第四章 白線の交わりⅡ
2 九月二十九日 土曜日
――土曜授業なんて、憂鬱だな。
土曜日に登校する度にそう思っていたのは、先週までだった。だいたい、休日が日曜日だけというのは納得いかない。日頃、勉学に励んでいるし、蓮治にしてみれば運動部に所属しているんだ。日曜日だけでその疲労が完全に解消されるかいうと、決してそんなことはない。それに、これを抱いているのは蓮治だけではないはずだ。半数以上の生徒は絶対に思っている。
しかし、今はそんなこと思っていない。いや、少し語弊がある。今でも、少しばかりは抱いているけど、陽子の笑顔に吹っ飛ばされるのだ。どんな屈辱を受けても、どんな苦い、辛いことにぶつかっても、どんなに疲れていても、陽子が笑ったら遠い彼方へ消えるかのように、気持ちが晴れていくのだ。無論、今のような関係が成り立ったからである。生活態度の変わり様はこの通りである。
変わったといえば、陽子と付き合い始めてから、蓮治は遅刻をしていなかった。具体的に理由は説明できない。自分なりに答えを探してみると、無意識のうちに陽子と早く会いたいという想いが行動に出ているのかもしれない。まったく、一週間前の土曜日には、こんなことに頭を使うとは夢にも思わなかった。一寸先は闇とはこういうことである。
数学、国語、歴史、英語と続き、トントン拍子でホームルームを迎えた。坂田先生の言葉もサラッと聞き流し、「さようなら」の礼をすると更衣室へと向かった。蓮治が急ぐのも、明日は待ちに待った(?)サッカーの試合である。そして、陽子との約束が待っている。渾身の一発を陽子の前で決めなければならない。
――絶対に決めてやる。
蓮治は靴の紐をギュッと強く結んだ。あの宣誓だけは必ず守る。その一心が、蓮治の身を奮い立たせる。
グラウンドには、既に龍也がアップを始めていた。さすが、何週間前から気合十分のサッカー部部長龍也である。明日に大会を控えた本日が、今までよりも一番真剣なのは言うべきことではない。
「龍也。おまえ、やけに早いな」
「当たり前だろう。明日は、大会だ。いつもより張り切るのは当然だろう。それより、陽子と何やら約束をしたそうだな」
「あ?」
「明日、一本でも渾身のシュートを決める、って」
「ああ、どっから漏れたのかは知らないけど、龍也まで渡っていたか」
「浪恵に決まってんだろう。そういう情報のタネは」
「なるほどね」
陽子は口が軽いということを、久しぶりに思い返す。蓮治との「約束」も、浪恵にはすらすらと何の抵抗もなく話すのか。蓮治的には二人の間だけの「秘密」ということにしてほしかったのだが。
「約束を交わすのは何の問題もないけど、それで自棄になって焦るんじゃないぞ」
「は?それって、どういう意味?」
何をいいたいんだ――蓮治の眼には、一瞬だが龍也が「敵」として映った。
「その約束を果たすためむきになって、プレーが疎かになるって意味だ。そりゃあ、恋人の頼み事を一生懸命に叶えてあげたい気持ちは十分分るが、味方も敵に回すように独断でプレーして、相手の思うつぼになったらおまえはどう責任をとる」
「おまえ、それマジで言ってんの?俺がそんな下劣なことするわけないでしょ。その気になれば一点くらい、どうってことないでしょ」
「どうだかね。事前に言った通り、相手は前大会の準優勝の強豪チームだ。妙に敵視して、おまえのその『鋼のメンタル』が暴走するんじゃないのか?」
「ふざけんじゃねえよ!」
龍也の胸倉を掴んだ。「鋼のメンタル」が侮辱された気がして、自分のすべてを否定された気分だった。故に、行動へと転換してしまったのだ。
「ほらね。明日もこういう風にならなきゃいいけど」
その言葉に蓮治の闘争心が度を超えた。舌打ちをして、右手の拳で龍也の頬を殴りつけた。龍也はその場にへたりこむ。苦虫を噛みしめたような顔で、蓮治を睨みつけた。でも、すぐに冷静な表情に戻り、すくすくと立ち上がった。口元に今できた痕が赤くなっていた。
「その勢いじゃ、人殺せるな」
「は?・・・」
