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空色のコメディロマンス

作者: 黒澤三六九

ちぐはぐな物語ですが、読んでいただければ幸いです。

     Stockholm


 白い部屋。白いカーテン。目に入るもの何もかもが白い場所にいた。

 そこで、ストックホルム症候群という病気があるって事をまず初めに聞いた。

 簡単に説明すると、誘拐されたりとか人質にされたりといった、いわゆる緊迫した状況に陥った人が、犯人と一緒の時間を過ごす事で、その犯人に好意や愛情といった特別な感情を抱くという現象なんだって。

 それは心理的反応? が原因となっているという話だとか。要するに、危機的状況に陥った時の人間は、犯人に反抗したり嫌悪したりするよりも、好意とか信頼で対応した方が生き残れる可能性は大きくなるって考えるらしいわ。まあたしかに、犯人も自分を信頼してくれる人ならば、いくら人質でもすぐに殺したりはしないと思う。そういう辺り、人間の内面ってのは都合良く出来ているのかも。

 ああ、もちろん人質や誘拐から解放されたら、被害者の犯人に対する好意は、すっかり消えて憎悪に変わってしまうそうだけれど。それは、普通に考えれば当たり前だと思う。全てがそう都合良くいくはずもないんだから。所詮はまやかしの好意でしかない。まあ、例外的に犯人と人質が結婚したケースもあるらしいけれど。

 そして。

 以上が、保護されて病院に無理矢理入院させられた私が、医師や警察の人から矢継ぎ早に教えられた事の全て。

 父や母はあまり大事にしたくないのか、それ以上詳しく検査しようとも、私から詳しい話を聞こうともしなかった。昔からそういう人達だから、仕方ないんだ。私は今まで通り、そう割り切る他無かった。悲しくはなかったんじゃないかな。もう、抵抗や反抗しようといった意思は去勢されたように無くなっていたから。女なのに去勢なんて、またおかしな表現だけれど。

 病院のベッドから、窓の外を覗くと、雲行きの怪しい空が視界に映る。

 悲しくはないよ。でも、少し寂しい気分ではあった。どうしてか、その理由は分からないけれど、なぜか胸が苦しい。不意に脳裏に、とある人の顔が浮かんできた。何も説明せずに、またされずに。名前すら教え合っていない、微妙で曖昧な関係だったあの人の顔が。

 私はあの人を好きだった?

 決して嫌いじゃなかったはずだけれど。

 でも……。

 でも、私は医師いわくストックホルム症候群なのだから。あの人を慕う気持ちが本物かどうか、自信が持てない。

 私は考えるのを諦めて、外の景色を再び見始める。

 窓の外では、今にも雨が降り出しそうだった。


     Dance a Waltz


 それは、少し前の話。

 目を開けると、すぐ側に不精髭に覆われ、いかにも独身ですって風貌のオッサンがいて、こちらを覗き込むように見ているのに気がついた。いや、そんなのはどうでもいい。ここはどこだったっけ? 記憶がひどく混乱している。答えを探すべく重い瞼を無理矢理持ち上げる。けれど、すぐにそれは見つかった。

 そういえば、ここは、今私の目の前にいるオッサンの家なんだった。なぜか安堵に近い感情を抱いた私は、また欲望の赴くまま惰眠を貪ろうと目を閉じる。

 しかし、

「オラ寝んな、起きろ」

 オッサンに起きるよう促され、布団を引っ張られる。うう、寒い……。

「あと二時間だけ……」

「二時間は『だけ』ってレベルじゃねえよ。飯片付けられねーから早く起きて食ってくんない、お嬢さん」

「私、低血圧なの、知ってるでしょ」

「あァ? 朝弱いとか、所詮は甘えなんだよ。そんくらい気力でなんとかしろ」

「じゃあ、今日『あの日』なの……」

「じゃあって何だじゃあって。女だけの特権をこんなところで濫用すんじゃねーよ。ったく、ちったぁ俺みたいに早起きしようとしてみろよ」

「オッサンはもうジジィだから逆に遅くまで寝てられないのよ」

「うるせぇ、ジジィじゃねえよ。こちとらまだアラサーだっつの。三十路迎えたばっかだっつの。お前こそ俺の腹巻すっかり私物化しやがって、お年ですか? ババァなんですか?」

「女の子はお腹冷やしたらいけないんですわー、野蛮でいつも下のアレ露出してるような狼とは違うんですわー」

「さすがにそれは全狼と全男性に謝れ。てか、それただの露出魔じゃねーか。それに男を野蛮とか狼とか決め付けないでくんない。俺みてえに虫一匹殺せないようなウブなクールガイもいンだよ」

 ウブなクールガイ?

 思わず私は吹き出してしまう。

「まあ、ある意味ウブっていうか、チキンよね。オッサンって」

 すると、オッサンは心外そうな表情をする。ただ、別に怒ってるわけではなさそう。それに、たとえ怒っていても、本気ではないだろう事を私は分かっていた。現に、オッサンの口元が少し曲がっているのが見えた。これはやり取りを楽しんでいる表情。

「どういう意味だよコラ。つかいい加減オッサンってのはやめてくんない。呼ばれる度に自分の年齢を嫌でも自覚しなきゃならなくなンだろうが」

「えー? だって私、オッサンの名前わからないんだもの」

「ん? あー、本当? 俺教えてなかったっけ」

「うん、本当」

 私は首を縦に振る。オッサンと一緒に暮らし始めてから早一週間と少しが経つけれど、私は未だにオッサンの名前を知らない。同様に、オッサンも私の名前を知らない。だって、お互いに教えていないから。だから私はオッサンを『オッサン』と呼ぶし、オッサンは私の事を『お嬢さん』と呼ぶ。そんな曖昧で微妙な関係。

 まあ、だからといって、そんなにオッサンの名前を知りたいのかと聞かれたら、そこまででもないのだけれど。だって、名前というものはあくまでその人がその人であるっていう一応の証明にしか使えないし、いとも簡単に偽れてしまうのだから。つまり、本名を素直に教えてくれるか分からないってこと。

