◇八 フリクション
「付き合っていられンナ」
軋む声に焦りはなく、なんの感慨も無さそうに背を向けたセロは、アマリアを抱き抱えたまま暗闇に紛れる。
「逃がさん!」
エミリオの怒号が、静寂を取り戻した森を再び騒がせた。
光源の無い森の暗闇に向かって魔法を放てば、セロに抱きかかえられたアマリアにも危害を加える事になるだろう。
エミリオは歯がゆい思いで追い駆ける。
その眼前に飛び出したのは、エミリオのよく知る金髪の少女。妹のカリナだった。
「エミリオ、待って!」
逆上しきっていたエミリオは、たったの今までカリナがこの場にいることに気がついていなかった。
認識外からの乱入者に、ぎょっとしてエミリオは足を止める。
「なんで、こんなところにいる!」
怒鳴りつけられて身をすくめたが、カリナはその場を動こうとしない。
「ごめん! アマリアがいなくなったって聞いて、追ってきたの! でも、今は行かせてあげて!」
予想していなかった妨害に、エミリオは焦りと苛立ちを覚え、それを抑えこみもせずに吐き出す。
「行かせる!? 馬鹿言うな! これは誘拐だ! 紛れも無い悪魔の所業だ! どけ!」
「きゃっ!」
突き飛ばされたカリナは、尻もちをつき地面に転がった。
「くそっ! 見失う!」
「待って! 待ってってば!」
走りだそうとするエミリオの足にカリナがしがみつく。
「な、カリナ、おまえ! 何をしてるのかわかってるのか!」
絡みつく腕から逃れようと、エミリオは足を振り回す。
「わかってるよ! セロだってアマリアを傷つけるつもりはないよ!」
カリナが何を言っているのか、エミリオにはわからなかった。
アマリアの身体は衰弱しきっている。
それをこんな森のなかに逃げてどうするつもりなのかは分からないが、既にこの状況がアマリアを害しているのだ。
険しい森の中での逃亡に、アマリアの弱り切った身体が耐えられるはずがない。
もはや事態は一刻を争う。
悪魔に何を吹きこまれたか知らないが、カリナが自分を止める理由が思い当たらない。
焦燥感の中に不信感が芽生え、エミリオの思考がある考えに行き着く。
「おい、カリナ。もしかしてセロに何かされたか!?」
がばっとカリナの両肩を掴み問い詰める。
「え!? なに? 何もされてないよ! どうしてセロを疑うの!」
抵抗の視線を向けるカリナに、エミリオは念押しする。
「いいか、悪魔は古代魔法を使う。古代魔法の中には精神を操る類のものも多い……!」
肩を握る手に力がこもる。
「痛っ……」
カリナは小さく悲鳴を上げたが、それはエミリオの言葉にかき消された。
「もう一度聞く! 何かされなかったか。予め詠唱を済ませれば、触れるだけで発動する魔法も存在するんだ」
それを聞いてカリナは、ピクリと身体を震わせた。
転倒した時に助け起こされ、手を取った事を思い出したのだ。
「……心当たりがあるんだな」
たった一人の肉親であるエミリオから放たれた声は、カリナには初めて、ひどく冷たく聞こえた。
ズキリと胸に痛みを感じ、カリナは戸惑う。
エミリオは完全にセロを敵だと認識している。
それは、ただアマリアを連れて逃げた犯人に向ける敵意だけではなく、もっと本能的な、悪魔という存在に対して向けるものだ。
エミリオとセロは、元々ギクシャクした関係だったが、それでも幼少の頃からともに育った幼なじみである。
エミリオはセロの悪魔の血が流れているという側面しか見ていない。
そう理解したカリナは、エミリオがここまでセロに対する嫌悪感を持っていることが、恐ろしく感じられた。
「セロは! セロはそんなことしないよ! それに……セロは悪魔なんかじゃない!」
