第一章 青春の影Ⅰ
第一章 青春の影
1 九月十三日 木曜日
「今日も遅刻か、美吉」
この三年間、担任の先生にこの言葉を何度言われてきたことか。美吉蓮治は頭を下げることしかできなかった。坂田先生との数分のやりとりを終え、やっとのこと自席に着くと、隣で石井陽子が半笑いしていた。
「何だよ」と意地を張ると、陽子は「バーカ」と言った。無性にイライラしてきて、蓮治の心に火が付く。
「おまえさ、誰に向かってバカとか言ってんだよ。俺の成績の良さを知らないの?」
少々声を強くして反抗したのだが、陽子は聞いていないふりをしていた。その意味が分らずにいた蓮治は「聞いてんのかよ」と更に大きな声を張り、その勢いでバっと立ち上がった。
そのとき、自分のことを呼ぶ声が聞こえた。黒板の方に視線を戻すと、自分の席から僅か三十センチあるかないかの位置に、坂田が仁王立ちしていた。
(陽子の奴め・・・)
自分に被害が及ばないように、聞かぬふりをしていたのだ。まったく、このクラスの学級委員とは思えない悪だくみだ。第一、学級委員はクラスのみんなのために尽くすのが存在意義ってものだ。
「おまえは遅刻したのに、何を喋ってんだ。少しは反省しろ。反省を」
「だって、こいつが・・・」陽子を指差す。
「だってもくそもねえだろ。こっちは反省しろって言ってんだ」
「・・・はい」
蓮治は観念して席に座ったが、横をみると、陽子がまたからかってくる。一瞬、腰を浮かせてしまったが、胸に込み上げてくる怒りを鎮めようと唾を何回も飲んだ。
こんなことが日常茶飯起きていた。いや、起こしていたという表現の方が正しいかもしれない。時に、自業自得。時に、陽子の手によって。
生活面ではぐちぐち言われるが、さっき自分でも言ったように、成績は優秀である。いつも首位を争うほどの頭脳を持っている。だから、不定期に行われる面談では、学習については何も言われないのだが、遅刻を始めとし、勉強以外の数々の点の指導のせいでクラス、いや学年一の時間を費やすのだ。問題児は問題児でも、普通とはいささか異なる生徒なわけだ。
問題といえば蓮治の、言うならば「鋼のメンタル」には先生さえもが参ってしまう。後で振り返ると、自分でも驚くような誰も止められないような愚行に走ることもある。
いわば、自分が自分の正義に基づき、その正義に謀反した人間を徹底的に追い詰める、といったところだろうか。しかし、これといって蓮治の正義は間違いではないのだ。相手が悪い。傍から見ても相手が悪い。そういう奴しか俺は相手にしない。蓮治が目にした奴は、勝つまで攻め続ける。どんな手を使っても、相手が降伏するまで戦い続ける。
中一の秋ごろだった。
我が城川中学は私立学校で受験もあったが、小学校や塾からの知ってる顔も十分にいた。それは、新しい集団で一年を過ごすことを意味している。四月ごろの緊張や警戒心は何だったのか――そんなことを感じさせられるほど、新鮮な環境に慣れ、綺麗言のように聞こえるが、友情が芽生え、お互いに認識し合える時期だ。
それまで、それなりに平穏無事にスクール・ライフを送ってきたわけだが、この蓮治がまるで突然街を襲う地震のように、クラスの「足元」を揺るがしたのだ。
男子中学生というのは、すぐじゃれる、ける、殴るが然るべき光景のようになってきているが、その場面というのも、時折つっこみのように他人の頭を叩いたり、それに乗っかったり、とにかく他愛もない会話をしている時だったのだ。
普通に好く接していた紺野忠嗣という男子が、故意じゃないが、蓮治の制服の第三ボタンをむしり取ってしまったのだ。
「あっ・・・」
お互い、カランカランと床に落ちたボタンを見た。
