第六章 正義の在り処Ⅲ
3 十月七日 日曜日
――今日どっかで会ってくれない 陽子
そうメールが来たのは何の変わりもない土曜日の朝だった。昨日の喧嘩、いや、それ以上のぶつかり合いになってしまったが、少なからず抵抗や気まずさが胸中にあった。仮に承諾して、いざ会うとなったら、蓮治はどんな顔で陽子と向き合わなければならないのか。そう思うと、すぐに指が動かなかったが、やがて蓮治は内容を仕上がらせて返信ボタンを押した。
豪兄に「行ってきます」と一声かけて、アパートを飛び出した。
二人は皮肉にも、学校近くの公園のベンチで隣り合って座っていた。正午を一時間後に控えた頃のことである。この場所を支持してきたのは陽子の方だ。特に意味はないけど、と前置きがあったから、ここを選んだことに深い理由は無いらしい。
「昨日は、ごめんね」
陽子が先に口を開いた。その色から、本当に悔いているようだった。
「ねえ、正直に言ってくれる。蓮治はさあ・・・ホントに・・・いや、何でもない」
「そう、殺した。人を」
陽子の言い淀んでいる姿が至上の苦しみだったが故に、蓮治はできるだけ冷静にそう言った。
「そっか・・・」
あまり驚いている様子ではなかった。罪深き殺人鬼が隣に座っているという自覚が無いのか、まだ言葉の意味をよく理解していないのか、ともかく蓮治の想定を超えた反応であった。
「でも」言葉を失くした陽子を見るに見かねて、言った。
「陽子と付き合い始めてから、すっごい後悔っていうか、何をしてしまったんだろうって思えちゃって。俺はなんて大バカ者なんだって気付いちゃって。ずっと、毎晩うなされて、苦しくて・・・」
今まで一人で抱え込んできた何もかもを一気に吐いたような、そんな勢いで言葉を並べた。
「最初はさあ、自分の正義が絶対って信じ切っていて、人間じゃないような人間を恨んでさあ、気が付いたら、殺してた。それから、何か手が覚えちゃって、気が狂っちゃって、二人目も殺しちゃ・・・」
「もうやめて!」
陽子が叫んだ。涙が零れていた。
こうなることは、陽子が涙することは分っていた。しかし、自分を一番分ってくれる、自分のことを一番信じてくれる人には、本当のことを知ってほしかった。何かもを共有したかった。
「ごめん・・・でも、本当の事は、陽子にしか話せないと思ったから」
「私さあ、それでも蓮治のこと、嫌いになれないんだよ」
「え?」
「だって、私、蓮治のこと、心の底から好きだから。絶対に嫌いになれないよ。本当に好きな人のこと、簡単に嫌いになれないから」
蓮治は言葉が詰まるほど嬉しかった。今までの苦しみを全て吐いたからか、嬉々たる想いが溢れ返ったのだろう。これほどまでに愛してくれる陽子を裏切るような愚行を実行したことを、改めて、今まで以上に痛感した。自然と目頭が熱くなる。
「ありがとう・・・ありがとう・・・」
それを繰り返す以外の言葉が、蓮治には浮かばなかった。涙も溢れだしてくる。
――俺を慰めてくれて。
――俺の話を聴いてくれて。
――犯罪者だって分っても、俺を責めないでくれて。
――何よりも、俺のことを愛してくれて。
指で涙を拭い、ふと陽子の方を見ると、目が合った。その後に適応する行動は以心伝心、お互い分り切っていた。徐々に顔を近づけていったが、世の中従順に事が運ばれなかった。生命を賜わなかった機械だから仕方がないが、蓮治の携帯電話がピリリとなり出したのだ。ごめん、と一言残すと、蓮治はスマフォを耳に翳した。
「もしもし」
――蓮治か。俺だ。
「どうしたの、もう少しタイミングっていうものを考えて欲しかったんだけど」
――あ?何かあったの?
