◆七 黄昏に伏す、みたりの暁
ラータ編です。
ミスラ達がヴァインロートの居城に攻め入る頃、時を同じくしてラータは、マンテネールとアンブローシアと共に魔物の凶暴化の調査に赴いていた。
赴いた先はラータの故郷、オリジャの村。
故郷の様子を確認したいというラータの希望と、オリジャの村が魔物の襲撃にあったという事実を汲んで目的地に定めたのだ。
三人は村の北東に位置する岬に、マンテネールの転移を使ってやって来たばかりである。
「…………」
ラータが無言のまま地面に膝をつく。
「ラータ、こちらで間違いないでしょうか」
マンテネールが、うずくまるラータに確認をする。
「……ちょっと……待ってくれ」
身を縮めて動かないラータを心配したアンブローシアが、傍らにしゃがみこんで、顔を覗き込む。
「大丈夫? 立てるかしら?」
もしや、魔物に襲われた時の記憶が蘇り、心傷を抉っているのではないかと勘ぐるアンブローシア。
その手はラータの背中を優しく撫でる。
「すまん……。転移で酔った……」
「はぁ?」
肩透かしの回答を聞いたアンブローシアは、擦っていた手でラータの背をバシンと平手で打った。
「いって!」
「はい、気合入ったでしょ。行くわよ」
態度を変えてつっけんどんになったアンブローシアは、スタスタと岬を下っていく。
「転移はまだ慣れないようですね。これから多用することになりますので、早く克服してください」
マンテネールまで何処か冷たい態度のように感じる。
実際は彼女は普段からこうなのだが。
「……ヘルトの優しさが今更ながら身にしみるな」
「なにか?」
「いや、なんでもねーよ」
アンブローシアを追いかけて、ラータとマンテネールも坂になった岬を下る。
「それで、場所はこちらで合っているのですか?」
先ほどの質問をもう一度繰り返す。
問われたラータは、歩きながら周囲を見渡して答えた。
「ああ、間違いない。ここはオリジャの村だ」
岬の坂の途中には、家畜を逃さないための柵がある。
それがオリジャの村の境界だ。
村の中央には広場があり村一番の高さの建物である粉挽き小屋もある。
しかし、ラータの記憶とは決定的に違う様子がそこにはあった。
「村に誰も居ないのは、やっぱり魔物から逃げたからだろう。だけど……」
あまりにも建物がボロボロになりすぎている。
ラータはそう違和感を覚えていた。
昨日、村には火が放たれていたから、焦げ跡の残る柵や家屋は納得できる。
しかし、その家屋の入口の脇に立てかけられた農具や、店先に無造作に転がされたの樽の金具などの鉄製品が、軒並み赤く錆びている。
もちろん建造物事態に使われている鉄も、全てだ。
扉の取っ手や荷車の車輪も例外はない。
「なんか、雰囲気がおかしいというか。なぁ、魔物の中に、鉄を錆びさせるような奴はいるか?」
「ワタシはそう言った魔物を記憶していませんが、なんらかの魔法を使えば可能でしょう」
「そうか……でも、俺が戦った魔物は、魔法を使いそうになかったな……」
「魔物は、どのような外見でしたか?」
ラータは呼び起こすのも気分の悪い記憶、魔物の醜悪な体躯を思い出す。
「でかい奴だったよ。大きさは……だいたい、そこの家の高さ位だ」
ラータの指さした方向には、半分焼け焦げて炭になっている木造の家屋がある。
高さはマンテネールの身長の二倍半ほどか。
「手足もかなり太くて、顔はでかい口と顎に押されて目ん玉は潰れてたな。あとはこう全体的に血抜きした肉みたいな薄い肌色だった」
「ラータちゃんが戦ったのは、オーガーよ」
いつの間にか、先に歩いていたアンブローシアに追いついたようだ。
振り返りながら彼女は紺碧の髪をかきあげる。
「わかるのか!?」
ラータが驚いて聞き返すと、アンブローシアは眉間に皺を寄せて呆れる。
「あのねぇ。あたしの部屋でやったでしょう? 肌が触れてると、より敏感に感じるのよ」
「……なにをしたんですか……」
マンテネールの表情から、平素より感情が失せたような気がする。
「《知覚権限》のことだよな……。怪しげな言い方は止めろ……」
「そうそう! あれ~、マンテネールは何を想像したのかしら~?」
「なんでもないです。続けて下さい」
プイッと視線を合わせるのを拒否して、前を向くマンテネール。
「あの時、村の情景を思い浮かべてもらったでしょ? オーガーの姿も確認できたわ」