掴まれた肩を力任せに振り払い、立ち上がるカリナ。
キッとエミリオを睨みつける。
「あいつが来てからだ! アマリアが弱り始めたのは! 半分人間の血が混じっていようと、あいつは悪魔なんだよ!」
「セロだってアマリアを大切に思ってる! わたしたちのことだってそうよ!」
「だったら、なぜ逃げる! アマリアの身体はもう限界だ! 見ただろ、もう……! アマリアは、声もまともに出せない……!」
ギリリと、握りしめる音が聞こえるほどに、エミリオは強く拳を固めた。
「それは――」
王国領に逃げる為。
そう答えようとしてカリナは言葉に詰まった。
ついさっきまでは、その理由で間違いなかったはずだ。
しかし今となっては、その道は王国軍の魔法隊が峡谷を崩し、断たれてしまっている。
セロは"最後の手段"と言っていたが、内容まではカリナにはわからなかった。
「カリナは今、あいつの魔法で操られてるんだ。あいつの言葉を無理やり信じさせられて……」
言いかけて、悪寒を感じたエミリオは、セロが進んで行った暗闇の中を注視する。
暗闇に変化はないが、確かに感じた気配はあった。
「なんだ?」
形容しがたい胸のざわつきに、エミリオの鼓動が早くなる。
ハッキリとした寒気を感じて、ひんやりとした涼しい森は、極寒の地のように感じられた。
「エミリオ……、それでもわたしは、セロとアマリアを信じてるの。たった今セロがわたしに魔法を使って、そう思わせていたとしても、わたしはずっと前から二人と友達だもん……」
いつの間に拾ったのか、カリナの手には転がっていた長剣が握られている。
神聖騎士団の刻印の入った、鋳鉄の代物だ。
エミリオは気を取られていた気配を一旦意識の外に置き、身構えた。
「カリナ、剣を離せ」
「離したら、行くでしょ? わたしはエミリオを行かせたくないの!」
よく見ると剣を持つ手は震えていた。
「わたしだって、お兄ちゃんに剣を向けたくないよ! だから、もうやめてよ!」
カリナがエミリオの事を"お兄ちゃん"と呼ぶのは久しぶりのことだった。
幼いころは当たり前のようにそう呼んでいたのだが、故郷と両親を失い神聖騎士団の庇護を受けるようになってしばらくの頃、突然名前で呼ぶようになったのだ。
特に仲が悪くなったわけでもなく、それはただ子供っぽい呼び方が気恥ずかしくなって呼称を変えたのだとエミリオは思っていたが、実際のところそれは違った。
カリナはアマリアに嫉妬していたのだ。
たった一人の肉親であるエミリオは随分とアマリアに執心の様子だし、アマリアはカリナにとって眩しすぎるほど完璧な存在だった。
とは言えカリナにとってもアマリアは尊敬できる姉のような存在であったし、嫌いになるなんてことはなく、ただ自覚もし難いほど小さな孤独感だけが残った。
それを意識したわけではないが、いつの間にかカリナは兄のことを"エミリオ"と名前で呼ぶようになった。
そうする事によって、同じく"エミリオ"と呼ぶアマリアとも対等の関係になれた気がして満たされた。
つまるところ、カリナにとって"お兄ちゃん"とは、自分に残された最後の肉親という意味を持っている。
対して、"エミリオ"は孤独感を誤魔化すための隠れ家だ。
カリナは隠れ家を捨てて、自らの孤独感と対峙する。
「剣を離せ」
もう一度強い口調で放たれたエミリオの言葉には、既にカリナを気遣う様子はなく、ただの警告のようだった。
「離さない」
対するカリナに、もう震えはなかった。
「魔法が当たれば、怪我じゃすまないぞ」
「うん、わかってる。お互いにどうかしてるよ」
エミリオの手が前方に伸ばされ、手のひらの魔法陣がカリナの目に映りこむ。
