32 心配
作業に没頭していた隙に見失ったエルナだったが、幸いすぐに見つかった。
……まったく、敵に襲われたらどうするつもりだ。
右目によるステータス強化が無ければ、エルナの身体能力は至って平凡だ。
出会った頃を思えば驚くべき成長を遂げてはいるのだが、それでも強者相手だと簡単に蹴散らされる程度でしかない。
「もうすぐ日が暮れる。宿に戻るぞ」
街灯の明かりが灯されるのはこの付近だけであり、街の大半は夜になれば暗闇へと沈む。
夜の街は物騒だからな。ましてガキ2人組では、妙な連中に目を付けられる懸念が大きい。
それでどうにかなる俺たちではないが、厄介事は御免だった。
「なぁ、あの者たちは何をしてるのだ?」
そんな焦りに気付いた様子もなく、エルナが感心深げに指をさす。
街灯の照らす下には女性の姿があった。
露出の多い華やかな装いで、道行く男たちへと声を掛けている。
それが一人ではなく何人もいた。
「多分、客引きじゃないか?」
「ほぉ……どのような店なんだ?」
この一帯には夕暮れから夜半まで営業を続ける店が数多く立ち並んでおり、彼女たちはそこで働いている従業員だろう。
「何のって……」
からかう様子などまるでないその問いに対し、俺は言葉に詰まってしまう。
ここは、いわゆる花街と呼ばれる区域だ。
その辺の知識は一応フォルティスの記憶の中にも存在していたが、飽くまで触りだけ。
アルテナ一筋だったかつての俺は、他の女に興味を抱く事などなかったからだ。
「あー、あれはな。その……春を売っているんだ……」
そのため純真無垢な好奇心に対し、どう答えれば良いか分からず、ついそんな言葉を口走ってしまった。
「ほぉ、春をだと? それは私も欲しいな。よし、買いに行くとしよう!」
俺の言葉をどう解釈したのか、ワクワクした表情を浮かべてエルナが駆け出そうとする。
俺は慌てて手を伸ばし、その肩をガシッと掴む。
「ま、待て!? 意味分かって言ってるいるのか、お前!? いや、絶対に分かっていないよな!」
「……何を言っている? 彼女たちは花を売っているのではないのか?」
「――ッッ!!」
花を売っている――まあ、あながち間違いとも言えないのかもしれない。
ただなぁ……。
「はぁ、まあ俺も言い方が悪かったな。良く聞いてくれ……」
ホント知識の偏りが酷い娘だ。
フォルティスの知識にさえない事を知っているかと思えば、一般常識が欠けまくってもいる。
俺と出会うまで、一体どんな生活をしていたんだろうな?
説明を終えると、エルナは特に照れた様子もなく――どころかからかうような笑みを浮かべて俺の方を見つめてきた。
「……そういえば初めて出会った時、お前は裸の私の姿をじっと見つめ――その肌に触れていたな? なんだ? 昔の女一筋だと言っている癖に、妙な話に思えるが?」
「う、うるさいぞ! あれはお前が! その……人形みたいに全然動かなかったから、心配して――」
「ほぉ、私を心配してくれたのか? あんがい殊勝な奴なのだな。少し感心したぞ」
「――うぐっ! くそっ……」
ダメだ。この手の話題は俺には荷が重い。
とても戦える気がしない。
「とっ、ともかくだ! 理解したなら、さっさとここから離れるぞ!」
反論を諦めた俺は踵を返し、急ぎ足で歩き始める。
さっきの言葉は逃げ口上ではあったが、事実でもある。
実際ここから宿までは少し遠い。
日没までもう少し時間はあるとはいえ、夕食もまだ済ませていないため、あまり余裕はない。
エルナの方もそれを理解したのか、からかうのをやめて俺の隣へと並ぶ。
夕暮れの街並みの中を、2人静かに進んでいく。
「なぁ、アロンよ。今日、私が出会った者たちだが、皆優しかったぞ?」
「……人族にだっていい奴は沢山いる。そう言いたいんだろう?」
その言葉に対し、エルナは無言のままジッとこちらを見つめている。
話を聞く限り、今日のこいつは中々美味しい想いをしたようだ。
屋台にある色々な食べ物をたらふく食べたのだ。食道楽なこいつにとって、さぞ楽しい一日だったのだろう。
いや、それだけではないか。
見知らぬ他人との交流が――その優しさに触れたのがきっと嬉しかったのだろう。
「……分かっているさ、そんなこと。だがな、そんな優しい彼らを苦しめているのもまた、この国の支配者たちなんだ。上が腐れば、それは下にも伝染する。だから色あせない輝きが必要となる」
日の光が遮られれば、花は咲かない。
雨雲や嵐にも負けない、強く真っ直ぐな指導者がこの世界には必要だ。
そしてその適任者が魔族であり、次代の魔王ミーティスだ。
ミーティスとの面識はまだ無いが、何と言ってもあのイエオネスの息子なのだ。
ならばその人柄に疑う余地はない。
清廉潔白な彼らに人族を――この大陸を治めて貰う。
それがより多くの幸せへと繋がるはず。
そんな想いこそが、復讐心とはまた異なる、もう一つの俺の原動力だった。
「……俺を止めるか?」
「いいや、理解しているのなら構わないさ。私はお前の言う事に従うだけだよ、アロン」
「だったら、頼むから勝手な行動はもう少し慎んでくれよ……」
一体俺がどれだけ走り回ったか――心配したか。
心配? 俺がエルナをか?
いや、現状あいつが俺にとっての重要人物である事は否定出来ない。
だがそれは飽くまで、使い勝手の良い盾としてだ。
「それを言うのならば、アロンよ。お前だって、その何かに集中した際に周りが見えなくなる癖はどうにかするのだな」
「くぅっ……悪かったよ」
「ちゃんと反省するんだな……まったく。まあ今日は楽しかったから、これくらいで許してやるとしよう」
俺の方へと顔を向けたエルナは、そう言って微笑む。
まるで月の光のように柔らかな笑顔だ。
それを見た俺は、少しだけ心が洗われた気分になる。
だが胸の奥から沸き上がるドス黒い感情によって、すぐに塗り潰されてしまう。