それに、私たちの関係を考えると、素直に名乗る方が無防備だとすら思う。

「あー……じゃあ、オッサンでいいや」

 やっぱり。私の予想通り、オッサンは名前を教えてはくれなかった。それどころか、ニックネームすらも教えてくれないなんて。それはさすがに少しだけ、寂しくなるじゃない。

「別に教えてもいいんだけどさあ、俺の名前くらい」

 私が傷ついたと思ったのかもしれない。すかさず、オッサンは付け加えるように言った。

「ただ、嫌いなんだよ、俺」

「私の事が?」

「ちげえよ。名前だよ、名前。俺は自分の名前が嫌いなの」

「何で? 変な名前なの? もしかして、臆病者なのに『勇気』とか名前付けられちゃって、『名前負け』してるーって散々ネタにされた……とか?」

「何でそんなに具体的なんだよコノヤロウ。俺がチキンに見えんのかよ。このウブでクールなナイスフェイスがよ」

「見えるわよ?」

「サラっと肯定すんじゃねーよ。つか、よく考えたらすごく恥ずかしい事言っちまったじゃねーか。ちょっと前言撤回させてくんない。お願いだから」

「認めませんわ」

「今更お嬢様ぶってんじゃねーよ。全然優雅に聞こえねーよ。てか本当に俺チキンじゃねえし。アクティビティバリバリだっつーの」

「さっき自分で虫一匹殺せないウブなクールガイって言ったのに? でも、昨日のオッサンのヘタレぶりといったら……ふふっ」

 鼻を鳴らしながら、私は言ってやった。事実、昨日のオッサンのとった行動は、ヘタレというより他なかったから。

 折角、勇気を出して私から誘ったのに……。

 あまり自分で言う事ではないけれど、これでも学校ではスタイルが良いと周りから言われた事もある。それらの何割が社交辞令やお世辞なのかは分からないけれど。ただ家柄上、美容や食生活には細心の注意をはらわさせられた事もあって、少し細すぎるのが気になるものの、出るべきところはちゃんと出た綺麗な体つきになっていると思っていた。

 だから、オッサンが私の誘いから逃げた時は、今までのは私自身の単なる自惚れだったのかと、落ち込んだ。

「…………」

 今は目に見えてオッサンが落ち込んでるのが分かる。肩をこれでもかってほど落としちゃって、首なんかうなだれすぎて体に埋まってしまいそうだった。

 笑うのは失礼だけど、今のオッサンはすごく面白い格好をしている。

「う、うううるせーし! 犯すぞコノヤロウ」

 私のクスリと笑う声が聞こえたのか、オッサンは急に顔を上げる。そして意地と見栄を張っただけのか弱い反撃をしてきた。

 だから、

「だから、昨日はそれが出来なかったんじゃない。ビビってキョドってチキンになって、私に恥をかかせて……もう」

 私は、その意地と見栄を一蹴する。言いながら、私は昨日の事を思い出して、悲しい気分に浸っていく。

「…………」

 一方、オッサンは再び黙り込んでしまっていた。

 そういえば、オッサンはメンタルが糸みたいに細く弱いんだった。すっかり忘れていたわ。

 さすがに憐れ(可哀相とは思っていません)に思えてきたので、私はオッサンの耳元に顔を寄せると、呼吸と間違うくらいに微かな声で、謝罪の言葉を囁いてみた。わざと息遣いを艶っぽくしてみながら。ほんの悪戯心。

「ごめんね?」

「…………」

 オッサンはぴくっと体が動いたかと思うと、今度は顔がみるみる紅潮していく。

 とても分かりやすい反応でなにより。この純粋というか……初心な反応がとても面白くて、愛しい。私は心なしか顔を綻ばせながら、布団から起き上がった。まあ、私もそういう経験があるわけじゃないのだけれど。所詮は本や友達から得た偽物の仕草だから。

 私は、ちぐはぐなつぎはぎだらけの中途半端な人間なのだから。

「…………。やっと起きる気になったのか、万年床お嬢さま」

「うん、オッサンいじってたら眠気がすっかり吹き飛んだわ」

「そうか……それはよかったなコノヤロウ」

「もしかして怒ってる?」

「別に。そんなんで怒るほど俺ガキじゃねーし」

「そう。よかったわ。じゃあオッサンの事『チキン』って呼んでもいいのね?」

「え? 何? 俺怒っていいのかコレ」

「だって、私、オッサンの名前知らない――」

 あれ? 何か既視感……。

 結局、会話がループしている事に気付く頃には、すっかり朝ご飯は冷めてしまっていた。


     Comedy


「そういえばさ」

 冷えたご飯を箸で口に運びながら、ふと私は切り出した。レンジで温めるようオッサンには勧められたけれど、猫舌だから熱すぎても食べられないので、辞退した。少し固くなった米を口の中で目一杯噛み締める。

「あン?」

 オッサンは自分の食べた皿を洗いながら返事をする。こちらを振り向かないから、怒っているのかと勘違いしそうになる、柄の悪い返事の仕方。オッサンはとても口が悪い。慣れるまでは、私もオッサンの喋り方が怖くて、会話中びくびくおどおどしっぱなしだった。もう、最初はどんなに教養がないのとか思ったものだわ。

「オッサンは今日どこかへ出かけるの?」

 今ではこの通り、すっかり順応してしまったけれど。人間の慣れとか本能とかって、本当にすごいと思う。

「あーそうだな……切らしてる食材やらがあったから、今からスーパーにでも行ってくる」

「私もついて行っていい?」

「嫌だ」

「拒否から入るのね」

「じゃあダメ」

「そんなに嫌かしら?」

「ありえない」

「拒否して、さらに根本的に否定するほど嫌なの!?」

「お前来ると、疲れンだよ」

「ひどい言い方ね……」

「カゴ載せたままカート引いてどこか行っちまうし、食べたいお菓子好き勝手カゴん中放り込むし、ピーマンとかトマト入れてもいつの間にか元の場所戻してくるし、子供かっての。俺とスーパーの品だし係のおばちゃん達に謝れコノヤロウ」

