◇五 強襲と追撃と
エミリオ編です。
此度の神聖騎士団の遠征は、侵略を目的とするものだった。
隣国の領地を制圧し、食料を調達する目的で派遣された騎士は五百に及ぶ。
甲冑を着込んだ騎士たちが、重厚な金属音の混じる足音で進軍する様相は見るものを震え上がらせた。
宣戦布告はとうに済まされている。
対するレイノ王国軍の布陣はおよそ三百程だろうか、それは隣国に通じる山間の深い渓谷に整列されていた。
レイノ王国はから見れば、この渓谷は東西南北に存在する国境の中で、南側に位置する。
反対側である北側の国境では、悪魔軍率いる魔物の軍勢と戦争中だ。
そのためにレイノ王国は神聖騎士団の遠征に対して、最低限の兵力しか集めることが出来なかった。
レイノ王国が悪魔たちの侵略を抑えている手前、周辺国家はレイノ王国に対して停戦状態を保つのが暗黙の了解となっているのだ。
その暗黙を破る遠征は、レイノ王国に十分な準備を与えなかった。
今回、神聖騎士団がこじつけた大義名分は、渓谷を越えた先にあるアンジェロ伯の治める領地が、もともとは神聖騎士団のものであった、というものだ。
アンジェロはその言い分に激昂し、神聖騎士団に屈辱の敗北を味あわせてやると息巻いた。
レイノ王国はアンジェロに二百の王兵を回したが、アンジェロはそれを温存し、私兵の三百で神聖騎士団の第一陣を跳ね除ける腹積もりである。
「さて、神聖騎士団も馬鹿ではあるまい。数の劣る我が軍をみてどう思索する?」
アンジェロは内心ほくそ笑みながら、布陣の終わった両軍を眺めていた。
開戦後、アンジェロの私兵は陣形を左右に割り、神聖騎士団を渓谷の中まで誘い込み、挟撃する作戦であった。
その渓谷の後方には、王兵二百をただ整列だけさせており、逃げ場はないから引き返せという脅しを掛ける。
進軍することも叶わず、後退のみを許された騎士団は敗走して、自らの愚かさを嘆くだろう。
「しかしよもや、このような時期に領土争いをしようとは、愚か以外の何者でもないな」
悪魔軍と戦争状態にあるレイノ王国にとって、交戦中の背後からの攻撃は言わずもがな対処に苦するものではあった。
しかしながら、人間勢力の最前線とも言えるレイノ王国に弓を引くことは、即ち悪魔軍が利することに他ならない。
神聖騎士団が手薄な領地を攻めてきたのは意外であった。
悪魔と人間という尺度を抜きにすれば、隙のある時期を突くのは当然のことだが、悪魔に味方すると知れ渡れば周辺国家も黙っていないだろう。
万が一にでもこの戦いがきっかけで、悪魔軍が人界に流れ込む事があれば、当の神聖騎士団も無傷ではいられない。
「出来ることなら、奴らに悪魔軍を押し付けてやりたいよ」
はぁ、と吐いたため息は、神聖騎士団の愚行に対する呆れでもあった。
「ご冗談を……この地は悪魔軍との戦場とは離れすぎております。それに奴らでは悪魔軍の相手にもなりますまい」
アンジェロの独り言にも似た愚痴に答えたのは、彼の脇に座す老人だ。
黄ばんで皺くちゃになった顔に腰の曲がったなりは、見るものを侮らせるが、その中身は悪魔軍に引けをとらない老獪な魔法使いにしてアンジェロの参謀である。
「おまえの切り返しはつまらんな、ジョゼ。……さて、そろそろ動くだろう。隊長共に檄を飛ばしてくるとするか」
アンジェロは重たそうなマントを翻すと、やる気の感じられない表情でまた、ため息をついた。
神聖騎士団に動きがあったのは、それから一刻ほど後の事だった。
長槍を構えた第一陣が移動を開始し、その後方に長剣を携えた第二陣、魔法使いで固められた魔法騎士隊、最後方には聖女を守るための、騎乗した守護騎士たちとそれに守られる聖女の神輿、その全体がゆっくりと進軍していく。
