第四章 白線の交わりⅢ
3 九月三十日 日曜日
鳥越は玄関先で暇を持て余していた。
「お待たせ」
結衣が急ぎ足でそう言った。結衣も鳥越と一緒に観戦に行くらしい。仕事の方は休暇を取ったらしい。全くの破天荒な教師だ。それでいいのか、と思わずつっこみを入れてしまいたくなるが、自分も自分である。全くの破天荒な刑事だ。
鳥越は本庁へ出勤するときと同じ格好でマンションを出た。それには訳があった。いくら自宅謹慎中の刑事とはいえ、プライドを捨てたくはなかった。また、ラフな格好で観戦に行き、接触した際に身なりについて訊かれたら言葉が詰まる。まさか、「今、自宅謹慎中なんだ」なんて胸張って言えるわけがない。それこそプライドを破棄するような行為である。指差され、笑われ、バカにされ、結局何の利もないまま帰ってくるのがオチだろう。
中学生の大会、ということであまり期待はしていなかったが、それなりに敷地面積の広大な場所をスタジアムとしている。二人は観客席の一番上の列の中央辺りに腰を下ろした。まだ早かったのか、試合はまだ始まっていなかった。そりゃあそうだろう。まだ九時にも満たない時刻だ。それなりに応援する人がいるとはいえ、何の縁もない鳥越は自分が浮いているようで気まずかった。その半面、結衣は勤務する中学校の生徒たちの試合だ。「あれは誰誰君で、あれは・・・」と、片っ端から名前を言えるのだろう。
少しの間、何もせずにボーっとしていると、視線の片隅に二人の少女がいた。二人とも、少し寒いくらいの今日の天気にはうってつけともいえるファッションをしていた。制服ではないから、中学生かどうか、と判別つかなかったが、すぐにその答えは一声によって導かれた。
「陽子!」
青いユニフォームを着た少年が観客席の端の方から現れた。陽子、と呼ばれた少女は反応をみせた。もう一人の少女も同様の反応だ。すると、隣の結衣が左手で口元を覆いながら身をよせてきた。
「今、『陽子』って叫んだあの子、あれが美吉蓮治君」
(あいつが、美吉蓮治、か・・・)
スポーツマンらしい爽やかな笑顔をしているが、その表情の奥には得体の知れない強大なものが在るような気がした。
「で、今、美吉君と話してるあの子が石井陽子さん。美吉君と付き合ってるんだって」
「へえー、もうそんな年頃か。青春を謳歌してるって感じだな」
確かに、二人の会話している様子は、特別な関係であってもおかしくはない雰囲気だった。するとそこへ、もう一人のユニフォーム姿の少年が現れた。短髪で、男前な顔つきが誇らしくみえる。その少年は美吉蓮治たちの輪の中に入っていった。
「あ、あの子は久留嶋龍也君。久留嶋君は石井さんの隣にいる長髪の女の子、都木浪恵さんって言うんだけど、その子と付き合ってるの」
「え、それは驚きだな。じゃあ、あの四人は全員恋人持ちってことか?」
「まあね」
「っつうか、よく把握してるな。生徒の色恋沙汰なんて軽いもんだろ」
「そんな言い種ないんじゃない。あ、さては、自分の中学時代、モテてなかったから嫉妬してるんでしょう」
「うるせっ!んなわけないだろ」
鳥越が声を張ると、図星ね、と意地悪そうに結衣が笑う。全くこの小悪魔が、と内心毒づく。確かに、中学時代、何の色気もない青春時代であったことは確かだった。真面目、その三文字が似合う、ひねくれていた少年だった。嫉妬というならば、嫉妬なのだろう。
鳥越の声に驚いたのか、例の四人組が鳥越たちの存在に気付いた。すると、四人は階段を駆けて上ってきた。
「平本先生!」
陽子は階段の中途で結衣のことを呼んだ。すると、結衣も笑顔になって立ち上がり、劇的な再会とでも言わんばかりに嬉しそうに駆けていった。教師の姿、である。
「平本先生、どうしたんですか?」
「応援に来たのよ、美吉君たちを応援するため」
陽子の問いに、結衣は素直に答える。
「それはどうも」
蓮治が照れくさそうに言った。
「あ、もしかして、隣の人、彼氏さんですか?」
都木浪恵が訊く。小声で言ったつもりだろうが、鳥越の耳にはしっかりと届いている。
「うーんと、まあね」
悩むな、と心の中で憤る。
「へー、結構ハンサムなんですね。いがーい」
「意外って何よ、もう」
そうだそうだ!意外とは何だ!と、心の中で反抗する一方で、ハンサムと呼ばれたことに快感を抱いていた。
「確か、平本先生の恋人って、刑事って噂があったけど」
龍也がそう言ったそのとき、鳥越の眼光は蓮治君の表情に向けられていた。確かに動揺をみせた顔を鳥越は見逃さなかった。「刑事」という言葉を鼓膜で感じた瞬間、蓮治の顔は強張り、驚愕の顔色で龍也の方に向けた。声さえ発しなかったものの、鳥越は一つの小さな収穫として得ていた。
「まあ、そうなんだけど」
「えー、ほんとに!」
