◆九 港町ハーフェン
町壁を通り抜けると大通りに出た。
石畳で整備された通りは、商人たちが馬車を引いたまま主要な商店に向かえるように商店街へと直通している。
まっすぐに大通りを突っ切れば、ハーフェンの商業の要である港に通じていて、ハーフェンに入ったばかりのラータたちにも港を通して水平線が望めた。
以前、ラータがハーフェンに訪れた際は、街に入ったばかりの行商人や商店に並ぶ町人、職人達でごった返し、それを避けて荷馬車を進めるのに精一杯だったため、商店街の入口であるこの場所で水平線を見るのは初めてだった。
ちらりと隣を歩くマンテネールに目をやると、何事もおかしいところは無いというような様子で歩みを進めている。
おかしい。
自分の抱く違和感は決して些細なことではないはずだ、と思って後ろを歩くアンブローシアを振り返ると、突然目があって驚いたのか、慌てた様子で目を逸らされた。
いや、これは何かをごまかしているのだろうか。
異常な事態に思考がついていかずに、押し黙ったままだったが、ようやくラータは違和感の正体を口にする。
それは誰の目から見ても明らかなものだった。
「なぜ……誰もいない?」
港町ハーフェンは人口も多い。
街の大通りともなれば夕暮れ時には、仕事を終えた漁師や職人たちが夕食の買い物に出たり、遠方から来た行商人が露店を広げていたり、商店街の店番達はその日の分の商品を売り切ろうと声を上げて客を勧誘していて賑やかなはずだ。
それが、一体どういうことか、大通りの向こうが見渡せるほどに人気は無く、店にも誰一人立っている者はおらず、しんと静まり返った街はまるで時が止まったかのようだ。
「手がかりを探しましょう」
マンテネールは振り向かずに、ただ一言そう答えるとすたすたと大通りを進む。
「みんなは……村のみんなはここに逃げるはずだった……どういうことだ?」
独り言のように呟く。
唇は震え、顔から血の気が引いていくのが分かった。
オリジャの村からの避難路はこの港町ハーフェンの北に繋がっていて、逃げ出した村人達はそのままハーフェンで庇護を受ける手筈だった。
ところが、ハーフェンには人っ子一人、影すらも見えない。
どこかに隠れているのだろうか。そうに違いないと考えたラータはアンブローシアに向き直る。
「《知覚権限》! そうだ! アニー、おまえの《権限》で人を探してくれ!」
ビクリと身を震わせたアンブローシアは、歩みを止めて怯えたようにうつむく。
「頼む! みんな、どこかに隠れているのかもしれない!」
すがるような声に答えたのはマンテネールだった。
「落ち着いてください。その必要はありません」
「俺は落ち着いている! この街の状態は異常だ! まずは情報を集める! 人を探して何が起こっているか聞き出すんだ!」
焦りと不安から思わず声を荒げてしまう。
そんなラータの様子を哀れと思ったのか、マンテネールは思案するように少し視線を落とした。
「少し座って話しましょう。そこの店先をお借りしますか」
大通りの商店街に並ぶ店の一つが指差される。
そこには石造りのベンチと木のテーブルが道に面していて、この時間なら本来、店で買った酒や新鮮な海産物の小料理を手に職人たちが一日の疲れをねぎらい合う場所だ。
今は不気味なほど静まり返り、テーブルに手をついて座るとキィっと木の軋む音だけが響いた。
「ワタシは、ラータから村の話を聞いて、違和感を覚えていました」
ラータの向かい側に座ったマンテネールが話し始めた。
「この街の様子を見たあなたの反応で、違和感の正体がつかめた気がします」
「なんだ? 俺の話におかしな所があるっていうのか……?」
マンテネールは数瞬迷ってから、コクリと頷く。
「あなたが今ここに居る経緯は、故郷であるオリジャの村がオーガーの襲撃に遭い、その時に海に落ちて流れ着いた先でワタシに会ったから……ですよね?」
「そうだ。それから神殿に転移して、村のみんなの行方の捜索と魔物活性化の原因調査のために、オリジャの村からハーフェンまで来た。なにもおかしいことはないだろ」
「オーガーの襲撃に遭ったのは、今からどれくらい前ですか?」
此岸の果てに流れ着いてから、マンテネールの転移が可能になるまで一晩を過ごした。