神聖騎士団にはレイノ王国軍にはない強みがあった。
それは聖女の神聖魔法による癒しの力の後方支援である。
峡谷の隙間で待ち構えるレイノ王国軍を一直線に攻めこむのは愚策であったが、それが擬似的とはいえ不死身の軍団の侵攻というならば話は別だ。
両翼に伏兵が配置されていたとしても、息の音を止められなければ、神聖騎士団の騎士たちは何度も立ち上がる。
聖女アマリアの神聖力の続く限り。
聖女アマリアは、神聖騎士団始まって以来の膨大な神聖力の持ち主だ。
ひと度その力を振るえば、負傷した騎士のたちどころに生気を取り戻し、瀕死の者でさえ立ち上がり戦線に戻る。
つまるところ、一撃必殺の致命傷でなければ神聖騎士団を止めることは不可能なのだ。
「第一陣が王国軍とぶつかる前に、手を打たなければ……」
エミリオは進軍する騎士団の中で呟いた。
本来、騎士団所属とはいえ図書館司書のエミリオは、この遠征に参加する立場の人間ではない。
しかし、この遠征までの間に自らの魔法の腕を売り込むことに成功し、魔法騎士隊としての参加にこぎつけた。
それは、一重にアマリアを守るためである。
魔法騎士隊の任務は、先行する第一陣、第二陣の後方から、遠距離への攻撃を可能とする魔法で援護することだ。
エミリオはこの遠征が行われることを知ってから更に腕を磨き、自分こそが魔法騎士隊の中では最も優れた魔法使いである事を自負していた。
自陣の前衛全てを飛び越える程の距離を狙える広範囲魔法。
それの完成には多くの時間と労力を費やした。
新たな魔法を修得するような時間はなかったため、図書館の閲覧禁止図書を盗み見て、魔力を一時的に増幅させる方法を探し、既に習得済みの魔法の効力と影響範囲を極限にまで高めたのだ。
戦闘が始まれば、負傷者がでる。
そうすれば聖女アマリアは神聖魔法を使って負傷者を回復させなければならない。
もうアマリアに神聖力を行使させるわけにはいかないのだ。
エミリオは戦いが始まる前に動くことを心に決めていた。
前方の第一陣の騎士たち一人ひとりが、麦粒ほどの大きさに見える。
機会を見計らい、布陣するレイノ王国軍の鼻先に、第一陣が到達する直前にエミリオは術式を展開した。
コールドスプレッドという魔法がある。
氷雪魔法に分類される攻撃魔法の一つで、術者の前方に放射状に冷気を解き放つ魔法だ。
また、アイスグラムという魔法陣は、氷雪魔法はその効果を飛躍的に上昇させる。
コールドスプレッドは殺傷力の高い魔法ではないのだが、アイスグラムを併用することによって地面を凍てつかせ、相手の動きを封じることが出来る。
ここにさらに閲覧禁止図書より拝借した禁呪の魔法陣により、さらなる効果の上昇と、遠距離での発動を可能にしている。
エミリオは周囲の魔法騎士隊と同様の白い法衣に見を包んでいるが、その下の素肌には無数の魔法陣が刻まれている。
刺繍糸のような極細の針で、皮膚を肉まで削って彫られた魔法陣はじわじわと血を滲ませながらも、血を滴らせることはしなかった。
滲みでた血液がそのまま魔力に変換され、魔法の術式に組み込まれていくのだ。
ジンジンと身体の痛みを感じながらも、エミリオは魔力を解き放とうと、詠唱を開始する。
援護射撃をするにしても、あまりに早すぎる詠唱の開始に、隣を行く魔法騎士隊員がぎょっとする。
ざわめく周囲の様子を毛ほども気にかけた様子もなく、エミリオは詠唱を続け、その最後の句を紡ぐ。
「――コールドスプレッド!」
途端、一陣の風が神聖騎士団の第二陣、第一陣の頭上を通り抜け、剣を抜き放ったばかりのレイノ王国軍へ吹き付ける。