龍也の鋭い眼光に、蓮治は身震いした。ちょっと大袈裟な冗談を言ったつもりだろうけど、瞳の奥には何かが眠っているような、そんな風に蓮治は感じた。事実、その勢いで殺人を犯してしまっているのだから、蓮治からすればずばりと見抜かれたような感覚だった。
少しの間、この世界に自分一人しかいなく、真っ暗な場所に棒立ちしているような幻覚に、蓮治は囚われていた。
「ちょっと、何してるの」
突然声がした。それによって「幻」から夢覚めた。二人に向かって駆けてくるのは、四組の担任平本結衣である。めんどくさいことになりそうだな・・・と、いつもなら変な危惧を抱くが、今はまだ動揺が消えずにいたため、そんないとまもなかった。
「君、美吉君よね。どうして久留嶋君を殴ったの?暴力は良くないでしょう」
「別に・・・」
「ったく、美吉君はいつもそうよね。以前にも指導受けたことあるらしいし。結構先生方の間で有名よ、君」
「ああ、そうですか」
「被害者に訊いた方が良いかな・・・どうして喧嘩になったの?」
結衣は立ち去ろうとする龍也の背中に訊く。龍也はゆっくり振り返ると、別に大したことありませんから、と言って再び歩き始めようとしたが、その前に結衣が呼び止める。
「久留嶋君が殴られても大したことないって紛らわすのは、私に叱られる時間があるなら、明日のための練習に励みたいから?それとも、ずっと同じサッカー部で心許し合ってる親友同士だから?」
何だその選択は、と船越の理解不能な発言に毒づいた蓮治だが、一方の龍也は純粋な笑顔を飾って言った。
「その両方です」
龍也はきっぱりと即答した。これには蓮治も驚かされた。同時に胸に込み上げるものがあった。ついさっき暴力を振るわされても、龍也は蓮治を「心許し合っている親友」であると認めてくれた。変に付け込まれたくないから、自分の爽やかなキャラ像を固定するため、上辺だけ飾った言葉だとしても、拳をぶつけたことに少なからず後悔があった。
「あれでカッコつけてるつもりかしらね」
結衣が大きな独り言を叫ぶ。それは教師としてさあ、と一応返事をして蓮治は歩き出した。
「ねえ、美吉君」
蓮治は立ち止まった。
「何ですか?」
「自分を強く信じるのは良いけど、だからといって何でも許されると思ったら大間違いだから・・・あと、大切な人は大切にしてあげてね」
「え、それは、どういう・・・」
結衣はそのまま黙って去っていった。あの静かめな物言い、そして真剣な顔つきだった結衣は一体何を伝えたかったのだろう。しかし、既に後の祭りだ。深い勘繰りは明日の試合にマイナスになる。
「大切な人、か・・・」
ふと二階の三年二組の教室の窓を見てみると、陽子と浪恵が楽しそうに話している。陽子が蓮治の視線に気づくと、「練習、頑張ってね」と大声で叫んだ。
「あの、バカ・・・」
小声で呟く。ぞろぞろとグラウンドに出てきた後輩たちに「先輩、熱いですね」と囃し立てられた。これが想定されたから蓮治は面白く思っていなかったのだ。自分でも頬が紅潮していくのが分かった。でも、「大切な人」からの声援は蓮治の心に強く根付いた。
いつのまにかユニフォーム姿の選手の数が増しており、全員が揃うと、明日の大会への最終準備に取りかかった。
空を仰げば、燦然と輝く太陽が眩しい光を送っていた。嘘も偽りもない光を送っていた。
*
蓮治に叱りをつけてから、結衣は彼の下駄箱の中を覗いた。蓮治の出席番号は事前に控えてきてある。十七番だ。この学校の一クラスの人数は四十人。基本男子女子それぞれ二十人ずつだ。蓮治は頭文字が「み」だから、男子の後半ということになる。
今は部活用のスパイクを履いているから、登下校用の外履きと上履きは下駄箱に入っているはず。案の定、確かに二組の靴が置かれてあった。この学校の規則として、登下校はローファーを履くことになっているのだ。それを取り出し、蓮治の履いているローファーのサイズが二十七センチだということを知る。ちなみに、上履きも同じサイズだった。ローファーと上履きのサイズが二十七センチならば、普段履いているシューズが二十八センチだとしても不思議ではない。
