第四章 白線の交わりⅣ
4 九月三十日 日曜日
「すごーいあの選手」
「今のシュート、すっごいね」
陽子と浪恵は興奮状態で立ち上がっていた。一方、結衣は静かに戦況をじっと眺めている。一応、教師という立場を壊さないため、ハイにならないように気持ちを抑えているのかもしれないが。
ちょうど今、片方のチームの得点が入ったところである。配置的にフォワードだろうか、一人の選手が豪快なシュートを見事に決めたのである。今行われている試合のチームはどちらとも陽子たちは知らない選手ばっかりだった。しかし、ここまで高揚するとは思わなかった。一言で表すならば、「楽しい」が最も似合う今の陽子だった。
その後両チーム奮闘するも、結局先ほど得点を得た――陽子たちが感激、唸っていた――チームに勝利の女神は微笑んだ。
それにしても、よくもああまでして足だけで球を操れるものである。足でボールを上手に蹴ったり運んだりするのは、サッカー経験のない陽子には考えられない。こうして目の前で走り回る選手たちには感心させられるばかりである。
ふと、船越先生の恋人の刑事が観客席から抜け出し、階下へ行く姿を捉えた。トイレにでも行くのだろう、と特に気には留めなかった。しかし、先ほどの光景がまだ脳裡に浮かびあがってくる。刑事から「遠野嘉政」という名前が口から零れたとき、明らかに蓮治の様子がおかしかった。それから目が合ったとき、口元をもごもごさせながらそっぽを向いたことも陽子は気になっていた。
何か隠し事をしている――陽子はそう踏んだ。それも、とんでもないことのような気がしてならない。盛り上がる心のうちの半分は、蓮治の「隠し事」の件で満たされていた。
「あ、次、龍也たちの試合だよ」
浪恵の指摘に黙考から覚めた。勝利してほしい一心だったが、ただ勝つだけを願っているわけではなかった。
「蓮治、ちゃんと約束守ってくれるかな」
「約束って何?」
平本先生が訊いてきた。内緒です、と意地悪そうに笑って見せたが、浪恵がぺらぺらと喋ってしまった。
「観客席で見とけよ。俺が渾身のシュート決めてやるから、だっけ?」
似せる気もないだろうが、蓮治のつもりで声を低くしてそう言った。携帯電話の形を右手でつくりながら、という見事なおまけつきだ。
「男前だね、美吉君。これじゃあ、石井さんが惚れちゃうのも、無理ないか」
先生、やめてくださいよ、と照れながら言う。紅くなってるー、と浪恵が囃し立ててくれば来るほど、頬に熱が伝わっていくのを自覚した。それでも、陽子は嬉しかったのだ。蓮治を心から好きでいられて。蓮治との関係にからかってくる声も嬉しかった。さっき抱いていた不安も忘れてしまうほどに。
青色のユニフォームを着した選手たちが整列しながら歩いてきた。隣では緑色のユニフォームの敵チームも同じように歩いている。いよいよ蓮治たちの試合が始まる。
陽子は合掌し、真剣な眼つきで両チームが礼するのを見守る。祈りが届きますように、陽子は信じていた。
――蓮治が渾身のシュートを決めてくれるように。
――蓮治の隠し事がただの自分の思い過ごしでありますように。
*
ふとした瞬間に恋人のことに気がいってしまうことは仕方がない。しかし、それ相応、いや、それ以上に例の刑事の存在が懸念材料になっている。今日の観客席は別次元に惹きつけるものが渦巻いているようだ。サッカーに身が入らないことももちろんその対象だが、自分自身のことが一番心配だった。
「どうした、蓮治」
龍也だ。試合前になって、選手たちの状態には目を光らせているらしい。さすが、キャプテンと称賛すべき行動だ。監視されているような気がして、落ち着かない気分にもなるが。
「別に・・・」
「あの刑事か?」
「え?」
「こんなところに刑事が来るなんてな。何だか知らねえが、おまえが自棄に気になってる様子だから、心配してんだ・・・蓮治、まさか何かやらかしのか?」
一瞬、心の内を読まれたのかと硬直し、動転したが、恬然とした様子を保ち続けた。
「まさか。ただ・・・」
「ただ?」
「いや、ちょっと気になるだけだよ。本物の刑事なんて見たこと無かったから。レアな経験だろ」
「ま、それならいいんだが。もうすぐ第一戦だ。今は、サッカーに集中しろよ」
「わあってるよ」