気を取り直した様子で、真面目に話すアンブローシア。
得意気に人差し指を立てている。
「そのオーガーは、魔法を使えるのか?」
「ラータちゃんの考えた通りよ。オーガーに魔法を使用する知能は無いわ。誰かが操っていたなら話は別だけど」
「おまえ、ちゃん付けはやめろって言っただろ……」
「あら、あたしは"おまえ"じゃ無いわよ? なんて呼ぶんだっけ?」
「…………アニー、ちゃん付け、やめろ」
話している内容はまともなのだが、どうにも人をおちょくって喋る魔女は、くだらない掛け合いが楽しいようで、ころころと表情を変える。
本来ならば緊迫しているはずの話題だが、空気は随分と緩やかだ。
「もしオーガーが操られていたなら、統制が取れていてもっと手強いはずよ。襲撃はやっぱり原因不明の魔物の凶暴化の一環じゃないかしら?」
「操られた魔物って言うのは、どれだけ強いんだ?」
「そうねぇ、例えばこの村を襲ったオーガーが何者かの使役の下で動いてたとするわよ? その上で、村人の殲滅を目的として動いたとしたら、まず一方向から責めたりしないでしょうね」
アンブローシアは村の外を見渡す。
「魔物を使役が出来るほどの実力者なら、知能も高いわ。南の街道を塞いで、東西の森の中にオーガーを配置して……少しずつ包囲網を縮めていくでしょうね」
「なるほど……奴らが俺たち自警団の陽動にかかった事で、操られていなかった事がわかるか……」
「そうね。でも、単純な命令だけしか与えられていなかったら、話は変わってくるわ」
「単純な命令?」
「そう、例えば『目に入った人間を殺せ』とか、『この地域周辺を攻めろ』……かしらね」
ラータはオーガーと退治した時のことを思い出す。
オーガー達は自警団に気がつくまでは、緩慢な動作で歩んでいたが、その存在を見つけるや苛烈に追跡を始めていた。
攻撃を加えたとはいえ、今考えなおすとできすぎた結果だった。
「後者の場合、南にある港町ハーフェンも危ないな……。村のみんなも、そこに逃げてるはずなんだ」
「では、そちらに向かいましょうか。ワタシの転移は一日五回が限度です。今日はもう使えませんので、陸路を行きましょう」
マンテネールは今日、神殿にラータを連れてきた事で一回、オグロを迎えに行った往復で二回、その後、七人全員で沼地へ移動して一回、最後にここ、オリジャの村への転移で一回と、既に転移の回数を使いきっていた。
「ああ、案内は任せてくれ」
ひと通り村の中を調べた後、ラータ達はオリジャの村の南口に向かった。
南口は街道に面している。
港町ハーフェンに行くには、この街道を行くのが最も早い。
「念のため、街道を行く間も魔物の足跡を調べます。それらしいものがあったら教えて下さい」
ラータとアンブローシアはコクリと頷く。
そして、道案内をするラータを先頭に、土の踏み固められた街道を歩みだした。
森林に挟まれた街道を、ラータも何度か通った事がある。
村の納品馬車がハーフェンに向かう時の護衛として着いて行ったのだ。
狼などの獣の目撃があった時期には、自警団の数人が同行し、商人と荷馬車を守るのだ。
それには、腕の良い自警団員が選ばれるので、ラータとソキウスは他の自警団員よりしばしば村の外にでることが多かった。
村一番の腕自慢であるドルクも一度護衛に付いたことがあったが、直ぐに下の者の教育を任されるようになり、遠出することは無くなった。
その点ラータとソキウスは、二人組で行動することが多く、息のあった連携や危機察知能力にも長けていたため、護衛には打ってつけだ。
他の自警団員なら四、五人で付いて回るところを、たった二人でも安心して任せられるのは彼らだけだった。
ソキウスが弓の名手であることも大きい。
「なんだか、久しぶりにここを歩くような気がするよ」
ラータは感慨深げに呟く。
およそ一ヶ月も経たないほど前に、護衛の任で街道を歩いたはずなのだが、いろいろな事があり過ぎたせいかラータはひどく懐かしく感じていた。
村は荒らされて見る影もなかったが、のどかな街道はその郷愁を強調させる。
「…………」
アンブローシアは少し後ろから、森林を眺めるラータの横顔を黙って見つめる。
「ところで、三時間ほど歩くが大丈夫か?」
ラータは後ろを歩く二人を振り返って気遣う。
「ワタシは問題ありません。主様に頂いた身体は、そんなにやわではありませんから」
「……あたしも、大丈夫よ」
