第五章 黒雨の禁忌Ⅳ
4 十月五日 金曜日
陽子は泣きながら濡れた家路を踏んでいた。度々つい足に力が入って、それによって飛沫が舞い、足にかかった。しかし、悲愴の場面が頭のスクリーンにぱっと映し出されると、それに気がまわらないほど蓮治に意識が集中するのである。
――人、殺してるくせに。
今更だが、取り返しのつかない暴言をぶつけてしまった。さっきは感情の高ぶりから咄嗟に出てしまったのだから、仕方ないで片付けさせてしまうのは蓮治に大変申し訳ないが、仕方ない。
もともと鳥越から、今、世間を騒がせている大事件の犯人が蓮治なのではないか、という推論を聴かせてくれたのは、陽子のことを心から信用してくれたからである。裏切らない保証なんてどこにも無い、「信頼」という抽象的なものを理由に、鳥越は推理を聴かせてくれたのだ。鳥越にもうしろめたさが募ってきた。
もちろん、心の内では蓮治のことが好きだ。堪らないほど好きだ。好きだからこそ、あのように本心をぶつけてしまったということもある。自分の気持ちなんて、誰にも分ってくれない。誰だってそうだろう。正確に読み取れる人なんていないのだ。絶対に微量でも誤差、差違が生じるのだ。「分ってよ。私の気持ち」と叫んだものの、叶わぬ頼みである。でも、分ってほしい。自分を理解してほしい。その想いが前に前にと押し出てくるのだ。
家に着き、自分の部屋の扉を開けるやいなや、それを待っていたかのように机上のスマフォがメロディと共に鳴りだした。慌てて手に取り、指を器用に動かせた。
「もしもし」
相手は浪恵だった。
それから陽子は、母親に断って、浪恵と会っていた。下を川が流れる橋の上である。さっきに比べて雨の勢いは劣化していた。でも両者傘は手放せない。
「どうしたの?こんな時間に」
できる限りの笑顔を作ってみせた。
「大丈夫なの?陽子」
そんなことだろうとは思っていた。蓮治とのこれからを憂慮しているのだろう。
「少し時間経てば、大丈夫だと思うよ。多分・・・」
不安定な解答をした。
「ホントに大丈夫なの?私、友達だから言うけどさ、尋常じゃないと思うよ。蓮治も陽子自身も。本当は今にでも張り裂けそうなくらい苦しんじゃないの?」
陽子は黙った。
――当たり前じゃん。
自分と付き合っている人が違う女と口づけを交わした。その事実が、陽子の心をか細い糸でグルグル巻きにされたように束縛するのだ。太いロープではないから、触れる面積が極小のため余計にその力が強まるのだ。
いっそうのこと、このまま別れてしまおうか。ふと陽子は考える。しかし、本気で好きになってしまった人を易々と手放してしまうのは嫌だ。この苦痛は人生初めて感じたものだった。
その旨を浪恵に伝えると、くるりと振り返り、川の行方を追うように、目が遠い空の方を向いていた。
「私もね、陽子は知らないかもしれないけど、龍也と大喧嘩したことあるんだよ」
「そうなの。全然聞いたことない」
「小学生の頃の龍也が昔好きだった子とね、偶然鉢合わせになっちゃって、何かそういう雰囲気になっちゃって、それが原因で亀裂が入っちゃって。そのときね、私その彼女に、ものすっごく嫉妬したんだ」
「浪恵が?」
「そう。誰だってそうだよ。自分の好きな人が他の女子と喋っていると、何か悔しいとか思うでしょ。女に限らず、男子もそうだと思う。世界中の誰もが、恋すると嫉妬が後ろからついてくる。そう思わない?」
「そうだね」
浪恵の唱えには説得力があり、本心から頷けた。
「話戻すけど、それから一週間くらいお互い気が引けて会話できなかったんだけど、時間経ったら、それまで通り接していけたから、陽子も待てば大丈夫だよ。喧嘩した後は距離を置くことが一番だって私は思うよ。まあ、私よりもっと苦しんでいると思うけどね。事が事だし」
「私、蓮治に酷いこと言っちゃったんだよね」
「酷いこと?」
(あ――)
言ってから、陽子は「しまった」と思った。無論、酷いこと=蓮治が殺人鬼だと訴えたことだ。浪恵は鳥越の推論を聞いていないから、何のことか分らないはずだ。
「詳しいことは言えないんだけど」
そう言って濁した。
「素直に謝れば」
「謝って済むようなことじゃないの」
どうすればいいのか、陽子は戸惑った。もう既に鳥越を裏切ってしまった。そうしたら、一回も二回も同じことではないか。そう考えると、浪恵に衝撃の話を明かすべきだろうか。
「どうしたの、陽子?」