「いや、いいから、用件は?」
たとえ自分の人生の十中八九を助太刀してくれた豪兄でも、まさか恋人と口づけを交わそうとしたさなかだったんだけど、なんてこと言えない。
――実は、先ほど例の刑事が来てな、蓮治の行方を訊いてきた。
「そっか。それで?」
――知りませんって言ったよ。本当に知らないから、それ以外言いようがないけどな。
「豪兄には伝えてなかったね。あんまり知られたくなかったから」
――それより、鳥越さんが、午後にでも大横川親水公園で話でもしたいって、誘われたんだけど。これが最後になるって言われた。
「・・・分った。OK出しておいて」
――わかった。じゃあ、連絡しておく。じゃあな。
「あ、豪兄」
――ん?何だ?
「あのさあ・・・今まで、ありがとう」
その言葉に、豪兄は黙ったままでいたが、むしろ何も言ってほしくなかった。まるで幻影の如く目の前に現れたかのように、哀愁溢れる豪兄の姿が思い浮かび、蓮治には彼が何を言いたいのか分る気がした。
それから電話を切って、一つため息をついた。陽子も蓮治の言葉を不審に思ったのか、立ち上がり、ねえ、と恐ろしそうに訊いた。
「まさか、蓮治・・・」
「いつかは来るんだよ。そういう日が、絶対に・・・」
陽子に背中を向けたままそう言った。蓮治、ともう一度陽子が呼んだが、ふと蓮治が空を仰ぎ真っ赤に照る太陽を眺めると、陽子もその眩しい姿に魅せられたのか、歩み寄る足を止めた。そういえば、久しぶりの太陽だった。
連日のぐずついた天気から一変して晴れ渡った空は、覚悟を決めて去りゆく正義の英雄にはすこぶる相応しいと感じた。
宣言通り、蓮治は大横川親水公園に来ていた。既に陽が傾いている頃、鳥越刑事がやってきた。十分ほど待たされたが、気持ちの整理を付けるには十分な時間だった。
「蓮治君、待たせたかい」
まるで待たせていた恋人に言う台詞のようだ。しかし、そんなことで笑ってはいられない。
「一体何なんですか。こんなところに呼び出されて」
蓮治はあえて嫌悪感を強調して言った。鳥越の向こうの空を貫く東京スカイツリーは、いつ見ても荘厳なオーラがびしびしと伝わってくる。あの蒼き塔は日本を象徴する電波塔に相応しかった。
もちろん、何も知らない素振りを装うため、冷然としているわけだが、正直なところ「ついに来たか」と蓮治は覚悟を決めていた。どうしてここに呼ばれたのか、何故最後になるのか、これから想定されることも蓮治は全て承知していた。
少々ためらうような動作を見せながら、鳥越が口を開いた。刑事ドラマにはお決まりの推理タイムが始まるのだろう。
「ここは、十五年前に捜査線上に挙がった公園だ。国会議員の遠野嘉政はここで二人の人間を殺した。一人は峰里大介。もう一人は河辺仁志という会社員だ。そして、十五年の月日が経った先日、その遠野嘉政が殺害され、当時の裁判で遠野の弁護を務めた向田紗江子という弁護士も一週間後殺害された。十五年前の事件と今回の事件は繋がっている。俺はそう信じて捜査をしてきた。十五年前に誕生した人間に人は殺せないが、十五年経ったらもう立派な中学生だ。物事の判断がある程度利くようになる。結論から言おう。俺は、今回の一連の事件の犯人は君だと考えている」
鳥越がストレートに言い放った。蓮治は黙ったまま何の反応もせずに佇んでいたが、それに構わず鳥越は話を進める。
「あることをきっかけに君のことを調べることになったんだ。『鋼のメンタル』と称された君の正義感の強さは折り紙つきだった。病室でも話したが、それが凶となり、何度か問題騒動になったこともあったようだね。その正義が遠野嘉政を許せなかったんだろう?十五年前、二人も人を殺したのにもかかわらず、裁判では無罪判決。そのうえ、不正投資の疑惑があったりした。世間誰もが遠野嘉政が犯人だと断言していた。しかし、法は裁いてくれなかった。だったら、自分で罰を下してやる。そう意を決したんだね。
