第一章 青春の影Ⅳ
4 九月二十二日 土曜日
狭い電話ボックスを出て、蓮治は傘を差しながら、落ち着け、とゆっくりと息を吐いた。
(陽子に好かれているかもしれない)
人間、自分に都合のいいように思考回路を組む習性があるが、今回の場合は確実なものであると蓮治は思った。
人に愛されるというのは悪いことじゃない。人に好かれると、自分だけにしか伝わらない相手の仕草、言葉があるのだ。数学の問題のように証明なんてできるはずないが、確信へと変わる実感がどことなくできるのだ。
この際、少なからず陽子に気がある自分はどのような対処をすべきか。
一、相手に好意を抱かれていることが自分の思うに判明したから、自分から意を表明し、好い方向へと持っていく。
二、一度断り、それでも挫けない固い想いがあると確認してから、付き合う。
三、ここは相手の出方を窺い、自分からは特に行動に移さない。
このように考え出すと、きりが無いような気がしたからやめた。無論、こんな選択に迫られることも過去に無いことだし、納得できる正確な判断が利かないと思う。
再び、歩み始めた。
今日の土曜練習は教員の都合上、午前中で切り上げることになった。雨降る中、蓮治はこの大横川親水公園に訪れている。というのも、「あれから」の自分自身の異変、鬱憤とも呼べる原因を探るべく、もちろん警戒しつつもこの公園の地に立っているのである。この犯行現場の公園に、その答えがあるかもしれないと勝手に思い、足を運んだ次第である。
今日の午前中 体育館にて――。
朝からの雨で、特例だが体育館で活動している。運動部にとっては、こんな小雨なんて降っていないも同然だと、言い張りたい選手もいるはずである。おそらく、龍也もその一人であろう。
「集合!」
サッカー部の顧問の先生――岡江先生が叫んだ。「鶴の一声」とはこういうことで、青いユニフォームを着用している部員は、岡江先生の周りを囲むように並んだ。全員が気をつけの姿勢で並び終えたことを認識すると、「今日はこれで終わり、着替えてこい」と命令した。計二十人程の選手たちが、ぞろぞろと更衣へと向かう。
「おい、蓮治」
龍也が歩きながらリフティングをして、こっちへ来た。
「おまえさ、最近、力入って無いんじゃないの?」
「別に、そんなことないだろ」
「だって、コントロールは安定しないし、一つ一つの動きが雑になってるよ」
「そうかなあ。気をつけるよ」
まだ何か言いたそうだったが、「よろしく頼むぞ」とだけ残して、下駄箱へと去って行った。
龍也が心配するのは重々理解できる。来週の日曜日に大会が控えているからだ。前回も前々回の大会も予選で敗退というみっともない結果だったから、キャプテンの龍也をはじめ、サッカー部全員の士気が高まっている。何しろ初戦の相手は、前回大会準優勝の強豪チームだ。
キャプテン龍也は、自分の分析の結果、こう話していた。
「巧みなパスを回し、最終的にエースの奴、十一番だったかな。そいつにボールが渡ると、絶妙なコースでシュートを決めてくる。大量得点が武器の強豪チームだ。だが、俺が思う限り、守備はあまり優れていない。ボールを奪ったらすぐに切り替え、サイドからの攻撃で抜けるはず」
この熱気からも伝わるように、特に龍也は真剣だった。
しかし、蓮治だけは違った。
「あれから」というものの、身体が不自然な気がしてならない。人を殺してから、時に身体のどこからか、ねじが三本くらい抜けたような感覚がするのだ。それ故に、朝はいつも以上に寝坊するし、先生の話は、自分と先生の間に数十メートルも距離があるような感覚に囚われて、ほとんど耳に入ってこない。さらには、幼稚園の頃からやってきたサッカ―まで身が入らない。さっき龍也に指摘され、蓮治ははぐらかしたが、実のところは全くその通りである。
