十月の袖に触れる
こんにちは。僕です、会いに来ました。
都会の利便性を享受するためには、いくつかの犠牲を払わなければならない。
"等価交換"という言葉は大概、「マイナス」な事象を受け入れる際に強引に自分を納得させるために使うものだ。それは今回も例に漏れない。
生来、人混みというものが嫌いできっと前世は人混みに殺されたのだと推測している僕は、電車通勤に苦手意識を抱えたまま成人を迎えるに至った。もっとこう、喜々として満員電車に乗り込むような人間に生まれたかったのだがそのスキルは今回の人生ではポイントが不足していたのか獲得出来ていないみたいだ。
「人間、うまく生きていくにはコツが必要だ」、などと歳を食った人間はしたり顔で名言っぽいフレーズを言いたくなるシステムが人間には遺伝子レベルで組み込まれている事に誰も疑問を呈さないとは思うので、ならばと僕も大幅に三倍以上もの鯖を読み漁って齢七十と騙り、所感を述べたい。
僕なりには上手く生きていくコツはおおよそ3つに区分されると思っている。一つ、流れに逆らわない事。二つ、息のしやすい環境に身を置く事。そして三つ。両手を胸より下に放置しない事だ。男性諸君は特に注意されたし。
勘違いしないで貰いたい、これは満員電車の話。人生の教訓なんて他人から聞いたって仕方ないだろ、そういうのは自分で気付いて初めて意味を持つんだから。
そうは言っても、どうやら流されるままに無個性で在ると他者からは認識されなくなるようで。
電車内でいえば、軸を持たずに流されるままに体を預けすぎると某「立ち姿やポージングが独特でユニーク過ぎると評判の少年漫画」の表紙に抜擢されそうな体勢となってしまうわけだ。徐々にね。
愉快に決めポーズを魅せても誰にも見られない上に、そのまま数駅間放置されるのでは堪ったものではない。せめて観客を寄こせという話で、キャットウォークを用意して……話がずれたな。
つまり僕が胸に刻んでいるこの教訓についてはまだまだ改善の余地があるという事だ。思うに、修正案としては自己の軸となる一本の柱を保ち、その周囲を適応させていくスタイルこそがベストなのではないか。姿勢は崩さず、それでいて柔軟に。
僕はそれを『綿あめ方式』と名付けた。
――綿あめのように、生きていく。
どうだろう、格言めいた風にエコーをかければそれっぽくはならないだろうか?
おや。
優秀とされる社会システムの一端に異を唱える会談を脳内で開催していたらいつの間にか車内の人が減っているではないか。
目の前で眠りこくっていた男性が、駅に停車するなり突如として開眼し、目線を窓の外にやる事一秒で現状分析を終え、鞄を胸にそそくさと降りていった。人間の潜在的能力が垣間見える貴重なシーンに心を震わせながらも座席を確保。尻から伝わる他者の残した温もりに、都会の冷え切った人間関係という考えに異議を唱えるべく手を……挙げる事はない。
座れる事の喜びと同時に、その原因に思考を巡らせば見えてくる答えは寂しいものだった。げんなりとした暗いもや頭上に浮かび、首を振って霧散させる。
電車が空く理由など、二つしかないのだ。
つまりは都心から離れたか、時間が遅いか。
その両方を理由に反比例的な勢いで車内の頭数が減少していく様は、嬉しさからやがて物悲しさへと変わっていく。
境界たるポイントは、シートの使用率が7割を切ったあたりからと言われている。先週読んだ「人間心理の研究における知覚パスペースの範囲と密度」の学術論文の記述を覚えていた等というエピソードは特になくて、今適当に決めた。
揺れの振動が伝わる接地面が足の裏から尻となってからおよそ半刻の半分。
対面のシートの使用率は二割を下回っている。あ、ゼロになった。もしも今テロリストがやってきたら、見せしめで誰かを殺す必要もなくて膨れ上がった衝動は行き場を無くし、寝てる人も多いからもはや特に騒ぎにもならず拍子抜けしてしまうだろうな。とかいう中学生くらいにある程度の人が嗜む妄想を経て、僕もまだまだ若いなと再認識出来た。妄想テロリスト万歳。
というかもう、身体を横にする斬新な座り方を用いて4シートくらいふんだんに使ってしまっても良いのではないか?と心にしまった幼少期の精神が顔を覗かせ耳元で囁いている。まぁ待てって。まだ隣には一人、他の乗客がいるから。な?と宥めるように言って一先ずは納得してもらい心を落ち着かせる。
別にその隣人がいなくなったからと言って家の前の公道で奇声を発しながら飛び跳ね回っていたあの頃には戻れないんだけど。