そのとき、四、五人で話していたのだが、それに気付いたのは「被害者」の蓮治と「加害者」の紺野の二人。「残りのみんなが目撃していない」「まだ蓮治が硬直している」そう判断したのか、罪を逃れるためか、紺野は蓮治以外の、すなわち事情を知らない会話中のクラスメートに「ちょっと、トイレ」とだけ言って、教室を出ていったのである。
その言葉に、蓮治は胸にこみ上げるものがあった。闘争心が燃えあがってきたというべきだろうか。すぐさま、紺野を追いかけた。後で聞いたことだが、そのときの蓮治は、獲物に喰らいつく血に飢えたハイエナのような眼をしていたらしい。
舌打ちだけを残して、大きな音を立てて教室の扉を開けると、まだトイレへ向かっている紺野に、「おい、待てよ!」と走りながら叫んだ。その勢いで廊下の壁に紺野の体躯を押しつけると、紺野の胸倉を掴んだ。
「おめえさ、人のもの壊しておいて、そりゃあ、ねえだろう。何がトイレだ。トイレ行く前に言うことあんだろ。謝ることもできないのかよ、おまえは」
静かめのトーンで怒りを爆発させる俺に、紺野は対抗してきた。
「ボタンぐらい自分で止められんだろう。そんなに怒る必要あるわけ?」
トイレから出てくる他クラス、他学年の生徒は関わりたくないからか、一度だけ目をこちらに向かせて素通りしていく。
「自分でボタン止められるから、人のもの壊していいのかよ。自分が壊しても謝らずにいていいのかよ」
何だ何だと、徐徐に野次が集まってきた。そこからしばしの沈黙が廊下に流れた。観衆も空気を読んだのか、何もしゃべらない。その空気に嫌気がさした蓮治は行動に出た。
「何か言えよ!」
その言葉と同時に、俺は押さえていた腕を外し、その手で紺野の頬を殴った。さすがに止めなきゃと察したのか、周りは止めにかかる。殴られた紺野は床にへたりこんだ。殴られた箇所を痛そうに手で抑える紺野に「大丈夫?」と心配する野次馬たち。
さすがにこの状態では――と観念し、蓮治は教室に戻った。
その後、担任の先生に事情を尋ねられ、無理矢理和解させられて事は治まったのだが、それから必要以上の会話を御互いせずに、進級の際のクラス替えで、見事(?)クラスは別れた。
非は紺野にあるのだが、暴力を振るったことにより、こちらも非難されることになったのだ。でも、自分は自分の正義に基づいて行った行為であるから、紺野に成敗を与えただけであり、もちろん非行なんて微塵も思わない。
この実体験はまだ普通の方であり、風呂敷を広げればそう珍しくも無い。自分でも思い出すことすら拒んでしまうような事例がある。それは後々打ち明けるときが来るであろう。
当事者に深い事情や言い訳があったとしても、外から見れば中学生同士のただの喧嘩だ。バカな騒ぎに付き合ってはいられんと、担任の坂田先生は毎回面倒な思いをしているらしい。
遅刻したから三分の二しか授業を受けていないが、どうせ分りきったことだからと、何ら心配もしていない。
チャイムが鳴り、授業間の休み時間になった。
「あのさ、陽子、一緒に喋っててさ、俺だけ怒られるっていうのは不平等ってもんじゃないの?」
「だって、蓮治をいじるの楽しんだもん」
気味が悪いくらいニコニコしながらそう言った。
「はあ?」
全く呆れたものだ。人をいじって快感を覚えるとは、今の若者を見ていると日本の将来が思いやられ・・・と、自分もその今の若者であることに心を痛める。
「蓮治、次、音楽だよ」
近くの席の久留嶋龍也が、おそらく音楽の支度をしながら忠告した。
「言われなくても、分ってるよ」
龍也とは小学校から一緒の親友で、俺の「鋼のメンタル」の件も本心はどうかはしらないが、一応分ってくれる一人だ。さっぱりとした髪型で、細々とした顔貌が昔からの特徴である。
「そういえばさ、龍也。何で昨日メールしてくれなかったの?心配したんだけど」
都木浪恵が音楽用の鞄を手提げて、龍也に訊ねる。浪恵は龍也の彼女だ。
「あ、ごめん。ここ一週間、親に電話取り上げられてて。急だった?」
