第二章 白秋の光Ⅳ
4 九月二十二日 土曜日
自分のことを呼ぶ声がする。
「おい、鳥越」
眉をヒクリと動かし目を開ける。眩しい光のせいで、もう一度目を閉じた。そして、もう一度細く瞼をのぞかせる。やっと輪郭がしっかりとしてきた。見ると、柳の顔が飛び込んできた。
「せ、先輩・・・」
どうやらデスクの上で眠り込んでしまったらしい。時計を見ると、既に八時を回ろうとしていた。
「こんなところで寝るとはな。おまえも良い度胸だ」
「すみません・・・」
「鳥越、十五年前の遺族を訪ねるぞ」
「え・・・あ、はい」
寝起きの脳が追いつかず、いまいち状況整理のつかないまま、身体を起き上がらせた。目をこすりながら、一課を出ていく。昨日の一件は今にでも蘇るように鮮明に覚えている。しかし、今後の捜査に支障を来しては、再び柳の鋭く冷たいお言葉が飛んでくることになるだろう。できるだけは平静を装うことにした。
「先輩、十五年前の事件の遺族を訪ねるって言ってましたけど、被害者は二人いましたよね。どちらから、ですか?」
河辺仁志の弟河辺浩大は、現在は四十代になっているはずだ。父母は早いうちに亡くなっているだろうから、被害者と一番距離の近い遺族といえるのは河辺浩大以外いないだろう。もう一人は記者の峰里大介。霊安室には編集者が駆け合ったという。遺族の明記はされていなかったが、まずは峰里大介の勤務していた出版社を訪ねるのが先だろうか。
柳の方針は河辺家から聞き込みするらしい。二人は地下へ下りると、柳の車で目的地へと発進させた。外はシトシトと雨が降っていた。小雨とも言えないが、普通の雨にしてみれば勢力が弱い、そんなところだ。
「でも、どうして十五年前の事件を?上から、そんな命令されたんですか?」
「いや、いつも通り、関係者、現場周辺の聞き込みを指示されている」
「だったらどうして?確かに、遠野が殺された動機が十五年前にある可能性はゼロではありませんけど、確信するにはまだ早いと思います」
「この二日三日、聞き込み回っても大した情報は得られなかった。無駄な骨を折るよりかは、調べて価値のありそうなことを調べようと思っただけのことだ。当時の捜査資料も一応一通り目を通してきた」
それから柳は、目を通してきたという捜査資料の内容をたゆみなく語り始めた。
おおよそ次の通りだ。
――十五年前の九月十六日。
群馬のとある別荘で男女五人のグループが宴を催していた。夜遅くまで盛り上がっていた彼らの内の一人の女が、部屋へ戻り、窓の外を見ると、市街に出る道の向こうで彼らのものではない車が停車いた。その車を運転していたと思われる人影が後部座席の方から引っ張り出してきたのは、得体の知れない大きな「物体」で、よくよく目を凝らして見ると、それが人間らしいことに気づき、女は言葉を失くした。しばらくその様子を震えながら見つめていると、誰にも使われていない既に廃屋と化した小屋の方へと「物体」をひきずり運び、人影は闇の中へと消えていった。これは尋常ではない、と耐え切れなくなった女は、皆の元へと舞い戻った。事情を説明すると、五人は懐中電灯片手に外へ出た。目撃した女の案内を頼りに、五人は団子状態になって一歩一歩足を動かす。やがて目的の小屋に辿り着くと、既に小屋の前に停車していた車は消えていた。五人は顔を見合わせ、一人の男がゆっくりとドアノブを回した。微かな音と共にその扉は開き、中へ入った。懐中電灯は部屋の奥の方をまず照らした。これといって特に何もない。窓はところどころに傷が目立つ。その隣の窓は惨さをも感じるほど大胆に割れていた。やがて部屋の中央当たりを照らす。光が標的を捉えたそのとき、五人は悲鳴と共に驚愕したのだ。二つの人間が折り重なるようにして倒れていたのである。尋常ではないことを察した一人は、すぐに警察へ通報。その後、群馬県警が現場に到着した、そういった流れである。
「そのグループも、とんだ災難に遭いましたね」
「まあな。結局、警視庁も加わって捜査することになったんだが、そこには理由があった。今言った通り、十五年前、河辺仁志と峰里大介が発見されたのは群馬の別荘。しかし、本当の犯行現場は東京だったんだ」
「え?つまり、遠野は東京で殺してから、車に死体を積んで群馬まで運んだわけですか?」
