第29話「私たちの帰る場所」
「~♪」
とあるよく晴れた日。
いつもは家計簿とにらめっこをしながら顔を赤くしたり青くしたりしている貧乏暇なし系大家さんこと俺だが、その日はすこぶる機嫌が良かった。
晴天の下、イナリ荘の敷地内を竹箒で掃きながら、慣れない鼻歌なんかを歌っている。
「……なんだあれは」
「気持ち悪いですね」
そんな俺の様子を、まるで新種の毒虫でも見つけたかのように遠巻きに眺めているのはルシルとシェスカの二人組。
今日は休日なのだ。
シェスカは夜練の帰り、ルシルは朝練に向かう矢先にばったり出会って、今の形である。
「……そしてあれはなんだ」
ふいにルシルが言った。
彼女の視線の先には、俺の足元でぐったりと横たわる和装の少女の姿が。
「珍しい雑巾ですね」
シェスカがくわぁと猫のような欠伸をかきながら言った。
なるほど、良い例えだ。
どうしてこんなことになっているのかは知らないが、朝早く外に出てみたら、アパートの前で使い古した雑巾のように転がっていた。
俺はこれを発見しするなり
「前大家さん、なにしてるんですか? そんなところで寝てたら風邪引きますよ、眠いなら部屋に布団がありますから」
と、心配して声をかけてみたのだが、返ってきたのは
「ワシの油揚げ、油揚げが……」
という呪詛にも似た呟き。
「油揚げ? 油揚げが食べたいんですか? それなら部屋に用意がありますから、さあ立ってください」
気を利かせて言ってみたのだが。
「ワシの油揚げが……ああ、ワシの……」
意思の疎通は不可能と悟り、適当にそのへんに転がしておくことにした。
大方、大好きな油揚げをつまみに酒を飲みすぎて、二日酔いにでもなり、今は無数の油揚げに圧し潰される悪夢でも見ているのだろう。
因果応報、自業自得。
俺には酔っ払いの相手よりも他にやることがある。
「ルシルおはよう、シェスカはおかえり」
「ただいま帰りました」
「おはよう大家殿、今日はそんなに上機嫌で、何かあったのか?」
「やっぱり分かっちゃうかぁ」
俺はにへらっとだらしなく頬を緩めた。
でも、仕方ないだろう、なんせ今日は――
「……お、思ったより趣き深い住まいですのね」
背後から、聞き覚えのある女性の声。
おお、来たな!
「――ミレイア殿!?」
俺よりも先に、ルシルが彼女の名を呼んだ。
ミレイアはどこか険しい表情でイナリ荘を見上げていたのだが、ルシルの姿を認めるなり、「あら?」と表情を柔らかくした。
「あなたあの時大学で会った……奇遇ですわね」
「お、なんだミレイアとルシルは知り合いなのか」
「大家殿も知り合いなのか!?」
「まーそんなも「友達ですわ」
こちらの台詞に被せて、ミレイアが強調した。
俺はミレイアの方へ視線を送る。
どういうわけか、彼女は頬を赤らめて、こちらから目を逸らしてしまった。
「……またどっかでフラグ立ててきたんですか」
シェスカがひとりごちる。
でも、その言葉の意味は分からない。
「遠路はるばるよく来たな」
「退職の手続きに意外と手間取ってしまいましてね、少し遅くなってしまいましたわ」
よいしょ、とミレイアは背中に背負った大荷物を下ろす。
……まさかそれ全部部屋の中に入れるつもりだろうか。
床、抜けないだろうな……
そんな時、ルシルが驚愕の声をあげる。
「退職!? ミレイア殿は伝説級パーティを抜けたのか!? 何故!?」
一瞬、ミレイアの肩がぴくりと跳ねる。
……これは失言ではないか?
