7. 狂ったボス
……緊急事態だ。
「あばばばばばば」
……ボスが狂った!
ボスは今も奇声を発しながら、焦点の定まっていない目で虚空を見ている。
怖い怖い怖い、不気味過ぎる。
童顔が可愛い声で狂うという恐ろしい光景を前に、俺の背筋はゾクゾクと震えた。
「大丈夫かっ! しっかりするのだ!」
側にいたイケメンが真剣な表情でボスの肩を掴む。
しかしボスの虚ろな瞳に彼のイケ面が映ることはなかった。
ボスの、心ここに在らずといった様子を見て、彼は切羽詰まった表情でボスの額に手を当てる。そして眉間に刻んだ皺を更に深めた。
腐界から黄色い悲鳴が上がった気がするが、気のせいだろう。
「体内で魔力が暴れておる」
イケメンは、ボスの額から手を離すと、神妙な顔で俺に診断結果を伝えた。
……真面目にしてるとこ悪いんだが、言ってることがわからねえ。うん。
魔力って何だよ?
あ?
おい今、お前が理解力ないだけだろって思った奴、覚えとけよ。
まあ、あながち間違えでもないがな。
だがな! おつむの弱い俺にも分かる様に言ってほしいのだ!
魔力が暴れてるって何! 俺にどうしろって言うの!
どうしてこの社会は馬鹿に冷たいの!
「すまないが、頼みがある」
心の中でデモ行進を行っていると、ボスの肩から手を離したイケメンが俺の目をじっと見つめて言う。
頼みがあるのは分かったから見つめんな。男と見つめ合うとか気色悪いわ。
「何だ」
1人のクラスメイトの頼みだ。聞いてやろう。俺は器の大きい人間だからな。
「こやつの肩に、手を触れてみてくれないか?」
「は?」
訳が分からない。もう一度言おう。訳が分からない。
俺は思わず、口を半開きにし耳に手を当てるというなんともうざいポーズで聞き返した。
実際にやられたら相手をぶん殴りたくなるであろう。
「こやつの肩に手を置いてほしい、と言っているのだ」
イケメンは少し眉をピクリと動かした後、少しムッとして言い直す。
「はあ? なんでそんなんせなあかんの?」
つい変な関西弁が口を突いて出た。
俺がボスの肩に手を置いてどうなる?ボスが正気に戻る訳でもあるまい。何故そんなことをしなければならない?
手を置いたらボスの口から火が出るとか、そういうドッキリではないよな?
……ないよなぁ?
イってる目でニヤついているボスを見ながら考え込んでいると、イケメンが真剣な表情で、おもむろに口を開いた。
「良いか、こやつは、そなたの法力に長時間、それも免疫のない人間の姿で当たり続けた。その所為でこやつの中にあった魔の力が、法力から逃れようと暴れ出したのだ。我は魔力を制御できるが故に今も正気を保っておる。だがこやつは唯の妖怪にしか過ぎぬ。そなたの法力に耐えられず、正気を失ったのであろう。そこでだ。そなたの法力の力を借りたいのだ。こやつの肩に手を置き、法力で魔の力を、祓うのではなく押さえつけてはくれぬか?」
「はああ?」
イケメンがそう一気にまくし立てたが、やっぱり分からない。人間の姿? 魔の力? 妖怪?
それにどうしてこいつは法力という仏教用語を知っているんだ?
……ん? このくだり前もあった気がするのだが。いつのことだろうか。
今日のことか……?
あれ? ……今日の記憶がない。
いや、そんな筈はないだろう。きっと少し脳の老化が進んだだけだ。
だって今日を過ごしたというのは分かっているのだから。ちゃんと覚えてるぞ。俺はこの学校に転校してきて、担任の先生は山名だ。
ほら今日、自己紹介した時のこと、思い出せ……ない?
嘘だろ……?
俺はどういう風に自己紹介した? クラスメイト達はどんな目で俺を見た?
え、やばいやばい、思い出せない。何故だ?
いや、「今日を過ごした」という感覚は確かにある。この学校に転校してきて、イケメンとボス、そして腐女たちがクラスメイトだということも理解できるのだ。授業で習ったこと、この学校で1日過ごしたこと、それらの記憶自体はしっかりと俺の脳に刻み込まれている。
なのに、それなのに。
それらの記憶には中身がなかった。空っぽだったのだ。
今日俺が何をして、何を感じたのか、どういう風に1年6組にきて、クラスメイト達を見たのか、それらには霧がかかっているかの様に、まるで思い出すことができない。
そもそも、どうして俺はここでイケメンに膝枕されてたんだ?