その回答を聞いて、ラータは常々気になっていた事を聞いてみる。
「その……マンテの主様はどういう人だったんだ? 身体を頂いたっていうのも、まだ俺にはピンと来ないんだが」
それまでは、視線を前に向けたまま言葉を交わしていたマンテネールが、突然ラータと目を合わせて話しだした。
「主様は素晴らしいお方です。常にこの世界の事を考えており、人間や悪魔、様々な動物たちの生態に、非常に関心を持っていました。特に人間の持つ技術進歩と、悪魔の魔法文化に興味がお有りだったようで、それらの技法を熱心に研究されていました。その研究の成果で生み出されたのがワタシです。詳しいことはワタシなどでは到底理解することは叶いませんが、人間の身体の仕組みを参考にして、魔法の力を加えてワタシの身体を創りだしたようです。向上心の塊のような御方でしたので、この世界を創った創造主が行ったように、生命の創造を手掛けたかったのでしょう」
マンテネールは自らの主について話すのが嬉しい――かどうかはその表情から読み取れないが、普段より遥かに饒舌になる。
「ワタシは主様に感謝しています。有事の際のために《権限》を御身から移しておくだけでしたら、無機質な道具にでも憑依させてしまえばいいのです。主様の生命の神秘に向く探究心と慈愛がなければ、ワタシは存在しなかったのですから」
ふと、マンテネールを包む雰囲気に哀愁が漂う。
ラータに合わされていた視線は外され、うつむいた。
「きっと、主様なら世界崩壊の原因を直ぐに突き止めたでしょう。ワタシは、未だにその原因が何か見当もついていません。こうして魔物の調査に赴いたり、十八熾将を探って貰ったりしていますが……その先にどれほどの可能性があるのか……」
淡々と話しているようだが、彼女の瞳は何処か遠くを見るように虚ろになる。
「本来ならばワタシが消滅すべきだったのです。《管理権限》を主様にお返しして……ワタシが崩壊の調査に向かえばよかった」
もはや神格に近い主と自らを比べてしまい、無力感に襲われてしまっているのだろう。
ラータは彼女の主が、彼女に苦悩する心を持たせた事を少しだけ恨みがましく思った。
そして同時にこんなにも人間らしい感情を持たせた事に感謝し、また彼女に全てを託して消える事になった主の無念を感じた。
彼女の使命は、その小さな肩に背負わされるには重すぎる。
創られた存在とは言え、彼女は人間と同じ心を持ち、悩み、苦しんでいるのだ。
「すまない。野暮な事を聞いた」
「いえ、取り乱してしまったようですね。主様といた頃はこんな事はなかったのですが……失礼しました」
グッと力を込め、瞳に光を取り戻したマンテネールは、その手で一度、顔を覆って深呼吸した。
「マンテ、おまえの主様は、マンテ一人に全てを背負わせたわけじゃない。俺たちは七人もいるんだろ。一緒に背負えば重たい荷物も少しは軽い」
ラータは気の利いたことは言えないが、落ち込んだ様子のマンテネールに思いつく限りの励ましの声をかける。
「それに、マンテの信頼する主様は、おまえに後を託すことで世界の崩壊をなんとか出来るって考えたんだろ? 期待に応えるためにも、出来ることをやっていこうぜ」
「そう……ですね」
マンテネールは黙祷を捧げるように目を瞑る。
「ありがとうございます。主様が託したのですから、ワタシが弱気ではいられません。この身を下さった主様を失望させるわけにはいきませんから」
「俺は、最初こそいつの間にか大事に巻き込まれたって思ってたが、今ではちゃんとマンテを仲間だと思ってるぜ。マンテだって言ってくれたろ? 俺達は仲間だって……。頼ってくれよ」
言葉では無く、笑顔で返事をするマンテネール。
ラータは彼女の笑った顔を初めて見た。
青灰色の髪は風に揺れ、日光を纏ってサラリと光る。
照れたようなぎこちない笑顔だが、少し頬を赤らめた表情は、普段の無表情より魅力的に見えた。
ラータは微笑み返すと、照れが伝染ったように体温が上がるのを感じて、慌てて前を向く。
「……なに照れてんだ、俺は……」
くすぐったい感情のやり場に窮して、ボソッと独り言を漏らす。
「……なに照れてんの、キミは……」
いつの間に前に回ったのか、ラータの目の前にはアンブローシアの顔があった。
「うお!? なんだよ!」
「あの娘が笑う所なんて、初めて見たわよ。キミ、案外女たらしなのね」
