第三章 追憶のハンカチⅤ
5 九月二十六日 水曜日
陽子が浪恵に報告し、浪恵からどんどん枝分かれして、といった具合に新カップル誕生はすぐに広まった。まったく中学校とはそういうものである。当事者がいうのも気が引けるが、蓮治は思った。日々の合間という合間に冷やかしがあったり、妬みがあったり、とにかく充実しているわけだ。
部活が終わった後にも、彼氏を待っている陽子を見て、後輩たちが羨ましそうな眼で蓮治を見てくる。そういう些細なことに「自分は特別なんだ」「自分には恋人がいる」と、快感を覚えるのだ。龍也はそれを一年以上前から感じられていたとは、蓮治は今になってそう意識するようになったのだ。
「おい、蓮治」
帰り際に龍也が声をかけてきた。
「思いあがるなよ」
「は?」
「彼女ができたからって思い上がるな。そういう意味だ。時期も時期だ。分ってるだろ」
「分ってるよ」
そう笑って答えた。
「時期」というのは、前述のように四日後の日曜日にあるサッカーの試合のことだ。恋人ができて、甘い心持で試合に臨んで結果が好ましいものになるかと言われたら、保証はできない。勢いに任せるのではなく、しっかりと練習に磨きをかける方が、勝利に繋がるのではないか。龍也が言いたいのはそういうことだろう。
御尤もな見解だが、人情というのは複雑なもので、そう理屈通りには動かない場合がある。真面目に人を好きになるなんてこと、人生にざらにあるわけではない。貴重な時間を一つ一つ過ごしていきたい。だから、一つの大会くらいこけたとしてもいいのではないか。それに、遠野を殺害した直後は、精神から肉体へと変化が生じ、自分の身体がいうこと利かなかったが、今になっては普段通り機能するし、細かい動作も好調である。したがって、特に思い上がってはいけない理由はない、という蓮治の意見だ。とはいえ、その主張も喉から先にはいかない。
「蓮治、覚えてる?」
下校中、陽子が訊いてくる。
「約束?」
「え!覚えてないの」
「約束って、何の約束?」
「本当に覚えてないの?大会で渾身のシュート決めてやるって、約束したじゃん」
「ああ、それね」
そんな約束したなあ、蓮治は妙に懐かしい気分になった。先日のことが遠い昔のように思えてしまう。その訳は自分でも何となく分る気がした。
「ちゃんと守ってくれるんでしょうね。その約束」
「え?・・・も、もちろん。決まってんだろう」
頼りない解答に、陽子は「ホントに?」と疑った。
「じゃあ、もし決められなかったら、陽子の願い一つ聞いてやるよ」
「何それ」
「自分を追い込んだ方が、達成しやすくなるでしょ」
じゃ~あ~、ちょっとしたことで悩む彼女の顔も可愛らしい。付き合う前のあの腹立つ顔は、じっと見てやると、笑みに満ちた愛嬌のある美貌だったのかもしれない。いや、絶対そうだ。自分が勝手にこじつけたせいで、陽子の魅力を見逃していたのかもしれない。こうして、親しく二人で帰っていることを思うと、それは大変な損失だったのだなあと、悔やんでも悔やみきれない。
「じゃあ、どっか連れてってよ」
しばらく思案していた蓮治は「へ?」と、マヌケな顔で訊いてしまった。
「だから、どっか連れてってよ」
「俺が、決められなかったら?」
「うん」
「それさあ、普通逆じゃね?ゴール決めたら、どっか連れ・・・それもおかしいか。って言うか、それくらい言ってくれれば、いつでも連れてってやるよ」
「だって、願い事なんて特にないし」
「ったく、夢のないやつだなあ」
「だったら、蓮治に夢ってあるの?」
「え?・・・そう言われると、痛いんだよなあ」
二人は笑い合った。優しい木漏れ日から温もりを感じられた一日だった。
幸せな日々――日々といえるほど多い日数を歩んでいるわけではないが――に傷が入れられたのは、付き合い始めてから三日後。すなわち、翌日木曜日である。
蓮治さえ遅れなかったその日、陽子が遅刻した。
「おい、おまえの彼女、どうしたんだよ」
クラスメートが訊いてくる。
「知らねえよ」
もちろん、知らないのは事実である。知りたいのはこっちの方だ。
「まさか、もう喧嘩したか」
「なわけねえだろ」
冗談で言ったつもりだろうが、当事者からすれば不愉快である。
陽子は、一時間目が終了し、十分間の休み時間中に現れた。姿を見かけた蓮治はすぐさま陽子に問いかける。
「陽子。おまえ、どうしてこんなに遅刻したんだ?」
今日の陽子は外見からして暗かった。前髪で顔を隠しているようにも見える。眼を見ると、いかにも憂鬱そうで細かった。全体的に悲しみが伝わってくる。
「陽子・・・」
「何でもないから。何も聞かないで」
そう答えた声からは、今にでも泣きそうな気配がした。気がついたときには、陽子は自席に到着しており、準備や整理を始めていた。
「おい、蓮治。何かあったのか」
他人の彼女だが、心配になった龍也が訊いた。いつも仲良くしているから、当然といえば当然事だが、龍也の小さな気遣いに感謝した。
「いや、何もなかったけど。どうしたのかなあ」
「先生に訊いてみたら」
「そうする」
廊下を歩いていた担任の坂田に、「陽子は何故遅刻したのか」訊いてみた。
「風の便りで知ったことだが、おまえと石井は、どうやら好い関係のようだな」
「そんないやらしい眼で見ないでくださいよ。それで?」
「俺から言うのも、気が引けるんだけどねえ」
「先生の気が引けるほど、苦痛な事があったんですか」
