第三章 追憶のハンカチⅡ
2 九月二十三日 日曜日
はあ、はあ、と息を切らしながら、先週と同じように蓮治は走っていた。向田紗江子という弁護士を殺害し、逃走するべく思いっきり走っているのだ。ふと腕時計を見ると、午後九時を過ぎている。家を出たのは八時だが、この一時間がしごく短いものに感じられた。
正直、あの日と同じように陽子と会うのではないかと、期待と不安の両方を抱いていた。しかし、そんなことなんて二度とないだろう。蓮治はこんな状況でも、甘ったるい思考へと転換してしまう稚拙な自分を、自嘲するように笑った。
午後九時半ちょっと前、自宅へと舞い戻った蓮治は、ゆっくりと、なるべく豪兄に気付かれないように扉を開けた。
「どこ行っていたんだ?」
突然、豪兄が自室から出てきた。反射的に肩が数センチ上がった。それから笑顔をつくって返事をする。
「豪兄・・・夜の、散歩だよ」
「・・・そうか」
疑いの眼で蓮治を睨んできたが、まだ自宅でやるべき仕事が残っているのか、自室へ戻った。覗いてみると、案の定豪兄愛用のパソコンのディスプレイに、多色のグラフなど、情報や文書が映し出されていた。仕事の邪魔になると判断してそっと遠退いた。
布団を敷くやないなや、失神したように、ばたりと倒れ込んだ。先週と同じように、次第に疲労感がどっと蒸し返してきた。でも、先週は車内だった。JR線の中、陽子を隣に座っていた。
今になっても、あの日の記憶は時折蘇ってくる。自分でも驚くくらい鮮明に――である。
「また、明日も学校か・・・」
小さく呟いた。大きく深呼吸をして、蓮治は瞼を閉じた。
翌日の月曜日の朝、豪兄の作ってくれたトーストをかじりながら、蓮治はリモコンを手に取った。
「昨日、弁護士の向田紗江香四十五歳が、何者かによってナイフで刺され、自宅の玄関で遺体となって発見されました」
まだ若い女性アナウンサーは、事務的にそう喋った。彼女が言うには、「警察は先週起きた、元国会議員の遠野嘉政氏が殺害された事件との関連性を洗っている模様」のようだ。
(さすがに警察もやることが早いな・・・)
日本の警察の有能さ、機敏さに感心しながら、ミルクを飲みほした。現状をニュースで一通り確認すると、急いで歯を磨いて、「行ってきます」と言い、アパートを飛び出した。
蓮治は学校に通うのに、いつも自転車を漕いでいく。健康を気にする歳ではないが、わざわざ満員電車に乗って、人の波に揺られるよりは、多かれ少なかれ日々変化する街並みを眺めていたほうが、よっぽど好い。
今日はどんよりとした曇り空だ。やっと秋らしくなってきたのか、汗をかくほど暑さは感じられない。不定期的に吹く風も、暑苦しくなかった。すれ違う人たちの服装の変わり様からも、季節の転化を思わせる。以前まで緑の葉をワサワサ茂らせていた大樹も、どことなく寂しくなってきた。
所定の位置に駐輪し、校舎へと入っていく。玄関で靴を履き替えていると、龍也が登校してきた。
「よお、蓮治」
「おはよう」
龍也の明るい挨拶とは対照的に、蓮治はぼそっと言った。「元気ねえな」と、蓮治の肩を叩いた。元気がないというべきなのだろうか。実際、そうなのだろうが、認めたくないというか、「元気がない」と、あっさり処理されてはいけないというか・・・とにかく、すぐに説明のつくほど容易な状態ではないのだ。
いつのまにか、後から来た龍也の方が先へと進んでいた。
「そういえばさ」
少し行ったところで、龍也何かを思い出したようだ。
「蓮治、おまえに貸したCD。そろそろ返せよ」
「CD?」
「もう二年くらい経つんじゃね?貸したでしょ」
「に、二年?」
「CD」と聞き、思い当たる節が無かったが、「二年くらい経つ」という言葉を耳にしたとき、蓮治は(やべえ、どこやったかなあ・・・)と、思わず頭を掻いた。
「そんなに急かさないけど、早いうちに返せよ」
「お、おう」
龍也は階段を、得意そうにスタスタとかけ上っていった。家に帰ったら探そう、と腹を決めて後に続いた。
教室に入り、自分の席へ向ったら、龍也たちが集まっていた。輪の中に入ろうと、「どうしたの?」と声をかけてみた。
「あ、蓮治。おはよう」
陽子が気付いて、いつものように活気ある声で言ってきた。
「え、ああ、おはよう」
挨拶もろくにできないほど、龍也の言う「元気が無い」のである。情けない以外のなにものでもない。
「おお、美吉。朝のニュースは見たかい?」