ジトッとした視線が注がれて、更に照れくさくなりラータはかぶりを振ってごまかす。
「そうじゃねーよ! ……放っておけないだろ、マンテはみんなを集めるまでは、それまで頼ってきた主と別れてたった一人だったんだ。仲間が支えてやらないと……な」
「ま、そーね。下心が無いことは信じてあげるわ」
アンブローシアは冗談めかしてクスリと笑う。
「俺ばっかりわがまま聞いて貰ってるしな。行き先にしろ、武器にしろ」
ラータは腰にさした剣の柄を撫でる。
これは出発前に神殿でマンテネールから貰ったものだ。
「……アニーだって仲間だろ? 抱えきれないことがあったら頼ってくれよ」
一連の会話を締めようとして言ったセリフだったが、アンブローシアはその言葉を聞いて固まった。
その表情は困ったような、それでいて嬉しさを噛み殺すような、複雑なものだ。
ラータが不思議に思うやいなや、アンブローシアの瞳から一粒の雫が落ちた。
「……本当に仲間? それって何があっても変わらない?」
流れた涙に、思わずぎょっとしてしまったラータは、戸惑いの中なんとか肯定の言葉を紡ぎだす。
「あ、ああ」
アンブローシアは自分の涙に気づいて、くるりと背を向ける。
「ありがと」
小さい声で短く言うと、そのまま少し離れた。
なにか、背負っているのだ。
そうラータは確信した。
ラータ本人でさえ、過去と言うにはあまりに新しい出来事ではあるが、故郷を荒らされた過去を背負っている。
アンブローシアもなにか辛い過去や事情を秘めているのかも知れない。
本人に話す気が無いようなので、無理に聞くこともないが、今の感謝の言葉は"いつか話す"という意味だろう。
つい先程、くだらない好奇心が発端で、マンテネールの心情を吐露させてしまったラータは、失態を重ねまいと口をつぐんだ。
「それにしても、魔物の気配すらないな」
話しながら歩いて来たが、今のところ魔物の足跡も見つかっていない。
後ろを歩くマンテネールは、ラータとアンブローシアの会話は聞こえていなかったようだ。
落ち着きも取り戻したようで、いつもどおりの無表情で返事をする。
「この周辺は、頻繁に魔物が出現していたのですか?」
「いや、めったに遭遇することはなかったぜ。この辺で警戒してたのは、狼とか熊とかだな。魔物は小型のやつなら見たことがあるが、知能も低いし、凶暴な動物のほうが出たら厄介だ」
動物と魔物の違いは、即ち創り出した者の違いとされている。
動物は神、つまり創造主が創りだし、魔物は悪魔王ヴァビロスが生み出したものだと言い伝えられていた。
魔物は基本的に攻撃的で知能が高く、膂力も強い。
しかし動物の中にも、獰猛な獣はいるし知恵のある者もいるという。
その線引は、端から聞けば曖昧だが、両者は外見的に見分けることができた。
魔物は醜悪なのだ。
悪魔王が創りだしたとされているのも、それが理由なのだろう。
また、人間に似た四肢を持つ魔物も多い。
おそらく、創造主が創りだした動物達を参考にして、悪魔王ヴァビロスが醜悪さと凶暴さで装飾して創りだした生物、という事なのだろう。
つまりは人間を参考にして作られた魔物がそういった生物なのだ。
「せっかく貰った剣も出番がないぜ。ヤバイ相手に遭遇する前に使い勝手を見てみたかったんだけどな」
ラータは新しい玩具を貰った子供のように、腰に差した剣を撫でるのが癖になっていた。
この剣は"エッテタンゲ"という名剣らしい。
鞘に隠されたその刀身は、こぶが二つ連なったのように歪曲した平たい片刃で、剣の腹は分厚いが、刃の部分は非常に薄く研磨されている。
刃渡りは伸ばした腕ほどの長さだ。
神殿で試しに振り抜いた時の、シュッという風切音がその鋭さを表していた。
「好きなものを差し上げます」と、マンテネールに案内された神殿の宝物庫には、他にも多くの武器があったが、ラータは使いやすい大きさのこの剣を選んだ。
選んだ後での彼女の説明では、いくつか魔法的な力も込められているらしい。
ちなみに宝物庫に付いてきたアンブローシアは「ずるい、あたしも!」と言って、部屋を物色しては、うめき声を上げながら身体の魔法陣にしまっていた。
「まぁ、とにかく、この辺は普段から魔物が出るような場所じゃないんだが、だからこそ村が襲われたのが腑に落ちない。オーガーなんて魔物、村の誰も知らないだろうし、この近辺を住処としてるやつじゃない事は確かだ」