痛々しくも皮膚に直接刻まれた魔法陣に、血が珠になって滲んでは、あぶくのように消えていく。
ナイフか何かで、自らの手を突き刺して刻みこんだのだろう。
カリナはその狂気じみた行動を悼んだ。
こんなものを刻むほどにエミリオはアマリアを大切に思っているのか。
ああ、もう何を言っても止められない、そうカリナは思って長剣を握る手に力を込める。
アマリアを愛し続け、その命を助けたい兄のエミリオ。
一様に皆への慈愛に満ち、静かに余命を全うしようとする姉代わりのアマリア。
そのアマリアの命を見届けようとした親友のセロ。
その中に自分の居場所がないような気がして、無理に関わろうとしてきたのかもしれない、とカリナは後悔した。
最初から無関心でいられれば、今になって感じる孤独感も、肉親に刃を向ける恐怖も、向けられる悲しみも味わうことはなかったのに。
「ごめんな、カリナ。もう時間が無い。たぶんあいつはもう何か始めてる」
セロが言っていた"最後の手段"のことだろう。
「謝っても、どかない」
強く言い返すと、カリナの目には何故かじわりと涙が滲んだ。
セロとアマリアを信じることに決めたのだ。
今更迷うことはない。
既に一番大切な三人との関係は、おかしくなりつつあるのだ。
「――――ファイアボール……」
詠唱がカリナの耳に届くと同時に、赤々と火球が姿を現した。
それはエミリオの手のひらの前で、グツグツと煮えたぎる溶岩のように熱を発する。
「結局、お兄ちゃんは友達のことも……わたしの事も、もう見えてないのね……」
最後の言葉になるかもしれないと思って、カリナはエミリオが諦めてくれることを祈って言った。
「俺はアマリアを助ける」
「もういいよ。撃って」
エミリオは、感情全てを遮断するように、ゆっくりと目を閉じると――――燃え盛る星の如き火球を撃ち込んだ。
◆
「これくらい離れれば、すぐには邪魔できマイ」
セロはアマリアを抱えたまま走り、エミリオと遭遇した場所が見えなくなった所で立ち止まる。
まるでガラス細工の彫刻を扱うように、繊細に優しくアマリア寝かせた。
「すぐに済ム。オレなら出来るハズダ」
「……セロ……もう、いいのです」
かすれた声でアマリアが囁く。
「…………このまま、わたしを死なせてください。あなたは十分に良くしてくれました」
つい先程までは、一言、二言を発するのが精一杯だったはずだ。
ろうそくの炎が消えゆく直前にその光を増すように、アマリアは言葉を紡ぐ。
「この森が、わたしの世界の果てだったのでしょう……。十分です。ありがとうセロ」
アマリアの瞳は強い光を宿している。
オグロはこの瞳の輝きを見たことがあった。
それはアマリアが自身の口からセロに、自分の役目が終わって死期が近づいていると伝えた時にしていた輝きと同じだった。
アマリアは何もかもを受け入れ、「運命だった」と、諦めるというのか。
「駄目ダ。そんなもの誰が納得すルカ」
セロは無視して、アマリアの横たわる地面の周りにガリガリと爪を立てる。
ぐるりと円で囲み、文字を刻み、魔法陣を描く。
「おまえの中の神聖力。それさえなければ幾らか生きられヨウ」
アマリアの強力な神聖力は、アマリアの生命を削って行使される。
それは誰かを癒やせば自らが傷つくという事ではなく、アマリアの消耗した生命までも癒やそうとして、自らを消耗させ続ける欠陥品の力だった。
セロがその仕組に気がついたのは、ひとつ前の遠征の時だ。
いつものように傷つくことを恐れずに戦う騎士達を癒し続けたアマリアが、またいつものように倒れた時、もはや全ての騎士が全快しているというのに、微量ながら神聖力の行使の様子が確認できたのだ。
それに気がついた時、セロは何故今になるまで気が付かなかったのか、と自責の念に駆られた。
