第25話「ワンちゃん」
「まったく、なかなか帰ってこないから探しにきてみれば……」
ふぅと溜息を吐く。
トイレに行くと言い残してまるで見当違いの方へ歩いていったものだから「おかしいな?」と、少し遅れて追いかけてきてみれば――案の定!
一体何をどう間違うとこんなことになるのだ!
「――トイレ探しに大学の外まで出るって、すげえ方向音痴だな」
「オルゴ……さん……?」
ミレイア・クリュオールはよっぽど歩き疲れたのか、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
……ふむ、よっぽど歩き回ったのだろう。
すっかり憔悴しきっているようだし、今は安堵の色がうかがえる。
涙まで流して……そんなに心細かったのか?
「そんな顔するなよ、ほらハンカチ……って、おいおいおい! 高そうな鎧が汚れてるぞ!? なんだそれ! 何こぼした!?」
家庭的大家さんであるところの俺はそういうのを見るととてもハラハラしてしまう。
大丈夫かソレ? シミになったりしないよな?
染み抜き? いや、たわし? 表面が傷つきそうだからダメか。
ああもう、そんな高そうなお召し物の手入れ方法、俺みたいな新米庶民派大家さんは知らないぞ。
「とりあえず、ほら」
ひとまず俺は彼女にハンカチを差し出す。
しかし、彼女はどこか呆けたようにこちらを見上げるばかりで、一向に受け取る気配がない。
……仕方ないな。
「子どもか、お前は」
「え……? わ、ちょ……!?」
彼女の頬を伝う雫をハンカチで拭き取る。
ミレイアはここでようやく我に返ったらしく驚いたそぶりを見せたが、抵抗はしなかった。
それどころか、見たことがないぐらい無防備な顔を晒してしまっているではないか!
「まるっきり子どもだな……ところでハーブティー」
『汝、狐なりや?』
いつものごとく、当然のごとく懐からハーブティー入りの水筒を取り出そうとしたところ、背後から声がした。
……ああ、すっかり忘れてたぞ。
「どこの家のワンちゃんだ?」
俺は、ゆっくりとヤツを見上げる。
これがまたでかい。
俺が今触れ合っている前足なんて、爪が俺の腕ぐらいの太さだ。
なんというか、生命の逞しさを感じるよね。
「あっ、ああああああなたっ!? それ大丈夫なんですのっ!?」
なんてしみじみ思っていたら、ミレイア嬢はなにやら慌てふためいたご様子。
「なにが?」
「そ、そそそそ、ソレっ!!」
ミレイアは震える指先でワンちゃんの前足を指している。
ああ、なんだ。
「このワンちゃんのことか? 大丈夫大丈夫、俺別に犬嫌いじゃないし、アレルギーとかも特にないしな」
「ワンちゃん……!?」
……なんだよ。
二十半ばに差しかかろうとする男が「ワンちゃん」などという可愛らしい呼び方をするのは、そんなにも気色悪いのか。
少し落ち込みかけた。
「あ、あなたにはこれがワンちゃんに見えるんですの!?」
「確かに、ワンちゃんと言うには結構大型だな、牧羊犬? いやもしかして闘犬ってやつか? こんなの放し飼いにするなんて飼い主は随分とおおらかな……ん、首輪がない、野良か?」
「どっ――どう見たってモンスターの類じゃありませんの!?」
「モンスター? 聞いたことのない犬種だけど……でもまぁ名前負けしない良い犬だ、猟犬だな、おそらく」
「なんで話が通じないんですの……っ!!!」
ミレイア嬢が頭を掻き毟って地団太を踏んでいる。
……理解が悪くてごめんな、犬種とかあんまり詳しくないんだ。前大家さんが犬嫌いだったから。
『汝、狐なりや?』
「にしても随分と変わった鳴き声の犬だな」
みきみきみき、と何かの軋むような音がする。
俺ではない、ワンちゃんの前足からだ。
どうやら力を込めているらしい――と思ったその直後、俺の足元から勢いよくクッキーでも砕くようなそんな軽い音がして、地面に亀裂が走った。
ミレイアが「ひぃっ!?」と悲鳴をあげる。
悲しいかな、どうやら彼女は犬が嫌いらしい。
――むろん、俺は純真無垢な動物が大好きだ。
