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正義の在り処  作者: ゼロ
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第五章 黒雨の禁忌Ⅱ

   2 十月三日 水曜日



試合での気絶は何だったのか、と思えるような回復で、事情を知らない生徒はいつもの蓮治を見る目のままだった。大会ということもあって、蓮治は未だに微少の疲れがとれていない状況だったが、笑顔で振る舞った。

 ハプニングから数日後、いつも通りの平凡な朝を迎えたが、蓮治がドキリとしたのは昼休みのときである。

 用事があって、教室のある二階から三階に通じる階段を上っていたのだ。踊り場に差し掛かったとき、三階から駆け下りてくる生徒が視界に入った。そのまますれ違うのが「世」の成り行きだが、そうならないから「世」は面白いし、飽きないのである。良くも悪くも・・・。

きゃ、という甲高い声が耳に入ったかと思うと、その生徒の身体が勢いよく接近してきた。瞬間的に蓮治は腰が引け、両腕が少し開いた状態になった。そして、その生徒は覆いかぶさってきたのだ。いわゆる、蓮治が彼女を抱いた光景になったのだ。突き飛ばそうかと思ったが、蓮治の根っこの優しさがその衝動を抑えて、「だ、大丈夫?」と弱々しい声を出した。

「うん」

「希・・・」

 今になって分ったが、顔を見ると、その生徒とは二年のとき同じクラスだった美濃(みの)(のぞみ)だった。比較的小顔の希は、ショートヘアーが似合う子だ。その美貌は彼女の一つの武器でもあった。

実は中一のとき、蓮治は希から俗にいうところの告られたのだ。恋愛という概念に深い理解が無かった蓮治は「俺、そういうの、ちょっと無理だから」と、慌てふためいて断った。「それでも・・・」と言う彼女も、その駆け合いが繰り返し行われたら、落ち込んで、泣きそうな目をして去っていった。そのときの眼は何故か、今でも鮮明に映像としてインプットされていた。脳がこれは忘れてはいけないと、蓮治のためを思って勝手に記憶しているのかもしれない。

「ありがとう、助けてくれて」

 希が笑って言った。

「お、おう、怪我しなくてよかった・・・じゃあね」

 一刻も早く、想いが先へと急ぐ。「ねえ」と呼び止められる。蓮治が振り返ったことを確認すると、愉快そうに「何でもない」と笑い、ゆっくりと降りていった。

周りを見たが、幸いにも「目撃者」はいないようなのでほっとしたが、希を抱いたという現実に、安堵の時間など無いに等しかった。もし陽子がさっきの光景を目の当たりにしていたら、蓮治はどうしていただろう。どんな言葉を発していただろう。そして、陽子はどんな反応をしていただろう。想像を広げるだけで、快くなかった。

数分階段の途中で硬直していたから、他の生徒が「どうしたんだろう」と、不思議な目を向けていただろうけど、蓮治は全く気に掛けなかった。

その日は希との一件があっただけで、無事に校門を出た。陽子に「委員会だから、先帰ってて」と言われたため、独りで路を歩いていった。陽子は一応学級委員だ。時期が時期になれば忙しい訳だ。中途半端な時間らしく、帰り道、ちらほら数えるほどの人数しか下校している姿は見えなかった。

 家に帰った際、昼間に刑事が来たことを豪兄から伝えられたのだが、大して驚かなかったのは豪兄に不信感を与えるかもしれなかった。刑事が来る心当りでもあるのか?と訊かれたが、知らないふりをした。

病室で鳥越が残していった、「今日はこれくらいにしておくよ」という言葉から必然的に結びつくのは、「また来る」という事実だ。それ故、鳥越の来訪には蓮治は驚かなかったが、その事情を知らない豪兄にとっては驚愕の来客だったのかもしれない。

しかし諦めたのか、すぐに問うのは止めた。少し不気味に感じるものがあったが、重く捉えないことにした。

(それにしても――)