「そういうことになるな。何といっても驚いたのが、その本当の殺人現場というのが、大横川親水公園だったことだ」
「え!ホントですか?」
「ああ、捜査記録には確かにそうあった。一つの証言が功を奏したらしい。その後大がかりな捜査の末、血液反応も出たらしい。まあ、そこはさすが日本警察と呼べるかもな」
「十五年前と今回の事件の現場、日にちが一致している。こんな偶然ってありますか」
「犯人は遠野がどんな形でも良いから罪を打ち明けることを望んでいた。しかし、その希望は叶わず、犯人は遠野殺害に至った」
「今のところ、何とも言えないけどな。少なくとも、俺は今回のヤマの動機は、必ず十五年前にあると信じている。それに・・・十五年前の事件を洗い直そうと決めたのには、理由が他にもある」
「他にも?」
柳の続きの言葉を鳥越は静かに待つ。少し躊躇いがちに柳は口を開いた。
「事件の真相を知りたいのならば、被害者容疑者含め、事件に関わっている人間の生い立ちや人柄を知るべき、だからな」
まさかの発言に思わず視線を、煙草くわえた柳の口元に移した。そして小さく、ありがとうございます、と小さく呟いた。
車窓を覗くと、街路樹が次から次へと視界の端へと消えていく。以前ここを通った記憶がいつのものか定かではないが、今ひとつ活気のない葉の色が時の刹那を感じさせる。
「鳥越・・・」
やがて、寡黙の柳が珍しく口を開く。とはいえ、柳は必要最低限のことは喋らない主義だ。仕事関連の話題に置いても、あまり胸の内を明かさない。鳥越は耳だけ傾けることにした。
「今回の事件、一筋縄でいくヤマじゃないぞ」
「え、それはどういう?」
「いや、分らない。長年の刑事の勘がそう言ってるだけだ。ただの取り越し苦労で済むといいんだけどな」
鳥越の耳には、その言葉が妙にひかかった。何故か理由は自分でも分らない。ただ共感した、それだけのことかもしれない。
都心から外れると、閑静な住宅街が並ぶのが雰囲気で解る。
まもなくして、目的の渡辺家に辿り着く。木造の一軒家で一階が酒屋になっている。どうやらここで生計を立てているらしい。雨に降られながら入口へと走っていき、中を覗くと、カウンター席に一人新聞を読んでいる男がいた。それ以外に客も含めて人の気配はなかった。鳥越たちは「御免下さい」と言って、存在を知らせる。
「いらっしゃい」
低い声が店内に響く。鳥越はどこか懐かしさを覚えた。どうやら刑事をしているうちに、人間本来の純粋な心を忘れかけてしまっているのかもしれない。捜査の延長線上に、刑事と一般人の境界線を特殊な形で感じた鳥越であった。故に田舍くさい、といったらそれこそ心無い人間の使う言葉だが、そんな感傷的な気分になったのかもしれない。
「河辺浩大さんですよね」
「そうですが・・・」
一期に警戒の色へと顔色が変わる。尋常の客じゃないことを一瞬にして悟ったらしい。そこに深い疑念は抱かなかった。同様の反応は珍しくない。
「警視庁の者です。兄の仁志さんのことについて少しお話を聞きたいのですが」
「仁志のことを・・・」
「驚きなのは十分承知です。十五年前の事件について再検討しているんです。協力していただけませんか?」
浩大は少しの間躊躇している様子を見せたが、構いませんが、と言って応対してくれた。
「暇だから、ここで済ませよう」
「いいんですか?」
「どうせ暇な身だ」
浩大は自嘲を込めた苦笑をした。
「遠野嘉政、この名前を覚えていますか?」
「ふん、忘れたことなんて一時もあるわけないだろう」
「そうですか。言わずもがなのことですが、十五年前、あなたの兄仁志さんを殺害した容疑がかけられた人物、その遠野嘉政が先日亡くなったのは御存知でしたか?」
「ああ、ニュースで見たよ。殺されそうだな。ま、当然の仕打ちを受けた、ただそれだけのことだ」
「と、いいますと?」
「これこそ言わずもがなのことでしょう。奴は罪を犯した。この事実は揺るがない。十五年経った今、やっと天罰が下ったんだ。死人に対して失礼だけど、やっと肩の荷が下りた気がして、少しは楽になったよ」
「そう、ですか・・・」
鳥越は発する言葉がすぐに出てこなかった。俯く姿を見て、それが合図かのように柳が訊ねる。並べられてあるビンの酒を眺める目はそのままだ。