夜が明けて直ぐに神殿に転移し、数時間後にオグロが加わり七人で会合を行い、武器の調達を行いヴァインロートの居城へ向かうヘルト達を見送った後、直ぐに自分たちもオリジャの村に飛んだ。
そしてハーフェンに移動して今に至る。
オリジャの村の岬から落ちたのが明朝で、此岸の果てで目を覚ましたのが夕暮れに近かったから、半日以上漂流していた事になる。
オーガーの襲撃に遭ったのはたった一日前の事だ。
ラータはそう答えようとして、引っ掛かりを感じた。
オーガーの襲撃について思い出そうとする行為が、うっすらとした幼いころの記憶を掘り起こすような感覚に似ていたのだ。
「昨日の……事だ……」
口にした言葉とは裏腹に、昨日のことのようには思えなかった。
不思議な感覚にとらわれていると、マンテネールの隣に腰掛けているアンブローシアが割って入った。
「マンテネール、やめて」
氷を限界まで研ぎ澄ましたような、鋭い冷たい声だった。
「必要なことです」
「やめて」
更に鋭利さを増した声色は、矢が張り詰めた弓から飛び出すのを我慢しているかのようだ。
「アンブローシア。あなたはワタシに口止めをしましたが、この件はあまりに重要な事です。創造主が関与している可能性があります」
「関係ないわ。それ以上喋ると……」
ラータは何故二人が睨み合っているか、理解が出来なかった。
自分が自分でないような、ふわふわとした感覚のせいだろうか。
いや、もし正常な状態であったとしても理解には及ばなかっただろう。
「アニー、どうしたんだ? マンテもやめてくれ。口止めって……なんのことだ?」
目を見開き、ハッと我に返ったアンブローシアは席を立つ。
「あたしが一番冷静じゃないわね……ごめん、任せるわ。…………マンテネール。港の方に行ってるから、二人で話して頂戴」
ラータに一度哀しそうな目を向けて、アンブローシアは大通りを港の方に歩いて行った。
アンブローシアの後ろ姿が、声が届かなくなるほどに離れるとマンテネールが再び口を開く。
「彼女はあなたの事を心配しています。ワタシがこれから話すことは、あなたにとって非常に辛いことかもしれません。それを受け止められるかわからないからです」
「それより、一人で行かせて大丈夫か? 明らかに異常な状態の街を、女一人で歩くのは……」
「大丈夫です。彼女は……多分この中で一番強いですから」
身の心配をするのは無粋なようだ。
マンテネールの魔法や転移の力は強力だ。
ラータはその片鱗を見ただけだが、自分では到底敵わないだろう。
そのマンテネールに自分より強いと評価させるアンブローシアの心配など無用だということだろう。
今はその言葉を信じて、見送ることにした。
「では、本題です」
遠ざかっていくアンブローシアの後ろ姿から、ラータに向き直るとマンテネールは硬い表情で話しだす。
「あなたは、おそらくオーガーの襲撃の際に偶発的に《権限》を手に入れた。それがワタシの考えです。それまでは普通の人間であったと思います」
ラータは断片的に提供される情報についていけず、説明に身を任せることにした。
先を促すように頷くと、マンテネールも同様に頷いて説明を続ける。
「《権限》を持つものは世界の理の外側に位置します。世界のあらゆる生物は、長短はあれど生命に限界があり、寿命というものが存在します。ラータのように人間であれば、六十年から八十年、悪魔は百五十年から三百年ほど生きてその天珠を全うします。魔物の中にはアンデッドという生命の終わりないものもいますが、それは無視しましょう」
悪魔と言うのは人間の倍は生きると聞いていたが、それは正しい知識だったようだ。
オグロは一体何歳なのだろうかと関係のない事を考えながら、ラータは続きを聞く。
「《権限》の保有者は生命が生きる大地や、生命そのものを管理し調整する立場の者です。それ故に権限保有者には生命の限界が適応されず、永遠に世界の管理に従事できるようになっているのです。それが創造主の創りだした《権限》の副産物的な効力になります」
マンテネールは一呼吸おいて、一層真剣にラータを見据えると、こう付け加えた。
「――つまり、あなたは不死身なのです」
いよいよ話が現実離れしすぎて他人事のように聞こえてきた。