 明日までの課題を終え、蓮治は胸の前で腕を組んだ。

 あの男がどこまで知っているか、それが一番の懸念材料である。初めて会ったのは、既に遠い昔のことのように思えてくる一昨日のことだ。改めてこの事実に驚かせられる。すなわち、この三日間多忙だったということだろう。サッカーの大会はあったし、そこで頭ぶつけて病院に搬送されるし、確かに身体が休みきれていない気がする。

 警察が自分に辿りついた過程を知りたかった。どういうルートで辿ってきたのか。何度も事件当日の行動を振り返ってみたが、特に目立った損失はなかった。それよりも、今更のように「恐怖」に戦いていた。今になって、殺人が重大な過ちであることを、自分の内ではタブーだと分っていても、痛感していた。

蓮治は思った。

――もしも、自分がごくごく普通のどこにでもいる中学生だったとしたら、どうだったんだろう。

 好きな人がいて、純粋な恋を堪能したいのに、自分には裏の顔があり、それも殺人鬼という血塗られた仮面をかぶっているのだ。

――もしも、純粋に陽子を好きでいられたら、どうだったんだろう。

 蓮治の頬に伝わっていくものがあった。それは、顎に着くと、無情にも真っ逆さまに落ちていき、卓上に溜まっていった。必死で拭って、心の乱れを落ち着かせた。

そのとき流した涙が、翌日のとんでもない出来事の予兆だったのかもしれない。もっと警戒するべきだったと、蓮治は明日の今くらいには思っていたのだ。

問題の翌日。昨日の深夜からの雨が引き続き降っており、丸一日傘が必要だと朝の予報は視聴者に伝えていた。

「蓮治」と声がした。その声の持ち主は浪恵だった。こっちの返答も聞かずに、「ちょっと来て」と、腕を掴まれ廊下に出た。何か、悪事をやらかして廊下に立たされる際、先生が生徒の腕を引っ張る、今ではほとんど見られなくなったが、そんな情景が浮かんだ。今の浪恵の勢いだと、廊下に立ってろとでも言わんばかりだった。

「どうしたの、そんな怖い顔をして」

「昨日、昼休み。ここまで言えば、当事者なら分るでしょ」

 浪恵の言うとおり、当事者なので理解できた。どうして浪恵の耳にも届いているのか。あのとき観ていた人はいなかったはずだ。蓮治から口を開くことなど、絶対にしない。となると、希がペラペラと自ら語ったということか。何にせよ、結果は最悪のパターンである。

「どうして、そんなことしたの」

「いや、だから、あれはあっちが階段で転びそうになって、それを偶々俺が抱くことになっちゃったって話でしょ。意志があってやったわけ有り得ないでしょ。俺には陽子がいるんだし」

 俺には陽子がいる――と、言ってから、何か照れくさくなり、はにかんでしまった。

「だって噂によると、希ちゃんと流れで抱き合ったって」

「はあ?だから階段で偶々・・・」

「分った分った」

 浪恵は遮った。

「蓮治が不倫したかと思って、私ホントに心配したんだからね。陽子、まだ来てないけど、どうするつもりだったの?」

「どうするって・・・ってか、不倫って意味違うだろ」

 不倫は結婚制度から逸脱した男女関係のことだ。しかし、もともとは倫理から外れた、つまり人の道から外れたことが本来の意味らしく、近代では「男女の秘密の関係」という意味が込められているようだが、結婚していない蓮治に不倫という表現は適切ではない。蓮治はそのことを言いたかったのだ。

「いいの、そういうことは。ま、いいわ」

 その後、いつもより遅く登校してきた陽子が話題の一件を聞き、浪恵経由で蓮治からの必死の訴えが伝えられた。

「分ってるよ。蓮治はそんなことしないもん」

 陽子は心から蓮治のことを信用してくれているようで、素直に嬉しかった。

 「人の噂も七十五日」という諺があるが、本当に人の噂はすぐに忘却されるものだ。しかし、日本には「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」という諺もあり、昔の人はよく考えたものだと、「事件」後の蓮治は感心させられたのだ。

