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正義の在り処  作者: ゼロ
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第三章 追憶のハンカチⅣ

 4 九月二十四日 火曜日



 黄色いハンカチを持っている蓮治の右腕は、微かだが震えていた。それに視線を送っている陽子は、依然として茫然と立ち尽くしている。時折背後にある樹木を揺らす風から、無情感が漂ってくる。

「俺たちが、小学一年生くらいの出来事だったよな」

 そう前置きをして、あたかも当時の様子を思い返すように、蓮治は暮れなずむ西の空を眺めた。


*      *       *


「イエーイ!ゴール」

 小学一年の蓮治は、フットサルにも満たない少人数でサッカーの試合をしていた。

「ねえ、そろそろドロケーしない?」

 サッカーを苦手とする子が、不機嫌そうに言う。その子は足には自信があるようで、ドロケーのようないわゆる「鬼ごっこ系」で楽しみたいようだ。

「仕方ねえな。ずっとサッカーやってちょっと飽きてきたから、ドロケーやるか」

 坊主の子が賛同した。それがスイッチになったのか、みんなの意見はまとまり、ドロケーをすることになった。公平なじゃんけんの結果、蓮治は「ドロ」、逃げる側になった。サッカーで鍛えられた足は並より速かったから、蓮治にはそれなりの自信がある。

「よし、逃げろ!」

 蓮治は川の方へ駆けていった。

――うわっ!

 突然蓮治は誰かとぶつかり、その場に倒れた。「イテテテ・・・」と眼をそっと開けると、蓮治と同じくらいの歳の可愛らしい女の子が、同じように痛そうに頭を抱えている。

「大丈夫?」蓮治は声をかけた。

「う、うん」彼女は答える。

 その声を聞いたとき、蓮治は何かを感じた。

彼女は川の方に視線をやると、「あっ!」と叫んだ。それにつられて蓮治も見る。そこには、黄色いハンカチがぷかぷかと浮かんでいた。

「あれ、私の・・・」

 どうやら、すぐそこの手洗い場で手を洗い、あのハンカチで手を拭いているとき、蓮治とぶつかり、その拍子に川へと舞っていったのだろう。

「俺が取ってきてやるから、待っとけよ」

 自分のせいで・・・と思った蓮治は、ジーンズの裾をめいっぱいめくって、川の中へずかずかと入っていった。冬の川の水はさすがに冷たい。大人にとって、この川の深さは大したものではないが、小学一年生の蓮治にとっては決して浅いとは言えない。

「うわあ」

 足元にあった何かに躓いたのか、蓮治は川の中にしぶきを上げて倒れた。

「きゃっ!」

 彼女は悲鳴を上げた。すぐに起き上がった蓮治に「だ、大丈夫?」と、声をかけた。

「くっそお!」

 顔を上げたときには、ハンカチは既に沈んでいた。濡れた髪を掻き上げた。冷たい水面に顔をつけ、手を伸ばし、ハンカチだと認識し摘まみ上げた。

「すごーい」

 彼女は蓮治の活躍ぶりを讃え、拍手をした。川にあがってきた蓮治は、彼女にぎこちなく笑った。一方、彼女は純粋な笑顔をみせた。

――ハックション!

 蓮治はくしゃみをした。

「はは、風邪引いちゃったかなあ」

「本当に、大丈夫?」

「うん。大丈夫。そうだ、これ、洗って返すよ」

「え、いいよ。洗わなくていいよ」

「だめ。それじゃあ、けじめがつかないだろう」

「でも・・・」

「君、明日も来る?」

「う、うん」

「じゃあ、明日渡すね」

 そう言うと、蓮治は小指を出して、「約束」と呟く。それに答えるように、彼女も小指を差しだし指切りをした。「指きりげんまん、嘘ついたら針千本飲ます」とリズムよく唄い、二人はケラケラ笑った。


*      *       *


「あのときの女の子が、おまえだったんだろう、陽子」

 蓮治は陽子に背を向けたまま、そう訊いた。

「そう。でも、あのときの私は、『石井陽子』じゃなくて、『多田陽子』だったけど」

「それは、俺もよく分らない。どうして、名字が違うのか」

「簡単だよ。昔、「多田」だったけど、離婚して、別の男と母が結婚して「石井」になっただけのこと」

「そう、か・・・」

 そう言うしか、かけてあげる言葉が無かった。陽子にそんな過去があったとは、もちろん初耳のことだった。どのような心境なのか知りたいが、知ろうとしてはいけないことだった。

