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正義の在り処  作者: ゼロ
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第六章 正義の在り処Ⅴ

   5 十月七日 日曜日



「正義、かい?」

「十五年前、警察は保身を理由に不正を隠蔽したんでしょう。殺人鬼を社会へ放すことになることにためらいもなく。正義を守ってこそ、貫いてこそに警察でしょう。その警察さえもそのモットーを裏切るようなことをしたんですよ。俺はあんまり知りませんけど、これまでにもそういうことが、警察組織の裏ではあったんでしょう。鑑となるべき警察が、正義の『せ』の字もない行動をしていいんですか・・・。

遠野嘉政という人間を生かしておいて良いはずが絶対にない。自分の手で不正を実行して、当時の警察官も巻き込んで、挙句の果てに二人の人間を殺して、結局無罪。許せるはずが無いでしょう。俺はこの十五年間、遠野嘉政が殺されなかったことが不思議ですよ。俺や浩大さんのような遺族の人たちなんて、悔やんでも悔やみきれなかった。遠野からすれば、世間の反応は気の毒なものでしたね。自分が殺されて死んだというのに、哀しむ者よりも、喜ぶ者の方が多い。人を殺してはいけないことが正義ならば、世間は正義に反している。

刑事さん、正義って、何だと思います?」

 鳥越は思った。これこそが、蓮治が一番訊ねたいことであり、一番他人と討論し合いたい、そして共有し合いたいことだと。でも、彼に力説を述べたところで、特に意味はないことを鳥越は同時に思った。

 中学三年生という若い頃から、正義というものを唱える。大人でも難儀なトピックだ。子どもの頃から父母がいない環境の中で育ってきたために生まれた確固たる信念が、彼の胸に根付いているのだ。

 しかし、鳥越には真実の正義を貫かなければいけない。一人の刑事として、一人の人間として――。

「どんなに悔いても、どんなに腹が経っても、どんなに憎くても、人を殺していい理由にはならない。人の命と釣り合うものなんて、この世に一つも無いからだ。それは当たり前のことだ。でも、こうして言葉にしないと実感が湧かない。命は金に変えられない。命と引き換えに、そんな駆け引きは卑劣極まりない、人間として一番やってはならないタブーだ。

 当たり前に思うことは、どれも雲を掴むように不安定で、掴みどころがない。だから、理屈では説明できないし、単なる『当たり前』で片付けられてしまう。正義だって同じことだと思わないか」

「その通りですよ。命と釣り合うものなんてこの世に一つも無い。遠野はその尊い命を、何の罪もない命を二つも奪った。そんな人間を殺していけないんですか?絶対に、おかしいですよ。誰も罰してくれない、だったら俺がやる。勇気ある決断だと思いませんか?」

「勇気ある決断?人を殺す上で、『勇気』なんて言葉を使うのか。とんでもない思考だな」

「誰もやらないんですよ。みんな嫌がってやらないときに、自分がやりますと手を上げる。それって、称賛されるべき行動でしょう?」

 鳥越は美吉蓮治との距離を詰め、できるだけ澄ました顔で、そして静かな口調で言った。

「君は、それと同じことを彼女にも言えるのか」

「え?」

 今まで威勢の良かった彼が、初めて弱々しい声を漏らした。意表を突かれた、そんな面持ちだ。

「君は、今と同じことを、陽子さんにも面と向かって言えるのか?それ相応の人を殺してもいい。過去に人を殺した人間だから、復讐のため、正義のため殺していい。自分は勇気を出して人を殺した。それは誰もやらないから称賛されるべき行為。全部言えるのか?本気で好きな女性に全てをさらけ出すことができるのか!」

「それは・・・」

 彼の眼が憐れな色へと変色した。想像しているのだろう。いや、想像しなくてもそんなことできるはずないと分っていると思う。なおさら惨めに見えてくる。

「蓮治君」

「・・・何ですか」

「君の質問に、ちゃんと答えていなかったね。『正義とは何か?』」

「ああ、はい・・・」

「俺の見解を言っておこう。正義とは個々の想いだ。第一に、一般論として正義は、人の道にかなっていて正しいことを意味する。『人』はこの世にその数だけ存在する。『正しい』というのは、その『人』それぞれによって正しいという基準や価値観が違うため、正しさは人間の数に相応する。人間はいかなるときも感情を持っている。心があるからだ。そのときにものさしとなるのは、今言った『正しさ』。自分の考える『正しさ』だと僕は思う。つまり、正義は人間の感情そのものなんじゃないかな。個人の心の片隅が正義の在り処だよ」