「別に大したことじゃなかったからいいけど」
「そうか。蓮治、行くぞ」
全く、青春なんて社会までの道程に過ぎないのに、恋愛なんてものにうつつを抜かすと、社会の道を踏み外すことが懸念してならない。でも、せっかく中高合わせて六年間もの時間があるわけだから、納得できる部分も無くは無い。分っていながら、夢見る思春期の蓮治である。
そんなことを龍也と浪恵の二人を黙視しながら考えていると、頭に物体がぶつかってきた。
「痛っ!」
物体が飛んできた方に目を向けると、またしても心の底から苛立ちが湧いてくるあの顔が俺の眼に映った。もちろん、陽子である。
「行くよ。ノロマさん」
またしても、苛立つ顔に苛立つ言葉だ。そうこうしているうちに、教室は無人。だれもいなくなった教室を眺めた。ため息を漏らし、振り向いたときには陽子の姿さえもが既に見えなかった。
「誰がノロマだよ」
そんな独り言兼愚痴を呟いて、音楽室へと向かった。
五教科――国語、数学、社会、理科、英語に比べ、専科は苦手だった。特に音楽は最も不得手と言っていいかもしれない。しかし、その分努力するから、好成績は保たれている。苦手だからこそ他教科より磨きをかけるという思考が、常人には欠落しているため、通知表が伸び悩んでいるのだと龍也は言う。
しかし、音楽で「5」をとったことは一度も無い。どんなに頑張っても「4」止まりだ。理由は本人が一番理解している。無論、技術面だ。「秀才」で名が通っていたことに劣ることなく、昔から音痴で有名だった蓮治は、技術の評価で大いに減点されている。これだけはうんともすんともできないことだから、正直諦めている。
音楽室の扉を開く度に、そんなことを考え、そのたびに胸に込み上げる憂鬱や苦痛を逆手に取って、自分を立て直している。
毎度のことになってきて、別段珍しくなくなってきた故に、遅刻したことなんてその日の昼休みには記憶から抹消されていて、教室から窓の外を眺め、龍也たちと歓談の快楽に浸っていた。だが、時折入る龍也と浪恵のいちゃつきに少々苛立ちを覚える。決して嫉妬というつまらない理由では無い。絶対に――というよりも、信じたい。潜在的に内に秘めているのは、ある意味人間らしい憧憬、嫉妬という情動なのかもしれない。そんな事実を認めたくない一方、認めたいという自虐的な気持ちもあった。思春期に生まれるジレンマ、と言うべきか。
蓮治の心を見透かしたのか、次の瞬間、龍也が鋭いことを口にした。
「おまえも、彼女の一人や二人、作っとけば」
「は、はあ?」
「顔に書いてあるよ」
そう言って、龍也はどこかへ去って行った。次いで、浪恵も蓮治にくすりと笑って龍也を追いかける。一瞬、陽子の姿とダブって見え、目を疑ったが、それどころではない。どことなく怪しい占い師に自分の事柄について当てられたときに見られるような動揺を、蓮治は隠しきれない。どうして分ったのか。その疑念が生まれ、探究心へと徐々に変化していくような様子に自分のことながら気付く。
「へえー、蓮治って、彼女欲しいんだ」
いつのまにか陽子が隣の窓からグラウンドを眺めている。気配を消していたのか。いや、違う。陽子の存在に気付かないほど戸惑っていたのだろう。
「バーカ。なわけねえだろ。龍也の勝手な思い込みだ。彼女いるからって調子に乗り上がって」
あくまで冷静を装ったつもりだが、墓穴を掘った。
「ほら、やっぱりそうだ。龍也のこと羨ましがってる」
「だから、違うって」
必死に否定し続けるが、それは逆に自分の首を絞めていくだけであった。
「蓮治って嘘つけないタイプだね。すぐ顔に出ちゃうんだもん」
「何とでも言ってろ」
「蓮治に隠し事あったら、絶対にばれるね」
陽子は面白そうに言っている。
「今まで隠し事なんてしたことねえよ」と負けずに反論すると、「どうだかね」とだけ言って、スキップしながら駆けていった。