その場しのぎ、問題の先送り。これが大人の汚いやり方なのさ、いつか君も分かるよ。
はて。しかしながらこの状況は妙だ。
七人掛けのシートで右から5番目に座る僕に対して、隣人は左から4番目に座っている。ん?わかりづらいな。つまり僕は対面の左から3番目の正面という事だよ。簡単だろ? 全部僕目線だ。
それはそうと。向かい側には一人もいない。
見た感じ、この車両には立っている人もいない。斜め向かいのシート1列にも人影はない。
視界に映るのは、閑古鳥の鳴く車両に足を組んで優雅さを演出しつつも今時のソシャゲに白熱し、というより高難度のあまり躍起になって課金アイテムを使用しつつ顔を紅潮させながら泣かないように下唇を噛み手を震わせスマホをいじる癇癪を起こす寸前のガキみたいな僕と、右隣に座る淑女。横目に見ても雰囲気が独特だ。
その女性は両足を揃え、両手を慎ましく重ね膝上の品のあるバッグに載せている。服は紺を基調として白い装飾がさほどの自己主張もせずに飾り付けられている。何となくだけど、目が節穴と名高い僕にでも分かるほど仕立ての良い服だった。本当だぜ? 友人や家族にはもちろん、クラスの好きな子にすら面と向かってファッションセンスがないと真顔で言われるくらいだ。冗談にもならない、巷で噂の顔面コンセント野郎とは僕の事だ。節穴よりは役立つと誇りにしている。
おっと。揺れに合わせて肩が擦れる。
そう。そういう距離なのだ。
人のいなくなった車両に、取り残されたのは隣り合う男女一組。なんだこのシチュエーションは。ラブコメか。
かと言って席を立ち、わざわざ端の方へ移動する気にはなれない。
端席のアドバンテージたる"重心を預けもたれ掛かる事の出来る"メリットは大きいが、移動する過程への抵抗が大きすぎた。物理で習わなかったかい、最大静止摩擦力ってやつだよキミ。そうか、習わなかったか。
摩擦係数についてまでは分からないけれど、少なくとも隣人も同様の思考を持っているのか移動する素振りはない。あるいは全く気にしない大人のれでぃというやつか。いやぁ、余裕が違うね。
二人きりとなって、三駅が過ぎた。
その間に誰かが乗ってくるという事もなく、車両を移動してくる人も、テロリストの姿もない。この車両を構成する中身は不変であり続け、不思議な居心地の雰囲気を纏っていた。
ボーイミーツガール。ついに暗雲立ち込める白濁とした我が人生にも爽やかな一陣の青風が吹き台地には色鮮やかな草花が芽吹き空には優しい光を溢れさせる暖かな日差しが……
来ないよ。
だって、マダムだもの。半世紀ほどの人生の差がある、たくましい姐さんだもの。
そりゃあ僕だって、こんな状況ならボンキュッボンのないすばでーでちょっとたれ目の黒髪のお姉さんとかを望むよ。20後半の少しくたびれた感じがいいです。でも流石に年上好きと言っても三倍満の人は想定してないっていうか……。
世界は残酷なんだ。不条理で理不尽で、何一つとして思うようには行きやしない。社会の厳しさを知り、こうして僕はまたひとつ大人になってゆくんだね。今日は認知する年齢の行き来が激しいな。
とか思ってちらちらと見るも、いやはや何というか。
上品な顔立ちや姿勢の良さからか、間違いなく気品さを感じるお人であった。若い時とか絶対美人でモテたんだろうな…ていうかそこらの主婦じゃないよな絶対。
人じゃないみたいだ。なんだか魅力的で、なんだろう、芸術とかやってそう。水彩画描いているかな?ピアノの教室とかやってる?いや、華道の先生とかかな……
「?」
危うく胸が破裂しかけた。耳の先に熱が籠る。
まずい。目が合った。きょとんとした顔で「何ですか」みたいな目を向けられた。横目でチラチラチラチラマジマジチラチラマジマジチラマジマジと見すぎてしまった。
顔を伏せる。努めて微動だにしない。何も考えない。考えない人に、僕はなる。僕は石だ。ただの石だ。どんくらいただの石かというと、人類未踏の地に転がる誰もその目で見たことの無いような存在すら認識されていない、あ。考えちゃった。
あーあ、恥ずかしいな。次の駅で降りようかな。
「フフッ」
となりの淑女が、手を口元にやり笑った。
声に応じて僕は顔を上げる。
張りつめていた空気が弛緩し、急な変容に思わず声が漏れる。
それは「え?」に近いものだったけれど、「ぅへ?」みたいな間抜けな音となってしまったので僕はそれをセリフとして書き出す事はやめた。どれだけ弛んでるんだ僕の声帯は。日頃から動かさないからそうなるんだぞ、反省しろ。1週間の謹慎だ。