(どうしてしまったのだろうか・・・)
今改めて不安になる。しかし、蓮治には「約束」があった。陽子との約束が。
――観客席で見てろよ。俺が渾身のシュートを決めてやるから。
バカみたいにカッコつけたことはともかく、今になって自信が失せてきた。
少しばかり意気消沈していたが、岡江先生に「早くしろ!」と叫ばれ、渋々龍也の後を追った。
今朝の練習で膝を怪我したのが、まだヒリヒリしている。今までは、かすり傷を試合中に少々つくるだけで、本日の練習の際に負傷したのは、やはり「異変」のせいなのかもしれない。もっとも、その「異変」の正体を求めに、この場所の地を踏んでいるのだ。
しかし、殺人犯がのこのこと現場に戻ってきては、あまりにもリスクが高すぎる。というより、そんな犯人なんているのだろうか。自分でも不思議に思えて仕方が無いが、蓮治の「正義」はこの動作を選んだ。
犯行現場の周辺に近づいて怪しまれるとさすがに危険なので、ぎりぎり例の階段が見えるこの場所で留まった。
じっと見つめていると、自然と「あの日」の出来事が脳裡によみがえる。
「遠野嘉政・・・」
蓮治はそう呟いた。慌てて周りを気にしたが、どうやら大丈夫のようだ。大通りの割に人の往来がそんなに多くないし、車の騒音もあったので、微かな蓮治の声を聞いた者はいなかった。
――俺は人を殺した。
大罪を犯した罪の意識はあるが、罪悪感は皆無といっていいほどだ。第一、あの男は、美味い酒を飲み、ごくありふれた平穏無事な生活を送ってきたことは、まず間違いなのだ。正義は誰でも信じることができ、自分を正当化することができる。今の蓮治も、自分の信じる正義によって自分を正当化している。
(正義の鉄槌を下した俺は罰せられるべきか。俺が殺した遠野よりは、十分生きるにふさわしい)
ふと、満面の笑みを浮かべた陽子の顔が、脳をかすめた。陽子は人を殺した、つまり殺人鬼に恋心を注いでいるかもしれないのか。そう思うと、蓮治は心が痛む。その痛みは、胸の中だけでは抑えきれず、左手で髪を掻きあげた。自分でも息が荒くなっているのに気付いた。静かに目をつぶって、気持ちが高揚するのを必死で抑えた。
しかし、こんなところで心が折れては元も子もない。蓮治にはまだ、自らの手によって罰せねばいけない愚かな人間がいるのだ。
「愚か」という言葉の範囲は一見広く思えるが、蓮治が思うに、本音とも言うべき自分の正義に大きく逸れている人間こそ、「愚か」である。その一人として、既にこの世の者ではないが、遠野嘉政が挙げられる。殺人という自分の罪を認めずに、自分に非なんて一切ないと言わんばかりの大胆な男だ。国会議員だからといって調子に乗りすぎたのだ。
「ん?」
蓮治の視線の先に、どうやら刑事らしい人物が二、三人現れた。再び現場を調査するためだろうか。黒や灰色と言った地味な服装と、警察官特有の動きや姿勢が目に残る。雰囲気や直感という、いかにも非論理的な理由を理由として採用するのは、どこか人間的な要素が伝わってくる。
気付かれる前に、蓮治はその場から立ち去った。現場の位置と数十メートル距離はあったが、「念には念を」とよく言う。蓮治の立場を踏まえたら、なおさらのことだ。
「あの日もこうやって彷徨っていたんだよな」
あてもなくぶらぶらと歩き続けていると、たまらず蓮治は口にした。強いて違いがあるとすれば、昼夜の差だろう。あの日は星がちらほら望める夜空だった。でも今は、さっきまでの雨はすっかりやんで、遠くの空は爽やかな青色をしていた。
翌日の日曜日、蓮治は六時半に目を覚ましてから、なかなか身体が起きる気がせず九時頃まで布団の上でゴロゴロしていた。