なんだかんだ言って、鳥越の依頼をこなしているのだ。昨日の仕事終り、ついでに、を理由につけ、鳥越も含めて生徒の情報が詰められた資料を調べていた。
結衣が蓮治にスポットを当てているのも、鳥越の仮説が正しいということを前提にした場合、城川中学の生徒の中で、足の大きさが二十八センチもあり、高校生くらいとも呼べるほど身長もあり、なおかつ他人とは違った事情を抱えた子は多くない。片手で数えられるほどに絞られるかもしれない。中でも、結衣が真っ先に浮かんできたのは他をおいて、蓮治だった。
これまでの過去三年間に彼が引き起こした問題は確かに数回あった。彼自身が言うには「自らの正義のため」とか言っていたが、それと同じ理由で人を殺したとしても・・・と、自分が恐ろしい推測をしていることに結衣は気付く。
鳥越の部屋で、中学生が殺人という大罪を犯すなんて有り得ない、と強く信じていたが、今となってはどうであろう。一種の捜査ごっこに没頭している。自分が汚れた物の怪のように思えた。自虐的思考に陥ってしまったのも、全ては事件のせいであった。事件を生みだした世の中とも言うべきか。
教師という自分の立場を一度忘れ、結衣は美吉君の情報を探っていた。
蓮治は生まれてすぐに親を失くしており、國又豪という男性とアパートの一室で共生しているらしい。おそらく、この國又のことを父親のように慕っているのだろう。結衣の知ることが可能な範囲は彼の家庭事情に留まる。これだけでも、鳥越に伝えておこう。
学校を出て、結衣は鳥越のマンションへ進路を定めた。調査報告が一つの理由だが、何となく、今日は甘えたかった。
二日前を思い出す。機嫌悪くして扉を閉めた記憶がある。ま、大したことはないだろう、と玄関子機のボタンをゆっくりと押した。
その後、鳥越の部屋で報告を終えると、缶ビールを片手に鳥越が口を開く。
「一回、その美吉蓮治って子に会ってみたいな」
「ホントに疑ってるの?」
「当たり前だよ。最近多いだろ、未成年の犯罪。性犯罪もそうだけど、このごろ未成年の子どもが親を殺したり、同級生を殺したり、強盗図ったり。とんでもない世の中になっているだろう。そんな世の中が、元国会議員、そして現役弁護士の二人をも殺害する中学生を造り出したとしても、何だか納得してこないか?」
「そう言われると、そうも思えるけど・・・一教育者から言わせてもらいますけど、だからといって大した証拠もなく中学生を捜査の対象にするのはいかがなものかと思いますが」
皮肉を込めて、鳥越に訊ねる。そろそろ酔いが回ってきたのかもしれない。
「人を疑う仕事なんだよ、刑事は。人を疑うことが仕事、そしてそれが宿命だ。それがたとえどんな人物であろうと、対象を外してはならない」
精悍な顔つきで鳥越はそう言った。渋く、老けた顔に思わず笑い出しそうになったが、堪えて訊く。
「それって、お父さんの言葉?」
「そう。殉職した元刑事の親父の言葉だ」
そのとき、鳥越は懐かしみにも似た、穏やかな微笑みを浮かべた。深い意味が込められている気がしたが、その正体こそ知らないけど、少し歪んだ形の「愛」が感じられた。
結衣は突然あることを思い出した。
「あ、そうだ。そういえば、明日、サッカーの試合があるんだけど」
「サッカー?」
「うん。言ってなかったけ。美吉君、サッカー部なの」
「ああ、なるほどね」
「美吉君と話したいんだったら、来れば。一人の観客として」
「急に協力的になったね」
「別に。美吉君には何もないってことをシュンに知ってもらいだけ」
お互いの缶の中身が無くなり、ふう、と同時にため息をついた。どうやら鳥越は明日、蓮治が奮闘する試合を、観戦を口実に捜査に踏み込むらしい。自宅謹慎の処分を下された刑事がそんなことをしていいのかと一応確認してみたが、あくまでも試合観戦ということで貫くらしい。
それからは、およそ一ヶ月ぶりに二人で長い夜を過ごした。やっぱり今日の結衣は甘えたかったのである。