「なるほど。正義の在り処、ですか。まあ、掌じゃ掴めない、理論上でしか存在できないものですからね、正義は・・・分りました。ありがとうございます」

 しばらくの沈黙の末、美吉蓮治の瞳が何かを捉えたようだ。鳥越もその視線を辿ると、息を切らして立っている人影があった。西日の光によって、その姿はすぐに判明する。紛れもなく、石井陽子だった。

「俺、ここ来る前に、陽子に話したんですよ。自分は人を殺したって」

「そうか・・・それでも、追いかけてくれる。君は本当に幸せなんだろうね。少し時間をあげよう。最後に言いたいことあるだろう」

 すると、蓮治は涙目になりながら、ありがとうございます、小さくそう言った。その言葉には、大罪を犯した者とは思えない純粋な情念と、「正義」の英雄としての剛健な強さが伝わってきた。


       *


 陽子は一歩一歩蓮治の元へ歩み寄る。再び立ち止まったとき、配慮してくれたのか、鳥越刑事は遠くの方で待ってもらっていることに気付いた。

「陽子・・・」

「どうして、ここに」

「どうしたのじゃないでしょ。だって、蓮治が・・・」

 堪えようとしても、涙が溢れてくる。陽子は必死になって指で拭った。

「ごめんな。俺、今本当に後悔してる。いつまでも陽子の隣にいたかった。俺って、バカだよな」

 陽子は何も言えなかった。首を横に振るだけだ。

「ねえ」陽子は必死の想いで口を開いた。

「私はどうすればいいの?これからどうすればいいの?」

「俺がいなくても、一人で大丈夫。陽子なら頑張れる。それに、俺とおまえはどんなに離れていても、繋がってるだろ」

 蓮治は笑って右手の小指を立てた。照れくさくて、すぐに腰の方に右手を回した。

「どうしてあの日、陽子に会ったんだろうな」

「え?」

「有楽町で会ったじゃん。ずっと考えていたんだけど、やっぱり運命ってあるんだよな。避けては通れない運命が。赤い糸で繋がっていたんだよ、絶対」

「・・・ありがとう」

 蓮治が突然抱きしめてきた。温かく、それでいてそして、見つめ合った。蓮治の顔がゆっくりと寄って来たかと思うと、陽子の唇は心地良い感触を味わっていた。熱い情熱的なキスを陽子は唇から感じていた。同時に、瞳から雫が弛みなく零れてくる。そして、重ね合わした二人の唇は次第に離れていった。

「じゃあな・・・」

 蓮治はすぐに背を向けて駆けていった。そのときになって初めて、蓮治が遠くへ行ってしまうことを現実のものとして受け入れられた。それ故に、陽子は悲しみの度が越え、全身が震え始めていた。

 陽子のファーストキスは殺人鬼とだった。でも、前にも後ろにもこれ以上のキスは無いと思った。もちろん、いろいろな意味で、である。

 陽子は三人の姿が見えなくなるまで見つめていた。太陽は変わらず日差しを送りこんでくる。そのとき、陽子はそれが蓮治の最期になるとは全く考えもしなかった。


 蓮治と別れた後、陽子は動く気力も失せて、近くのベンチに腰掛けていた。鳥越と共に去っていった「正義」の英雄の姿は、もう二度と眼にすることができないのだろうか。

様々な感情が浮かんだり沈んだり。遊具で遊んでいる子どもの歓声が、蓮治と初めて会ったあの公園を思い出させた。

――俺が取ってきてやるから、待っとけよ。

 あのとき、陽子は既に惚れていたのかもしれない。異性の意識は無かっただろうけど、カッコいいとは思ったに違いない。あの鳶色の眼球は、時を経ても忘れなかったのだから、印象の強い出来事だったということは確かだろう。

 陽子は走馬灯のように、蓮治との記憶のページが蘇る。

――からかって、蓮治の反応を見て面白がっていたこと。

――夜遅くの電車で、寝ている蓮治の肩にもたれて、自分も寝ちゃったこと。

――蓮治が黄色いハンカチを取り出し、初めて「好きだ」と言われたときのこと。

――陽子の嫉妬から、思いっきり喧嘩したこと。

――そして、蓮治とキスをしたこと。

 「走馬灯」という表現は虫の知らせだったのか、電話が鳴った。鳥越からだった。

――え?

陽子は絶句した。思わずスマフォを落とした。それは、蓮治の訃報を知らせる電話に他ならなかったのである。

パトカーに乗せて連行しようとしたところ、蓮治が鳥越を振り払って、走ってくるトラックの前に飛び出したのだという。そこからは想像に難くないだろう。トラックが急ブレーキをかけるが、無論間に合わず、蓮治は数メートル先まで飛ばされた。ほぼ即死に近かったという。三人が確認したときはもう脈は無かった。

そのとき、蓮治は黄色いハンカチを大事に握りしめていたそうだ。そう、運命によって出会った陽子との想い出の品である。


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