龍也の肩をポンポンと二回叩くと、トイレ行ってくると言って、化粧室へ向かう。用を済ませ、手を洗い、乾燥機で水気を落とすと、廊下に出た。
「蓮治君!」
背後から声がした。嫌な予感がしたがくるりと振り返る。やはりさっきの刑事だ。名前はまだ聞いていないから、知らない。
「どうも。平本先生の恋人さんですよね、さっき観客席にいた」
「そう。いつも結衣がお世話になってるね」
(結衣・・・そうか、船越先生の下の名は「結衣」というのか)
蓮治は知らなかった訳ではないが、忘れていたことは認める。というか、お世話になっているのはどちらかといえば我々生徒の側だろう。言葉の綾、といえばそれで済まされるのだが。そういう点が気になってしまうのは、いつものことだが、相手が相手だけに敏感になっているのかもしれない。
「でも、どうして刑事さんがこんなところにいるんですか?・・・そういえば、言ってましたよね。殺人事件の捜査しているって」
「まあね」
「それにしても、こんなところ来て、何か分るんですか?手掛かりになるようなものがあるんですか?」
「ちょっと事情があってね・・・もしかしたら、君が一番分っているのかもしれないけど」
「は?」
蓮治は心臓を打ち抜かれたような痛みを覚えた。
――この男、まさか・・・。
拳に力が入って行く。噛み締める力も強まっていく。まさか、俺が人を二人も殺した大罪者だということに勘付いて、ここへ来たのか。光陰矢の如く、蓮治の思考が動き出す。
何故だ、何故だ、何故だ。何回も心の中で繰り返すが、複雑な迷宮の様にどんどん惑わされるばかりだ。
――どこかに抜け目があったろうか。
――へまをしただろうか。
――ミスがあったのか。
――誰かに見られたのか。
――現場に手掛かりを残していってしまったのか。
どんどん着想が膨張していく。蓮治!と声がする。龍也の声だった。それにより、入り組む錯綜を解明することから脱したが、迂闊だった。次に鳥越と眼が合ったとき、奥深い意味が込められているだろう眼差しに震えた。「君が一番分っているかもしれないけど」の一言に意図があったかどうかは知らないが、いや、絶対にあっただろう。それによって動揺してしまった蓮治を鳥越は見逃していなかった。
「遅っせーな。何やってんだよ、蓮治」
どうやらトイレに行ったきりなかなか帰ってこないため、様子を窺いにきたらしい。
「じゃあ、二人とも、試合頑張りなよ」
鳥越はそう言い残すと、踵を返した。
「あの!」
何だい?と刑事は振り返り、立ち止まる。
「刑事さん、名前、何て言うの?」
すると刑事は微笑を浮かべて名乗った。
「警視庁捜査一課、鳥越俊一郎だ」
それから鳥越は観客席へ続く階段の方へと歩いていった。その後、龍也に急かされ、顧問の岡江先生や選手たちの群れに加わった。岡江先生のありがたきお言葉、そして円陣を組むと、蓮治たちは観客席のちょうど真下にあたる通路へ足を運ぶ。そこからグラウンドへと入場するわけだ。
――俺が渾身のシュート決めてやるから。
陽子との約束はもちろん忘れていない。これを達成するため、できる限り努めるつもりだ。しかし、未だに混乱が治まっていなかった。鳥越刑事が言い放った一言。
――もしかしたら、君が一番分っているのかもしれないけど。
(俺が、一番分っていること・・・)
あの言葉はどんな意図が込められたものだったのか、蓮治のことを疑っている程度かもしれない。もしかしたら、鳥越は蓮治が殺人犯だということに気づいているのだろうか。
(なぜなんだ・・・)
それが一番の疑問だった。どうして警察が自分の元へと辿り着いたのか、蓮治がその答えを探すのを拒むかのように、列が進み始めた。
しかし、今は「サッカー少年:美吉蓮治」だ。「殺人鬼:美吉蓮治」ではない。さっきの龍也の言うとおり、サッカーに神経を注ぐべきだ。あまり深く根に持つと、それこそ「約束」が現実のものにならなくなってしまうかもしれない。確かに誓ったのだ。
「見とけよ、陽子・・・」
そう呟くと、一度唾をごくりとわざとらしく音を鳴らして飲み込み、覚悟を決めた。
この大会は、一試合三十分ハーフのインターバル十分という無難な時間配分となっている。
第一試合で白星をあげて、幸先良く二試合目を迎えたい。この大会はいくつかのグループに分かれて行うリーグ戦で、今日の城川中サッカー部は三試合控えている。勝ち進めると、最高で二試合追加されるわけだが、果たして――といった具合だ。