怪我をするということは、生命を削ることに他ならない。
それを癒やすのがアマリアの神聖魔法であり、その対象はアマリア自身の生命の摩耗にまで及んでいたのだ。
それまでは神聖魔法で力を消費し続けること自体が、アマリアの身体に負担を掛けているのだと思い込んでいたが、神聖力を使うことで生み出された終わりのない堂々巡りがその原因だった。
天がアマリアに与えた神聖力は、彼女の意志とは別に力を行使し続ける。
言ってしまえば、騎士団きっての最高の力を持つ聖女は、神の失敗作だ。
そしてセロは一つの考えを思いつく。
アマリア自身と神聖力は、一つの器に入ってはいるが別々のものでは無いのだろうか。
古代魔法には相手の魔力に影響を及ぼすものがある。
マインドイクリプスという名の魔法は、相手の持つ魔力の流れを操り、強制的に術者の還元させる呪文だ。
それを使って、アマリアの中の神聖力を奪い去ってしまえば堂々巡りから、開放されるのではないか、という案だ。
結局のところ、神聖力も魔力と同じく魔法を使用するための活力でしか無い。
もちろん、そのままでは上手くは行かないことは分かっていたセロは、マインドイクリプスの効果を最大限までに引き上げ、緻密な対象も問題なく取れるように魔法陣を用意すると言った。
しかし、アマリアはその案を断った。
理由はセロの身体を気遣ってのことだ。
神聖力を移動すれば、自分の苦しみをセロに味合わせる事になる、と考えたアマリアには当然の答えだった。
それでもしつこく食い下がるセロに負けて、今度はアマリアが妥協案を提示した。
それが今回の遠征での逃亡劇だ。
アマリアは、自分の命が尽きるまでの自由を手に入れる事、そして、アマリアの加護が無くなった後、風当たりの強くなるセロが安全な土地に逃げる事。
その両方を叶えるという案は、アマリアにとっては考えうる最高の幸せの形だった。
「……セロ、わたしのわがままを聞い――ケホッ!」
咳き込んで言葉が途切れるが、セロにはアマリアが何を伝えたいか分かった。
「オレもオレで、わがままなノダ。聞くことは出来ナイ」
セロは答え終わるとすぐに、魔法の詠唱に取り掛かった。
キシキシと軋む音をはらむセロの声は、アマリアには悪魔のそれでは無く、天使の囀りにも聞こえる。
「……あぁ、セロ。もう戻れないのね」
横たわるアマリアの瞳からは涙がこぼれ、頬を横切る。
長い長い呪文の詠唱だった。
アマリアは、詠唱の間ずっと手を握っているセロのひんやりとした体温を感じ、この呪文が永遠ほど永ければ良いのにと、叶わぬ事を願った。
「マインドイクリプス…………さらばだ、アマリア」
口に出しこそしなかったが、二人は知っていた。
神聖力が悪魔の血が混じるセロに移動すれば、セロの身体は耐え切れないということを。
混血とはいえ、悪魔と神聖力の相性は最悪だ。
それもこれほど強大な神聖力ともなれば、なおさらのことだった。
「セロ、わたしは――」
アマリアは急に脱力感を感じた。
同時に、セロの胸から上が膨れ上がる。
ぶちぶちと音を立てて血管が引きちぎれ、青黒い肌に真っ黒な斑模様が浮かび上がった。
いびつな形状になってもなお肥大化し続ける上半身は、筋肉の繊維がねじ切られる激痛と、どろどろに内蔵が溶かされるような灼熱の苦痛を容赦無くセロに与える。
信じがたい苦しみに耐えて微笑むセロに、アマリアはぼろぼろと涙を流すことしか出来なかった。
身体から何かが抜けていくような感覚にとらわれ、神聖力の移動を確信する。
セロの身体に流れる悪魔の血は、相反する神聖力の流入に抵抗し、身体を傷つける。