 もしかして今、馬鹿にされたのかしら。だとしたら、すごく心外。

「仕方ないじゃない。そういうの、見た事が無かったんだから」

「いや最初は仕方ないで済むっつのそりゃ。だが、毎回つれてく度にそれやられる身になってみろよオイ」

「う……」

「毎回毎回カートの観察にカートに入れた食材の管理にお前の監視。スーパー行く度に俺の複数同時行動スキル上がってきちまったじゃねーか。行き着く先は聖徳太子かよ」

「あの人のは耳で聞き分ける能力でしょ」

「うっせえ、細けえ事はいいンだよ。やってんのは事実だろ」

「うう……」

 返す言葉が無くなってしまい、唸るしかない私。まあたしかに、好奇心が勝ってしまう事もありました(毎回)。でも、仕方ないじゃない、本当にスーパーってものは巨大な冷蔵庫の中を探検してるみたいでワクワクするんだから。それに、嫌いなものなんて今までは食べなくても許されてたし、いきなりは無理。そりゃお菓子とか代わりに入れたくなるわよね。駄菓子とかも今まで食べた事無かったし。

 ただ、よくよく考えてみると、今私が外を不用意にうろつくのはあまり褒められる事じゃない。そう考えると、オッサンについていけないのも仕方ないのかな、と思えてくる。

 特に、オッサンと並んで歩いているところを誰か私の知ってる人に目撃されたりでもしたら、大変な事になる。今まで何度かオッサンとスーパーに出掛けたけれど、むしろその時に見つからなかったのがおかしいくらいだった。

 もし今回見つかりでもしたら、今の生活が奪われてしまうかもしれない。やっと始まった生活が終わってしまうかもしれない。

 そう思うと、私はこれ以上無理して頼む事は出来なかった。そろそろ自重するべきなのかも。

「…………」

 オッサンは、急に黙り込んでしまった私を見ると、溜息をつきながらそっと私の頭に掌を添えた。温かくて広い掌だった。懐かしいような、今までに無いような、曖昧な感じ。でも、安心の出来る気持ち良い感覚を与えてくれた。私は撫でられているその感覚に酔いしれておもむろに目を瞑る。

「ちゃんと留守番してろよ」

 その言葉と同時に私の頭からオッサンの掌が離れていく。今の今まで頭の上に感じていた温もりが、急激に失われていくのを感じる。でも、まだわずかにオッサンの掌の感触が残っているような気もして、私は目を瞑ったままでいた。それに浸るのが、少し恥ずかしく、でも心地良くて、嬉しくて。保育園に通っていた頃を思い出す。先生によく頭を撫でてもらったっけ。

 でも、しばらくの間その余韻に浸っていた私が、ようやく目を開いた頃には、家にはもう私一人しか残されていなかった。

 がらんどうとしている室内は、私一人だけだと意外に広く大きく感じられた。

 途端に、私は不安な気持ちへと転落していくのだった。


     Syndrome


 最初は怖かったのだと思う。どうしたらいいか分からないという恐怖や不安に囚われていた。でも、オッサンと暮らすうちにそれらはどんどん小さくなって、終いには消えてしまった。残ったのはどこから湧いて来たのか、それまでは無かった安心や好意といった感情。この不思議な感覚を何と言えばいいのか、私の語彙では上手く言い表せなかった。

 冷たい朝ご飯を口に運び、私はそれをしみじみよく味わう。オッサンの料理はいつも美味しい。栄養も決して偏ってはいないし、私の苦手な野菜類を出来るだけそれと分からないように細かくしてから入れるという工夫までしてくれた。料理が趣味というには、少しばかりその範疇を越えているように感じる。

「美味しい」

 ただ、一人で食べるご飯は、寂しかった。子供の頃から、家での食事はずっと一人だったから。執事や家政婦の人達はいたけれど、私はいつも一人ぼっちで、家族団欒なんてものは皆無だった。でも、年月を経て、いつしか気にならなくなっていった。その時の私は、さながら氷のようだった。

 けれど、初めてオッサンと食卓を囲んでご飯を食べた時は、言葉で表しがたい温かさに涙が出そうになった。

 その温かさを知ってしまったから、今まで一人でも大丈夫だった私は今、昔とは違う意味で寂しさを覚えるようになっていた。いや、寂しさではなく――人恋しさに近い何かかも。どちらにしても、皮肉なものだった。

 嬉しいはずなのに、何だか自分が前よりも弱くなってしまったような気がしたから。

「…………ご馳走様でした」

 用意されていたご飯をすっかり平らげると、私は食べ終えた皿を流し台まで持っていき、水に浸す。数日前、オッサンに家事くらい出来ないと女としては三流だと言われ、色々と挑戦してみた時があった。そして、その中でも簡単そうに見えた皿洗いを私は毎日受け持つ事になっていた。スポンジを泡立てるのはゲームのようで楽しかったし、汚れが綺麗になって水に流されていく様も神秘的で、私を夢中にさせた。

 しかし、その日からなぜか料理がいつもよりも苦く感じるようになる。不思議な事に、料理全体が苦いのではなく、皿に触れている底の方だけが特別苦く感じた。まあ、さすがにそれでオッサンも気付いたみたい。で、私は皿に付いた汚れの洗い残しや洗剤の落とし忘れの酷さを注意されてしまった。以来、いつか中毒で死ぬからと、私は皿洗いはやらせてもらっていない。

 そりゃ今までやった事なかったんだから当然じゃないかしら。大体、雑巾はちゃんと絞るとか、生卵はレンジで加熱しちゃいけないとか、食べ残しはラップをかけて冷蔵するとか――そんな事知らなかった。知る機会が無かったから。

 だから……。

 自分の置かれている立場をたまに忘れそうになる。私は誰で、どういう人間なのかすらも。全ては同居人のオッサンが予想以上に良い人すぎたから。

 私がここにいる理由は?

 私がここに来た経緯は?