王国軍の兵達は風を受けたと思うやいなや、身を刺すような冷たさに悲鳴を上げ、その足元は凍りついた。
予期せぬ事態に混乱する王国軍の統制は、瞬く間に失われ、多くの者は逃げ出そうともがいているが、氷によって地面に張り付いた足が動くことはない。
まともに魔法を受けた王国軍の前衛は、逃げ出すことも出来ずに氷の冷たさに喘いでいる。
エミリオの氷雪魔法が王国軍の機動力を奪った瞬間、味方である神聖騎士団の第一陣も驚愕にその歩みを一瞬止めた。
しかし、それが魔法騎士隊の援護であるとすぐに気がついたのか、第一陣の司令官が張りのある声で叫んだ。
「今が好機だ! 突き進め!」
その号令を皮切りに、神聖騎士団の第一陣はそのまま動かぬ敵陣になだれ込み、次々と首級を上げていく。
神聖騎士団の立てる土埃と王国軍から上がる血煙が開戦の狼煙となり、神聖騎士団の槍を迎え撃つことも出来ずに鎧が貫かれる音と、王国軍の悲鳴だけが空気の冷えた峡谷によく響き渡った。
「こんなバカなことがあるか!」
アンジェロは前線に配置した私兵三百が、瞬く間に崩壊する様を見て怒鳴り散らした。
神聖騎士団とぶつかり合った前衛は、広範囲の魔法によって自由を奪われ、棒立ちのまま血煙に変えられていく。
かろうじて後方のおよそ百の兵士たちは、魔法を受けなかったようだが、皆ほうぼうの体で逃げ出している。
「ジョゼ! あれを何とかする手立てはないか!」
呼びつけられた参謀ジョゼは、アンジェロの傍らに馳せ参じ、戦場を眺める。
「むう。やつらには相当手練の魔法隊があるようですな」
「だから、それを何とかしろと言っているのだ!」
アンジェロは怒りと不安をぶつけるように、拳を叩きつける。
開けた天幕に置かれた木製のテーブルの足がミシッと音を立てて割れた。
「これは王兵を投入せねばなりますまい。王兵の魔法隊に峡谷を崩させて防衛し、抜けてきたものを弓兵で迎撃させましょう」
「完全に逃げの手ではないか!」
「初撃で大勢を決められた故、格好を気にしている場合では無いですぞ。直ぐに伝令を走らせます」
「くそ! いまいましい!」
アンジェロは下級の貴族の生まれだった。
辺境の地を領地として与えられ、今まで戦の晴れ舞台である悪魔軍との戦場に赴くことも無かった。
どうにかして上級貴族たちに力を認めさせその地位を高めようと、王兵の協力を二百、つまり私兵と合わせて神聖騎士団と同数で勝利して見せる、と見栄を張ってしまったのだ。
アンジェロが恐れたのは、下級生まれのひよっこのために悪魔軍に対向する貴重な戦力を使わせたと、他の諸侯に思われることだった。
腹心のジョゼには反対されたが、たかだが辺境の騎士団と侮り、悪魔軍との戦争に影響の出ない範囲で事を運ぼうと意見を押し通した。
このままでは、辺境の騎士団相手に多くの私兵を失い、更には領地までも奪われた阿呆貴族と揶揄され、アンジェロの名は地に落ちるだろう。
苦肉の策だがジョゼの案を採用し、領地だけでも守らねばならない。
王兵の魔法隊ならば、実力は折り紙つきの者達だ。
峡谷の土砂を崩して道を塞ぐことなど訳なくやってのけるだろう。
しかし、土地への攻撃は領地の被害も大きい。
苦虫を噛み潰したアンジェロは、ジョゼにこう付け加えた。
「奴らの魔法隊だけは必ず仕留めよ! 司令官は我が眼前で首を跳ね飛ばしてやる!」
ジョゼは了承の意を伝えると、伝令に王兵の魔法隊を抜いた百五十のうち五十の精鋭を、神聖騎士団の魔法隊への急襲部隊とするよう付け加えた。
アンジェロが予期せぬ自軍の敗走に驚愕と憤りを感じていた頃、エミリオは神聖騎士団の本陣へ向かっていた。