例の高月が訊ねてきた。「朝のニュース」と聞いた瞬間、以前のこともあって、向田紗江香弁護士殺人事件のことだろうと察した。
「『朝のニュース』だけじゃ、何か分らないだろう」
龍也が気の悪そうに言った。
「向田っていう弁護士が殺害された事件だよ」
「ああ、そんな事件あったっけなあ」
蓮治の思った通りである。
「で、その事件がどうかしたの?」
「実はさあ、前に話した遠野嘉政殺害の事件あったでしょ」
「元々国会議員で、過去に裁判にかけられたあの遠野嘉政?」
浪恵が確認を兼ねて訊いた。
「そうそう、その遠野嘉政。そいつが殺された事件と、弁護士の事件、どうやら関係があるらしいよ」
「え?同じ犯人ってこと?」
「さあ、どうだろうね。警察は関連性を疑っているって言っていたから、間違いないんじゃない」
「どうだかね」
蓮治は負けずと割り込んだ。
「どういうことだよ」
不満そうに高月は言う。
「警察なんて信用できないだろう。正義の看板を立てて、市民の気も知らず、プライベートにもずかずかと土足で踏み荒らし、面子、保身のために時には禁断の隠蔽を謀る。ハハ、どうしようもない組織だ」
「おい、蓮治。度が過ぎてるぞ」
慌てて龍也が制しにかかる。蓮治はふと陽子を見た。別次元の生き物を恐れるような眼で、今にも泣きそうな眼で、小刻みに震えていた。蓮治の視線を辿った龍也や高月も、その先にいた陽子を見る。
「陽子どうしたの?」
心配した浪恵が、陽子の肩を持って訊いた。肩に触れられ、現実の世界に引き戻されたように、「え?」と逆に訊ねた。
「陽子、今、何て言うんだろう・・・なんか、すごい恐ろしいものを見たような顔していたよ」
「そう・・・何でもないよ」
最後は笑顔で首を振ったが、その場の空気は陽子の笑顔だけでは戻らなかった。「そろそろ席着かないと・・・」と、陽子がぎこちなく笑って、その場は終わった。
気をつけ、礼――。
学級委員の声さえ、まともに耳に入らなかった。あの顔が未だに頭から離れない。警察を真っ向から否定した蓮治を奇異に思ったのだろう。眉が額の中心に寄せられ、引き締められた唇。そして、澄んだ瞳が蓮治の目をじっと見つめていた。
そのとき、自分は人を二人も殺めた殺人鬼だということを、深く考えさせられた。
――殺人鬼美吉蓮治は、今も学校に通う中学三年生。
――殺人鬼美吉蓮治は、今も食事を摂れ、温かい布団の中で眠れる。
――殺人鬼美吉蓮治は、今も不自由なく生きている。
自嘲とも捉えられる思考を中断して、ふと隣を見ると、悲愴な表情の陽子がいた。どうにかして、いつもの幼げな、微笑みを絶やさない、時にむかっとする、それでいて可愛げな陽子にしてあげたかった。
ホームルームのときだけではなく、ひもすがらずっと思っていた。でも、何もできず、声さえも掛けられず、自分の無力さに浸るだけだった。下校中、愛用の自転車を漕ぎながらも、それは消えなかった。
「ただいま」
蓮治が学校から帰ってきて家に着いたときは、いつも國又はまだ仕事から戻っていないのだが、習慣というものはすごいもので、昔から続けてきた挨拶というのは、誰も聞いてくれないとしても、口からポロリとでてきてしまうのだ。
蓮治は靴を脱ぎ、自室へと向かった。ため息と同時に床に座って、悔恨の声と共に拳を叩きつけた。堪らず舌打ちをして、頭を掻き毟った。時々ねっ転がったり、そんな動作を繰り返すこと十分。これが何の助けにもならず、何のためにもならず、何の意味も持たないことに気付き、仰向けになっていた身体を起き上がらせた。
(・・・そうだ)
今朝の会話を思い出した。龍也に貸していたCDを探さねばいけない。一年も前に貸してもらったCDを、いつまでも保持しておくわけにはいかない。某CDレンタル屋だったら、延長料金が増していき、いいお値段になるのでないだろうか。それはともかくとして、さっそく作業に取り掛かった。まず、CDをしまっておく小サイズの棚を調べてみた。一枚一枚念入りに調べてみたが、それらしきものは無かった。第一、貸してもらったCDというのが何なのか、記憶になかったから、どうしようもないといえばどうしようもないのだが。次に、机の引き出しを一段ずつ確認していく。一段目には、主に文房具が収納されている。二段目には、昔好んで買った小さな人形や、キーホルダー等が入っている。他の段とは二倍以上の大きさがある三段目は、ファイルやノート類、それから本、漫画が何冊か倒れていた。