 誰が一番悪いのか――

「あっ」

 ふと、机の上にオッサンの財布が置いてあるのを見つける。忘れてしまったらしい。買い物行くのに最も大切な物を忘れてしまうなんて、オッサンも意外におっちょこちょいなのね。

 今から走れば、余裕をもってオッサンがレジを通る前に追いつける。でも、外出を控えるべき身の私が行ってもいいものか分からない。オッサンにも、留守番してるように言われたわけなのだし。

 オッサンが恥をかく事と私の立場。天秤にかければどちらが重いのかなんて火を見るよりも明らかだった。

 けれど、私はもうすでに外出の身支度を整えて、オッサンの財布を片手に家を飛び出していた。

 良くも悪くも、この奇妙な生活を経て、私は多少変わったみたい。それが少し寂しくて、でも少し荷が下りたような気分でもあった。


     a Lost Article


 息も絶え絶えになりながら、私は走った。その結果、オッサンが、財布を忘れた事に気付いて慌ててスーパーを出ようとしているところに遭遇する事が出来た。

「オッサン!」

「ん? って、お嬢さん? 何でいンだよ。留守番してろって言ったろ」

「財布、忘れたでしょう」

「う」

「はい、これ」

 持っていた財布をオッサンの方へ差し出す。

「ああ……どうも」

 面を食らったような顔をしながら、オッサンは一応感謝の言葉を述べた。

「助かった?」

「ああ、無駄に往復せずにすんだ。本当、ありがとな」

「じゃあ中に入りましょうか」

「そうだな。今日の昼飯は蕎麦だぞ――って待てコラ、なにさりげなくスーパー入ろうとしてんだコノヤロウ」

「ダメかしら?」

「ダメだ」

「悲しいわ」

「ダメなもんはダメだ」

「財布持ってきてあげたじゃない」

「うん、ありがとな。帰れ」

「ひどい!」

「だからお前の世話面倒なんだっつの。それに今見つかったらヤバイんだろ?」

「もうここまで来てるんだから同じようなものじゃない。静かにしてるから、お願い」

「どんだけ聞き分け悪いんだよコノヤロウ。子供より質がわりいぞ。……仕方ねえな、もう俺は知らねえからな」

 溜息と共にオッサンはそう言った。顔には呆れとも諦めともつかないような表情が張り付いている。

「いいの?」

「勝手にしろ。ついてくるならオラ、行くぞ」

 言いながら、オッサンは一人でスーパーに入り、どんどん奥に進んでいく。私は嬉しさが表情へ零れるのを我慢しながら、慌ててその後を追った。


 やはり、何度来てもスーパーというものは私をワクワクさせてくれる。

 入ると、すぐに野菜や果物の陳列された棚があり、出入口付近を様々な色に彩っている。あ、今日は蜜柑と人参が安いみたい。特価、とでかでかと書かれたシールが貼られている。

 私は、四つまとめて蜜柑の入れられている網を一つ、手に取ると、ちょうど長ネギを選んでいるオッサンの元へと走った。

「オッサン、今日は蜜柑が安いわ!」

「走んな。子供かお前は」

「やだ、私ったら恥ずかしいですわオホホ」

「恥じんな。わざとらしいンだよコノヤロウ」

「それより、せっかく安いんだから蜜柑買いましょうよ。こんな野菜なんか買わないで」

 私はいつの間にかカゴの中に入っていたピーマンを脇に弾き、持っていた蜜柑をその真ん中にドスンと落とす。

「弾くな。ピーマンさんが可哀相だろ。子供中心に理不尽に嫌われてんだぞコイツら、何かしたってのかよ」

「ピーマン苦い。でも蜜柑甘い」

「甘いから何だっつの。苦いから嫌いなんて我が儘言ってるから最近のガキ共は体よえーんだよ。ピーマンが苦い汁流しながら泣くぞ」

「苦い汁?! ピーマンがますます嫌いになりそうよ」

「あ、いや苦い汁は冗談に決まってんだろコノヤロウ。もしかしたら涙は甘いかもしンねえだろ」

「涙に美味しいところを全部持って行かれたってコトかしら」

「そういう事だ。つまりピーマンは残滓みたいなモンなわけ。それくらい食べてやれよ、な?」

「うーん……たしかに、ピーマンが可哀相に思えてくるわ……不思議」

「じゃあ、もうピーマンを仲間外れなんかにはしないな?」

「うん!」

「いやーちょろい小娘だったーまさかこんな冗談でころっと騙されてくれんだからなー全くー」

「はっ! しまった!」

 しかし、時すでに遅し。オッサンは私が一週間かけても食べ切れないくらいのピーマンをカゴの中に放り込んでいた。まあ具体的には八個だけれど。それでも、

「そんなに食べられないわ……」

「安いんだから買い溜めしないと損だろ。まあ、何日何週間、いや一生かけてでも食べ切れよ、小娘」

「うう……」

 唸りながら必死で不満を訴えるけれど、オッサンはどや顔のまま身じろがない。腹立つ。

 だいたい、こんな量のピーマンなんて、何日かければ食べ切れると言うんだろう。いつまでこの生活が続くのかも分からないのに――って、あれ?

 もしかして、オッサンは今、間接的に「ずっといていい」と言ったのかもしれない。途端に、怒りがすーっと消えていく。自分の居場所をもらえたようだったし、なによりやっと自分の居場所を見つけたんだと、思った。勘違いだったら恥ずかしいだけだけれど。

「つーわけで、ピーマンの涙云々の話は全部嘘でした。やったね!」

「この嘘つき」

「言い方を変えよう。全部冗談だコノヤロウ」

「冗談でも今のはすごくショックを受けました。もう向こう一週間はピーマンは食べられそうにありません。謝罪と賠償を要求します」

「生意気な小娘だなコノヤロウ」

「ピーマン、食べ終わるまではどこにも行けないものね? 多分一生お世話になります」

「あァ? ……お、おう。じゃねえや、少しは食おうとする姿勢を見せろよ本当」

「じゃあ、ちょっと私お菓子の様子を見に行くからお菓子フロアにいるわね」

「聞けよ。てか俺の側にいろ」

「え……まさか、今のはここ、告白……?」

「うん、頭の様子はよく見てもらった方がいいんじゃねーの」

 そして、私は軽く額を小突かれる。でも、痛くはなかった。むしろ、なぜか嬉しかった。

 ふと、私がにやけているのに気がついたのだろう、オッサンが気味悪そうにしながら尋ねてきた。

「お前、M?」

「うーん……縄で縛られたいと思った事は一度や二度ではないけど……って!」

 思わず心にもない事を口走ってしまった。いや、本当ですから。私にそんなはしたない性癖などありませんから。

「ちち違うわ! もちろんMとかっていうか縄で云々は嘘よ! そうじゃなくて、M的な要素抜きでなんだか嬉しかったの!」

「なんだよ、言えば縛ってやったのに」

「マジで!?」

「ぼろを出しやがったな、M女」

「…………」

 汚い大人。私を罠に嵌めるなんて……悔しい(ビクンビクン)。

 ただ、さっきの私はもちろんマゾヒスト的な意味合いで嬉しさを感じたわけではない(本当の本当に)。もっと、温かくて当たり前の何かに喜びを感じた気がする。

 その感情が何から来るものなのかは、分かりそうで分からない。まるで頭の中に靄がかかってしまったかのように。私には経験の無い事なのかもしれなかった。

「さて、自分がMである事をバラされたくなかったら、俺の近くで大人しくカゴにピーマンやら野菜やら、お前の嫌いなものが放り込まれていく様を見守っているんだな……っ!」