本陣に構える上層部騎士たちがエミリオの放った魔法に興味を持ち、詠唱者を呼びつけたのだ。
単なる図書館司書が多少魔法を扱える、とその程度の認識で戦線に加える許可を出した上層部にとって、大きく戦況に影響を及ぼしたエミリオの力はいい拾い物だ。
エミリオと本陣の使者は自分らを載せてきた早馬を降りると、本陣の天幕に近づく。
天幕の入り口には、全身鎧を身にまとった数人の騎士が侍している。
その横を通り抜けようとした時、聞き慣れた声でエミリオは呼び止めた。
「エミリオ!? なんで、ここに?」
全身鎧の兜を外したカリナが、目を丸くして驚く。
「カリナ……見習い騎士は本陣の警護か」
「周囲の警戒は精鋭騎士様たちが務めてるけど、陣営内の雑用とかはわたし達見習いだよ」
「そうか、知らなかったな」
「そりゃそうだよ。エミリオったら、ここのところずっと帰って来なかったんだもん! なにしてるのかと思ったら、それ魔法隊の法衣でしょ? びっくりだよ!」
「ま、いろいろあるのさ」
エミリオは適当な返事でごまかすと、本陣の使者に向き直る。
「すみません。行きましょう」
「どうぞ」
天幕の中に入ると、この遠征の責任者である上級騎士が数人の従者と共に待ち構えていた。
「君があの魔法の詠唱者だね?」
エミリオは神聖騎士団の敬礼を行うと、地面に膝をつく。
「はい」
「ふむ。あれほどの魔法を使えるものが、我が騎士団にいたとは。たしか君は今回、司書から起用された者だったと思うが……名は、なんだったかな」
「エミリオと申します」
「そうかそうか、エミリオと言ったか。して、君はその魔法をどこで学んだのだね?」
「図書館内の魔法関連の本から知識を得ました」
「独学か……。では、外でその魔法を使うのは今回が初めてか?」
「はい。実戦で魔法を使用したのは、この遠征が初です」
セロとの小競り合いは黙っておいた。
「なかなかに、強力な一手であったぞ。君を魔法騎士隊の中で働かせるのは惜しい。別働隊として動いてもらおうかと思うんだが……どの程度のことまで出来るか、それがわからん」
「別働隊……ですか」
「そうとも、奇襲や伏兵、遊撃などだな。王国軍からしたらあれほどの被害を出した魔法使いが、どこにいるかわからないほうが嫌なものだろう。……先ほどの魔法、見たところ氷雪魔法のようだが、他の属性は何が使える?」
「炎熱、氷雪、電雷、旋風の四属性の魔法を幾つか扱えます。どれも大規模な戦闘では使ったことはありませんが、先ほどと同程度の効果は収められるでしょう」
「なんと! 四属性全てか! これはこれは、今まで燻っていたのが不思議なほどだ。うむ、では――」
上級騎士が何か言いかけた時、天幕の外から伝令の声が届いた。
「失礼しますッ! 急ぎの用件がございます!」
ピクリと上級騎士は片眉を上げ、煩わしそうに入り口を睨む。
「入れ」
伝令は入室するや、エミリオを見て怪訝な顔をしたが、直ぐに姿勢を正し敬礼をした。
「話せ」
「はッ! 聖女の神輿から、アマリア様が行方不明になりました!」
予想していなかった内容に上級騎士も、エミリオも声を失って固まる。
「――――な、どういうことだ!?」
「神輿の中はもぬけの殻で、護衛の精鋭騎士達は魔法で眠らされたようです!」
続きを聞いて、エミリオはある考えにたどり着く。
「アマリア様の側近……あの悪魔はどうしました?」
エミリオの質問に、伝令は少し言葉に詰まる。
「よい。話せ」
上級騎士が促すと、再び姿勢を正して伝令が続けた。
「側近のセロも、おりませんでした!」
「悪魔の仕業ですね」
跪いたままだった、エミリオはすぅっと立ち上がると、上級騎士に向かって敬礼の所作をする。