君は九月十六日。何らかの事情を経て、遠野嘉政と出会った。遠野を説得させ、少し会談をするようになり、二人は十五年前の現場、つまりこの公園に来た。そこで、対話するうちに、お互いの意見が平行線のまま、ついに君の怒りが爆発して遠野を蹴り倒した。それでバランスを崩した遠野は階段の角に頭をぶつけて死に至った。
君は人を殺すことに抵抗を感じなくなったのか、第二の殺害も企てた。向田紗江子という当時の裁判の弁護士の自宅まで行き、玄関の扉が開いたところをナイフで一刺し、殺害した。君は気付いていなかっただろうけど、君の姿は防犯カメラにしっかりと映っていたんだよ」
「防犯カメラ?」
「まあ、君だと断定することは難しい映像だったけど、未成年ではないか、と疑うには十分な証拠だった」
被害者の近所に住む浜田のり子という女性がストーカー被害を受けていて、その対策として防犯カメラを設置したらしい。蓮治は自分の迂闊さに呆れかえった。まさかカメラに映っているとは思っていなかった。ある程度防犯カメラの位置は事前に調べていたのだが、個人所有の防犯カメラまでは気が回らなかった。
「十五年前の裁判記録を見たとき、犯人の狙いはこれだと思った。そうしたならば、当時検事だった人間も殺されるのではないか、そう考えた。それも、一週間ごとに殺されていく傾向からみて、九月三十日にその殺人が実行される可能性が高い。しかし、事は起きなかった。この前、調べて分ったよ。君の付き合っている彼女、石井陽子さんの父親が石井恭二郎だったということを。
そのとき、君は大いなる葛藤を抱いたんじゃないか?自らの正義のため、人を二人も殺してきた。しかし、いざ三人目となったとき、その相手が自分の恋人の父親だった。正義を取るべきか、愛を取るべきか。中学生の君に人生最大の選択を迫られたんじゃないか。血の繋がっていない実の父親ではないから、殺してもいいのではないか。だが、少なくとも彼女は悲しむ。だからといって、今まで信じ、貫いてきた自分の正義を捨てることも惜しかった。違うか?」
「さっきから黙って聞いてれば、いろいろ言ってくれてますけど、その推理にはところどころ穴がありますよね。遠野嘉政と出会った理由を、『何らかの事情で』、って曖昧にまとめたり、物的証拠の一つもありませんでしたよね」
せめてもの悪あがきをする。鳥越刑事が全てを把握していることはおおよそだが見当はついている。だが、正義感溢れる英雄は全てが終わったときに、ありのままの身をさらけ出すものだと、苦しい言い訳を心掛けていた。
「では、核心に入るか」
鳥越の目付きがいっそう真剣さを増した。ついに英雄の終焉を告げる鐘がどこかからか聴こえる気がした。
「君も既に知っているかもしれないが、マスコミではある人物が犯人として片付いている。無論、警察がそう公開したからな。その人物とは、河辺浩大。十五年前、遠野に殺された河辺仁志の弟だ。彼がちょうど先週の日曜日に自首してきた。
事情聴取によって語られた河辺浩大の話は一件筋の通ったものだった。遠野が蹴られた際に付いたと思われる腹部の靴跡は二十八センチのサイズだったが、河辺浩大の靴の大きさはそれには届かない二十六センチ。そのうえ、浜田のり子の自宅玄関先に取り付けられた防犯カメラに映っていたのは少年と思われる人間だけだ。彼に犯行は無理だ。
つまり、誰かをかばって自首したことになる。俺の推理上、犯人は君だ。したがって、河辺浩大がかばっている真犯人とは、君だ。
しかし、ここでまたしても謎が生まれる。どうして河辺浩大は君のために罪を被ったのか。俺は一つのとんでもない仮説が生まれた。それは君が二人の人間を殺した本当の動機にも繋がり、河辺浩大が自首してきた謎にも繋がるものだった」
蓮治の心臓の鼓動は今にでも破裂しそうな勢いで高まっていった。冷静になろうと努力すれば努力するほど、高揚していく自分がいた。鳥越刑事の次の言葉によって、それは最高値にまで達したのだ。
「十五年前、遠野に殺されたうちの一人である峰里大介は、君の実の父親なんじゃないか」