威勢のいい「いらっしゃい」の表情とは全く別物の顔色である浩大の様子を見て、警察に対しても腹を立てているように感じる。警察が物的証拠を提示すれば裁判を立ち上げることができ、少なくとも今とは違う未来が望めたかもしれない。いや、そうに違いないだろう。そういう意味では浩大の怒りの理由も納得はいく。そのうえ、十五年も経った現在になって再び過去のことをほじくらされて、浩大からしてみれば堪ったものではないのだろう。しかし、真実を明かすには、これくらいの犠牲、とは言えないが、抵抗を無視することも大事だということだ。もしかしたら、それもスキルの一つかもしれない。
「ちなみに、河辺さんは四日前の午後九時から十一時の間、どこで何をしていましたかね」
「アリバイ調査、というわけですか」
「形式的なことです。協力してください」
「ふん。今に至っても警察組織っつうのは、こうも横暴なのか。まあいい。その日は夕方過ぎまで出かけていて、ここへ帰ってきたのが、八時過ぎだったかな。それからはずっとここにいたよ」
「証明できる人はいますかね?」鳥越が訊く。
「いるわけないだろ。俺一人で住んでんだから」
鳥越は必死で右手のペンを走らせてメモをする。多少汚くても、読めればいい。とか言って、自分でも読めなくなるほど崩れることがある。それはさておき。
「河辺さん。我々は遠野嘉政が殺された今回の事件の原点は、十五年前の例の事件にあると考えています」
河辺は黙ったままだ。
「そこで、もう一度遠野嘉政という人間について、過去の事件について洗い直そうと考えているんです。とはいえ、他の刑事たちがどう動いているかは知りません。僕たちだって、上司からの命令に背いてのことです。真実を知りたいんです」
「そこまで言われてもね、僕が特別に知っているわけではない。質問されて答えることができれば答えられるが、それでもいいかな?」
「構いません。では、早速。今でも、十五年前の犯人が遠野嘉政だったと断言できますか?」
「胸を張って言えるな」
「では、それを前提に話を進めますね。遠野があなたのお兄さんを殺害し、遺体はとある病院の霊安室に運ばれたと思われます。捜査記録には弟であるあなたが立ち会ったとありました。遺体を目にするまでの経緯をできれば詳しくお話ししてくださいますか?つまり、警察から訃報があなたに入るまで、ということです」
鳥越が頼みの言葉を言い終わると、河辺浩大は一度瞳を閉じてから、当時を偲ぶように深みのある物言いで語り始めた。
*
「行ってくるね」
後になって痛感するが、これが最後の兄との会話だったのだ。
前の季節とは少し違った、物寂しくも冷たい秋風が吹き始めた頃だった。いつものように兄の河辺仁志は努めている会社へと家を出て行った。
河辺浩大と仁志は二十歳前に父母を亡くし、それからは二人で住んでいた。父の生命保険のおかげで古いが一軒家に暮らせることができている。一階は酒屋になっており、弟はそこを一人で経営して、兄の稼ぎと合わせて生計を立てていた。
その日も、いつものように仁志は一サラリーマンとして通勤していったのだ。異変を感じたのは通常なら帰宅している七時過ぎになっても、帰ってこなかった頃からだ。とはいえ、どこかで油を売っているのだろうと、特に心配はしていなかった。しかし、刻一刻と時は過ぎるうちにその不安は大きく膨れ上がっていった。九時、十時、十一時・・・。ついには日を跨いだ。何回も携帯から連絡を試みるが、虚しい音がツー、ツーと流れるだけ。向うからももちろんなしのつぶてであった。
電話の着信音が殺伐としたリビングに響く。
さすがにまどろんでいた浩大は、すぐに飛び起きた。鳴りだした携帯を急いで手に取ると、画面に現れた「仁志」の文字を認めた。
「もしもし、仁志か!」
「残念ながら、仁志さんではありません。警察の者です」
「は?」
全く状況の理解が追いつけない。仁志の携帯から何故警察の人間が相手に出るのか。浩大はその場で固まった。
「・・・仁志が、死んだ」
その事実を突きつけられたとき、浩大は唖然とした。虚実であることを瞬間的に祈ったが、そうすることによって逆に偽りのない真実だということを痛感させられた。