坂田は「うーん」と唸った。「先生・・・」と、蓮治は催促する。
「お前だから言うぞ・・・痴漢に遭ったそうだ」
「え・・・」
「登校中の電車内でのことらしい」
加害者は四十代のサラリーマンらしい。列車内で痴漢に遭い、駅員にそいつを引っ張り出し、事情を話していたらしい。駅員に突き出すこともかなりの度胸が必須だろう。それでエネルギーを失ったのか、ここまで来るのに、亀といい勝負になるほど牛歩してきて遅れたらしい。重度の鈍足になるほどショックだったのだろう。
「おまえが慰めてやれ。彼女、おまえの思うよりずっと落ち込んでいる。このまま心を閉ざし続けていたら、後々どうなるか分らない。頼むぞ」
「分ってます」
どっかのクラスで一時間目の授業を担当しているのだろう。坂田は時計を気にして、スタスタと職員室の方へ消えていった。
教室に戻ると、既に半数以上の生徒がいなかった。時間割が示されている後方の黒板をよく見ると、次の教科は憂鬱な「音楽」だった。
「憂鬱、か」
陽子はどれだけの苦い思いをしたのだろう。蓮治に向かって「何も聞かないで」と呟いた陽子は、学校に来るのに、今日ほどに憂鬱だった日が前例として挙げられるだろうか。どうにかして、心を閉ざさないように、陽子の気持ちを理解して落ち着かせてあげなければいけない。
「蓮治。先生、何だって?」
龍也は待っていてくれたようだ。音楽用鞄を肩にかけていた。見ると、陽子はまだ席にいた。準備をしている。陽子には聞こえないように、龍也を廊下に連れ出し、さっき坂田から聞かされた一件を伝えた。
「それは、とんだ災難だな」
「まさか、付き合い始めて早くも関門が待ってるとはね」
「どうすんだ?蓮治」
「とにかくいろいろ策を講じてみるけど、正直自信が無いんだよね」
「そんなこと言うなよ。これからこんなことがどんどん壁として立ちはだかってきたら、どうするんだよ。おまえは、陽子が一番心を許す同級生だ。そのおまえが弱気になってどうするんだよ」
「わあってるよ・・・分ってる」
蓮治の肩に手を置いて「先、行ってるからな」と半ばカッコつけて去っていった。既に蓮治と陽子の二人だけだった。その陽子さえ、教室を出ようとしていた。
「陽子!」
今まで蓮治の存在に気付いてなかったらしい。呼ばれたとき、非常にビビっていた。「ちょっと、待ってろよ」と忠告し、直ちに次時限の支度をした。
「先生から聞いたよ。遅刻した理由」
「そう・・・」
「そんな気落とすなよ。いつもの笑顔でいこうぜ」
陽子は沈黙を貫く。蓮治の励ましは、完全に空振りしたようだ。どうして、こうも振っても振ってもストライクになるのだろうか。そのうちアウトになってしまう。ターゲットをしっかりと捉えているはずなのだが、かすることもない。この無力感に包まれる自分が、堪らなく惨めに、情けなく思う。
「何で私、痴漢されたんだろう。何で私だったの。何で、どうして・・・」
言っている途中から、陽子は歩みを止め、涙を零していた。口を開いたかと思ったら、自嘲にも聞こえる嘆きで、蓮治の悔しさは募るばかりだ。
「陽子・・・」
「蓮治!」という声が鼓膜を振動したかと思うと、蓮治の背中に陽子が抱きついてきた。陽子の腕からは温かさが伝わってきた。背中を陽子の涙が伝っていく。
「蓮治、お願い。これからさ、私を守ってくれない?」
「陽子・・・当たり前だろ。絶対に守ってやる。命を懸けても、陽子を守る」
「ありがと・・・」
「ほら、行こうぜ。音楽始まっちゃうし」
「音楽、嫌いじゃなかったっけ?」
陽子が涙を拭いながら、笑った。
「まあね」
「じゃあ、このまま参加しない方が得なんじゃないの」
「バ―ロ。成績落ちるだけだろ。それに、俺のプライドが許すはずないでしょ」
笑い合いながら、二人は音楽室へと足を動かした。
蓮治は誓ったのだ。
――必ず陽子を守る。何があっても、救い出してやる。
音楽室に入るやいなや、チャイムが鳴った。クラスメートたちはニヤニヤしながら、ヒューヒュー冷やかしてくる。特にそれに動じずに、龍也にGOODサインをして、指定の席に座った。いつもより清々しく腰を下ろせた。
そのとき蓮治は、陽子の父親石井恭二郎を殺害することなんて念頭になかった。
「正義、か・・・」
その日の夜、自室で一人蓮治は呟く。
正義なんてもの、「愛」によって崩れてしまうものなのだ。諦めたのである。正義を貫いたことによって得られるものは何だろう。自分に酔えるだけなのではないか。正しくても間違っていても、一般論がすべてであって、どれだけ正しいことを提示しようと、聴衆が首を横に振れば確立されないのだ。正義の始まりはいつにあるか、当事者さえ知る由もないが、正義の終わりは必ずやってくる。また、自分が悔しくても「終わりだな」と認識しなければならない。正義の儚さに接触した気がした。
蓮治は今になって、自分が残虐非道な非人間的な殺人鬼であることを思い返された。激しい頭痛が襲ってくる。石井陽子という恋人に恵まれ、青春真っ只中の自分が殺人鬼。
デスクの上を見ると、一粒の涙が輝いていた。これが自分のまなこから零れ落ちたものとは思えないくらい眩しかった。
「どんな涙も同じように光っているんだよなあ」
悲しみに浸っている蓮治とは知らずに、風呂入ったぞお、と國又の呑気な声が聞こえた。返事をして机に落ちた涙を指で拭った。




