第24話「騎士」
阿鼻叫喚の地獄絵図とはまさにこのことであった。
遠巻きに様子を見ていた学生たちは皆、半狂乱になって逃げ出す。
しかし恐慌状態にある彼らには、それすらままならない。
怒号が飛び、押し合い、倒れ、踏みしだかれ。
場は混沌を極めていた。
そんな混沌を見下ろし笑うのは異形の怪物。
そこにあるのは、圧倒的強者となすすべなく蹂躙されるのを待つだけの弱者たちの完璧な構図であった。
「うっ、がああああああああっ……!」
うずくまったアイオンが悲痛な叫びをあげる。
彼の足元に転がるのは親指を除いた四本の指。
きっと筆舌尽くしがたい苦痛であろう。
だが、異形の怪物はもはやそんな彼にも興味を失ったらしく、首から上だけをぐりんと回転させる。
次の標的はアルマであった。
『汝、狐なりや?』
「ひっ……!?」
アルマが短い悲鳴をあげ、腰を抜かした。
さすがの彼女も悟ったのだ。
目の前の怪物が自分たちにはどうしようもできない災厄の類であると。
だが悲しいかな、気付くのが遅すぎた。
異形の怪物はゆっくりとアルマへにじり寄ってくる。
『汝、狐なりや?』
「い、いや、なによ、わけわかんない……こないでよ……!」
アルマが苦し紛れに杖をかざして詠唱。
空中に精製された拳大の火炎球が怪物めがけて射出される――が、足止めにすらならない。
怪物は飛んでくる火球を意にも介せず、着実に一歩、また一歩とアルマへ詰め寄り、そして問うのだ。
『汝、狐なりや?』
と。
「……」
――そんな光景を目の当たりにして、ミレイア・クリュオールは自らの胸の内に、なにやらどす黒いものが湧き上がってくるのを感じた。
今まで自らを縛り付けていた支配構造が、圧倒的な力の前に崩れ落ちようとしている。
地獄の連勤も、終わらない残業も、憎き上司たちも。
全て、全てが無に帰そうとしているのだ。
密かに願い続けた自由が、すぐそこまで迫ってきている。
ミレイアは思う。
ここで彼らを見殺しにしても、誰も自分を責めやしない。
上司の脳天に偶然雷が直撃する。
これはそういうレベルの話だ。私にはどうすることもできない不幸な事故だ。
仕方ない、仕方ない。
ああ、これは本当に仕方のないことで……
――などと一瞬でも考えた自分は、救いようもない大馬鹿者であると。
「ッ!!」
ミレイアは駆け出した。
本能が鳴らす警鐘を力づくで黙らせ、雷光のごとく駆け出し、怪物とアルマの間に滑り込む。
「し、新人!? アンタ……」
盾を構える手が震える。
震えが全身に伝播し、喉をこわばらせ、膝から力が抜けそうになる。
しかしミレイアはそんな震えさえ吹き飛ばして、高らかに言うのだ。
「――ミレイア・クリュオールを舐めないでくださいまし!」
彼女の言葉には確かな覇気があった。
それはミレイアが未だ諦めていないことの証左。
ミレイア・クリュオールは圧倒的な恐怖に対し、正面から立ち向かったのだ。
しかし、自分一人の力では到底目の前の怪物を倒すことは叶わない。
だからこそ彼女の助けが必要なのだ。
「アルマさん! 私があのモンスターの攻撃を凌ぎます! だから魔法での後方支援を――!」
アルマの手を借りたとて勝ち目の薄い戦いだ。
しかし、頼るべき仲間がいるという事実はミレイアの心を奮わせる。
そのお陰でミレイアはここに立つことができている。
……いや、できていた。
背後から蹴り飛ばされるまでは。
「えっ……?」
腰のあたりに感じた衝撃に、ミレイアは僅かに前へつんのめる。
倒れる、まではいかなかったが、それはミレイアの思考を停止させるには十分すぎるものだった。
目を見開く、凍った思考はまだ溶けない。
ゆっくりと後ろへ振り向く。
視界に映るのは、遠ざかるアルマの背中。
彼女は脇目も振らず、走り続けて。
――その時ようやく、ミレイアは自らが裏切られたことに気付く。
『汝、狐なりや?』
次の瞬間、ミレイアは反射的に盾を構えていた。
鍛え上げられた戦士の勘。
それは文字通り、彼女の生死を分けることとなる。
「――っ!!?!」
盾越しでも意識すら刈り取りかねない、圧倒的衝撃。
重装備で固めたミレイアの身体はいとも容易く吹き飛び。