父親も母親もいない孤独な人生。大きく分けて、二つの大きな力によって蓮治は生きていられるのだ。一つは青春という名の学校生活である。その過程で交差する多種多様な人情が蓮治の孤独を消してくれているのかもしれない。もう一つは、蓮治の生活のほぼすべてをこなしてくれている國又豪のおかげである。
「おい、蓮治。そろそろ起きろ」
國又が寝室の扉を少しばかり開けて言った。
國又豪は、蓮治の父母が他界したときから、ずっとこのアパートの片隅で共生してきた。詳細は未明だが、蓮治の父親と親しい仲だったそうだ。それ故に、蓮治が孤立して困っているときに、快く手を差し伸べてくれたのだろう。彼の職業は普通の営業マンである。決して高くはない収入で、蓮治のことも面倒見てくれるんだから、感謝以外の何物でもない。よく相談に乗ってくれて、その度に親身になって対応してくれる。同じ男同士、気が通じ合うものがある。だから、今まで特に目立つような躓きもなくやってこられたのである。
(それにしても、豪兄――昔からこの呼び方のため、その名残は消えずに今も「ゴーニー」と呼んでいる――はすごい)
料理は並み以上にできるし、家事もちゃんとこなしてくれる。家庭的な國又を蓮治は心から尊重している。「豪兄」という愛称は、昔からのもので、今まで、「豪兄」以外の呼び方で呼んだことは一度もない。
國又の忠告もあって、蓮治は身体を起こした。洗面台で顔を洗い、歯を磨き、ブランチを済ませた。
「どうしたんだ?顔が蓮治らしくないな。何かあったか」
國又はいつもこうやって心配してくれる。「そうかなあ」とはぐらかしたが、國又には蓮治のちょっとした「異変」も見破っているような気がする。國又には敵わないなあと内心思ったが、もちろん口にするわけにはいかず黙っていた。
「蓮治はどんな秘密も、自分の胸の内だけに閉じ込めておく奴だからな。他人には決して見せない一面が、蓮治にはある。それは俗に言う『正義』と言うものかな。それは美点でもあり、欠点でもある。つまりは表裏一体ってことだ。コインを投げて、フィフティフィフティの確率で表になり、裏になる。出方次第で美しくも、醜くもなる。それが『正義』ってものだよ。まあ、蓮治自身が一番分っているだろうけどな」
「・・・うん。分ってる」
昨日、自分で作った問題の解答を探しに、大横川親水公園まで出向いていたが、その解答というのは、今國又が説いてくれたことそのものだったのかもしれない。なぜなら、蓮治自信が大いに納得したからだ。
(出方次第で美しくも、醜くもなる、か。)
この言葉は蓮治の心臓にプスリと刺さった。豪兄の言うとおり、美と醜は背中合わせ、「表裏一体」なのだ。
別にやるべきこともないので、蓮治はコンピューターを起動させた。「ようこそ」という文字と共に、始まりの音楽が流れる。幼いころ、この音に何度驚かされたことか。今でも突然流れると、仰天するときがある。
「ちょっと買い物に出掛けてくる」
そう言って、豪兄は靴を履き終えた。
「はーい」
生半可な返事をすると、玄関の扉が開いた音がこっちにも聞こえた。
とりあえず、事件のことについて調べてみるか。ウェブページを開くと、キーを叩いて「大横川親水公園」と打った。既に候補の中に「・・・事件」と繋がるものがあったので、それをクリックした。まだ日が経っていないから、社会のみんなも注目しているのだろう。
トップにあった項目を見てみると、次のような表記がされていた。
大横川親水公園の元国会議員殺人事件
九月十六日(日)、台東区の大横川親水公園で一人の男の死体が発見された。殺害されたのは元国会議員の遠野嘉政氏(六十六)。階段の一段目の角に後頭部をぶつけ、死に至った。被害者の遠野氏は、過去に殺人の容疑で裁判にかけられた男である。警察は過去の事件も視野に入れながら、捜査に力を入れている。