「なんだ、遊んでほしいのか?」
俺はワンちゃんににっこりと微笑みかける。
その瞬間、ワンちゃんの体毛が針のように逆立った。
どうやら遊び相手を見つけて嬉しいらしい。
なかなか可愛いじゃないか。
『――ヒョオオオオオオオオオオオオッッ!!』
嬉しさのあまりに感極まってしまったのか、ワンちゃんは天を仰いでやけに甲高い遠吠えをあげた。
「くっ……あ――――っ――!!?」
あまりの声量にミレイアがうずくまる。
大気が震え、窓ガラスが悲鳴をあげていた。
元気のいいことだ。
なんて感心していたら、突如として頭上に暗雲が立ち込めた。
黒雲はまるで墨でも垂らしたかのようにあっという間に空全体へ広がり、時折ぴかりぴかりと光を放っている。
「……夕立か? 春先の天気は変わりやすいなぁ……」
洗濯物干してたのになぁ、せっかく大学まで来たのに取り込みに戻るのは面倒だなぁ……
げんなりしていると、ぴしゃあんっ! と耳をつんざく音が鳴って、視界が光に包まれた。
自らが雷に打たれたのだと気付いたのは、少し後になってからのことである。
「お、オルゴさんっ!!?」
ミレイアが叫ぶ。
ワンちゃんがげたげた笑う。
そんな中、俺は――
「これだから雷って困るんだよな……」
ぶつくさ文句を言いながら、静電気で逆立った頭髪をなんとか元に戻そうと奮闘していた。
「……え?」
ミレイアが目を丸くして、素っ頓狂な声をあげた。
ワンちゃんもげたげた笑いをぴたりと止めて、こちらを凝視している。
やめろ、そんなにまじまじと見つめるな、恥ずかしいだろ。
「な、なんで雷に打たれて平気なんですの……?」
「平気なもんか! 見ろよこの頭! ああ、くそ、櫛とかなかったかな……」
――などと呟いたらその直後、なんの仕草か、ワンちゃんが前足で地面を叩き。
まるでそれが合図とでも言わんばかりに、ぴしゃんぴしゃんぴしゃん!! と三度、鞭をしならせるような音が鳴り響いて、落雷が三度俺の脳天を直撃した。
「お、おおおおおおオルゴさんっ!!?」
ミレイア嬢が慌てふためいた様子で叫ぶので、俺は
「……今、呼んだ?」
落雷の直撃による影響で調子の悪くなった耳をほじりながら聞き返した。
まったく、髪の毛もまたセットし直しじゃないか……
「えぇ……?」
名前を呼んだのは向こうであるはずなのに、返事をしたらしたでミレイアは信じられないものでも見るかのような視線をこちらに向けてくる。
お嬢様の考えはよく分からない。
そしてワンちゃんもワンちゃんで凍り付いたように……あ、そういえば犬って雷苦手なんだっけ?
「そうかそうか怖かったんだよな、よし!」
俺は大きく両手を広げて、ワンちゃんとの距離を詰めてゆく。
ワンちゃんがびくりと身体を震わせた。
可哀想に、怯えてしまって。
「頭を撫でてやろう、それとも喉? 脇腹がいいか? 尻尾の付け根っていうのはどうだ?」
できる限り刺激しないよう、満面のスマイルでゆっくり、ゆっくりと歩み寄る。
さっきの雷がよっぽど恐ろしかったんだろう。
俺が近付く度、ワンちゃんは身体を強張らせて――
『汝、狐なりや?』
特徴的な鳴き声の後に、ぽうっ、と音が鳴ってワンちゃんの眼前に光の玉が出現。
初めは握りこぶしぐらいのサイズだったが、見る見るうちに肥大化して、あっという間に視界を覆い尽くすほど巨大になる。
光球は俺めがけて放たれた。
石畳をめくり、立ち並んだ木々を消し飛ばしながら、まっすぐとこちらへ突き進んでくる。
「な、なんて膨大な魔力の塊っ……! オルゴさん早く逃げてくださいまし!? あんなのを食らえばそれこそ塵も残りませんわ!?」
「なんだボール遊びがしたいのか? しょうがないなぁ」
「話聞いてますの!? ……ってあああっ!? もう避けられっ……!」
ミレイアが頭を抱えてうずくまる。
大袈裟だなぁミレイアは。
たかだかボール遊びじゃないか。
とはいえ、動物と遊ぶ時のコツは手加減をしないこと。
彼らはそういうのを野生の本能で敏感に感じ取ってしまうからな。
だから俺も――全力で楽しむ!