「わたしが追いましょう。おそらく精鋭騎士達が眠らされたのは、悪魔の使う古代魔法です。わたしなら幾らか対処の方法を持っています」
怒りの表情を隠しもしない形相と、自信に上級騎士は思わず頷く。
「あ、あぁ。騎士を付けよう。五名ほどこの陣の精鋭から連れて行け。あとは神輿の方で引き連れるが良い」
「不要です。人数が多いと見つかる可能性があります。とは言え、身柄を確保した後には人手が必要になりますので、狼煙をが上がったら数人を派遣して頂けますか」
エミリオは、時間が惜しいとばかりに、敬礼して踵を返すと天幕を出る。
そこには先ほどまでいたカリナの姿はなかった。
◆
聖女の神輿が待機している場所の両脇には森が広がっている。
天幕の外で伝令の報告を盗み聞いたカリナは、伝令が乗ってきた早馬を拝借し、森の中に走った。
「たぶん、こっちに逃げたんだ……」
ベッドから起き上がれないアマリアを連れては、神輿からそれほど遠くは離れれないと考えたカリナは、周辺の森のなかを探索している。
神輿の周辺は騎士たちが捜索していたが、その網に掛かるほどセロは馬鹿ではない。
きっともう少し奥に逃げている。
「セロ! 返事して! カリナだよ!」
もし声が届けば、返事をくれるかもしれない。
僅かな期待を掛けて森を駆けまわる。
もしかすると、全く見当違いの場所を探しているのかもしれない。
そんな思いが、カリナを焦らせる。
それでも、声をかけるのを止めないのは、他にあてがないからだ。
森は広い。
今から別の方角へ捜索の手を伸ばしても、それほど奥まで探せるわけではないし、時間が経てばより遠くまで行ってしまうだろう。
カリナは自分の探す場所に、アマリアとセロがいてくれることを信じて、賭けに出る以外無かった。
気がつけば、どれだけ深くに入ったのか。
それがわからなくなるほど周りの景色が変わっていた。
探し始めた頃、地面には馬で歩けるくらいの土が出ていたが、だんだんと苔に覆われた木の根ばかりの――神秘的とも言える木々の木漏れ日のみに照らされた、森の深くまでやってきていた。
もう、後ろを振り返っても、陣営の明かりは見えない。
「ごめんね。後は歩いて探すよ」
カリナは自分を乗せてきた馬を離すと、覚悟を決める。
「もう、戻れないかもしれないなぁ……」
動物的な勘で帰る方向がわかるのだろう。
馬はカリナから離れると決まった方向に歩いて、消えていった。
辺りはしんと静まり返り、風ひとつないが、ひんやりと涼しい空気に満ちていた。
「獣とか、魔物とか……でないよね?」
鋳鉄の長剣と、腰に隠した短剣のみしか携帯していないカリナは、狼や魔物に襲われれば厄介な事になる。
狼の俊敏さにかかれば長剣など無用の長物になりかねないし、短剣だけで相手になるとは思えない。
ましてや魔物が現れたなら、人間ひとりなどひとたまりもないだろう。
負傷しても、森の深くで倒れては、助けが来ることも望めない。
無いよりはマシだ、と一縷の望みにすがるように長剣を鞘から抜き、もう一方で腰の短剣の柄をギュッと握りしめて用心深く進む。
「……アマリアぁ~……セロぉ~………いる~?」
そろりそろりと動きと声を忍ばせながら、さらに森の奥へと歩く。
びっしりと苔むした、両手を広げても測りきれないような大樹を二本ほど越えると、次の木々が暗闇で見えなくなってきていた。
そこで、カリナは暗闇の中に小さな白い点があることに気がつく。
「あれ? 明かり?」
どうやら暗がりの奥に、一点の光があるようだ。
音を立てぬように短剣を抜き、両手に武器を構えながら確認できる位置まで進む。