(もしかしたら・・・)
蓮治は瞬間的に閃いて、箪笥の扉をバッと開いた。そして、旅行用のバッグや今でも使えるのか分らないがらくたを掻き分けて、奥の方に大切にしまってある、いわば「宝箱」に手を伸ばした。國又が以前買ってくれたものだった。今となっては、何年前かも思い出せない。蓮治は手を伸ばし、取っ手を握って、「宝箱」を机にドスンと置いた。持ってみて気付いたことだが、結構重量がある。最近触れていないから、何が入っているかいまいち覚えていない。かなりの埃を被っていて、開けるのにも少々躊躇ったが、大いなる期待を込めて開けてみた。
「あった」
思わず歓喜の声を上げた。見ると、「SMAP」と書かれている。人気アイドルグループSMAPのアルバムを二年くらい前に借りていたとは、驚きである。それにしても、何故「宝箱」に入れてあったのだろう。記憶のページをいくらめくっても、このCDを「宝箱」に入れた光景が見当たらない。
(まあ、見つかったからいいか)
蓮治は「宝箱」の中を覗いた。興味が湧いてきたため、全部「宝」を取り出すことにした。小学校の卒業文集に、ちっちゃい頃ハマった仮面ライダーのフィギュア。死んだ母のメッセージが詰め込まれたカセットテープ。懐かしさ、驚き、憐れみ。多種多様な感情が一つ一つの「宝」から芽生えてくる。
「ん?」
不思議にも「宝箱」に入っていた黄色いハンカチを取り出した。変なところで折り目が入っていたが、愛嬌のあるハンカチだ。しかし、自分がこんなものを使っていたのだろうか。また、このハンカチにそれ相応の思い入れがあるのだろうか。この二点が疑問である。
蓮治は心臓が止まるかと思った。
ハンカチの裏面――今まで自分が見ていた方とは逆の面を見てみると、「多田陽子」と刺繍されていた。
「多田陽子・・・」
瞬間、同級生の石井陽子と繋がった。
(同一人物か、では何故名字が違うんだ?陽子の親は離婚したということか。それで、名字が変わったのか・・・いや、待て。俺は何を考えているんだ。『陽子』なんて名前、世にごまんといる。俺の知っている陽子であるわけ・・・)
そう思いつつも、蓮治はこの「多田陽子」という人物が、「石井陽子」なのではないかと本気で気になっていた。
一番の難題として、何故「多田陽子」のハンカチがこの宝箱に収められているのか。いくら考査で素晴らしい成績を叩きだした頭脳でも、仮の見当もつかない。とりあえず、龍也のCDとハンカチだけを残して、他は全部「宝箱」にしまった。
机に向かい、必死でこの黄色いハンカチは、いつ、どこで、どのようにして入手したのか記憶の再生に耽った。
ガンッ――。
頭をぶつけた。ゆっくりと眼を開いた。
「また寝ちゃったよ・・・」
瞼を閉じて記憶を呼び覚まそうとしたためか、そのまま意識も遠退いてしまったらしい。「また」である。あの日も寝ていた。あの日は陽子の隣で眠っていたのだ。
玄関のドアが開く音がした。國又が帰ってきたようだ。
「おかえり」
「おう、蓮治。ごめん、今日疲れてるから作れないわ。だから、買ってきた」
國又の手にはコンビニのビニール袋があった。
蓮治たちはすぐに夕食にした。
「蓮治、カレーとスパゲッティどっちがいい?」
「じゃあ、カレー」
レンジで温め、「いただきます」と声を合わせ、スプーンを動かしだす。コンビニの品物も、意外と美味いものだ。改めて感心させられる。
「豪兄さあ、俺の『宝箱』って知ってるよね?」
「ああ、箪笥の奥にしまってあるやつだろう。それがどうかしたのか?」
「あの中にさ、龍也から借りたCDがあったんだけど・・・」
「そういえば、俺が入れたかなあ」
「ええ!やっぱり、豪兄が」
「散らかってる蓮治の部屋が悪いんだろう。二年くらい前だったかな。掃除しようと思って中に入ったら、捨てられたように置かれてたからな、とりあえず『宝箱』に入れておいた」
「それならそうと言ってよ」
「悪い悪い。それは謝る」
蓮治は本題に入った。
「それで、『宝箱』の中身を確かめてたらさ、黄色いハンカチが出てきたんだよ」
「黄色いハンカチ?」
「そう。豪兄、なんか知らないかな?」
「何か記憶にあるんだけどなあ。思い出せない」
「『多田陽子』って刺繍されていたんだけど」
「多田、陽子?待てよ・・・」
まもなくして、豪兄は「思い出した!」と大声で叫んだ。蓮治は詳細を話すように、催促した。