「そら! 今度は俺の番だ!」
俺は目前まで迫った光の玉に、あえて背を向け、そして大きく跳躍。
宙返りの要領で振りかぶった爪先を光の玉へ叩きつける。
――オーバーヘッドキックだ。
形容しがたい音がして、さながら薄く伸ばしたパン生地のごとく、光の玉が大きくひしゃげた。
「そぉら、とってこい!」
ばぁんっ! と小気味のいい音がして光球が弾き返される。
光の玉は凄まじい速度でカーブを描いて、地面を削り、そしてワンちゃんの頭上スレスレを通過すると、黒雲に穴をあけて空の彼方へと消えてしまった。
ワンちゃんはまるで縫い付けられたかのように硬直しており、ミレイアもあんぐりと口を開けて空を見上げている。
……あれ?
「……な、なんだよ、俺だけはしゃいでたみたいじゃないか」
こほんと一つ咳払い。
せっかく密かに練習していた大技を披露したのに、こんなしらけ切った反応されると恥ずかしいぞ……
狙い通りに頭上右斜め上と、飛びつくには絶好の玉だったはずなのに。
あのワンちゃん、見かけによらずどんくさいな……
「まぁいいや、次は何して遊ぶ?」
再び歩みを再開する。
その瞬間、ワンちゃんの全身の毛がざわりと逆立ち、そして
『――汝、狐なり』
もう辛抱たまらなくなったのかワンちゃんがこちらへ飛び掛かってきた。
めきめきめきっ! と音がして、ワンちゃんの脇腹から左右に更に二本ずつ、計四本の“足”が新たに出現する。
ははは、どうなってんだよ、それ――
直後、丸太のような足が俺の頭上から振り下ろされた。
俺の身体が地面にめり込み、大地に無数の亀裂が走る。
「おっ……オルゴさんっ!!!?」
遠くからミレイアの声が聞こえてきた。
しかしそんなことはお構いなしに別の前足が、次にまた別の、更にまた別の――
間断なく四本の足で踏みしだかれた。
『汝、狐なり、狐なり、狐なり狐なり狐なり――』
まるで暴風雨。
降り注ぐストンピングの嵐が、俺の身体を打ち、地面にクレーターを作る。
「あ、ああああ、あああ……!!」
嵐の中で、ミレイアの悲しむような声が聞こえてきた。
なんだミレイア、俺はてっきりお前が犬嫌いだと思ってたんだけど――羨ましいんだな。
「――お手」
ぱしん、と俺は片手でワンちゃんの右前足を受け止める。
模範的お手だ。
ワンちゃんは一度驚いたように固まったが、すかさず左前足を――
「――おかわり」
ぱしん、と左手で受け止める。
これもまた模範的おかわり。
『汝、狐なり狐なり狐なり狐なり』
「お手、おかわり、お手、おかわり」
ぱしんぱしんぱしんぱしんっ!
俺は彼の前足を交互に受け止めながら、すり鉢状になったクレーターからゆっくりと這い出る。
ワンちゃんは加速する。こちらも更に加速する。
『汝、狐なり狐なり狐なり狐なり狐なり狐なり狐なり』
「お手おかわりお手おかわりお手おかわり」
ぱぱぱぱぱぱぱぱぱっ。
俺とワンちゃんの攻防は、数えきれないほどの破裂音を響かせた。
ワンちゃんが僅かに後ろに下がる。今度は俺が逆にワンちゃんを押し始めている。
『汝 き つね なり ……』
「そうかそうか、俺も楽しいぞ、じゃあそろそろ定番のアレ、いってみるか」
お手、おかわりとくれば、もうアレしかないだろう。一度、言ってみたかったのだ。
俺は「お手おかわり」の手は休めないまま、すううと息を吸った。
肺いっぱいに息を溜め込み、そして――一声。
「――おすわりっ!!!!!!」
「なんっ」
俺の口から発せられた渾身の「おすわり」は大気を震わし、大地を揺るがし。
そしてワンちゃんが――どういうわけか粉々に弾け飛ぶ。
「えっ……?」
スローモーションに動く世界の中、俺は飛び散るワンちゃんの肉片を見つめながら、呆けた声をもらした。
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