 陽子は口を開いた。

「でも、その翌日、蓮治は来なかったよね。私、寒い中、ずっと待っていたんだけど、蓮治は来なかった」

「実は、あの日の晩から高熱出して、動けなくなっちまったんだよ。ついにはインフルエンザにもかかっちまって、一週間くらい寝たっきりだったからね」

「そうだったの・・・私はてっきり、約束すっぽかされちゃったのかなって思ったんだけど」

「俺が約束忘れるわけねえだろ。破ったら針千本飲まされるんだから」

 自分で言って、自分で鼻で笑った。そして振り返り、涙ぐんでいる陽子をじっと見た。

「でも俺、完治してから数日間は待っていたんだよ、おまえのこと」

「え、そうなの?」

「結局すれ違っちゃったわけだけど」

 二人の間に、またも沈黙が通り過ぎる。途中、陽子は何か言いたそうな様子が何度か見受けられた。その光景が三、四回続いた末、やっとのこと切り開いた。

「私のためにあんなに頑張ってくれた人、あのときの蓮治が初めてだった。自分の身体も捨てて、冷たい川の中から私のためにそのハンカチを取ってくれた・・・変わらないね、今も昔も。蓮治はやると決めたら、それをこなすまで諦めない・・・私、そういう蓮治が、好きだよ」

 陽子の涙した眼は、蓮治の瞳を確かに捉えていた。彼女の瞳は純粋な涙で洗練されたためか、いつも以上に美しく、輝いて見えた。風が二人の髪を揺らし続ける。それは、二人の心が激しく揺れている象徴かもしれない。

 蓮治は一度俯き、覚悟を決めた。二人の距離を詰めていき、蓮治は陽子の頭を優しく支えて、自分の胸に押しつけた。それにより、陽子はさらに涙する。それは、陽子が今までに感じた多くの感情が、一瞬にして溢れだしたようだった。

「俺も、素直に泣いてくれるおまえが、好きだ」

 陽子の耳元で呟いた。無論、この言葉を喉まで持ってくることは容易なことだが、そこから先が困難なことである故に、莫大な勇気を必要とした。

「ありがと・・・」

 蓮治に抱かれた陽子は、涙を流しながら言った。それを言うのが精いっぱいのようだ。

「ほら、これで拭きな」

 過去の想いが詰まった黄色いハンカチを差し出した。長い間渡せずにいた、約束通り洗濯したハンカチを陽子に渡す。蓮治が見守る中、陽子は涙を拭った。

「もう、遅いし、帰ろうぜ」

「うん・・・」

 やっと泣きやんだようだ。蓮治はスクールバッグを肩にかけ、陽子と並んで帰っていった。今朝のラブレターの差出人には断っておいた話はちゃんとしておいた。不安材料を陽子につくっておくことはいけないから、そう思ったからだ。

信号が思うより早く「緑」へと変わっていく度に、残念がる二人の姿がそこにはあった。


 布団に入り、うつ伏せになりながら、蓮治は一枚の紙片をじっと見ていた。そこには、四人の人物の名前が記されてあった。


  遠野嘉政・・・被告人

  向田紗江子・・・弁護士

  石井恭二郎・・・検事

森本哲司・・・裁判長


 この紙片はある人物から仕入れたもので、二十年前の裁判の主な関係者が書き留められている。

既に、遠野嘉政、向田紗江子は抹殺した。聞いたところ、裁判長の森本哲司は数年前に病死しているらしい。すなわち、正義の鉄槌を下すべき人間は、とりあえずあと一人ということだが。

(石井、恭二郎・・・)

 嫌な予感が体中に伝わっていく。今になって気がついたが、陽子と名字が一緒ではないか。

「まさか・・・」

 その「まさか」は事実か、思いすごしか、確認すべきことだ。もしも、陽子の父や祖父であったりしたら、いくら正義のためだとしても、彼女の身内を殺害することはかなり抵抗がある。いや、できっこない。

(でも――)