神聖力がそれを修復しようと活性化し、そのことが更に身体へ負荷をかける。
アマリアの身体で行われていた堂々巡りが、その何十倍もの速度で巡り、その器を破壊する。
「……アマ……リ……ア。…………あ……いし……て…………イ……ル…………」
苦悶に眉を潜めながらも、叫び声を堪え、なんとか発音できる際だけに発せられた言葉は、辿々しく、そして優しかった。
アマリアは自分が言おうとしていたセリフを先に言われ、同じ言葉を繰り返す。
「……愛しています。セロ、わたしも愛しています!」
全てを抜き取られた気がした。
ぐらりと世界が揺れる虚脱感を受けてアマリアが意識を失う。
直後、セロの身体は元の大きさの四倍にも膨れ上がり、張り詰めたその表皮が、破裂した。
「なんだよ、これは……」
エミリオは恐ろしい光景に、唾を飲み込んだ。
眼前にはどろどろに溶けた巨大な肉塊。
その傍らに転がるアマリアは腐食したような青い肉片と血液で、べとべとに染まっている。
「……アマリア? …………じゃあ、これは……セロ?」
ぐじゅぐじゅと肉塊から、滴り続ける粘性の液体は今も溶け続けている肉の一部だろう。
その中から、赤い球体が二つ、ごろりとあらわになる。
「……エみりお…………ダな」
泥の中で言葉を発したような、濁った声が語りかけた。
得体のしれない恐怖を感じたエミリオは、片足を一歩引いて声を発した肉塊を睨みつける。
「セロ!?」
肉塊は気泡を吐き出しながら、ぼこぼことした声で応える。
「そ……ヴだ……」
エミリオは横たわるアマリアの周りに魔法陣が描かれていることに気がついた。
そして、それが魔法の威力向上の陣と、そこに魔力集中の陣を加えた複雑な二重魔法陣だと見抜く。
ここに来る前、確かに感じた"何か"はここで行われた魔法的な儀式の発動だったのだ。
対象はアマリアに違いない。
その結果が異形の肉塊に姿を変えたセロなのだとしたら。
もはや弁明の余地はない、そう確信したエミリオは沸き起こる激情に身を任せた。
「この、化物がぁぁ!!」
即時発動させたソニックムーブで、速度を上げたエミリオは、瞬時にアマリアの身体を抱きかかえ、魔法陣から引き離すと肉塊から離れた位置で再び横にした。
アマリアの息を確認すると手を離し、肉塊から覗く赤い球体の前――――セロの眼前に戻る。
「サンダークラップ」
バチンと音を立てて激しい雷が放たれる。
「……ヴぉいど」
漆黒の渦が雷を飲み込んで打ち消す。
エミリオの口元が震え、噛み締めた歯が覗いた。
「怒りで頭がどうにかなりそうだ! 完全に消し炭になるまで焼き尽くしてやる!」
エミリオの身体から光が漏れだす。
全身に刻み込んだ魔法陣がその力を振るっているのだ。
描かれた魔法陣の多くは威力の向上と詠唱の省略を目的とするものだ。
これによって詠唱時間の長い炎熱魔法や氷雪魔法を、素早く撃ち込むことができ、さらに詠唱の必要のない電雷魔法と旋風魔法を高出力で発動できる。
「バーンクラウド!」
爆炎が肉塊を包み込み、ごうごうと黒煙を上げる。
その内側は密集した炎によって熱せられ、肉を焼き骨を燻す。
「ぐガぁぁァ!!」
叫び声と共にバラバラと青黒い飛沫が飛び散る。
大きな肉の破片も混ざって、血液とともにあたりに散らばる。
「エクスプロー――」
「ガァ!」
エミリオの次の詠唱が終了する直前、肉塊の一部が崩れ、そこから骨の露出した腕が掴みかかる。
意表を突かれたエミリオは、ソニックムーブの高速移動を持ってしても避けることができずに、その手に捕まった。
「げはッ!」
肥大化した腕に膂力は無いが、その質量で押しつぶされる。
エミリオの胴を握る手の体温は、焼けた鉄のように高温で掴まれた箇所がじゅっと音を立てて焦げ付いた。