 事件は放課後のことだった。用があって、五時前まで学校にいた。帰り際、蓮治は教室に忘れた財布を取りに行ったのだ。無人の教室で、もちろん照明はついていなかった。そのうえ、窓の外は音を立てて雨が降っている。シュールな環境だった。

「れーんじ」

 聞き覚えのある呑気な声が蓮治を呼んだ。やにわに声がしたので当然驚いたが、何よりも驚いたのはそこに立っているのが、例の小さな騒動を起こした希である。昨日のように微笑していた。

「どうしたの?こんなところで」

「私ね」希は徐々に近寄って来た。距離が一メートルあるかないかまで来たとき、希は衝撃の言葉を口にした。

「私、蓮治のこと好きなんだ」

「え?」

 自分の耳を疑った。

(隙間、すき焼き、スキー、スキンヘッド――)

 「スキ」から始まるどうでもいいことばかりを心で唱えて、「好き」の二文字を抹殺しようとした。しかし、ただの無駄骨で、消そうと努力すればするほど、その二文字がくっきりと色や形を授かったように頭の中に刻まれていく。

「な、何だよ急に・・・」

「蓮治は私のこと好き?」

「俺には・・・」

「陽子がいるって言いたいんでしょう。蓮治、ほんとに陽子のこと好きなの?」

「・・・当たり前だろう」

 未だに希の意図が理解できなかった。

「じゃあ、こうしたら?」

(こうしたら?――)

気付いたときには、蓮治の唇は希が支配していた。柔らかく、心地良い感触を覚えた。十五年して初めてのキスである。相手が希であることも忘れ、蓮治は口づけにただ浸った。やっとのこと我に返り、昨日と同様突き飛ばしたかったが、何故か身体が動かなかった。まもなくして、希の顔がすっと戻った。

「どう?」

 何もなかったように希は訊く。

 蓮治は黙ったままだ。唖然としているというのだろう。照明も点いていない無人の教室の真ん中で、蓮治と希は口づけを交わした。その現実が悪い夢であってほしいと願った。

 視線を逸らそうと、焦点の定まらないさなか、捉えた人物は何と、陽子だった。

「嘘・・・」

ショックのあまり、持っていた鞄を落としたようだ。陽子は今にでも泣きそうな顔をしている。

 どうやら、一部始終を観ていたらしい。蓮治の胸には絶望の二文字が満たしていた。くっそ、と呟いたときに蓮治は視線を床に落とした。もう一度頭を起こしたときには、いたはずの陽子の姿はなかった。

「陽子・・・」

 蓮治は振り返って希を見た。蓮治の威嚇の眼差しにも屈しない平然とした希がいた。

「ふざけんなよ」

 静かな怒りをぶつけ、舌打ちを残して陽子を追いかけた。

「陽子!」

 廊下を駆ける陽子は背を向けたままだ。途中、階下から上ってくる生徒にぶつかり、擦り傷を負い、若干ロスしたが、挫けずに追いかけた。玄関で蓮治が靴を急いで履いているとき、陽子が校門を出ていくのが望めた。傘で肩より上は隠れてしまっていたが、彼女の顔色が目に見えるようだった。外は雨だが、傘を差すよりも追うことを優先した。校門を出てすぐ、降雨の影響で大胆にずっこけてしまった。ほぼ全身が濡れてしまったが、蓮治は追うのを決して止めない。

 何度も「陽子」と叫んだ。何度も「待て」と叫んだ。しかし、どんどん小さくなっていく陽子の後ろ姿は、信号の関係で一分も経たないうちに見えないものとなっていた。

仕方なく追跡を諦めた蓮治は肩で息をしていた。その肩を打つ雨はそのまま心臓に達したように、ズサリと胸が痛んだ。傘も持たずにたたずむ蓮治を見て、通行人は何があったのかと、不思議そうな視線を向けていたが、ただただ通り過ぎていくだけだった。

「陽子・・・」

 もう一度、そう呟いた。


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