナだったが、急に咳き込み始めたかと思うと、悶えながら血を吐いた。手の甲で口元を拭うと、ぬるりと嫌な感触がした。次第に視界も明滅し始め、槍を支えにしても立っていられなくなった。
思った以上に、毒のまわりがはやい。
夏に衰弱してから、体力が落ちたままになっていたのが原因だろうか。あんな粗末な食事では体力などつくはずもないが…
『あなたは…こんな……死にかたを、しては…だめ、よ………』
意識が朦朧としかけた時、母の最期の言葉が耳の奥で聴こえた。
(ごめんなさい…お母様…)
ぽたり、ぽたりと唇から血が伝い落ちるのを見ているだけで、生命力が削られていくような感覚があった。呼吸するのも、首を絞められているみたいに苦しい。
二人分の荒い息遣いが聞こえる中、ダグラスがぽつりと独り言ちた。
「…あいつから『ルーナ』を…奪えたんなら…っ、少しは腹いせに…なったか」
「……?」
ルミナはうまく聞き取れなかったが、聞き返そうとはしなかった。投げ捨てられていた黒髪を手に、よろよろと立ち上がる。まるで海の底にいるかのような酷い怠さがあり、たったこれだけの動作にも時間がかかってしまう。
唐突に彼女はダグラスを振り返った。彼を見下ろす瞳には、哀しみが見え隠れしていた。
「…お名前を、教えいただけますか?」
「…末代まで祟ってやろう…ってか?」
「いいえ。貴い命を奪った罪を、忘れたくないからです」
「……似た者同士、だな。あいつが惹かれるのも、わかるわ…」
ダグラスが複雑な面持ちで名乗ると、ルミナは小さく頭を下げた後、彼の前から姿を消した。
───ユストがバサノス達を捕縛した直後の出来事であった。
ユストが広間に戻った時、ダグラスの周りを数名の仲間がとり囲んでいた。血溜まりの中に倒れるダグラスは、誰がどう見ても手遅れだった。ユストは二人きりにしてくれと頼み、広間に何度目かの静寂が訪れる。
「……ダグラス」
「………」
ユストはダグラスのすぐ傍に片膝をつき、語りかけた。その声色に怒りは無く、友の死を悼む切なさだけがあった。
「すまなかった…」
「……殺そうとした、奴に…謝ってんじゃ、ねぇよ…馬鹿野郎」
「たとえそうでも、お前が私の助けになってくれた事に変わりはない」
「お前の、ためじゃない…全部、自分のためだ…」
「それでもいい。お前がどう思おうと、ダグラス・ニッダーは私のかけがえのない友人だ」
ユストがはっきりと言い切った時、ダグラスは目を見張っていた。次いで瞼を閉じると、そこから一筋の涙が流れる。
(……ああ…こいつは、こういう奴だったな。馬鹿真面目で堅物の朴念仁で……)
それと同時に、ダグラスが知る人間の中で、ユストほど"良い奴"はいなかった。
「……なあ、ユスト…」
「心配するな。家族と離れ離れにはしない」
お前の骨はニッダー家の墓に埋葬する、罪人として葬る事はしない、とユストは言外に約束した。
「…………俺は、謝らねぇ…からな」
「…上等だ。友人でも喧嘩くらいする」
目を閉じたままのダグラスは、それを聞いて小さく笑っていた。そうして、彼は静かに息を引き取った。
苦楽を共にしてきた戦友に、ユストは目を伏せて黙祷を捧げる。意見の衝突は多々あったが、ここまで拗らせてしまう前に、できる事があったのではないかと痛烈な後悔に襲われた。
(私達は、父上達のようになれなかった…)
皇帝と側近、立場は違っても互いに信頼し合い、同じ理想を追いかけていく…そんな"いつか"を信じていたかった。
(お前が王でも私は構わない、なんて言ったら殴られただろうな)
生まれついた地位など関係無しに、民の望む者が統治者になれば良い。ユストはそう思う。
「…馬鹿野郎はお前もだぞ」
声を詰まらせながら、苦笑とは言い難い、中途半端な表情を浮かべるユスト。
ダグラスに裏切りの咎を負わせ、さらには、その始末をルミナに押し付けてしまった。友の血で手を汚すのは、ユストでなくてはならなかったのに、綺麗なままの手が酷い重罪のように思えてくるのだった。
(………ルミナ姫…?)