「……うぐぅ」

 鬼。私は心中で呪詛を吐きまくった。

 宣言通りというか、あっという間にカゴの中は私の嫌いな物達で埋まっていった。が、最後の抵抗に、私は一週間分の生理用品をこっそりカゴへ忍ばせる事で、レジにてオッサンを赤面させる事に成功した。

「なん……だと……?」

 と、オッサンが静かに浮かべた驚愕の表情を、私はおそらくこの先忘れないだろう。

 店を出る時、周りに注意を払ってみたけれど、スーパーの中で誰かに見つかったような感じはしなかった……と思う。

 ホッと息をつき、このまま杞憂で済めばいいな。私がそう思っていると、「さっき恥をかかされた恨みだコノヤロウ」と、オッサンに蜜柑を、しかも顔に投げつけられた(乙女の顔になんて事を!)。

 あ、当然だけどひしゃげた蜜柑は後で私達が美味しく頂きました。


     Nostalgia


 オッサンのアパートに帰る頃には日も傾き、赤色の空が町を支配していた。

 空気が少しひんやりとしている。秋が終わったと思ったら、もうすぐに冬だ。めぐるましく変わる季節と、その境目は、まるで今の私とオッサンの関係のように曖昧で分かりづらいものである気がした。

「ねえ、オッサン」

 気を紛らすために、私は会話を紡ぐ。

「なんだよ、お嬢さん」

「オッサンって昔は仕事とかしてたの?」

「急だな。ンな事、聞いてどうすんだ」

「うん、一緒に暮らしてるわけだし、そのくらいは知っておきたいな、って思ったの」

 私が言うと、オッサンは吹き出した。

「失礼ね」

「悪い。ただ、暮らしてるって、俺達のは一緒に暮らしてるって言うのかよ」

「言うと思うけど。だって――」

 だって?

 私はそこで言葉に詰まる。

 オッサンと私が一緒にいるようになったきっかけは、けっして普通ではなかった事を思い出す。

 途端、怒りだとか、やる瀬なさだとか、そういった感情が喉の辺りまで込み上げてきて吐き出してしまいそうになる。

 体が激情に震えた。

 オッサンが心配するように覗き込んできたけれど、関係ない。もう周りの視線や雑音なんて、認識出来なかったから。

 私は、その場にうずくまって小さく唸り声を上げていた。

 瞼の裏が赤い、視界がチカチカする。自分が、例え様のない何かに侵食されていってしまうような気がした。


     Freeze and Frenzy


 私には、親から何かをしてもらったりとか、叱られただとか、褒められただとか、そんな事をしてもらった記憶が無かった。

 良く言えば、放任主義。

 悪く言えば、無関心。

 そして、俗に言うとても裕福な家庭に私は生まれた。

 そんな家庭で、私は十数年間を過ごした。

 周りの友達が家族の話をしているのを聞くのは、辛かった。

 家族の自慢なんて、されても反応に困るだけだし、愚痴を聞かされても共感出来ない。なにより、私が話せる家族の事が何も無かった。

 所謂、コンプレックス。それに私は苛まれていた。

 広い部屋。

 忠実な執事に家政婦達。

 言えば何でも揃う、モノ達。

 ただ、私の心が満たされた事は一度足りとも無かった。それでも、一年を通して一度も家に帰ってくる事の無い両親に、文句を言える筈も無い。そもそも会う事すら叶わなかったし。捨てられてしまったんじゃないかと思った事は一度や二度じゃなかった。

 実は、私はあの人達の子供なんかじゃなく、養子なんじゃないかと思った事も一度なんかじゃない。

 ○○家の令嬢として恥ずかしくない振舞いと容姿を身につけるようにという、唯一に等しい躾のようなものを忠実に守る私へ、お褒めの言葉一つ下さらないのは堪えた。

 現実は、厳しい。というか、不平等。

 そんな事を考える年齢になる頃には、すっかり心は凍り付いてしまっていた。

 もう親はいないんだ。と、開き直って、広い屋敷を一人で占領出来るんだって思えるようにまでなってしまっていた。

 一人でいる、満たされない生活に慣れてしまったのだと、私は悟る。

 学校でも私は一人だった。

 友達は、作らなかった。

 ――いいえ、作れなかった。作り方が分からなかったから。

 話しかけてくれる人はいたけれど、他人との接し方も分からない私はただ首を傾げるだけ。まともに言葉を返す事も出来なかった。それに痩せ我慢じゃないけれど、私は元々周りから家柄などで妬まれていたみたいだから、面倒な人付合いは避けた方が都合は良かった。決して言い訳じゃない。

 結果、私は家でも学校でも一人だった。でも、ちゃんと学校へは休まずに通ったし、どうしたら友達が出来るのか人並みに調べて実践してみようとはしたの。それでも私が一人だったのは、やはりそうなる運命だったからだというしか無いと、思う。

 悲しくはなかった。ただひたすらつまらない人生だって、思った。そもそも凍り付いた心で楽しめる日常なんて既に無かった。

 そんな人生に意味なんてあると思う?