明かりはだんだんと大きくなり、それが空中に浮いた光源だということが分かった。
魔法によるものだろう。
照らされているのは、純白の法衣を着て横になった女性だ。
「アマリア!」
カリナは叫んで走りだす。
暗がりの中、根を飛び越え、枝をくぐって木々をすり抜ける。
「あっ!」
女性の元までもう少しというところで、苔に足を取られて転倒してしまった。
長剣が手から抜け地面に転がる。当のカリナは前のめりに倒れて、顔から滑りこんだ。
「あいた! いたたたたた!」
静けさの中に間抜けな声が通る。
兜をかぶっていなければ、カリナは顔中に切り傷を作っていただろう。
「うあ、くわんくわんする……」
切り傷は免れたが、兜の中で頭を揺さぶられてカリナは酷い目眩に襲われる。
腰を上げて立ち上がろうとするも、直ぐには立ち上がれない。
「……大丈夫カ?」
キシキシと響く声がして、カリナはその手を取られた。
「あれ? あ! セロ!」
出された手を遠慮無く掴んで立ち上がると、カリナは助け起こした者の名を呼ぶ。
「カリナだロウ? よく見つけられタナ」
兜で顔が見えないはずだが、セロはすぐに気づいたようだ。
カリナは兜を脱いで笑う。
「ぷはっ! よくわかったね! やっと見つけれたよ~」
「連れ戻しにきたノカ?」
青白いセロの顔は真剣だった。
半分だが、悪魔の血が流れているセロの表情は、そうと知らぬものが見れば恐ろしく感じるだろう。
「ん~、いや、わかんない! アマリアがいなくなったって聞いて、たぶんセロが連れて逃げたんだろうって考えたら、探さなきゃって思ったんだ」
「そウカ。心配させタナ」
親しい者でしかわからない微かな表情の変化で優しく微笑んだセロは、横たわっているアマリアの横に寄り添うように腰をおろした。
「アマリア。カリナが追ってきタゾ……心配させてしまったよウダ」
声を掛けられたアマリアは、身動ぎもせずに乾いた唇を僅かに震わせる。
「………………」
葉のこすれる音よりも小さい声が、虚ろな目をしたアマリアから発せられた。
少し離れているカリナには何を言っているか聞こえない。
おそらく視力もほとんどなくなり、声をだすこともままならないのだろう。
そんなアマリアの状態を見て、カリナはひどい哀しみに襲われた。
「……アマリアは謝ってイル。それと、すぐに来た道を戻って欲しい、トモ」
「アマリア……もう、そんなに悪いのね……」
「帰るンダ。カリナ、おまえを巻き込みたくはナイ」
「巻き込むって何? これからどうするつもりなの? 騎士団から逃げても……神聖力があるんじゃアマリアは……」
セロは物思いにふけるように、樹上の葉を眺める。
緑に生い茂り、日光を通さぬほどに分厚く成長した葉は、その下のアマリアと対照的に生命力に溢れていた。
「神聖騎士団にいては、アマリアの命が尽キル。だから、戦闘が始まる前に逃ゲタ。――あとは見つからぬよう王国領に入るつもりダ。騎士団の奴らも国境を越えた先までは手を出せないダロウ」
セロの言葉に続けて、なんとか聞き取れる声でアマリアが話す。
「……ご……めな……いね。…………わ……たしが、……セロに…………た……ん……だの」
その声は掠れて、今にも消え入りそうだ。
聞き取ることは出来なかったが、カリナには彼女が謝っていると分かった。
「……アマリア。なんで何も言ってくれなかったの? わたし……エミリオも、あなたの為ならなんだってするわ」
それに答えたのはセロだった。
「アマリアは自分の死を受け入れてイル。……ただ、最後に騎士団の呪縛から自由になりたかっただケダ。オレはどうせアマリアがいなくなれば、騎士団を追い出さレル。遠征中に脱出することは、オレから提案シタ」