相槌を打つことも忘れて、ただマンテネールを見つめ返す。
「もちろん、ワタシや彼女……アンブローシアも例外ではありません。ワタシはこの世界の創生後まもなくから生き続けていますし、アンブローシアも人間や悪魔などが到底創造も出来ないほどの時間を生きています。それを踏まえてあなたの話しを思い出してください」
ラータは嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
オリジャの村の状態。
今いる港町ハーフェンの閑散とした現状。
不死身だという自分の身体。
そのどれもが嫌な予感を促進させる。
「あなたの村がオーガーに襲われたのは、本当に昨日のことだったのでしょうか?」
「……馬鹿な……そんな、馬鹿な話が……」
「おそらくですが。あなたは海に落ちて漂流している際に、何らかの要因で《権限》を手にしたのでしょう。そして……本来ならば息絶えるような過酷な状況を、《権限》の力で生き抜いた。……ワタシはそう仮定しました」
言葉が出ない。
言葉にする内容も思いつかない。
「あなたの故郷が魔物に襲われたと聞いて、ワタシは始めに希望を感じました。人間たちが暮らす村がまだどこかにあるということだったからです。しかし、実際にここに来てわかりました。ラータのその記憶は遥か過去のものです。なぜなら――」
その先に続く内容は想像できた。
人間たちが暮らしていることが希望であるということは、そういったことが『今』では珍しいということだ。
つまり――。
「人間はすでに滅びているのですから」
分かっていた衝撃だったが、ごつんと鉄の鎚で頭を殴られたかのような感覚は避けられなかった。
「お、俺が不死身だという証拠はどこにある……?」
チラリと腰のエッテタンゲに目を落とす。
例えば、こいつで首でも掻っ切る想像をしてみるが、そんなことをすれば死は免れないだろう。
不死身だと聞いてもその予感は確かに存在するため、ラータは今の話が半ば信じられないままだ。
「その剣で……例えば心臓を突いたとしたら、あなたは死にます。《権限》の与える不死身は寿命を無くすというもので、外傷には無力です。ただ……食事はとらなくても生きていられます」
「食事……」
此岸の果てに流れ着いてから、ラータは食事を取っていなかった。
今食事について言われたことで思い出したが、空腹感も無い。
これは明らかに異常なことだった。
転移酔いを落ち着かせるためにヘルトから水を貰ったが、それ以外のものは口にしていないどころが、口にしたいとも思いつかなかったのだ。
段々とマンテネールの言ったことが真実味を帯びてくる。
「じゃあ、ここに人が誰もいないのも……」
「はい、当然のことでしょう」
「オリジャの村で金属製品が錆びきっていたのも……」
「自然と時間を掛けて酸化したのでしょう……」
「……そうか……俺だけ、そのままなのか……」
妙に納得した気分になった。
今まで不安に思っていた村の仲間の安否も何もかもが体中から剥がれ落ちて――虚脱感だけが残った。
「どれだけ経ったんだ? 俺が村からいなくなってから……」
「詳しくはわかりませんが、この街から人がいなくなってからは……およそニ百年と言ったところでしょうか。最低でもそれくらいの時間は経過しているようです」
全てを失った気がした。
それだけの時間が経っていれば、相棒のソキウスを始めとする村の仲間達は誰一人生き残ってはいないだろう。
それに、そもそも人間はもう生き残っていないらしい。
「……辛いとは思いますが、受け止めてください。ワタシたちはそれでもこの世界を救わなければならないのです。いつか創造主が再び生命を作り出す時に、器であるこの大地を失っているわけにはいかないのです」
ラータは何も答えず、座ったまま呆けたように宙空を見つめている。
その時、マンテネールは何かに気がついたように港の方を向いた。
「……ラータ、すみません。客人のようです。しばらく、ここにいてください」
そう言ってから何か呟くと、ラータの周りの空気が動いた。
外にいるというのに室内にいるような、外気の動かない感覚がラータを包む。
