◇百二十 毒を喰らわさば
毒魔道士ベルデ。
十八熾将に名を連ねるリザードマンの長は悪魔領の奥地にある同族の集落で苛々を募らせていた。
「クソが!! ナゼ、ヴァビロス様はワタシに進軍をお命じにならない!」
蔓で編んだ卓が殴った衝撃を受け流して軋む。
そのギシギシと鳴る音すら不快に感じて、ベルデは机を蹴り飛ばす。
卓は沼地に張り出したテラスの一角から放物線を描いて、ボチャリと落ちた。
「どうかお怒りをお沈め下さい。ベルデ様」
ベルデの側近が新たな卓を用意しながら主人を宥める。
この光景がここ最近のベルデ陣営の日常の様子であった。
ベルデが苛ついているのは、他の十八熾将のせいだ。
赤騎士エリュトロンは特権を与えられ、悪魔領と人間領をふらふらとしているだけにもかかわらず、悪魔王ヴァビロスからの評価が高い。
それは単に実力がある者の特権なのだが、積極的に人間を侵略し功績を上げているわけでもないのに評価が落ちない所が気に食わない。
軍の統率者であるカルディナールは一日にして、人間の都を攻め落としたらしい。
ベルデは自分に指示がくだれば、もっと迅速に効率よく攻め落とせたものを、と嫉妬した。
他にも魔狼ブランカや耀うリノンも人間領への前線を伸ばしていると聞いている。
なのに、なぜ自分は悪魔領の奥地で燻っていなければならないのか。
さらに、最近になって誘惑のヴィオーラにカルディナールから応援の要請が入ったようだ。
おそらく、落とした人間の都の管理を任せるつもりだろう。
ヴィオーラは悪魔王ヴァビロスに心底傾倒し、ヴァビロスの住まう城から離れようとしてこなかったが、カルディナールの要請に際して、ヴァビロスの下から離れることを許されたらしい。
他の十八熾将に活躍の機会が訪れて行くというのに、自分が未だに悪魔領に引きこもっているのが我慢ならない。
情報が入る度、ベルデは苦虫を噛み潰し続けて来た。
「中でも許せんのはアイツだ。フラウムめ。人間風情がいつまでワタシと同等のつもりだ……!」
淀みのフラウムは人間でありながら十八熾将に加盟した。
本来ならば他の十八熾将に比べて寿命が短いために、すぐに消えてしまう存在のはずだったが、悪魔王ヴァビロスはフラウムに長寿の魔法を施して他の十八熾将と同等の扱いをし始めたのだ。
悪魔王ヴァビロスが決めたことならば、と受け入れる者もいる中で、最も反発したのはベルデだった。
人間というだけで気に食わないが、ベルデがもっと気に食わないのはフラウムの能力の事が重い。
フラウムは特殊な炎熱魔法を駆使して毒ガスや爆発を攻撃手段とする魔法使いだが、ベルデの得意な魔法も毒なのだ。
フラウムが重用されるようになっては、ベルデの立つ瀬がない。
ベルデはいつしか心の底で、悪魔王ヴァビロスが自分を用済みと判断し、十八熾将から除名する日が来るのではないかと焦っていた。
そのフラウムが人間領から負傷して戻ってきた時は、ざまぁみろとほくそ笑んだものだが、フラウムは悪魔王ヴァビロスの城で丁重な治療を受けると知って、ベルデの腹は煮えくり返った。
「ベルデ様。本日、カルディナールの配下の者が言っておりましたが……近々、"黒壇のニゲル"も動く模様です」
「そりゃホントかい……」
側近の新たな情報に、気を落としたベルデの声は怒りを過ぎ去って落ち込んだ。
「お言葉ですが、ベルデ様。小生の使えるベルデ様はこんな奥地で燻っているお方ではありません。他の十八熾将にはヴァビロス様の命を待たずして動く者も多い中、頑なに主人の命を待つ姿は尊敬に値しますが、果たしてヴァビロス様はそれをお望みなのでしょうか?」
「ソレハ、どういう意味だ?」
「不敬に当たるかもしれませんが……ヴァビロス様はベルデ様のお力を使いこなせていないのかもしれません。小生共が仕えるベルデ様は類まれなる魔法の才と武術、頭脳を兼ね揃えておいでです。悪魔王ヴァビロス様と言えども大きな力故に使い兼ねている……そんな気がするのです」
「オ、オマエ……大丈夫か……? 誰にも聞かれていないだろうな?」
キョロキョロとベルデは拠点内を見渡し、沼地の方まで視線をやる。
この場にはベルデと側近のみで他に生き物の影はない。
「ベルデ様以外の他の十八熾将たちの中には、エリュトロンやパイオンの様な身勝手な連中も多いです。しかし、ヴァビロス様は彼らの行動を広いお心で受け入れていらっしゃる……。ベルデ様も思い切った行動をとってみても良いのではないか、そう思う次第であります」
「あ~……。確かにその二人は問題を起こしてばかりだな。こないだなんかはパイオンとエリュトロンでぶつかったらしいしな。その件もヴァビロス様は気にしていないご様子だったし……言ってしまえば、セレッサやヴァインロートも命令を貰って動いてるわけじゃない。アイツラなんかは本能に従って人間を襲ってる」