「そんなの……わたしも一緒に!」
「ダメダ。おまえたちは騎士団の庇護が必要ダ。アマリアはおまえたちの幸せも願ってイル」
言葉を失くして、カリナは佇む。
堪えていた涙が頬を伝った。
「……王国領に行くなら……急いだほうがいいわ。騎士団は王国軍相手にもう、かなり攻め込んでいるはずなの」
「どういうコトダ? 王国軍は弱い相手ではナイ。数はおそらく互角、兵の練度は向こうが上手、そのうえアマリアもいないのダゾ?」
「こっちの魔法騎士隊が、王国軍の第一陣を薙ぎ払ったの。相手は下がって行ったけど、被害は甚大のはずだよ」
「魔法騎士隊ガ? やつらはそれほど強かっタカ?」
セロは訝しげな顔をする。
彼の記憶では、騎士団内に大勢を動かすほどの実力を持った魔法使いはいなかった。
「エミリオよ。わたし、天幕で聞いたの。王国軍に大打撃を与えたのはエミリオだって」
「あいつが? ……なるほど、ただ遊んでいたわけではないな」
「エミリオがどうやって強くなったのかは、わからないけど。エミリオもアマリアがいなくなったのを知っているから――」
ゴゴゴゴゴゴ――――――
突然、地面が揺れ、巨大な何かが崩れ落ちるような音が響いた。
「な、なに!?」
カリナは激しい地震に立っていられなくなり、尻もちをつく。
セロはアマリアに覆いかぶさって、落ちる葉や枝からその身を守った。
「戦場からカ!?」
揺れが治まると、セロはその獣のような足で地面を一蹴りし、樹上に飛び乗った。
「しまッタ! 王国軍の魔法隊トハ!」
セロの目に映ったのは、戦場となった峡谷が崩れ、谷を塞いでいくところだ。
谷の両脇の山肌に、さらに魔法が打ち込まれ、土石がなだれ込んでいくのが見える。
再び強い揺れが襲う。
セロはアマリアのもとに戻ると、再び身を挺してその身体を守った。
「峡谷が崩されてイル! 王国軍は防壁を築いてやり過ごすつもりラシイ!」
「それじゃあッ――!」
「王国領には抜けられナイ!」
苦虫を噛み潰したようにセロの顔が歪む。
断続的に揺れは続いているが、落ちやすい葉や枝はひと通り落ちてしまったのか、落下物は無くなっていた。
「アマリア。退路は断たレタ。最後の手段を選ブゾ」
「……!」
セロが言った言葉に、アマリアが何か返事をしたようだが、カリナには聞こえなかった。
アマリアの身体を抱えて、歩き出すセロ。
「セロ! 何処に行くの!?」
「ついてくルナ。カリナ、おまえは戻レ」
「もう何処にも逃げられないじゃない!」
向けられた背中に叫ぶ。
「ここにいたか――」
突如、聞こえた上空からの声に、セロとカリナが見上げると、ザワザワと木々の枝がねじまがり、葉が円形に散らされた。
「……エミリオ!」
新緑の天井にぽっかりと穴が空き、その中心にフワリと浮いているエミリオ。
そのまま、ゆっくりと下降して地面に降り立つ。
「セロ、アマリアを離せ……!」
すさまじい怒気をはらんだ声は、空気をビリビリと刺激する。
「飛行魔法も扱えるようになっているとは、驚いタナ。しかし、遊んでいる暇はナイ」
セロの言葉を無視するように、エミリオは空に向かって手を振り上げ、短く呪文を唱えた。
直後、手を伸ばした先の上空で、大きな破裂音が響く。
キィキィと木から鳥が飛び立つ囀りが聞こえた。
「エクスプロージョン、爆炎の魔法だ。騎士団への合図は済んだ。逃しはしない」
空中で炸裂した爆炎は、もうもうと煙を上げてエミリオ達の位置を知らせる狼煙となった。
「たしかに、以前は遊びだったんだろうな。俺の魔法は児戯の如く弾かれた。――今度は遊んでいる暇など与えない!」