◇百十七 王都カピタール包囲戦⑨
突然、足元の梯子を外された人間はこういう表情をするのだろうか。
はたまた、絶望を顔に体現するというのはこういうことか。
アロイスは自分が今までしたことの無い表情をどう形容していいかわからなかった。
最愛の娘、アポリーヌを変質させた悪魔を殺す手段を失った。
そして、若年でありながら信頼のおける友人でもあるシャルルがやられた。
二人の仇も撃てないままに、自分はここで悪魔に殺されるのか。
「シャルル……」
膝から崩れ落ちるシャルルの動きが酷くゆっくりとして見える。
広範囲の火柱に巻き込まれて、氷の槍は全て水溜りに消えていた。
ふと、別の方向に目をやると、アポリーヌであった者が唇のない、歯茎だけの口をボソボソと動かしている。
音はないが魔法の詠唱だろう。
バーニングタワーの炎の届かなかったガストンとノエル、二番隊の魔法騎士たちがアポリーヌの攻撃を阻害しようと魔法を放つ。
シャルルが倒れた今、アロイスだけがカルディナールを倒せる頼みの綱だ。
アロイス本人の命令に逆らってでもアポリーヌを仕留めようと、様々な魔法の多段攻撃がアポリーヌを襲う。
「……ああ」
真っ直ぐに射出される火球。
弧を描いて着弾する氷塊。
迸る電撃。
貫く突風。
全てがアポリーヌへと向かい、轟音と共に石床が砕け、もうもうと土煙が上がる。
二射、三射と次々に魔法が打ち込まれ、拡大する土煙に向かってアロイスは手を伸ばす。
魔法隊の者は悪く無い。
あの、魔人とも呼べる炎熱魔法の使い手がアロイスの娘――アポリーヌであると知っているものはいないのだ。
彼らにとっては敬愛する隊長、シャルルを殺した憎い存在に他ならない。
悪魔に攻撃を続けるというシャルルが下した命令を無視してでも、隊長の仇を討ちたい気持ちはアロイスにも分かった。
あの魔人が、アポリーヌでなければアロイスも、例え素手だったとしても殴りかかっていただろう。
彼らを責めることは出来ない。
砕けるほど歯を食いしばり、アロイスは上空を睨みつける。
実際に焦げた右側の頬の歯はひび割れて砕け、ジャリジャリと不快な感触を残した。
「どこ行きやがった!!」
自身の歯を血反吐と共に吐き捨てる。
カルディナールの姿が無い。
「逃がすか! てめぇだけはぁ!!!」
バキン!
鎧の胸部装甲を握力だけで引き剥がし、即席の凶器へと変える。
損傷の激しい鎧なら、無くても変わらない。
尖った破片を握り、まるで路地裏の暴漢のような――騎士としては恥ずべき姿だが、元よりアロイスはなりふりに構う男ではない。
そして、なりふり構う状況でも、心情でもない。
破片の先を向けての睥睨。
アロイスの闘志を再燃させたのは憤激だ。
ここで悪魔に逃げられ、野垂れ死ぬなどあってはならない。
「――……・・」
晴れかけた土煙に破片を向けた時、アロイスの手が止まる。
耳にしたのは薄い呼吸。
段々と慣れてきた。
これは、アポリーヌの詠唱だ。
一瞬、娘が生きていた事に緩みかける緊張は、即座に引き締め直された。
生きているはずがないのだ。
魔法隊によるあれだけの一斉攻撃の弾幕の中、生きているはずがない。
あるとすれば、魔法による防御に他ならないだろう。
ならば炎熱魔法を使うアポリーヌには難しい。
複数の属性を織り込んだ弾幕を吹き飛ばす程の炎熱魔法ならば、大規模な爆発を伴う。
それこそ、広場全体を瓦礫に変える程の物が必要だ。
勿論、そんな大規模な爆発は無かった。
「そこかぁ!!」
完全に土煙が晴れる前にアロイスは跳び出す。
前傾も前傾。
顎が地面を擦るのではないかと言うほどの低い姿勢で、研ぎ澄まされた矢の如く。