 ――私は無いと、思う。


 そのうち、私は気分だけでも充実した日々に浸かろうと、ネットなんかで見られる、他人の日記などを読むようになった。

 モノに困った事だけは無かったから、パソコンも当然買い与えられていた。それに、他人の日記を見る方法だって、そのために必要なアカウントだって、クラスメートに尋ねれば教えてもらえた。断る人はいなかった。私の親がどういう人達なのか、どれほどの権力を持っているのか、知っていたから断れなかったのだと思う。萎縮効果っていうやつかも。

 こうして私は、自分と同年代の子達の日常を見る機会を手に入れた。

 しかし、今までの私がすこぶる矮少な存在に見えてしまうくらい、その内容は豊富すぎるほどの情報量を備えていた。私の知らない世界が、そこには腐るほどたくさんあった。

 ――帰りに友達と駅前でお茶した。

 ――あの服可愛い。

 ――最近太っちゃった。ダイエットしなきゃ。

 ――昨日彼氏と喧嘩しちゃったよ。

 ――ねえ、あの子最近ウザくない?

 ――あのお嬢様私達の事見下してるみたいでムカつく。

 ――アイツみたいなのはどうせ見てないだろうから書くけど、マジ調子乗ってるよね。

 ――死ねばいいのに。

『…………』

 でも、知らなくていい世界もあった。知りたくない世界もあった。しかし、そこで知った悲しみも、時間と慣れが濯ぎ落としてしまった。

 いつしか、私はそれらを読むだけでなく、その内容に自分を移入させて、投影させて、想像と妄想の世界に浸るようになった。

 実体験に基づいて造られた自分の世界は、ひどく心地が良かった。

 皆が優しかったから。

 友達が普通にいたから。

 そして、家族がいて、喧嘩とかしながらも仲良く暮らしていたから。

 虚構の世界は私に優しく、現実の生活は私をボロボロにした。

 お金持ちなんかに生まれなくたってよかった。

 普通が恋しかった。やっぱり、心が凍り付いてしまっても、根本ではそれを渇望していたんだと思う。

 出来る事なら、私だって仲の良い友達がいて、優しい彼氏がいて、たまに喧嘩したりするけれど愛らしい兄弟姉妹がいて、そして傍で私を優しく見守ってくれる両親がいる、そんな日常を送りたかった。

 でも私には、空っぽの心を、他人の思い出に自己を投影する事で埋める事しか出来ない。

 蜜のように甘い妄想は私を期待させ。

 氷のように冷たい現実は私を凍り付かせる。

 二つの相反する感情に挟まれて、私の心はますます堕落して壊れて、終いにはかちかちに凍り付いてしまった。


     Farewell


「……あ……」

 周囲に、興味本位で近づいてきた野次馬達がぽつぽつと現れ始めた頃、ようやく私は冷静な思考を取り戻し始めた。

「おい、大丈夫か?」

 ずっと傍で声をかけていてくれたのであろうオッサンの声が、突然耳に入ってくる。それは、水に浸した布にそれが染み込んでいくように、本当に不思議なくらいの自然さを伴っていた。

「お嬢さん、大丈夫なのか」

「あ、うん……ええ、大丈夫」

 正気になりたての頭を動かして、周囲の様子を窺う。少し目立ちすぎたみたい。野次馬達は何か何かと様子だけ見て、そのままどこかへ歩き去っていく。

 そんな中、一人だけじっと動かずに注意深くこちらを観察している者がいた。が、私が見ている事に気付いたのか、素早い動作でどこかへ消えてしまった。

 不吉な予感がした。まだふらふらする体に鞭打って、私は立ち上がる。

 そして、心配そうな顔をしているオッサンの手を取ると、一刻も早くこの場から離れるため、がむしゃらに走り始めた。

「おい、何いきなり走りだしてんだよ。もう大丈夫なのか」

 オッサンは半ば説教するような口調で私に尋ねる。しかし、

「ごめんなさい、後で説明するから」

 私はひたすら走るのをやめなかった。やめたら、私達の足元が砂のように簡単に崩れていってしまうような気がしたから。


 しばらく走り続けて、赤色の空が蒼然としてきた頃、ようやく私達は家へと着いた。

 薄暗い空はいつの間にか雲で覆われていて、月は見えない。空気が湿ってきている。雨が降り出しそうな様子だった。

 慌てて靴を脱いで部屋に入り、窓から外の様子をこっそりと窺う。

 つけられてはいないだろうか。それらしき人影は見当たらないけれど。でも、所詮私は素人だから、自信をもって安心なんて事は言えない。

 カーテンを閉めて、私は未だ落ち着かない心を必死に宥める。

「なあ、お嬢さん」

 今まで黙っていたオッサンが、ようやく口を開く。

「もしかして、見つかったのか」

「分からない。でも、私をずっと見ている人がいたの」

「そうか。今、外には?」

「いない、と思う」

「なら、ひとまず安心だ」

 そして、何でもないという表情を私に向けた。珍しく前向きなのは、私を安心させようとしているからなのかもしれない。現に、少し肩の荷が下りたような気がするから。

「ただ、奴らならここを見つけンのも時間の問題だろ。もうここは捨てるぞ」

「え? 捨てる?」

「そ。いつ見つかるかわかんねえからな、荷物まとめて出るぞってこった」

「でも、ここオッサンの……」

「うっせ、俺の家をどうしようが俺の勝手だろうが。テメェはただついてくりゃいいンだよ小娘、俺は誘拐犯だろうが」

 私の言葉を遮ってそう言うと、オッサンは「トランクどこにしまったっけな」と呟きながら押し入れを漁り始めた。相変わらず粗暴な物言いだったけれど、なんだかホッとした。ただ私は安堵していた。

 やはり、慣れというものは恐ろしい。


 一通り荷物をまとめ終えると、少しだけ仮眠をとっておこうという話になり、私達は横になった。オッサンは恐ろしく手際が良かった。もしかしたら、昔やっていた仕事って自衛隊かもしれないと、私はそう思った。

 ドキドキして眠気が飛んでしまっていたから、さっき聞きそびれた昔のオッサンの話を聞こうと思ったのだけれど、横になった瞬間オッサンはいびきをかき始めたので、諦めた。でも、当然眠気が無ければ眠る事なんて出来ないので、眠気のまるで無い私はぼんやりと天井を見ていた。そのうちぼーっとしているのにも飽きた私は、窓際に寄り、外を眺める事にした。

 空は夜の帳が下りていて、その上から薄い雲が点々と覆いかぶさっている。街は暗闇と静寂が支配していた。街灯がぽつりぽつりと淡い光を放ってはいるけれど、雲の隙間からわずかに降り注ぐ大きくまばゆい光の前では相手が悪すぎる。光が光を掻き消すなんて、また珍妙な表現だと思うけれど、そういう風に私には、見えた。

 大きなものが小さなものを掻き消す。それはまるで、人間同士の争いのようでもあって――だとしたら、今の私達は消されかけの小さな光なのだろうと、私は、思った。

 ふと、月の光が道路の人影を照らすのが見えた。しかも一人じゃない、何人もいる。おまけに、それらは皆一様にこちらを見ているような気がした。

 まさか。

 もう見つかったの?