 自分の正義は、そんな甘ったるい私情によって崩されるほど、厚さの薄いものだったのか。今まで絶対だと信じてきた自分が捧げる正義は、たかが愛の力に敗れてしまってもいいのか。今までの苦労は何だったのか。すべてが無駄だったのか。水の泡と化してしまうのか。正義は正当化されないのか。そう考えると、悔しさが滲み出てくる。恋人と並み以上の関係にある人間だからといって差別化するのはいかがなものか、その疑問に達してしまうのである。しかし、陽子は言っていた。離婚した母親が再婚して「石井」姓になったと。つまり、最悪血縁関係ではないということだが・・・。

 その夜は、なかなか寝付けなかった。故に、翌日は蓮治にとっては珍しくないことだが遅刻した。先生の忠告も、右耳から入って左耳で出て行くように、テキトーに横流しにした。「何故遅刻したんだ?」と言われたとき、蓮治は「寝坊ですよ」と言って、片付けた。理由なんて口が裂けても言うものか。そう言ってやりたかったが、言ったらとんでもないことになる。

 その日の帰り道、陽子にそれとなく訊いてみた。

「陽子さあ、一つ訊いていい?」

「何?」

「お前のお父さんってさあ、何やってんの?」

「どうしたの、急にそんなこと」

 陽子は少々顔をしかめた。

「いや、ちょっと気になったからさ」

 陽子は何の疑いもなく、ただの雑談と受け止めたのか、あっさりと答えた。

「弁護士だよ」

「弁護士?」

「そう、結構腕いいみたいだけど」

 蓮治は「検事」の「け」の字もなかったことには安心したものの、「弁護士」と聞くとまだ心が晴れない。まさか・・・。

「そ、そうなんだ。もしかして、昔は検事だったりした?」

「うん。でも、よく分ったね。確かに以前までは検事だったみたいだけど、十五年くらい前って言ってたかなあ、つまり私が生まれた頃、弁護士に職を変えたんだって。まあ、そのときは今のお父さんじゃなかったけど・・・詳しいことは知らないけどね。多分、お金の問題じゃない。まあ、弁護士で成功しているから、そのときの判断は間違って・・・」

 陽子は蓮治の顔が青褪めていることに気付いたようだ。

「れ、蓮治。どうしたの?大丈夫」

 その声で呼び覚まされ、無理矢理笑って「大丈夫」だと陽子の心配を解いてやった。

「ちなみに、陽子の父さんの名前って・・・」

「恭二郎。石井恭二郎、だけど」

それからは陽子との話は弾まなかった。時々陽子は心配そうな顔で蓮治を覗いた。

 家に帰ってから、蓮治はすぐに自室に籠った。そして、頭を抱えた。

 例の裁判を担当した検事の名は、「石井恭二郎」。陽子の父さんの名も、「石井恭二郎」。この世に、十数年前まで検事で現在は弁護士を職としている「石井恭二郎」がいるだろうか。同姓同名の人間なんてそういるものではない。「恭二郎」なんて、蓮治が今まで聞いたこともなかった名前だからなおさらだ。

(石井恭二郎は、陽子の父――)

 心の中で幾度も繰り返す。

 正義はついに崩れてしまうのか。「鋼のメンタル」と称された、この固くも深くもある信念は折られてしまうのか。

(いや、待て――。石井検事は遠野に罪を償ってもらおうと、罰を下そうと奮闘したのだ。すなわち、形はどうであれ、蓮治と同じ性質の人間だ。つまり、蓮治の正義を石井恭二郎に下す必要は無いのではないか。

 でも、遠野を社会に放したことは事実だ。検事の尽力が不足したとも、見方によっては捉えられる。連帯責任として葬られるべき。自分の恋人の父親だからって、差別することは俺の正義に反している。そのうえ、石井恭二郎は陽子とは血が繋がっていない再婚相手だ。実の父親ではないから・・・)

――ドンっ!

 蓮治はデスクに拳をぶつけた。息が荒かった。たかが二択に、こんなに悩まされたことはこれが初めてだ。言うならば究極の二択である。葛藤による本当の恐怖に触れたような気がした。いっそう、もう止めてしまえば。いや、自分の正義に反している。自分の正義に謀反した他人を罰するのに、自分が遵守しなくてどうする。

 気がつくと、いつのまにか職場から戻った國又がこちらを覗いていた。どれくらいの時間苦しまされたのだろうか。國又は少しだけ蓮治を見つめ、何も言わずに立ち退いていった。


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