訃報を耳にした日の朝には、浩大は東京のとある病院の霊安室にいた。
刑事からはかいつまんで事情を知らされたが、まともに耳に入りはしなかった。目の前で瞳を閉じて眠っている兄をずっと凝視していた。眠ることができずに一睡もしていない瞼の重みをも忘れるほど、その光景が目に焼き付いてくる。
「仁志・・・」
何故か、涙は一粒も溢れはしなかった。前日まで生きていた人間が、次の日にはこの世にいない。この一文が頭に浮かんでも、他人事のように思えて、特別な情も込み上げてこなかった。
浩大が部屋を出ると、刑事が待ちかまえていた。
「お気の毒なところ申し訳ないのですが、質問させていただいてもよろしいでしょうか」
全然気は進まなかったが、仕方なく応じた。浩大は刑事の問いに素直に答えた。河辺家の事情や昨日のこと。どうやら警察は浩大のことも少なからず疑っているようだ。初期捜査においては万人を相手に捜査していることをよく刑事ドラマで目にする。不愉快ではあったが動じずにいた。
「実はお兄さんは、群馬のある廃屋で遺体となって発見されたんです。群馬には何かゆかりがありますか?」
「群馬?・・・いいえ、全く」
群馬の廃屋で死んでいた。どうして仁志はそんなところで・・・浩大の疑問はおそらくこの刑事も抱いていることだろう。
「それから、驚くことに、もう一人亡くなっていたんです。折り重なるようにして」
「は?どういうことですか?」
「そのもう一人の遺体は峰里大介という新聞記者だったんです。この名前に心当りは?」
「峰里・・・知りません」
もちろん、本当のことだ。初めて聞いた名前だ。仁志が名前も知らない男と折り重なるようにして死んでいた。いまいち想像ができずにいた。想像したくないだけなのかもしれない。しかし、仁志は峰里とかいう男と面識があったのかもしれない。
「今後もご協力いただくかもしれませんが、そのときはよろしくお願いします」
「はい・・・」
病院を出て、ふと東の空を見ると、既に陽が高い位置まで昇っていた。広がる青い空を仰いでいるうちに、枯れ葉を運ぶ風が頬を叩いた。その風を感じたとき、初めて自分が独りになった身であることを知らされた気がした。
あの風の感触は今でも脳裡に蘇ることがある。十五年前の一時が昨日のことに思える日も少ない数あった。
「まあ、ざっとこんなもんだな」
「ありがとうございます。よく分りました。改めて、ご愁傷様です」
浩大は軽く会釈した。礼を言われるようなことは何もしていないが、こうして頭を下げてくれる刑事を見て、世の中捨てたもんじゃないな、と憎み恨んでいた警察組織の温もりに時代の移ろいを感じた。
「それでは、十五年前、あなたのお兄さんが遠野に殺される理由について、何か心当りは?」
「さあ?今までに兄のゆかりのある人間を自分なりに調べたりしたがね、見当もつかないままだ。国会議員なんて人間と付き合いがあったなんて、そんなこと耳にしたことも無かったからな。まあ、実際どうなのかは知らんが」
「面識もない人間に殺された。つまりはそういうことですか」
「まあな」
「では、遠野嘉政が殺害された理由については、どうお考えですか?」
「愚問だな。十五年経った今でも、奴の魂を地獄の海へと沈めてやりたい、俺みたいな人間がいるくらいだ。遺族以外の人間でも奴に恨みを抱いていた人物は、あんたらが想像している以上にいるだろうよ。これは然るべき結末だ。下るのが遅すぎる天罰だよ」
二人の刑事は礼を言って、失礼しますと言って酒屋から出て行った。
自分以外いない静かな店内に戻り、浩大はゆっくりと息をつく。さっきの刑事が来たとき、警戒と共に苛立ちが胸の中に湧きあがってきたが、十五年前のことを偽りなく赤裸々に語った後は、どういう訳か心朗らかだった。相手が誰であろうと、自分の苦しみを分かち合うと、多かれ少なかれ晴々とした心になれるのかもしれない。
「遠野、嘉政か・・・」
浩大は自分の抱えている、まだ伝えていない事実をどういう路に辿らせるべきか迷っていた。何もせずにいれば、いずれかは知られてしまうだろう。しかし、それも一つの結末と受け入れる、そう腹を決めた。自分の知る真実が白日のもとへ晒されないことを、浩大はただ願うだけだ。
浩大は咳払いをして、再びレジ席で新聞を読み始めた。