 さーっと血の気の引く音がした。再び落ち着きを手放してしまいそうになる。

 でも、今度は不思議とそこまでひどく取り乱したりはしなかった。

 私自身、こうなる事を予想していたからなのかもしれない。

 冷静に考えれば、いくら逃げても、一緒にいたオッサンの顔も見られていたのだから無駄だって事は分かっていた。私がオッサンの家にいる、という可能性にたどり着くのは、そう難しい話じゃないだろうから。相手の情報網を使えばなおさらの事。

 やはり、私はオッサンの荷物になってしまう。迷惑をかけてしまう。

 結局、私の居場所は、あの見かけだけ小綺麗な屋敷だけなのだろう。そう悟った途端、涙が溢れてきた。

 ――出ていこう。

 傍らで幸せそうにいびきをかいている、オッサンの顔を見つめる。

偶然出会っただけの私の願いを聞き入れてくれた名も知らない人。大した理由も話さずに、私を誘拐して下さい、だなんて突拍子もない事を見知らぬ少女からいきなり頼み込まれたというのに、それを受け入れてくれた人。

 悪いのは全部私。そう、私はストックホルム症候群なんかじゃない。ただの我儘で世間知らずの女子高生だった。

「ごめんなさい。さようなら」

 ピーマンを食べ切るって約束は果たせそうにないかも。でも――

 最後の方は涙に塗れて言葉になったかも分からない。それから、私はオッサンの唇に自分のそれを重ねた。

 きちんと私の気持ちが伝わるように。

 私自身のけじめのために。

 そして私が、オッサンの事を決して忘れないように。

 最後に、オッサンが起きていない事を確認してから、私はまとめた自分の荷物だけを持ってそっと外へ出ていった。

 外は、雨が降り始めていた。


     Romance


 刻んだピーマンを口に運びながら、ふと物思いに耽っていた。そういえば、ピーマンには苦い思い出があったな、と。

「……苦え」

 それはあまり実感の湧かない思い出だ。まだそんなに時間も経っていないが、その時俺はまだ十代半ばくらいのある女と奇妙な同棲生活をしていた。本当は夢だったのかもしれないとすら感じるくらい、曖昧で不安定な時間を過ごした。でも、不思議とそいつの事はきちんと覚えている。むしろ、忘れられる気がしない。

 おしとやかとは正反対。

 上品さとは無関係。

 日常においてあまりに非常識。

 猫のような気まぐれさ。

 話をすれば屁理屈をごねる。

 それでいて初対面は笑っちまうくらい無愛想。

 支離滅裂な奴だった。しかし、一緒にいるとすごく安心する女だった。でも、ある時に猫みたいにふらっといなくなってしまった。

 女はある財閥の令嬢だという。お嬢様だったのだ。おそらく見つかって連れ戻されたか、やむなく自分から降参したかのどちらかで元いた屋敷に戻ったのだろう。

 そんな彼女と俺は、一つの約束をしていた。果たされる事の無かった約束だ。

 今思えば、彼女がしていたのは、それはそれは壮大で無謀な『家出』だった。

 公園のベンチにちょこんと座り、見ず知らずの俺にいきなり『私を誘拐して下さい』だのなんだの言ってきた辺り、無謀というよりは無防備というべきかもしれないが。

 咀嚼していたピーマンを飲み込み、新たなピーマンを口に運ぼうとしたところで、そういえば買い出しに行かなければいけなかったのだという事を思い出す。食べ終わった後でスーパーへ行こう。考えながら苦いピーマンを口へ運んだ。


 赤色の空の下、家を出ると、勘弁してほしいくらい冷たい冬の寒さが皮膚を刺す。本格的に冬になるにはまだ少し早いはずなのに、この分では今年は一層厳しい寒さになる事だろう。本気出しやがって。

 スーパーまで歩いて約十分。その途中に、小さな公園がある。買い物に行く時、俺はいつもその公園を通っていた。公園とはいっても、ガキ達が好きに遊び回る場所というより、幼児が歩き回ったり遊ぶのを親が見ていられるようにわざと閉鎖的に作られたという方が相応しい場所だ。実際、遊具らしいものは何もなく、小さい砂場とベンチが二つあるだけの簡素な空間だった。

 お嬢さんに出会った日も、やはり俺はその公園を通った。夕方だったから、もう子連れの母親達はいないだろうし、ベンチに座って一服しようかと思って、公園に入ったのだ。そして、ベンチに座ろうとした瞬間、隣のベンチに膝を抱え体育座りで丸まっている変な生き物を発見した。それがお嬢さんだった。

 最初それを見て俺はぎょっと目を見開いたが、すでに公園に足を踏み入れてしまった後で引き返しづらい事この上ない。一本だけ吸ってさっさと帰るかと、自分に言い聞かせ、俺は彼女の隣のベンチに腰を下ろした。

 胸ポケットから煙草とライターを取り出し、煙草を口にくわえる。そして、それに火をつけようとライターをカチカチ鳴らす。

 その時、ふと隣から視線を注がれている事に気付いた。

 視線の主はもちろん、隣のベンチに猫のように丸まっているお嬢さんだった。俺はライターを持っていた手を下ろし、火のついていない煙草をくわえたまま、お嬢さんに視線を返した。俺達の視線が少しの間交差する。小説とか漫画がいうほどロマンチックではなかった。むしろお嬢さんの方は値踏みするように俺の事を睨んでいた。