「この付近を不可侵領域に設定しました。ワタシが解除するまで、外側からはなにも侵入はできません。中から出ることは可能なので、動かないでいてください」
続いて、マンテネールの髪が重力を失ったようにふわりと持ち上がる。
「――フライタクト」
水中に生まれたあぶくのように浮力を得たマンテネールの身体が、完全に地面から切り離され港へ向かって飛んだ。
◆
ぶよぶよと水分をたっぷり含んだ頭に細い触手がぶら下がった異型の魔物。
見てくれはクラゲそのものなのだが、違うのはその大きさだ。
両手で輪を作っても足りない直径を持ち、水の中ではなく空中に浮いている。
その身体は透明で、向こう側の景色が揺らいで見える事でその存在を表していた。
ハーフェンの港には、そのクラゲの魔物が何体も押し寄せており、海面に数十体、船着場にもぶらりと触手をぶら下げた数十体が、アンブローシアを取り囲んでいる。
「こいつら、どれだけいるのよ!」
苛立ちが漏れて、悪態となって吐き捨てられた。
「もうちょっと集まってくれないかしらね。焼いても焼いてもきりがないわ」
アンブローシアの足元には、グズグズになったクラゲの焼死体が転がっていて、彼女が船着場の何処を移動していたかを示す足跡のように連なっていた。
キッと強い視線で海面のクラゲを睨むと、風が巻き起こりその身体を運ぶ。
アンブローシアは風を操りながらも呪文を詠唱して次の攻撃に移る。
「なるべくかき集めてから――まとめて! バーンクラウド!」
海水ごと風に持ち上げられ、一箇所に集められたクラゲたちは爆音と共に消し炭に変わる。
「面倒なやつらね。やっぱり海の魔物も活性化しているのかしら。数が多いわ……あら?」
アンブローシアが独りごちていると、帽子にポツポツと水滴が当たる感覚があった。
「雨ね……水棲の魔物は雨で凶暴化するやつが多いけど、こいつらはどうかしら」
降り始めに感じられた時間は短く、雨脚は直ぐに強くなり、あっという間に土砂降りになった。
それに合わせて、海面は荒れ、波も高くなる。
「傘もってない? マンテネール」
振り返りもせずに、到着したばかりのマンテネールに声をかける。
「持っていませんよ。なにかあったようですね」
「なにもかにも、魔物よ魔物。この船着場にびっしりいたわ。見つけた途端に跳びかかってきたけど、大半を焼き払ったら、攻撃の手はゆるくなったわ」
「この街が滅んだのは、この魔物のせいでしょうか?」
「わからないけど、無関係では無さそうよね」
マンテネールはフライタクトの魔法で飛んだまま、ざぁざぁと降る雨の中で額に張り付く前髪をなでつけた。
「知性のある魔物ならば、聞き出す事も出来たのですが……それは期待できないようですね」
「そうねぇ。きっと脳みそもぶよぶよね。まぁ、雨が降って、見やすくなったわ」
クラゲの透明な身体は雨を弾いて、透き通っていながらもその位置は一目瞭然だ。
「もしかすると使役しているものがいるかもしれません。泳がせますか?」
「いやよ。全部焼き払ったら、ボスが来るでしょ」
なにか閃いたように人差し指を立てて、アンブローシアがニヤリと口角を上げる。
「そうだ。それ、フライタクトよね? 旋風魔法が使えるようだし、魔物を一箇所に集めてもらえるかしら?」
「ええ、かまいませんよ。――エアバリケーション」
マンテネールが呪文を口にすると、クラゲを取り囲んで風が吹き荒れた。
雨粒が撹拌されて白く泡立ち、その暴風の威力が見て取れる。
「いーわねぇ。そのまま集めちゃって! 陸に上がってる奴らもお願いね」
「承知しました」
マンテネールは船着場にはびこっているクラゲたちに向かって、もう一つ魔法による風の障壁を創りだす。
囲むように配置された障壁は段々と間隔を狭めて、クラゲを一箇所に押し込めていく。
「火をつけても直ぐには解除しないでよ。飛び散ったら嫌だもの」
ぶつぶつと呪文の詠唱をし、クラゲの集まった箇所を見つめるアンブローシア。
クラゲの魔物は吹き荒れる風に遮られてギュウギュウに圧迫されて、触手が障壁に触れるたびにバチンと弾かれている。
「高圧縮の熱源をぶつけるわ、見てなさい。――サーマルプレス!」
アンブローシアが片手を振り上げると、空中ですし詰めになったクラゲたちはその触手を痙攣させ、じゅうじゅうと音を立てながら焼けていく。