俺が慌ててフォローに入ろうとしたところ。
「ええ、あんなブラック、つい昨日、辞表を叩きつけてきてやりましたわ」
存外、ミレイアはさらりと言うのだ。
これに対し、ルシルは目を丸くする。
「な、なるほど、もっと労働条件のいいパーティへの転職が決まっているということか!」
「いいえ? これから探しますわ、のんびりとね」
「なっ……!」
ルシルにとって、この発言はよほど衝撃だったのだろう。
まるで石にでもなってしまったかのように、固まってしまった。
そんな様子がどうにもおかしくて、俺とミレイアは顔を見合わせて笑う。
「今日からニートだな、お嬢様」
「就活浪人と言ってくださいまし、まぁ、なるようになるはずですわ、私ほど優秀な人材は引っ張りだこですの」
「決まらなかったらどうする?」
「問題ありませんわ、なんてったって私には破格の拠点があるのですから、気長に頑張りますわよ」
そう言って、彼女は悪戯っぽく笑った。
その笑顔ときたら、まるであどけない少女のようで――
「……思ったより強めのフラグですね、火急的速やかにへし折るべきと判断します」
シェスカの独り言は、やはり意味が分からなかった。
「ところで、そこの雑巾はなんですの?」
「あ、そうか、おーい前大家さん、新しい住人に挨拶しなくていいのか?」
俺はまるで子供にやるように、大家さんの脇に手を回して、そのまま抱え上げた。
何故か、前大家さんの顔を見るなり、ミレイアは「ヒィッ!?」と短い悲鳴をあげる。
「そ、その方は……」
「なんだミレイア、前大家さんとも知り合いなのか? 世界って狭いなぁ」
「では、まさかここがイナリ荘……?」
「おー、よく知ってるなぁ」
近所からはもっぱら廃墟だのお化け屋敷だの稲荷御殿だのと呼ばれているので、あらかじめこのアパートの正式名称を知っている人間は珍しい。
しかしなんだろう、その絶望しきったような表情は。
「わ、私、余計なことは何も喋っていませんのことよ……」
「誰に言ってるんだ?」
訂正、ミレイアの言葉の意味もよく分からない。
――兎にも角にも、兎にも角にも。
「そういえば、まだあれ言ってなかったわ」
俺は「はい」とミレイアに部屋の鍵を手渡す。
彼女の部屋は103号室、ルシルの隣、シェスカの下の部屋。
俺は笑顔で、新たな住人を歓迎するべく、例の台詞を吐く。
「――ようこそ、イナリ荘へ!」
イナリ荘にまた一人、住人が増えた。
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時は少し遡り、これは鵺を撃退したその少し後のことである。
「……あなた本当に何者なんですの?」
大学前の茜色に染まった坂を二人並んで下りながら、私は何度目かの問いを隣の彼に投げた。
彼の答えは決まっている。
「だから、俺はただの空白級で、ただの大家さんだって」
あなたのような空白級も、大家さんも、いませんの。
という指摘は、胸の内にしまっておいた。
全く、不思議な人だ。
神話級の化け物を空の彼方まで殴り飛ばして。
かと思えば、彼から半ば無理やり飲まされたハーブティーの効能は魔法じみていた。
誰かに話しても信じてもらえないとは思うが、なんと一瞬にして全身の傷が癒えてしまったのだ。
体内で折れた骨が接合するとは、一体どんなファンタジーだ……
いや、今日の出来事全部、どうせ誰に話したって信じてくれやしないだろう。
それでいい、それでいいのだ。
今日の出来事は夢のようなもの。
全部、全部、私の胸の内だけにしまっておくこととする――
「そういえばミレイア、どこか行きたいところがあったんじゃないのか?」
彼は、おもむろにそんなことを尋ねてくる。
「ああ、それなら……今まさに」
「ん?」
そう言って、彼は私と同じ方向へ視線を向ける。
私たちの見つめる先には、とっぷりと町に沈みかけた巨大な夕陽。
「これが見たかったのか?」
私はこくりと頷く。
「私の思い出の場所ですの」
「俺も学生時代は毎日見てたな」
「奇遇ですわね」
「奇遇だな」
彼がはにかむ。
これは、きっとベルンハルト大学の学生ならば、誰しもが一度は見たことがあるであろう光景だ。
だからこそ、私だけの思い出の場所。
私はたった一人の帰り道、この坂を下って沈みかけた夕陽を見るたび、他の学生との繋がりを感じていた。
皆が皆、この夕陽を見ている。
学業に勤しんだ一日の終わりに。
だからこそ、私も頑張ろう、明日も頑張ろうと、そんな気分になれたのだ。
でも、
「思い出は思い出、ですわね」
「やけにさっぱりしてるな」
「だって、今私の隣にはあなたがいますもの」
「…………どういう意味?」
「鈍感」
夕陽のおかげで、私の頰の赤らみは気付かれなかったようだ。
もう、家に帰る時間である。
これにて、「辺境アパートの新米大家さん(実は世界最強の神話殺し)」第一章、終了となります!
楽しんでいただけたでしょうか?
例によって、第二章は準備ができ次第公開となりますので、しばしお待ちを!
また、近々タイトルが変更となる予定ですが、タイトルが変わっても最強大家さんの活躍にご期待ください!
書籍版も、よろしくね!
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