「ワレラ、リザードマンは人間を食うことはしませんので気に留めていませんでしたが、カレラは捕食行動がそのまま侵略行為に繋がります。その行為が許されるならば、ベルデ様が人間への侵略行為を積極的に行っても、ヴァビロス様はお咎めにならないと思うのです。それどころか、ヴァビロス様はカレラを十八熾将に任命したことによって、積極的な侵略行為を推進しているとまで言えるでしょう」
「ほ、ほう……?」
「今こそ、ワレラ、リザードマンの力を人間に……そして、他の十八熾将達に本当の侵略とはどういうものなのかを知らしめてやるべきでは無いでしょうか!?」
側近は、最後のほうはかなり力を込めての発言だった。
おそらく、彼もリザードマンが悪魔領の奥地に引きこもっている現状に不満を持っているのだろう。
ベルデは自分よりも熱くなっている側近を目の当たりにして、いつの間にか冷めてしまっていた。
だが、部下にそうまで言われては、リザードマンの力を人間に見せつけてやらないわけにもいかない。
「オ、オォ……。いいだろう。オマエの言いたいことはよく分かる。戦の準備を……するか」
ベルデは歯切れ悪く言ったが、側近のリザードマンは爬虫類特有の縦長の瞳孔をギラつかせてかしこまった。
「ハッ! すぐに取り掛かります!」
側近は小躍りする様な軽やかな足取りで、兵を集めに行った。
「……アイツ、自分が側近なの忘れてないか? ここには、ワタシ一人じゃないか……」
ベルデは側近の背中を遠い目で見送った。
◆
程なくして、ベルデはゆっくりと腰を上げる。
さて、人間領に攻め入るならば、どこがいいだろうか。
現在の悪魔軍の戦況は――と、壁に地図を広げる。
「ヴァビロス様の城を護っているのがミルヒヴァイスとラランジャ……と、ヴィオーラはこれから人間領に行くのだったな。フラウムの野郎も城だ」
地図に墨を入れて情報を書き足す。
「ガラノスとヘルブラオは海にいるから、詳しい位置は分からないなぁ……。エリュトロンとパイオンもどこにいるんだか……」
居場所が不明の同僚の名前を地図の横に書き出す。
「…………こうして見ると、協調性が皆無だな。ワレワレ十八熾将は……」
次に書いたのは人間領にいるカルディナール、ニゲル、セレッサ、ヴァインロートの四名の位置。
それぞれ、自分の拠点を作ってそこにいるはずだ。
「ナーダはカルディナールと共にいるんだったか……。後はアルジェンティウス――ここの雪原……と」
人間領から少し離れた山岳地帯にアルジェンティウスの名を記す。
「パルド、リノン、ブランカが最前線か。結構固まって動いてしまっているな。パルドはともかく、ブランカとリノンは反りが合わなそうだ。余計ないざこざを起こしていなければいいが……いやいや、この手の心配事はラランジャに任せよう。ワタシが考えることではない」
悪魔領の南東の端――人間領への最前線に三名の名を書く。
他の十八熾将の名を書き終えたところで、ベルデは気がついた。
アルジェンティウスのいる雪原と最前線までの間が大きく開いていることに。
アルジェンティウスの根城は悪魔領からすると東の果てだ。
そして、ブランカ達が攻めている南東の国はどちらかと言えば南端に近い。
「最前線に加わっても仕方がない。ヤツラだけで十分な戦力だ。この間の地域を狙うか……いや、待て待て」
カルディナールが人間の都を占拠したのは、最前線の敵対国だったはず。
ベルデは思い直して、地図を見直す。
「ワタシがカルディナールなら、次にこの都からアルジェンティウスの根城までの地域を攻める。アルジェンティウスが動かなくとも人間には牽制になるからな。……ならば、ワタシは南に勢力を伸ばすか……?」
最前線の南には大きな森林が広がっていて、リザードマンの進軍にも持って来いだ。
逆にアルジェンティウスの根城に近いと寒さで動きが鈍くなる。
ならば、とベルデは南を開拓しようと考えることにした。
「……湿り気のある森林なら嬉しいんだが。この辺りはまだ未開だからな。人間の国が近くにあるから、町や村とぶつかるかもしれん。それらを通りつつ南下しよう」
人間の村がある事は、リザードマンに取って重要なのだ。
魚類を主食とするリザードマンにとって、水辺は絶好の拠点になる。
人間の村は水源の近くに出来る事が多く、進軍の際にそこを通ることで兵糧を抑えられる、という算段だ。
「悪魔領の魚を美味しいけど、種類が少ないからなぁ。美味しい魚がいるといいなぁ」
ベルデはわさわさとしっぽを揺らしながら、行軍進路を考えるのに夢中になった。