その身体の内側の水分が沸騰し、白い湯気がもうもうと上がっていた。
透き通っていた身体は白く濁り、次々とその動きを止める。
それでもアンブローシアは、魔法の照射を止めていない。
煮えきったクラゲたちの身体は次第に水分を失い、小さく乾いて炭化した。
「掃除は終わりね。もう解いていいわよ」
マンテネールが魔法を解くと、海面にぼとぼとと灰がこぼれ落ちる。
「……ところで、話は済んだのかしら。ラータちゃんは大丈夫?」
マンテネールは答えに口ごもる。
「あら、だんまりね……あたし、言ったわよね。ラータちゃんに何かあったら許さないって――あなたも灰になりたかったのかしら?」
そう言うアンブローシアの表情は笑顔だが、その瞳は笑っていない。
「まだ……全部は話せていません。それでも、おおよその察しはついたのでは無いかと思います。彼は今、気分が優れないようなので、不可侵領域内にいてもらっています」
「そう……それなら安全ね。しばらく一人にしてあげましょう。気持ちを整理する時間が必要よ。あたしも……そうだったわ……」
ふいと雨で泡立つ海面を見つめたアンブローシアは、呪文の詠唱を開始する。
「魔物のボスがいるなら、海の中よね。いるかどうかはわからないけど……ちょうど虫の居所も悪いわ。出向いてさし上げましょう」
アンブローシアが詠唱を終えると、周囲に霧が立ち込め、急激に気温が低下する。
「――フロストヴェイル」
魔法の名が告げられた瞬間、海面はピシピシと音を立てて凍てつき、真っ白な平原へと変わった。
降り続く雨は雪へと姿を変え、こんこんとその平原へ積み重なる。
「マンテネール。あなたはラータちゃんの所にいて。なにもいなかったら直ぐ戻るわ…………いても、直ぐ戻るわ」
「わかりました」
「フライタクト」
アンブローシアの身体がふわりと宙に浮く。
マンテネールは背筋に悪寒が走るのを感じた。
彼女も魔法使いであるが、決して未熟ではない。
むしろ人間の魔法使いが五・六人を同時に相手しても退ける事ができるという自信があるほどの実力者だ。
それでもなお、"魔女”アンブローシアの卓越した魔法の前では恐怖を覚えずに入られない。
アンブローシアは強烈な殺傷能力のある大掛かりな魔法を、属性の垣根を超えて連発し、使いこなすのだ。
マンテネールも炎熱魔法と旋風魔法の二種の属性を使い分けることができるが、さきほどクラゲの魔物を葬ったアンブローシアは、炎熱魔法の上級に位置する魔法と、天候を変えてしまうほどの氷雪魔法を放ち、マンテネールも使えるが旋風魔法の中でも制御の難しい飛行魔法フライタクトすらも発動し、なおも涼しい顔で次の標的に挑もうとしている。
アンブローシアが宙空を翔け、雪原に変貌した海面を進んで行くのを見送ると、マンテネールはラータのいる大通りに急いだ。
◆
「さて、獲物はどこかしら?」
その胸中にあるいらつきと不安をぶちまけてやる先を探して、アンブローシアは自らが氷の世界へと変えた海面をスレスレで滑空する。
クラゲの魔物を使役しているものがいるとすれば、それほど遠くにはいないはずだ。
なぜなら、海で長距離からの魔物の使役を行うことは、陸地のそれより遥かに困難であるからだ。
海流や天候を読んでいなければ、使役する魔物にそれぞれ指示を出して動かさなければならない。
クラゲの魔物の知能から見て遠方からハーフェンに自力でたどり着くことは不可能だ。
フロストヴェイルで海面の動きを止めたので、付近にボスとなるものがいれば、様子を見に来るだろう。
確固たる自信のもとで海面を飛んでいると、氷の柱がそびえ立っているのを見つけた。
「……大きいわね。なにかしら?」
見上げるほど高く立つ氷柱の表面には雪と霜が張り付いて輝き、ハーフェンの街壁のように行く手を阻んでいた。
「溶かしてみましょ。――――フレイムフラッド」
極寒の地で固まった氷河のような氷の柱は、溶岩の如く流れこむ液状の火によって瞬く間に気化していく。
その変化の早さに雷のような轟音が響き渡る。
その中から姿を表したのは、船着場でうんざりするほど目にした触手だった。
ただ違ったのはその太さと長さだ。