割れた窓ガラスから飛び出して、大学を囲む池の水面に幾度となく体を打ち付けた挙句、壁に激突した。
「かっ……!」
堪らず、喀血。
黒ずんだ血が白銀の鎧を汚す。
胸に激痛、肋骨が何本か折れていた。
咄嗟に防御の体勢をとらなければ、全身がバラバラになっていたことは想像に難くない。
……いや、違う。ミレイアは生かされたのだ。
『汝、狐なりや?』
気がつくと例の怪物はミレイアの目と鼻の先に立っていた。
げたげたげた、と醜悪な笑い声をあげながら。
ミレイアは理解した。
防御の体勢をとったからではない、アレは遊んでいるだけなのだ。
本気になれば鎧や盾なんて紙切れみたいに引き裂いて、一瞬にして自分を肉塊に変えられるにも拘らず。
時間稼ぎ? 冗談ではない。
これはそういう次元の話ではないのだ。
寄せる津波を、一匹のアリがどうにかしようとするような、そんな無茶な話。
加えて自分の周りには誰もいない。
孤独が絶望を膨らませ、胸の内に充満する。
自分は、このまま誰にも看取られずに死ぬのだ。
伝説級などという大層な称号が与えられたにも拘わらず、自らの命を賭した戦いを語り継ぐ者は一人としていない。
どこにも描かれない。誰にも語られない。
そんなもの、空白級と変わらず――
「関係……ありませんわ……っ!!」
――ミレイアは自らを鼓舞するように言って、槍を握る手に力を込めた。
怪物がげたげた笑いをぴたりと止める。
「等級……私はそんなくだらない肩書きのためにぃっ……今日まで頑張ってきたわけじゃ……ありませんの……っ!」
内臓が傷ついている。骨が折れている。
胸に激痛が走り、耐え切れずに吐血する。
しかしそれでもミレイアは折れない。
気高く、誇り高く、自らの胸の内を吐き出し続ける。
「おかげで思い出しましたわ……! 私が今日この時まで血反吐を吐く思いで頑張ってきた理由を……! 私は伝説級になって……そして……!」
ミレイアの構えた槍を、赤と青の螺旋が包み込む。
それはミレイアの多重詠唱。
ミレイアは醜悪なる異形の怪物を正面から見据え、そして叫んだ。
「――誰かを守るためにこの槍を振るうんですの!」
それがミレイアの導き出した答えであった。
この槍は、悪を貫くために。
この盾は、無辜の民を守るために。
……ああ、どうしてこんなにも大事なことを今の今まで忘れていたのだろう。
等級なんてただの手段に過ぎない。
私はただ弱きを守る騎士に憧れただけ。
孤独がなんだ、勝てないからどうしたというのだ。
むしろ私は笑うべきなのだ。毅然として立ち向かうべきなのだ。
何故ならばそれこそが、私の夢見た騎士の姿なのだから――
『汝、狐に在らず』
怪物が、ひどくつまらなそうに前足を払った。
先ほどまでとは比べ物にならないほどの致命的一撃。
防御など無意味だ。
ミレイアの胸中に恐怖はなかった。
思い残すことも一つとしてなく、ここが自分の死に場所だと確信していた。
……いや、心残りが一つ。
「……あの方との約束を、すっぽかしてしまいましたの」
虎の爪がミレイアの頬に触れる。
……ああ、いよいよ終わりだ。
ミレイアはゆっくりと目を瞑り――
「――なんだ、案外おっちょこちょいなんだな、ミレイアも」
「……え?」
暗闇の中から聞こえてきた男の声。
そして傍らに感じる確かな熱。
声……熱……? 生きている? 私は、どうして……?
堪らず、ミレイアはゆっくりと瞼を開く。
怪物が、前足を突き出した状態で硬直している。
振るわれた虎の爪は、すんでのところでミレイアに届いていなかった。
何故か?
――“彼”がミレイアの隣に立ち、片手でソレを受け止めていたためである。
「久しぶりすぎて場所忘れたか? お手洗いはこっちじゃないぞ」
オルゴ・ノクテルがまるで昔からの友人に見せるような屈託のない笑みを浮かべて言うので、ミレイアは思わず涙をこぼしてしまった。
なんとこの度「辺境アパート〜」の書籍化が決定いたしました! 詳細はまた追って!
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