そういえば、ルミナの姿が見当たらない。彼女の持っていた槍だけが、無造作に転がっている。ユストは慌ててルミナを探し始めた。
どういう訳か"逃亡"の二文字は、ユストの頭から欠落していた。
(どこだ…!)
不意にユストの背後から、光が差し込んだ。いつのまにか夜が明けていたらしい。思わず振り向いた先、一箇所だけガラス戸が少し開いている事に気が付いた。吸い寄せられるかのごとく、ユストの足はその場所へと向かう。するとそこには…
「!!!」
バルコニーの手すりに体を預けるようにして、満身創痍のルミナが倒れていたのだった。ユストは知らなかったが、ここはかつて、イルエが突き落とされた場所でもある。
「ルミナ姫…っ!ルミナ姫!!」
華奢な体を掻き抱いたはいいが、体温がまるで感じられず、ユストは戦慄した。息も絶え絶えなルミナは、ユストの懸命な呼び声によって、億劫そうに瞼を持ち上げた。力無く咳き込むと、彼女の口の端から血が溢れる。
青白い肌の上を垂れる血に、ユストはぞっとした。死なせてしまうという恐怖が、大波のように押し寄せ、指先から熱という熱が引いていく。
「…姫さ、ま…!?」
「っ、姫様!!」
主人を捜していた双子は、ユストの腕の中でぐったりしているルミナを見つけるやいなや、仮面を投げ捨てて縋りついた。
謎の仮面部隊を指揮していたのが見知った顔、しかも双子だったのかと驚く余裕は、今のユストには無かった。
「しっかりしてください!」
「眠ってはいけません!」
双子の声を聞いたルミナは、微かに口角を上げた。
「……約束は、守ったわ…よ」
朝陽に照らされ、目を細めるルミナ。彼女の台詞に、双子は喉を鳴らして泣いた。
「これで果たした気にならないでくださいっ!」
「わたしも認めませんから…っ」
シャーラはルミナの手傷に視線をやり、傷口が独特の腫れを呈しているのを見つけた。目を吊り上げた直後、勢いよく立ち上がる。
「すぐに解毒薬を調合してまいります。絶対に諦めないでください!」
「ユスト皇子。姫様をお願いします!」
シャルテルも姉を手伝う為、名残惜しそうに立ち去っていった。
命の砂時計が減っていくのを、ユストは触れている体から感じ取っていた。本来なら負うはずのなかった傷を身に受け、死の淵に立たされているのに、ルミナはとても優しい表情をしていた。
(どうして、そんな顔をする…っ)
秋の湖畔で見せた最後の微笑みと、出会って間もない日に見た微笑みが鮮やかに甦る。子供みたいな無邪気な笑顔とは違う、静かな笑い方だった。言うなれば、まるで二人で眺めた湖の水面のような。
ルミナの秘められた想いが垣間見えた際、決まってユストの胸は妙にざわついた。その理由を追求しなかったことが、悔やまれてならない。
「……教えてください。貴女はいったい、誰なのですか」
答えを得ないままでは、どうにかなってしまいそうだった。
正体を問われたルミナは、血の味がする唾を飲み込み、薄く唇を開いた。
「…わたくしは、」
秘匿にしてきたもう一つの名前を、ユストは知る権利がある。何故なら彼は、ルミナが心に定めた、たったひとりの主人だからだ。
ルミナは力を振り絞って腕を動かし、左胸に手を当てた。それは騎士が忠誠を宣誓する儀式でとる、敬礼の動作だった。
「ルミナ…パテール・ホシオテース……あなた様に、忠節を尽くすと…誓った者にございます」
「ホシオテース…!?まさかあの伝説の…?」