「現職の刑事さんなんだ」
女子二人組はすこぶる興味があるようだった。不思議というより、複雑な感覚だったが、それよりも鳥越はこれからどうやって蓮治に話を訊こうか、その手段に迷っていた。しかし、その暇も与えてくれなく、いつのまにか鳥越の眼の前には、活気溢れる女子中学生の姿があった。
「刑事さんは、何しに来たんですか?もしかして何かの事件ですか?」
「え、うん、まあ、ちょっとあってね」
「へえ、何の事件ですか?」
陽子が好奇心に満ちた瞳を輝かせる。
「君たち、遠野嘉政って人間知ってるかな?」
蓮治の剣幕が瞬間にして驚愕の色に染まった。手応えは確かに感じた。少なからず、何かを知っている。犯人かどうかは、今のところ定かではないが、事件の核心について知識がある、情報を所有している、鳥越はそう視た。
「あー、確か、過去に裁判がかけられた元国会議員だよね」
「このまえ、殺されたんだろ。ニュースでやってたけど」
浪恵、龍也コンビが顔を見合せながら、確認を取り合う。陽子は蓮治の異変に気づき、彼の顔を静かに見つめている。蓮治は彼女の視線に気づくと、口元を締めて、そっぽを向いた。明らかに動揺している。
「君たち、よく知ってるね。実は、俺はその事件について捜査している身でね。野暮用でちょっとここに来ているんだ」
嘘にしては、少し苦しいか・・・と、今更のことだが悔いる。だが、誰も怪しんではいないようだ。独りを除いては。無論、蓮治である。険相な面持ちで、なおかつ強さのある眼差しを鳥越に向けて差しているかのように、激しく伝わってきた。
「おい、蓮治。そろそろ下行かないとまずいんじゃないか?」
「あ、ああ。そうだな」
「美吉君、久留嶋君。頑張ってね」
結衣は満面の笑みで期待を言葉に込めた。美吉蓮治についての一件を把握しているとはいえ、その発言に浅ましい感情はなかった。
駆けていく蓮治の後ろ姿を角を曲がり、消えて見えなくなるまでじっと直視した。その後、二人の女子生徒と結衣は小気味よい笑顔と共に前の応援席へと移っていった。彼女らが元々座っていた辺りである。結衣も結衣で、すっかり中学生に馴染んでいた。教師という職業上、思春期の生徒たちと享楽に浸ることは困難なことではないのかもしれない。それとも、鳥越の思案の邪魔を避けようという配慮なのだろうか。
何はともあれ、黙考には適した環境へと変わった。彼が去って行ってからというものの、蓮治のあの背中が妙に脳にこびりついていた。
彼は本当に人を殺したのだろうか――と、今まで信じてきた仮説が揺らいだ。理由は簡単である。嬉々とした青春時代を捨ててまで、殺人を実行すると意を決するだろうか、と素直に疑問符が浮かんだためである。彼には陽子という自分を一番に信じてくれる、理解してくれる「恋人」という存在と、彼を支えてくれる、彼と一緒に笑い合える「友達」という存在がいる。その「存在」を裏切る行いが、彼にとって価値あるべきものだったのだろうか。
遠野嘉政、向田紗江香の二つの事件、そして十五年前の事件を捜査した果てに、美吉蓮治に辿り着いたのは全て状況証拠だ。
――第一の事件の現場に落ちていた城川中学の制服のボタン。
――二十八センチという靴のサイズ。
――事件後に現場を静かに見つめていた小柄な男。
――第二の事件の現場近くの防犯カメラに映っていた少年らしき人物。
何よりも、制服ボタンが鳥越の心をくすぐった。その原因は予想もできないが、印象強く目に映ったことは胸を張って言えることだ。
そして、城川中学の全校生徒の中で、結衣の主観に頼った結果、挙げられた名前が美吉蓮治だった。正義という強い信念を理由に、問題騒動を起こしてきたという美吉蓮治の名前が挙げられたのだ。彼が疑わしいという根拠は皆無に等しいが、第六感という異次元の能力が彼を疑っていた。しかし、いざ対面してみると、多少の動揺があったとはいえ、幸せな中学校生活が垣間見え、微笑ましい雰囲気を目の当りにした。それにより、異次元の能力によって導かれた仮説に込められた自信が薄れてきたのだ。
――刑事だって、人間だ。感情を持つのは当然。それによって、迷いが生じる。だから、あらゆる人をとことん疑えば、結果は自然についてくる。証拠はそうやって得るもんだ。
殉死した親父が疲れた体を癒すため、杯片手に口にしていた記憶がある。
「とことん疑う、か・・・」
気付かぬ間に時間が過ぎていたらしい。プレイヤーがグラウンドの中央で整列していた。ユニフォームの色からして、美吉蓮治たちのチームはまだのようだが、大会は既に始まっていた。開会式は既に終わっていたらしい。鳥越と結衣が来る前には、終わっていたのだろうか。
選手たちが四方にばらけていった。やがて、ピー、という甲高い笛の音が青天に昇っていった。




