第一章 青春の陰Ⅱ
2 九月十六日 日曜日
――人間って弱いんだな。
そう思えたのは、今まさにそのときである。
ピクリとも動かずに脈拍が停止した人間を前に、思わず口にした。もうすぐ七十の御老人だから名残はないだろう。かつて政界に立ちやりたいことを思う存分やってのけたらしいから、あの世では死者たちの話題の一つにはなるだろう。
殺人犯となった彼は首を振った。殺人という「愚行」によって、異次元のものと化した自分の精神を立て直した。
三百六十度見渡し、誰もいないことを察する。彼が殺したこいつは、生きるに値しない人間だ。そして、彼は生きるに値した人間を殺した民意の代表者だ。彼が警察に捕まる理由など決して無く、悠々と生きることが許されるのだ。
殺した男はアルコールを含んでいた。警察は歩いている途中によろけてバランスを崩し、後頭部を打ったと、事故と見てもおかしくないだろう。しかし、日本の警察はいざとなれば優秀だ。腹部を蹴り押した跡が残っていたとしたら、いや、多分残っている。その形跡を見逃すはずはないから、殺人の方針で捜査を進めるかもしれない。
「でも、警察が俺に辿りつけることは無いだろ。絶対・・・」
走り去りながら、彼は口にした。無論、彼――美吉蓮治は、正義の鉄槌を下したことに悔恨の情など全くない。
人がちらほら見え始めた。蓮治は走るのをやめ、歩き出した。走ると目立ち、人の目につきやすいと判断したからである。上着にフードが付いていたが、これもまた逆に印象に残りやすいだろう。故に蓮治はそれをかぶらなかった。
どれぐらい歩いただろうか。これまでに駅もあったし、バス停もいくつかあった。でも、乗る気にはなれなかった。歩き彷徨うことが、自分の高鳴る鼓動を抑えるのと同時に、精神を安定してくれる術だと思った。
やっと通常の自分を取り戻した頃のことだった。
「そろそろ、電車で帰るか」
やっと決心して、辿りついた駅は、男を殺した犯行現場の大横川親水公園からは程遠い有楽町駅だった。荒川の方へ向かっていたはずだが、舞い戻っていたらしい。おぼろげに記憶に残っているが、今振り返るとかなり動揺していたから、今どこにいるかなど、あるいはどこへ向かうかなど気にも留めなかったのだ。殺人により引き起こされる精神状態には、恐れるものがあった。横を流れる自動車や少し先の多様な施設、飲食店などに、時折べつだん理由も無く目をやったが、そこから目に入る無数のまばゆい光が、自分に何か問いかけてくるようで当惑した。
――あれは、何を意味していたのだろうか。
定期に入っている残額を精算機で確認しながら、蓮治は考えていた。
(今は、何時だ?・・・)
答えを探すべく、振り返ってから首を左右に振って時計を探した。針は十時半を指しており、部活帰りの電車よりかは大いに空いているだろうが、改札に入って行く人の姿はちらほらと確認できる。
定期を所定の場所に翳して改札に入った。すると、「蓮治!」と自分の事を呼ぶ女声がした。事の後だからすこぶる驚いたが、声のした方へ向いてみると、どういう経緯なのか、すこぶるおしゃれした姿の陽子がこっちへ駆けてくる。一瞬、自分の目を疑った。何度も瞬きを繰り返したが、映る人物に変わりは無かった。
「蓮治、どうしたの?」
「いや、それこっちのセリフ。何でこんなところにおまえが?」
「私は、さっきまで招待されたパーティーに行っていたの。この近くの会場だったから・・・」
「あ、そう・・・」
とんでもない時に、とんでもないやつに会ったな、と蓮治は無性に苦い顔になる。よりによって同級生の陽子とは。それにしても、遅くまでパーティーとは、陽子も育ちが良いのだろうか。
「で?」
「あ、な、何?」
「蓮治はどこしてここにいるの?それもこんな時間に」
「ちょっと、用があって」
「ふーん」
でも、ある意味陽子でよかったのかもしれない。こいつの鈍くさいことといったら並みを大いに超える。兎にも角にも、平静を保っていないといけない。普段通りに接すれば、何も疑われない。何が運命したのか分らないが、不幸中の幸いなのかもしれない。
「どうせだからさ、一緒に帰ろうよ」
「え?」
「行こ行こ」
返事を聞かないまま、俺の腕を勝手に引っ張って行った。よく考えてみると、二人の家の方向が一緒で、JR線に乗車しなければいけない。
(まじかよ・・・)
ほんの一分も話していないのに、急に疲労感が湧き起こってきた。夜遅い時間に数キロ歩いてきたからでもあるが、陽子と接したことによってとどめを刺された感じがした。でも、何があろうと平然としていなければいけない。