ルミナにとってはごく身近なものだったが、ユストからしてみれば、ホシオテース家はお伽話の中の存在である。この世に生きているかも怪しい、その程度の認識だった。生ける伝説を目の前にしたユストは、こんな場面にも関わらず高揚感を覚えていた。
「どうして私を…」
「…お慕い申し上げて、いるから…です。わたくしの主君としても……ひとりの、男性としても」
ルミナは弱々しく微笑みながら告白する。
再会したユストは、照れて目を逸らしたくなるほど、凛々しい青年になっていた。しかし、好きな色は白だという返答を聞いたあの時、ルミナは『ああ、この方は変わっておられない。わたくしが憧れた、どこまでも真っ直ぐな方のままだ』と、歓喜で全身が打ち震えた。
「ユスト様の、力に…なりたかったのです…」
そこまで言うと、ルミナは体をよじらせて激しく咳いた。その拍子に、黒髪の隙間から一房の真っ白な髪がこぼれたのを、ユストは見逃さなかった。無我夢中で白い一房に触れると、黒髪の部分が不自然に動いた。まさかと思い、長い黒髪をぐっと引っ張る。ルミナがか細い声で「あっ」と悲鳴を上げたが、遅かった。
「…………この、髪は…」
眩しいまでの純白を、朝陽がいっそう輝かせる。彼女の体を抱きしめるユストの手は小刻みに震え、瞳孔は限界まで開いていた。あの日、泣いていた女の子は『ルーナ』ではなく───
「……貴女だったのか…っ」
ユストはやっと、自分が思い違いをしていたことを知った。
ユストの心を掻き乱してやまない女性と、幼心に守ると決めた女の子は、同一人物であった。憤りにも似た、遣る瀬無い気持ちで胸が締め付けられ、ユストは呻くような声を出した。
「何故…っ、正体を明かさなかったんだ…!」
「……わたくしが、テル・アゼカ王国の…王女だから、です。優しいあなた様の、悩みの種には…なりたく、ありませんでした」
早々に正体を告げて、協力することだって勿論できた。だが、ルミナがバサノスの娘であることは覆しようのない事実。ユストにとっては敵の娘なのだ。
協力してくれた者に、何も報いることができないのはおろか、残酷な処断を言い渡さねばならない。そんなの、義に堅いユストを苦悩させるだけだ。それをよくよく解っていたルミナは、敵のままで居続ける選択をした。
「ですがやはり…ユスト様を苦しめてしまい、ましたね…」
ルミナは、きつく眉根を寄せるユストを見上げて、哀しそうに呟く。ユストには何の憂いも無く、堂々と新王として君臨してほしかった。『我儘姫』など気に留めなくても構わなかったのに、そう出来ないのがユストであり、ルミナが一途に慕い続けた人だった。
「苦しんできたのは、貴女の方だろうっ!」
「いいえ…わたくしは、ちゃんと…幸せでした」
だから気に病まず忘れてくださいと、そう言われたように聞こえた。
ルミナの深い優しさに触れたユストは、喉の奥につかえた熱い塊を、飲み下すことができなくなった。
「…ユスト様と同じ、意味の……この色を持つに値する、人間に…なれたでしょうか…」
ルミナの双眼がゆっくりと閉じていく。胸に当てていた手は床へ滑り落ち、それきり動かなくなる。安らかな顔のルミナとは反対に、ユストの方が苦悶の表情を浮かべていた。
「駄目だ…眠るなっ、目を開けてくれ!ルーナ!!」
悲哀の絶叫が、広間に切なく反響した。
ユストが『ルーナ』呼びする時は、冷静さを欠いている証です。敬語もすっ飛びます。