「せっかくの成功作なの。壊されちゃ、溜まったもんじゃないわ――」
カルディナールの姿が遠巻きの騎士隊にも視認できるようになった時、既にアロイスは破片を突き出していた。
アロイスが跳び出す前に、アポリーヌは詠唱をしていた。
それが広範囲の攻撃を可能とする魔法であるならば、余程の威力を持たない限りアロイスを止めることは出来ない。
ファイアボールの火球の様な射出する魔法ならば低姿勢で駆けた分、被弾する面積が小さい。
即ち、攻撃を外す可能性が高くある。
この時アロイスは、離れた距離にも関わらず破片を投擲しない方法で攻撃した。
もし、広範囲の炎熱魔法だった場合、投擲された破片は炎の吹き出す勢いで軌道を変えられ、標的へ命中しない可能性が高い。
土煙が晴れる前に突撃したのは、相手の使う魔法がファイアボールだった場合、相手からもアロイスの姿がよく見え、確実に当てられてしまうからだ。
雄叫びを上げたのも、相手が魔法に魔力を集中しきらない内に誤射させるため、と状況において最適な行動を取っていた。
それらは全てアロイスの本能によるもので、雷光が瞬く程の短い瞬間に考えた結果ではない。
ある程度の博打もあって、アロイスは頭上で火球をやり過ごしカルディナールへと迫る。
アロイスの背後で爆音が鳴る。
アロイスに足りなかったものは魔法の知識のみだ。
カルディナールは古代魔法を使う。
古代魔法は人間によって解明されていない魔法のことであり、その知識の無かったアロイスを誰が責められようか。
例えば魔法研究会の最高責任者でさえ、古代魔法については欠片ほどの知識しか無いというのに。
「喉首とった!」
ズブリ、とアポリーヌの前に立ちふさがるカルディナールに鋭利な刃と化した破片が突き刺さる。
ズブ、ズブブ。
切っ先は更にカルディナールの喉奥までめり込んだ。
だというのに、噴き出す血は無く。
骨を断ち切る感触がアロイスの手に伝わることも無かった。
スコップで粘土質の土を掘る手応えによく似た、素っ気ない手当たりが、アロイスが最後に知覚した感覚だった。
崩れ落ちる青海の鎧の背を見下ろして、カルディナールは可笑しくて笑った。
「クスクス……。厄介な人間だったけれど、あっさりと引っかかったわねぇ」
爪を頭蓋から引き抜き、頬を寄せるカルディナール。
その眼前にはアロイスに喉元を一突きにされた、同じ姿の悪魔がボロボロと崩れ去っていた。
ガストンとノエルを初めとした魔法隊は、何が起こったか分からないという様子で、その光景を見つめる。
カルディナールは確実にアロイスの一撃必殺の突きを受けた。
だが、どういうことだろう。
次の瞬間には、喉元を突き刺されて倒れるカルディナールの後ろから、もう一人、カルディナールが現れたのだ。
ドロリ、と泥の人形の様に溶け崩れてゆくカルディナールの後ろで、雨水と脳漿の混じった液体を舐めるもう一人のカルディナールが、魔法隊を見て言った。
「"デコイ"と言う魔法よ。覚えて置いて損はないわ。もう、使う必要も無さそうだけど」
獲物を狙う蛇のような粘っこい視線を向けられて、魔法隊は震え上がった。
一番隊隊長シャルル、"猛剣"アロイスというレイノ王国で、魔法と武で最強と言われる者たちが悉く倒されたのだ。
彼らは既に、死を待つだけの生き物に過ぎなかった。
「アポリーヌ、仕上げをお願いね。わたしは満足に楽しんだわ。もう、面白い人間もいないみたいだし、本隊に任せずとも貴女だけで十分よ」
「――…………」
バサリと翼を広げてカルディナールが飛び立つと同時に、広場は火の海へと変わった。