「お願いします」
声を揃えて、頭を下げる。審判のコインの判定により、我々のボールから始めることになった。蓮治のポジションは昔からフォワードである。いわゆるストライカーだ。背後にキャプテンの龍也が位置している。彼はミッドフィルだーのセンターである。これも以前から変わらずだ。
――ピー。
笛の音がした。すぐさま真後ろにいる龍也にボールを渡し、ボールを落ち着かせると同時に、攻撃態勢を整えた。
まず、右サイドから攻めていく。ワンツーを駆使して、敵をかわしていき、容易く自陣地から見て右側のスペースに走り込めた。しかし、相手も負けずと、そう簡単に得点は許してくれなかった。蓮治の保持していたボールは奪われ、相手側のアタックに変わっていた。
「チッ・・・」
軽く舌打ちをして、球を略奪された敵選手を追いかける。さすが前大会準優勝チームだけのことはある。ヒョイヒョイとパスを回していき、あっという間にゴール前に辿りついていた。我が城川のキーパーがセーブしたから幸いだったものの、我々は相手チームの力量を認めざるを得なかった。
強豪チーム相手に城川は踏ん張って、前半終了したとき得点表は「一対一」の同点を示していた。
お互いの選手はそれぞれのベンチへと歩み寄る。そして、持参の水筒を片手で持ち、ぐびぐびと水分補給をしていた。
間を計らって岡江先生が口を開いた。
「おまえら、相手は強豪チームだからって少し力入りすぎているんじゃないか。いつものようにプレーしてみろ。それと、小宮山。ナイスゴールだったな。後三十分あるんだ。まだまだ得点できる。一試合目を制覇して、気分よく二試合目行きたいだろう」
「小宮山」というのは三学年の選手で、「一対一」の城川チームの「一」を取ったのが小宮山である。フリーキックを得意とする小宮山は、絶好の地点で相手のファールとなり、そこから直接ゴールを決めたというまさに芸術的な得点だったのだ。しかし、その三分後、油断が相手の得点を生んでしまった。分っていながら気が浮いていたのだろう。前回大会準優勝チームから一点奪えたことが、そのまま失点の原因になったのだ。だが、ゴールできた爽快感は並大抵のものではない。「前回大会準優勝」という肩書が無くても、少なくとも油断という悪魔は選手の心に降り立つのだ。
短時間の休憩が終わり、選手は再びピッチへと戻る。
「蓮治!」
後ろの方で声がした。振り向くと、観客席で陽子が立っていた。陽子は拳を見せた。「頑張って」という合図だろう。それに答えるようにGOODサインを胸の前で送る。それに微笑した陽子は静かに頷く。同じように蓮治も微笑を浮かべ、背を見せた。
――そうだ、「約束」がある。俺には陽子との「約束」が。
何日も前に約束したことを、今一度、目を閉じて再確認した。拳を胸に当てて、深呼吸をした。
開始の合図が鳴った。前半開始より、今の方がその音に重みを感じた。後半は相手ボールで始まる。ボールの争奪戦が絶えない。
龍也の分析では、相手は大量得点を武器にしていると言っていたが、チーム城川はその対策を重視してきたので、ラスト十分になった今でも、得点表の「一対一」の数は変化していない。しかし、我々も得点しなければ、勝負は制することができないことは言うまでもない。
試合に大きな変化が見られたのは、それから間もなくのことだった。
キャプテン龍也が左サイドでドリブルしている。
「来るか?・・・」
蓮治はにやりと笑った。
龍也がゴール前を覗いた。蓮治が奥の右サイドに走り込む姿を捉えたのか、センタリングを上げてきた。蓮治の進む延長線と軌道が交わった。蓮治は自分の勢いに任せる。今まで走ってきた軌跡の全てが自分の背中を押してくれるような実感が湧いた。蓮治の頭に当たった球は方向を変え、枠の中へと吸い込まれていく。
(来たあー!)
その心の声と同時に蓮治は (あっ・・・) と、恐怖心が込み上げてきた。目の前に縦に長い白い物体が目に飛び込んでくる。反射的に目を瞑ったが、だからといって結果が変わるということはなかった。
残り時間少ないさなか、栄えあるゴールを決め、歓喜の渦の中、当の本人だけはその声を聞いていなかった。