掲示板を見ると、電車が来るまで六分。二人はベンチに座って待つことにした。周りの人はごく少なかった。この長そうで短そうな中途半端な時間が、疲れをどっと膨らませる。陽子は何かいろいろと喋っている。適当に聞いて、時折相槌を打って対応した。二時間、三時間待たなければならない田舍の列車ではないが、それと同じような長さを待っている気分だった。
「ねえ、聞いてんの?」
「え?うん、まあ」
「絶対聞いてないでしょ」
「ちょっと俺、疲れてるからさ」
「あ、そう」
陽子は面白くなさそうに黙った。実際、蓮治が疲れているのは事実だ。それを改めて思うと、尋常じゃないほど身体が重くなってきた。そのまま瞼が閉じていきそうなほどである。蓮治はそれを必死に堪えた。
アナウンスと共に、強い光線を放った「鉄の塊」が迫って来た。「蓮治、来たよ」と、身体を揺すられて蓮治は瞳を開いた。いつの間にかまどろんでいたらしい。
「俺、寝ちゃってたね。ごめん」
「蓮治の寝顔って、意外と可愛いね」
「ほっとけ・・・」
思ったことをすぐ口にする御茶目な小娘だ。
ゆっくりと立つと、一度欠伸をしてから乗車した。幸いにも車内は空いていた。端に位置する紺色の椅子に座るやいなや、自然と瞳を閉じた。隣に座った陽子が、持参した本をペラペラと開く紙の音がした。
(俺はこんなにまで疲れていたのか・・・)
いわゆる「愚行」の後、街中で彷徨を続けて、JRの改札へと入ったら同級生の陽子と出会った。今までのこの流れは一体何なのだろうか。偶然の産物として片付けるのは無理がある。深く考えもしないまま、蓮治の意識は徐々に薄れていき、やがて深い闇の中へと迷い込んだ。
右肩に重みを感じ、蓮治は目を開けた。見ると、陽子が自分の肩を枕に熟睡していた。読みかけの本が彼女の膝に乗っている。状況から察するに、陽子も蓮治と同じように大変疲れていたらしい。
(こういうことって、恋仲の奴らがやることだろ)
寝起きの蓮治はため息をついた。慌てて周囲に気を配ったが、こっちを見ている者はいなかった。陽子を無理矢理起こすのも忍びない。というか、仮にも蓮治は大罪を犯した人間だ。清廉潔白の陽子が何だか可哀想になってくる。こんな蓮治に他人を愁うことなど許されないのがもっともだが、無性に配慮してしまう。
(おまえの寝顔の方が可愛いじゃねえか)
陽子の顔を見つめていると、可愛げな寝顔に魅了され、ふと心の中で呟いた。そのとき、いつもの苛立ちなどは全く感じなく、女性としての魅力しか感じなかった。蓮治は息を飲んだ。そして、目を大きく開いた。
彼女の寝顔に魅せられていると、ふと今ここはどこだろうかという疑問が生じた。電光掲示板に目を移すと、赤羽駅で降りるはずが、「次は南浦和」と表示されていた。おそらく、陽子も乗り過ごしているだろう。
(まじかよ・・・)
仕方なく、さっき起こされたように、ためらいを見せながら左手を差し出して、陽子の右肩を揺すり、小さく「起きろ」と言った。ゆっくりと目を開け、自分が蓮治の肩に寄り添っていたことに気付くと、陽子は恥ずかしそうに姿勢を正した。
「ご、ごめん」
「何が?」
分っていながら意地悪そうに聞いてみる。
「え、いや・・・何でもない」
「それより、俺ら寝過ごしちゃって、次南浦和だけど・・・」
「え!嘘!」
俺は唇に人差し指を当て、「電車内」と忠告した。周りには少人数の乗客しかいないが、マナーであることに変わりは無い。
結局、南浦和で降り、赤羽へ向かう電車に二人で慌てて乗車し、再び椅子に隣り合って座った。さっきのことがあってか、お互い疲労など忘れており、妙に畏まって黙っていた。そのまま駅まで沈黙が続いた。電車の揺れに身を任せながら、この微妙すぎる空気から早く脱したいとばかり祈り、目的地に着くのを待った。
学校に行くルート、帰るルートは全く別だったが、陽子は蓮治と同じ赤羽駅で降りるらしい。三年経った今になって、意外と近隣なのかと、蓮治は陽子との親近感らしいものを無意識のうちに感じていた。
蓮治はそのまま赤羽から歩くのだが、陽子はあと一本乗り換えるらしい。お互い「じゃあね」と言って、別れの挨拶を交わすと、それぞれの道へと歩み始めた。一度、蓮治は振り返り、陽子の背を向けた姿を見つめていた。脳がその動作を指令したのは、何が左右したのか分らない。
だが蓮治は、「犯行」後にこうして「魅力的な石井陽子」と巡り会ったことは偶然じゃないと、頑なに信じていた。