「驚かないで聞いてくれる」
その陽子の前置きで、浪恵はよっぽど深刻な話だと察したのか、真剣の色が強まった。
「蓮治、人殺しているかもしれないの」
「え?」
場に似合わず、甲高い変な声を発した。
「どういうこと?」
事の深刻さが徐々に伝わってきたのか、浪恵は微動だが震えていた。陽子はサッカー大会の際に居合わせた鳥越という刑事の説明から、その鳥越が事件を追っていて、その犯人がちょうど今話題になっていた蓮治なのではないか、という突飛な一論を説明した。
「そんな・・・」
言葉を失った様子である。無理もないことだ。今まで仲良くしていた同級生が、人を二人も殺した悪魔だったなんて事実を、誰が認めるというのだろうか。浪恵の姿を見ていると、鳥越から始めて聞かされたとき、あまり驚かなかった自分がいたことに対して、陽子は不思議に思った。
「そのこと蓮治には?」
「だから、酷いこと言ったって・・・」
「え!面と向かって『あなたは人を殺した』って言っちゃったの?」
「『人、殺してるくせに』って」
「同じでしょ」
沈黙が流れた。
次第に小雨は完全に降ってこなくなり、二人は傘をすぼめた。雨の上がった天を仰いで、その天から授かったように、浪恵がポツリ呟いた。
「今みたいに、ちゃんと雨上がるのかな」
「え、どういうこと?」
「陽子たちのことだよ。陽子たちの今は、どろどろしていてさっきの雨みたい。その雨は上がるのかなあ、そういうこと。今の雨みたいにカラッと晴れてくれればいいんだけどね」
「止まない雨はないって、よく言うでしょ。どんな雨でも・・・」
強気な発言とは逆に、陽子は自信無さそうな口調で言った。それもそのはず、殺人鬼と言う汚名を被った蓮治と陽子の上にある空は、黒い雲が覆い、ずっと雨が降り続けるそんな気がした。今のところ、希望の日差しが望める兆しは無かった。
「陽子」浪恵の目が陽子の目をまっすぐに捉えた。
「大丈夫だよ。陽子の〝陽〟は、太陽の〝陽〟だよ。いつかは照らしてくれるよ」
太陽の〝陽〟か――。
そういえば、母に聞いたことがあった。小学校四年生の頃だった。小四はちょうど十歳だから、「二分の一成人式」という題目で、自分の出生などについて見つめ直すという時間が設けられた。それを機会に母から聞いたのだ。
陽子という名前は亡くなった祖母が名付けてくれたそうだ。たった二文字の名前でも、そこには多数の意味、願いが込められていたのだ。
まず、今浪恵の言った通り、太陽のような子になってほしい。「太陽のような」にも祖母の様々な思いが詰め込まれている。自分が太陽のような存在になり、場を明るくしてくれるように。太陽の周りを回る惑星や無数の星達のように、いざとなればリーダーシップを発揮して、他者を引っ張っていってくれるように。たとえ雲の陰に隠れたとしても、いつかは現れる太陽のように、どんなときも挫けず、自分を信じるように・・・というように多々ある。
「太陽のような」以外にもある。
――「日向」という意から、社会の闇に触れないように。
――祖母が山陽地方出身だったから。
――「陽」は総画十二画。十二支、十二星座、二六時中・・・というように、十二という数字は縁起が良いと思ったから。
これらを総合すると、「名前」に対し、感謝の情が浮かび上がる。名付け親はその人なりの考えを絞りに絞って導き出すのだ。いつかは自分にもそんなときが来るのかもしれない――そう思うと、取らぬ狸の、とは言うが、陽子は形なき温もりを覚える。
それから二人は離別した。最後は、お互い笑顔で手を振ることができた。
「五月晴れ」という言葉がある。時代と共に言葉も変わるとはよく言ったもので、現在は五月の晴れのことをその意味として掲載している国語辞典もあるらしいが、それは誤用で、元々は梅雨と梅雨の間の晴れの事を指す。
梅雨のような長く儚い雨でも、いつしかは晴れることを信じると陽子は決めたのだ。しかし、一瞬晴れて再び長い雨が到来するのではないか。晴れたのは梅雨と梅雨の間のことであって、それからは虚しくも長期間の降雨が待っているのではないか。一抹の不安を抱いたが、信じることに不安は付き物だと、両者は表裏一体の因縁だと合理化して、陽子は深くみないことにした。
天気予報が言うには、明日の土曜日からは連日の雨から脱し、晴れるようだ。その晴天を半信半疑に思いながら、テレビの画面を消した。