「私、煙草の臭いは嫌い」

 やがて、彼女は言った。

「あァ?」

 俺が言い返すと、彼女はわずかに肩を震わせたようだった。ビビるなら何で話しかけてきたんだか。仕方なく、少し柔らかい話し方に変えた。

「煙草、苦手なのか」

「……うん、それにアレは有害物質の塊だって」

「あー、まあたしかにそうだな。否定はしない」

「なら、あなたは何で吸ってるの」

「吸わないとなんか落ち着かないから」

「ふーん」

 そこで話は途切れた。まだお嬢さんは俺の方を見ていたが、口を開く気配も無かったので、気を取り直して俺は再び煙草に火をつけようとする。

 と、

「普通この流れで吸おうとするかしら」

「すいません」

 怒られてしまった。思わず反射的に謝っちまったじゃねーかよ。

「つか、お前こそ何でこんなとこに一人でいンだよ。さっさと家帰ればいいじゃねえか」

「……帰れない」

「はァ? 何でだよ、家くらいあンだろ」

「…………」

「お前、家出か」

「…………」

「何か喋れよ。お前家出?」

「…………」

「あーもう、お前幼稚園児でも返事くらい出来んぞ。オメ今何歳だよコノヤロウ」

「……15歳」

「そこは答えんのかよ。じゃあ今の調子で答えてみろ。あなたは家出してきたんですか?」

「…………」

 俺は溜息をついた。まあ言いたくない事の一つや二つはあるだろうが。

「結局それか。まあいいや、何も言わねえなら俺は帰る」

 関わると厄介そうだし。

 吸い損ねた煙草とライターを胸ポケットにしまいながら、俺は立ち上がる。

「じゃあな、頑張れ家出少女」

 そして、そう言い残して立ち去ろうとしたのだが、不意に後ろから服の裾を引っ張られた。何しやがるコノヤロウ。

 何か言ってやろうと振り返ると、俺よりも早く彼女は言った。

「……私を誘拐して下さい」

「あァ? 何言ってんだコノヤロウ。まあとりあえず名乗れ、な?」

「名前は聞かない方向で」

「新手の詐欺? まあどうでもいいや。じゃあお前の事何て呼べばいいンだよ家出少女」

「うーん、お嬢様とかどうかしら?」

「却下。何で初対面でしかもどう見ても年下のガキに様付けしなきゃいけねえんだよコノヤロウ。立場ってもんを考えろ立場ってもんを」

「……じゃあお嬢さん」

「…………仕方ねえ。それで妥協してやる。特別だ、お嬢さん」

「……うん」

 もう何年も前の事だ。

 結局、俺はあのお嬢さんの名前を知らない。


 お嬢さんがいなくなってから、俺はこの公園で時間を潰す事が多くなったような気がする。煙草をふかしながら、ふと思った。

 またここで会える事を期待しているのか。だとしたら、自分の事ながら最高におめでたい。つかそういう柄じゃねえだろ俺って。

 ただ、それだけあのお嬢さんとの生活を、俺は好いていたのかもしれない。現に、あいつと生活していて、暇を持て余した事は一度も無かった。そんな事を考える内に、次から次へと浮かぶ思い出にとっぷりと浸る。

「…………」

 気付くと、吸い始めたはずの煙草は半分近くが灰になってしまっていた。それを携帯灰皿にしまい込み、俺は買い物を済ませるべく、スーパーへと向かった。


 両手に買った物をぶら下げながら、帰り道を家に向かって歩く。外はひどく冷え込んでいて、吐く息が白くなっていた。それでも、煙草をふかしたいと思ったのか、俺は公園に寄ろうと考える。お嬢さんが嫌がるので家で吸わなくなって以来、なぜか吸うのはあの公園内だけに留まっていた。もちろん、公園内でも子供のいる時は吸えないが。

 ようやく公園が見えてくると、俺は胸ポケットから煙草を取り出して口にくわえると、何となしに公園の中を見た。

 そして。

 そして、ベンチに誰かが座っているのを見つける。

 思わず、くわえていた煙草をぽろりと落としてしまった。

 まさか、な。

 お嬢さんの筈が無い。

 そう言い聞かせるも、やはり心の底では違う事を期待している俺がいる。いつから俺はこんなにもお嬢さんの事が気になるようになったのだろう。

 公園に入ると、おぼろげだった後ろ姿が、はっきりと誰か認識出来るようになる。

 そこに、いた。

 彼女は、そこに座っていた。外見は、前よりも少し大人びた気がする。いっちょ前に化粧なんかしやがって。でも、髪は前と変わらぬ綺麗で艶のある黒色だ。

 彼女は何かを待つように。

 何かが来るのを期待するように。

 何かを言ってもらいたそうに。

 そこに、座っていた。

 俺は黙ったまま歩き続け、お嬢さんの隣に腰を下ろした。

「よお、久しぶりだな、家出少女。元気してたか?」

「あら、偶然ですわねオホホ。また家出してきてしまいましたわ。まあ今度は家じゃあなく、病院からだけれど」

「はっ、わっざとらしい」

「他にも言う事あるんじゃない? って、あ! あれだけ煙草はやめてって言ったのに、まだ吸ってるの!?」

 胸ポケットの煙草を見つけたらしいお嬢さんが、そう責める。

「うっせ。煙草はな、お前ら風に言う別腹なンだよ。吸う吸わないじゃねぇの、あると吸っちまうモンなの」

 すると屁理屈だ、とお嬢さんは言い、また俯きながら小さな声で何かを呟いた。

「……もう、これじゃ……出来ないじゃない」

「あァ? なんだって?」

「何でもないわよ!」

「ふーん、つかそれより、オメ今度こそ教えろよ、本名」

「なら、オッサンこそ教えてよ」

「……ああ、じゃあ特別にお前が言った後で教えてやんよ。――約束する」

 今までなぜお互いに名前も知らなかったのか、不思議なくらい曖昧で微妙な位置関係。俺達にはそれくらいが丁度良かったのだろうが、いい加減先に進んでもいいよな。

「約束よ。それじゃ今度こそ。一回しか言わないから、絶対に忘れないでね」

 隣の少女は、微笑みながら、言った。


「私の名前は――」



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