「ごめんなさいね。窮屈でしょう? 席をずれて差し上げたいのだけれど、腰が痛くてあまり動きたくないのよ」
そう言って、ご年配のお姉さまは苦笑いを浮かべた。
「あ、いえ。そんなことは、全然ないです」
手を振り首を振り目を振り脳みそを振る。扇風機顔負けの振り様だった。
そも窮屈に感じるくらいなら僕が動けって話だし。気を遣わせてしまった事への申し訳なさが僕に重たくのしかかる。
お姉さまは困ったような顔で笑うばかりだった。
会話が、終わる。
「あの……どちらに行かれてたんですか?」
それはふとした興味だった。
腰が痛い。シートひとつずれるのを躊躇う程に。
そんな体で、どこへ行っていたのだろう。
「いいえ、これから向かう所よ」
「そうですか。どちらまで?」
どこまで聞いていいものか。女性のプライベートに深く突っ込む男は嫌われるらしいしな……。少なくとも今のところ、この女性は嫌がる素振りもなく明朗な雰囲気で素直に返してくれている。好奇心と常識のトレードオフの最適ポイントを探る。
「い……島根ねぇ」
「へえ、そんなところまで行くんですか」
思わぬ場所に、シンプルに驚いた。
移動であれば飛行機だろうか? いや、空港方面はこの路線ではない。どこか立ち寄ってから行くのか。新幹線はこの時間にはないはず、もしかして数日かけてローカルで行くつもりか? いけるのだろうか。
「毎年行っているのよ」
女性の表情に、僕は何故か心が揺さぶれた。それは誰か、大切な人にでも会いに行くような様子だった。きっと思いもかけない深い話が背景にはあるのだろう。
思考は巡り、思いが馳せる。いいなぁ、そういうの。何だか憧れてしまうよ。
しばしの静寂を破り、電車がどこかの駅へと停車し扉が開く音が聞こえた。
「ごめんなさい、ここで乗り換えなの」
そういって女性は手すりを掴み立ち上がろうとする。
無意識に僕も立ち上がり、もう片方の女性の手に自分の手を差し出していた。だってほら、腰が痛いって言ってたしね。気品ある女性の隣に立つのは、紳士であるべきでしょう。なんて。
「ふふふ。ありがとうねぇ」
にっこりと笑うその人は、皺のある小さな手で僕の手を掴む。
あまりに弱い握力で、骨からの重みを感じた。
それでも、軽かった。
「また、どこかでお会いしましょう」
そんな言葉が不意に口から出た。無意識だったから、本当にそう思ったって事だ。
何だよ、まるで恋した少年みたいじゃないか。きっと後から思い返した時、少し恥ずかしい気持ちになるんだろうな。僕は知ってるんだ。
「ええ。あなたから、逢いに来て下さると嬉しいわ」
そう言って微笑む女性の顔を中心に、辺りが次第にぼやけて柔らかな浮遊感が体を包み、
次の瞬間には痙攣のような衝撃と共に、僕は目を覚ました。
だらしなく傾いていた体勢を整え、口元の涎を慌てて拭いながら辺りを見渡す。
多少の人が、まだちらほらと乗って電車に揺られている。しかし隣には例の女性の姿はもちろん、誰も座っていない。向かいに座る若い女性が怪訝な表情でこちらを一睨みしてきたので、内心びくりと心臓を震わせつつ身を縮まらせた。
参ったな。変な夢を見た。
脳裏に蘇る鮮明な映像。不思議な事に、女性の声までが耳に残っているというのに顔だけが思い出せない。
……あれ? あの女性が降りて行った駅を覚えている。名前は確か「出ヅノ発所」とかいう駅だったけれど。
そんな駅は、この辺りには無い。スマホを引っ張り出し、ゲームアプリを閉じてネット検索を起動する。
結果は、全国でも「該当なし」であった。脱力しつつ、車内アナウンスで次が自分の最寄駅である事を確認した。現実へと意識が向いていく。
スマホをしまおうと腕をポケットに回した時、シートの上で何かが手の甲に当たった。
夢の中で女性が座っていた辺りに、お守りのようなものが落ちている。
それは紺色に白い刺繍の、綺麗な御札だった。
『夢渡神社』と付されている。
……!
慌ててしまいかけのスマホを付け、日付を確認する。待ち受け画面には、『9月29日』との表示。
「あはは…そういうことかぁ」
僕はそれをそっと握りしめ、電車を降りながら笑いを零した。
あと2日でちゃんと辿りつくのかな。会いたい人には、会えたかな。なんて、心配なんかして。
11月になったら、今度は僕が会いに行こうか。
島根では十月を「神在月」というそうですね