アンブローシアの身体の三倍はありそうな太さを持つ巨大な無数の触手は熱に暴れ、周囲の氷面を砕く。
「あわわ! さっきの魔物の親玉かしら!? 凍りづけでも、生きてたのねぇ」
暴れだした触手の動きをかわして距離を取り、アンブローシアは雪原に着地した。
「氷から逃れようと水面に顔を出したところで、凍りついたって感じかしら? 間抜けね。あたしが溶かさなかったら、そのまま冷凍保存じゃない」
ふぅとため息をついて、巨大なクラゲを眺める。
まさに船着場に大量発生していた魔物がそのまま巨大化したような出で立ちだ。
「この氷は、キサマの仕業か……小娘!」
周囲の大気が振動し、クラゲの親玉から声が伝わる。
「言語能力があるのね。ごきげんよう」
「人間の生き残りか……他の十八熾将がしくじったようだな……尻拭いをしてやろう!」
ビキビキと巨躯を包む氷がひび割れ、亀裂から触手が飛び出してアンブローシアい襲いかかる。
「よっ」
飛行魔法フライタクトの効果はまだ失われておらず、身をすべらせるように触手をかわす。
「十八熾将? あなたもその一人かしら?」
「ちょこまかと逃げまわりよる。いかにも我は十八熾将の一人、"静月のガラノス"だ。この名に畏怖し、息絶えよ」
ガラノスが名乗り終えると、大きく膨れた水風船のような頭部が青白く発光する。
「――くたばるがいい、バブルフロウ」
頭部の発光は魔法の詠唱によるものだったらしい。
アンブローシアの真下から、勢い良く水流が吹き出した。
「きゃ! びっくりさせないでよ!」
襲いかかる水流を身体を捻ってかわしたアンブローシアは、ガラノスを睨みつける。
「かわしたか。だが、無駄だな。――追尾せよ」
空を切った水流は蛇のようにくねり、アンブローシアの行く先を追う。
その速度に水流を形成する水は白く泡立っている。
「へぇ、やるじゃない。追尾は余計に魔力を使うわよ?」
「ぐぁはは! 容易いものだ! どれ、退路を塞いでやろう!」
優勢になったガラノスは、上機嫌な声を響かせて触手を振り下ろし、アンブローシアの進む先に打ち据える。
海面の氷が割り砕かれて、水しぶきと氷の破片が舞い、逃げ道を失ったアンブローシアは空中で静止した。
「なによ。鬱陶しいわね」
「もはや、逃げ場もない! 水圧で押しつぶしてくれる!」
「――エアバリケーション。――ソニックムーブ」
迫り来る水流を前に、詠唱を経ずに発動できる旋風魔法を連続発動させたアンブローシアは、風の障壁を創りだして水流を防ぎ、瞬間的にガラノスの頭部の前まで移動した。
「あたし、直ぐ戻るって言っちゃったのよね。――遊びはここまで」
「馬鹿な! キサマ、一体いくつの魔法を同時に!」
ガラノスの声を無視して、アンブローシアは左手の手のひらを空に向けた。
そこには小さな魔法陣が描かれている。
アンブローシアが何か呟くと、魔法陣は一瞬だけ光を放ち、直ぐに発光をやめた。
手のひらに残ったのは、透き通った赤い宝玉だ。
「これは、炎熱魔法の詠唱を省略できる魔工物よ。魔力の消費は倍以上に増えるけどね。じゃあ――死になさい」
アンブローシアの妖艶な口元がニヤリと歪む。
彼女は鬱憤を晴らすように次々と魔法を投射した。
「――ファイアボール――バーンクラウド――フレイムフラッド――エクスプロージョン――サーマルプレス――ファイアバグ………………」
抵抗しようとしたのか、ガラノスの頭部が青白く発光を開始したが、直ぐに無数の火球や爆煙に飲まれていく。
瞬く間に巨大な身体は見えなくなり、轟音でその声すらも届かなくなった。
黒煙の中から触手が伸びて、バタバタともがき苦しんでいる。
透明な触手は白く濁って所々が焦げている。
アンブローシアの攻撃の手はやまず、のたうつ触手を満足そうに眺めながら、次々と強力な炎熱魔法を放ち続ける。
やがてガラノスはぴくりとも動かなくなり、焦げた触手はうなだれて、溶けた海面に沈んでいく。
その巨大な身体もずぶずぶと緩慢に海の中へと引きずり込まれるように沈没していった。
「一丁あがりね。なんだかすっきりしたわ」
晴れ晴れとした表情で天を仰ぐアンブローシアは、最後の仕上げとばかりに、海面を雪原へと変えた氷雪魔法――フロストヴェイルを解除して、身を翻すとハーフェンへと飛んだ。