「成清! 」
眉間に皺を寄せ考え込む俺を思考の渦から引き戻したのは、腐界にいる女子の声だった。
その声を受けて顔を上げたのは俺だけではない。イケメンもまた、腐界のほうへその美麗な顔を向けた。
成清、というのは彼の名前なのだろう。古風な名前だな。まあ喋り方も古風だし、どこぞのお坊ちゃんなのかもしれない。
そして気になる声の主は、なんだか和風な雰囲気を持つ腐女だった。
開け放たれた教室の戸の前で仁王立ちし、腕を組んでいる。身長は低めながら、凛としたオーラを放つ少女だ。
真っ黒なストレートの髪は肩の上でバッサリと切り揃えられており、前髪は眉の上でぱっつんにされている。
そんな、人を選ぶ髪型をしている彼女だが、彼女の和風な顔立ちにはそれがよく似合っていた。
少し気の強そうなキツい目つきは、似合う要因の一つである気がする。
彼女の背後には、彼女と同じく腕を組み仁王立ちする取り巻き腐女達が佇んでいた。
男同士のうんたらかんたらを見ている訳でもないのに、腐女達の目は鋭く、なんとも迫力がある。
「その人間の記憶、消したんでしょ? 忘れたの?」
腐女達のボス、和風美女ならぬ和風腐女が俺に向かって顎をしゃくりながら、よく通る声でイケメンに言った。
あ、やっぱり俺記憶消されたの? 不自然な感じに記憶が無いからな。どうにもおかしいと思ったんだよ。
いやー、俺がボケた訳じゃなくて良かった。
……って、 記憶って消せるもんなのか?
「……そうだった」
和風腐女の問いに対しイケメンは、しまった、と言う風な表情で答える。
え、マジ? 俺記憶消されたの?
「法力とか妖怪とか、思い出させる様なこと言ってどうすんのよ」
和風腐女は呆れた様に目をグルンと回すと、盛大に溜息を吐いた。その溜息には、今まで溜め込んできた全ての感情が含まれている気がした。
和風腐女の重みのある溜息を聞いて、イケメンを見る取り巻き腐女達の眼光は一層鋭くなる。
あの、俺としては思い出させて欲しいのだが。転校初日の記憶とかすっごい大事な思い出じゃん?
「忘れていた。すまない」
イケメンは申し訳なさそうに和風腐女から目をそらすと、静かに言う。そんな彼に、和風腐女とその取り巻き達が冷たい眼差しを向けた。
「まあ良いわ。その人間も思い出してない様だし」
和風腐女は俺を見て言った。
そう、俺は先程から記憶を掘り起こそうと頭を捻っているのだが、一向に思い出せないのだ。
俺は、何を見た? 何を思った? 何故ここに寝ていた?
いくら考えても思い出せなくて、胸を焦燥感が満たした。
思い出せ、思い出せ、晶。
自分にそう何度も言い聞かせ、体に満ちる全ての力を頭に注ぐ。
今までの人生で一番集中したかもしれない。
その集中した状態を保ち、思い出せ、と強く念じた。
すると、まるで吸い上げられるかの様に頭に血が上っていくのが実感できた。
お、なんかコレいける気がする。
いいぞ、もっと集中しろ晶。
「ぐっ!」
集中が絶頂に達したその瞬間、視界が美しい金色の光に覆われたかと思えば、鈍器で殴られた様な衝撃が後頭部を襲った。
そして、記憶にかかっていた濃霧が嘘の様に一瞬で消え去る。
同時に俺の脳に膨大な量の情報が流れ込んだ。視界が激しく揺れ、頭に鋭い痛みが走る。
それらは一瞬の出来事だった。
気が付けば俺は、息を荒くして床に両手両膝を付いていた。俺の喘ぐ様な呼吸音が静かな教室にやけに響く。床に着いた手の平は汗でじんわりと湿っていた。
しかしそんなことも気にならないくらい俺は混乱していた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
朦朧とする意識の中、かろうじて俺は辺りを見回す。
そこには、苦しそうに顔を歪め胸を押さえる腐女達、手で顔を覆うイケメン、そして膝を付き頭を抱えるボスがいた。
「強い、強すぎる……」
掠れた声でそう言い顔を覆うイケメンの手は、以前は白くしなやかだった彼の手は、今や翡翠色の薄い鱗でびっしり覆われていた。美しかった爪は長く伸び、鋭く尖った魔物の爪と化している。
恐怖にドキンと胸が脈打ったが、今までの様に気絶することはなかった。
思い出したのだ。
ここは1年6組。
化け物学級だ。
ありがとうございます。