「ぐぁ、熱い!? くそ! ――コールドスプレッド!」
咄嗟に伸びた腕に氷雪魔法をぶつけてその熱を抑えるが、一度負った火傷が治るわけでもなく、鈍痛が残る。
荒くなった呼吸を必死で整え、腕から逃れる一手を取る。
「ちぎれ飛べ!」
無詠唱で飛び出す雷が、肉塊の手首に直撃する。
バチンと鞭で打つような炸裂音と共に、焦げた肉片が飛散した。
抑えつけられる力から開放されたエミリオは、身体を震わせて拘束を振り払い、さらなる追撃を加えようと呪文を口にする。
詠唱をするたびに激痛に襲われるが、倒れる事だけはなんとしてでも防がなければならない。
飛びそうになる意識を気合で繋ぎ留め、詠唱を終える。
「エクスプロージョン!」
爆音を轟かせ、肉塊の赤い球体のある位置を高熱と爆風が襲う。
腐食した肉の塊へと成り果てたセロにとっては、その熱による苦痛など、身体を蝕む神聖力が引き起こす痛みに比べれば、ぬるいスープを飲み下すようなものだ。
しかし、爆風による衝撃で肉が削がれ、セロは体積を減らしていく。
どろどろに溶けた肉体はもはや、どの部位が頭で、どの部位が胴なのかも判別できないほどに撹拌されている。
未だにぐずぐずと動いてはいるが、エミリオはその中の何処が重要な器官で、何処を狙えば致命傷になるのかの判断はつかなかった。
「終わりにしよう」
腹を焼かれ、描いていた魔法陣が潰されてしまったので、もうそれほど大きな威力は見込めないが、エミリオはバーンクラウドの魔法を詠唱し始めた。
詠唱の省略のために用意した魔法陣も、いくつか使い物にならなくなってしまった為、詠唱自体にも時間が掛かる。
呪文を唱えている間、エミリオは何かが自分に語りかけているような気配を感じていた。
惨めな姿になり果て、悪魔としても人間としても原型を留めていないセロ――だった肉塊を見て、エミリオの殺意は消沈しつつあった。
しかし、その気配を感じるとふいに憎しみの炎が再燃し、その胸を焦がした。
「足りないな――。もっと、魔力を――」
眼前の巨大な肉塊を消し炭にするには、まだまだ火力が足りない。
この悪魔を完全にこの世界から消してしまわねば、気が済まない。
殺意の念が氾濫した河の水のように押し寄せ、抗えない程の衝動にかられる。
再び声の気配を感じると、エミリオの胸に薄ら寒いものが広がり、それと相反する煮えたぎる感情も同時に沸き起こった。
「塵も残さずに消え失せろ!」
不思議とエミリオの身体に力が漲る。
沸き立つ感情に後押しされたのか、全ての魔法陣が健在だった時よりも大きな魔力の高まりを感じた。
それを余すこと無くかき集め、術式に組み込んでいく。
この悪魔を滅せよと、エミリオの中で何かが命じ続ける。
その根源はエミリオ自身の心の奥底から来るものなのだろうか。
抑えきれない衝動に背中を押されるままに、エミリオは魔法を放った。
「バーン……クラウド!!」
ごうっと術式の中心に周辺の空気が吸い寄せられる。
引き起こされた風を感じた刹那、収束した魔力が炸裂し凄まじい爆発を引き起こした。
熱量は黒煙へと姿を変え、劫火を覗かせながら肉塊の全てを包み込む。
燃え盛る内部では、太陽の如き灼熱が猛威を振るう。
「化物には少々豪華な焚刑だったな」
次第に収縮していく、火葬の魔法に感慨を覚えながらエミリオはため息を吐いた。
踵を返して、横たえたアマリアの元へ近づく。
十分な距離を取って安全な場所に寝かせたため、彼女のところに被害が及ぶことはなかった。
「帰ろう、アマリア。これからは、俺がずっと守る」
眠り続けるアマリアの身体を背負って、エミリオは騎士団が駆る馬の蹄がなる方へ歩き始めた。