「ますます使役者の存在が疑わしいわね」
「同感です。何らかの理由があっての襲撃でしょう」
まだ見ぬ魔物を操る存在を考慮に入れて、一行は港町ハーフェンへと進む。
道中はやはり魔物にも獣にも出会うことはなく、平穏なものだった。
日も暮れようかとしている頃、港町ハーフェンの外堀が見え始めた。
「もうすぐだな。あれがハーフェンの町壁だ」
ハーフェンは湾岸に作られた町で、人工的に掘られた外堀は海と繋がっている。
外堀の内側には高い石造りの外壁がそびえ、外敵から町を保護していた。
首都ウルブスとの交易の拠点でもあるので、オリジャの村と違ってかなり文明的な作りをしている。
町全体の大きさは湾岸を覆い尽くすほどだ。
町壁は夕暮れの光を正面から受けて、灰色の石壁を橙に染めている。
「夕方に来るのは、初めてだな」
荷馬車の護衛でハーフェンを訪れるときは、早朝に村を出て、そのまま午前中に納品を終え、昼を回れば帰路についていた。
そのため、ラータは今まで夕に焼けた町壁を眺めることは無かった。
「なかなか絶景じゃねーか。村の岬には劣るけどな!」
「そうね、綺麗だわ……」
アンブローシアの呟きに、思わずラータは、からかわれた仕返しをしたくなった。
「アニーにもそう言う感情があったんだな。野暮ったい事にしか関心がないと思ってたぜ」
「黙りなさい、ぶっとばすわよ」
思いの外、苛烈な視線を浴びせられたラータは、唯々諾々と閉口するが、しかめっ面で囁かに反撃する。
「あの町の向こうの海……その水平線の遥か先に世界の果てがあります」
マンテネールが感慨深く話し始めた。
「今も崩壊は進み、世界は小さくなっています。手遅れになれば、ここは早い段階で崩壊に巻き込まれるでしょう。……あの町、この風景を守るためにも……皆さん力を貸してください」
少しの沈黙。
からかいあっていたラータとアンブローシアは目を見合わせると、マンテネールに向けて微笑んだ。
そして、声を合わせて了承の意を伝えようと息を吸い込む。
「もちろんだ!」
「任せといて!」
二人の出したセリフが噛み合わず、聞き苦しい返事になったことに、ラータとアンブローシアはいがみ合う。
その様子を見て、マンテネールはクスリと笑った。
主の存在を失ったマンテネールに頼れるのは、この微笑ましい仲間たちだけだ。
主のもとで《権限》を行使して仕えていた頃では考えられないくらいに、彼らと出会ってからの短い時間で、彼女の中には多くの感情が創りだされた。
もともと知識として知っていたが、自らで体感するとこれほどまでに居心地のいいものなのか、と認識しながら思いふける。
信頼、友情、絆なんて言葉は、長い時間を共にした者達の間に生まれるものだと理解していたが、それは違うようだ。
主に創りだされた頃は無機質だった自分にも、その手を離れた今、まだまだ変化する余地があることを、マンテネールは喜ばしく思った。
そして、そのような変化の可能性を与えてくれた、主と仲間に深く感謝する。
「行きましょう。何が見つかるかはわかりませんが、どれも目的への一歩に違いありません」
そんなやりとりの中、明るく振舞っているアンブローシアの表情には、誰も気が付かない程の影が落ちていた。
《知覚権限》はアンブローシアにとって忌々しい力だ。
その力を抑えていなければ、周囲の"声"は否応なく彼女に届く。
聞きたくない感情や、知りたくもない真実なども、容赦なく。
特別な力を持つ剣を体内に封じる事で、その《知覚権限》の力を抑えてはいるが、身近にいるものの感情の表層は半ば強制的に感じ取れる。
半ば強制的にアンブローシアは、今ここにいる三人の仲間意識は、嘘偽りのないものだと実感してしまう。
それ故に、彼女は酷い罪悪感に責め立てられる。
そしてそれ隠そうと、必死になって明るく振舞っているのだ。
ラータに対するからかいも、罪悪感の裏返しに他ならないのかもしれない。
彼女の頭の中を駆け巡る思いは、ぐるぐると答えのない迷路に迷い込み、真実を告げるべきかずっと抱え込んできた。
「何があっても仲間というのは変わらない」と言うラータの言葉も本気だと感じ取ったアンブローシアは、それを隠れ蓑に彼を騙し続ける事が辛かった。
それでも真実を語れないのは、その真実を告げた結果、彼がどう感じるかすらも、わかっているからだ。
それは彼女にとって、騙し続ける事よりも辛いことに思えた。