特に有力な情報は掴めていない。いや、正確には公開されていな
いといった方が正しい。
まあ、警察だって遠野と特に繋がりもない中学三年生が殺めたとは夢にも思っていない。例え過去の事件まで遡っても、この美吉蓮治に辿りつくことは、ゼロに近いといっても過言ではないだろう。
他にもいくつか記事を「探しては、見て」を繰り返したが、どれもこれも似たり寄ったりだった。ひとまず安心、という意味でのため息を一度ついた。
その日の夕食は豪兄特製のハンバーグを召しあがった。やっぱり美味い。豪兄の作るハンバーグは天下一品だ。未だに豪兄のハンバーグに勝る品に出くわしたことは無い。
「豪兄、今日も美味かった」
「そうか。サンキュー。ところで、学校の方は上手くいっているんだよな」
「え?急にどうしたの」
「いや、最近どうなのかなと思ってさ」
「別に、順風満帆だけど」
豪兄はそう聞くと、「そうか」とだけ言って、食器を片づけようと、台所へと向かった。蓮治も後に続き、流しに食器をカチャンと置いた。
「自分の食器くらい、洗っとけよ」
「分ってるよ」
言われた通り、というより、いつもやっているように自分の食器を洗い終え、蓮治はふと疑念が生じた。
(何故、豪兄は『学校の方は上手くいってるんだよな』なんて質問をしたのだろうか)
豪兄の部屋の方に視線を送りながら、しばらく佇んでいた。
蓮治の「異変」に勘付いて、学校で何かあったのではないか――と推測したのか。もしかしたら、これといった意図はなく、ただただ質問したかっただけなのかもしれない。このケースだって十分説明がつく。でも、普段訊かないようなことを、今更になって言うべきだろうか。
まさか・・・。
蓮治は一瞬不穏な想像が脳裡をよぎった。いくら豪兄でも気付いていることはないだろう。蓮治は拳を自分の胸にそっと叩きつけた。
(俺は、遠野嘉政という男を殺した。これは紛れもない事実であり、何ら否定もしない。当時の世論に代わって犯行に及んだつもりだ。後悔などはまんざらない。そして、まだ俺の『正義』は終わらない。でも・・・犯行後から『異変』が自分の身に起きている。その『異変』の正体のだいたいのことは理解している。だが、核に触れたような感覚は今までない。ぼんやりと全体を掴めてはいるが、最も重要な核の部分を握りしめることができていなかった)
その核とは何なのだろうか。試しに目をつぶってみたが、これが頭のど真ん中に重く残っており、すやすやと眠れる気配がない。
次に思わず瞳を開いてしまったのは、一人の人物の存在が脳内に蘇ってきたときだった。
(陽子・・・)
一般的に愚行とされている行動後、辿りついたその先にいたのは同級生の石井陽子だった。何故なのだ。何故、あのとき陽子に会ったのだろうか。無論、神によって仕組まれた偶然として片付けるべきだが、この出会いが何かを意味しているようで恐ろしくなってくる。
――しかし・・・。
まだ罰さなければならない人間がいる。蓮治の正義が決して許さない人間が、この世にまだ生きている。そういう人間は排除すべきだ。何事にも恐れずに、自分の正義を貫かなければならない。
蓮治は玄関で靴を履く。靴入れの上の時計の針は午後八時を示している。壁に飾られたカレンダーを見て、今日が九月二十三日であることを改めて知る。
眼に力が入っていることを、今になって気付く。それこそいつの日か言われた、獲物に喰らいつく血に飢えたハイエナのような眼をしているのかもしれない。
路を行く黒い影は、夜風に揺られて恐怖の色を帯びていた。