◇百十一 王都カピタール包囲戦③
「翼を持った人型の影……悪魔か!?」
王都を出て南下すると、すぐに小高い丘を一つ越えることになる。
その丘を超える騎乗で何気なく振り返ったカリナは、王都の空に予想だにしていなかった光景を見た。
分厚い雨雲で空は薄暗く、よく見ないと確認できないが、影が翼をはためかせて飛んでいる。
それがカリナの目には、鋭い槍を持った悪魔のシルエットに見えた。
ある者は様子を探るように空中で待機し、ある者は城壁内に滑空し、街に侵入していく。
共にいるベラとテオも、カリナの言葉にギョッとして身を縮こまらせた。
三人の護衛を受けているパウラも同様だ。
「王都の上空ですか? 確かに……何か飛んでいる……影のようなものが……って、よくあれが見えますね」
と、テオ。
「あんたは血を流しすぎて一時的に視力が低下してるのよ。私なら見えるわ。…………よく見えますね、カリナ様」
ベラも眉間にしわを寄せて目を凝らしているが、視認には至らないようだ。
パウラも振り返ってじっと王都を見つめるが、すぐに目を凝らすのを止めた。
「すみません。私もよく見えません。でも、確かに何かが王都の上を飛んでいるみたいですね」
「私の勘違い……か? なんだか不吉な予感がするが……」
三人が驚かない様子を見ると、カリナ自身も自分の見えたものが悪魔ではない様に思えてくる。
実際に青黒い肌や黒髪を見たわけではない。
違うと思えば違うようにも見えてくる。
「鳥の群れとかじゃないんでしょうか?」
パウラの率直な意見に納得させられてしまう。
こんなとんでもない土砂降りの日に、と違和感は残るが、悪魔軍の襲撃と考えるのも同じく違和感はある。
戦場に長年いたせいで、必要以上に悪魔軍に敏感になっているだけなのだろう。
「いや、すまない。見間違いかもしれん。私もそんなにハッキリと見えているわけではないのだ」
カリナは馬上で前に向き直り、先を急ぐ事にした。
丘を越えて街道を進み、二つほど町を通過すればアンジェロ伯領に入る。
そのアンジェロ伯領を縦断し、峡谷を越えればかつての神聖騎士団とアンジェロ伯軍の戦場だ。
その先に、目指す元神聖騎士団領がある。
そこまでパウラを逃がす、というのがカリナがパウラに約束したことだった。
団長室でベラに事情を話した後、テオと合流し四人で元神聖騎士団領へ向けて出発した。
カリナは、負傷者であるテオに同行を頼む事について渋ったが、ベラが「テオにも話を通すべきです」と言った事と、事情を聞いたテオが「是非、協力させてください」と申し出た事で、断りきれなかった。
しかし、長い間戦場にいたカリナは元神聖騎士団領への地理を忘れかけていたため、自分より若いベラと最年少のテオの同行は正直なところありがたかった。
「先を急ごう。丘を超えたら町がある……名前は何だったか……」
「ノトスという町ですよ。その次がカトの町ですね。雨の中を進むのは辛いですが、二つの町はそれ程遠くはありません。カトの町まで一気に進みたいところですね」
テオの捕捉。
「なおさら、急がなくてはな。パウラ殿には辛いかもしれんが大丈夫か?」
「ええ、問題ありません。私のわがままに巻き込んでいるのです。これ以上、迷惑は駆けられません」
ずぶ濡れの外套のフードを持ち上げて、パウラは強く笑って見せた。
◆
アポリーヌ達はあっという間に王城へとたどり着いた。
アロイスとシャルルは息を乱した様子はないが、アポリーヌは全力疾走をしながら複数の火球を維持するだけで、満身創痍になりそうだった。
王城自体は城に残っていた一番隊を始めとする精鋭騎士達が防戦をしていたおかげで、なんとか無事な状態のようだ。
しかし、上空からの滑空攻撃を主とする悪魔軍の戦法は、地を這って戦うしか無い騎士たちにとって戦いづらく、戦況を覆すには到らない。
アポリーヌ達も道中、幾体もの悪魔を倒した。
だが、悪魔軍の攻撃は止むことがなく、何者か、悪魔軍を指揮しているものを倒さない限り戦況は変わらないと言うのがシャルルの見解だ。
「一番隊の騎士は私の指揮下で、王都内に侵入した悪魔を駆逐しつつ、敵の指揮官を探す! 付いて来い!」
シャルルが号令を掛けて王城内の一番隊をまとめ上げ、再び街へと出て行った。
アロイスもその号令に従って同行していった。
アポリーヌは王城に取り残される事になる。
アロイスから「比較的安全な王城で待て」と釘を差されていたが、そんなつもりは毛頭ない。
「暗殺事件の犯人を……探す、か」
ふらふらと歩き出したアポリーヌは、静かに王城から出て行った。
未だに憎悪の炎はアポリーヌの中で燃え続けている。
炎は何かを燃やして生まれるものだ。
憎悪の炎とは比喩にすぎないが、それが何かを燃やして生まれるものならば。
燃えているのは理性に他ならないだろう。
騒乱の中を通りぬけ、アポリーヌは足の向くまま広場の噴水の前にやってきた。
マリーの首が見つかったという場所だ。
噴水の水は止まっているが、大雨で水が溢れている。
冷たい。
「こんな冷たい場所に……打ち捨てられて――――」
「あらあら、こんなところでどうしたの? 今日はひどい雨で寒いわよ」
不意に後ろから声を掛けられる。
女性の声だ。
艶めかしく、少々間延びしたような口調でアポリーヌを気遣っている。
アポリーヌは振り返る気力もないまま、背中の声に答える。
「……亡くなった友の事を考えていました。とても……辛い、死に方をした友の……」
「それはご愁傷様ね。けれど、貴女はこんなところにいて大丈夫なのかしら? 今、この都は大変なことになっているんじゃなくて?」
「大変なこと……ですか。私にはもう、何が大変なことなのかわかりません。友の死は私にとってその最も"大変なこと"だったのでしょう。今更何が起きようと……」
アポリーヌが振り返ると、黒い傘を差した如何にも妖艶な体つきの女性が立っていた。
顔は傘で隠れていて見えないが、声と体形から察するに相当な美人であることが伺える。
傘と同様に黒い、ピッタリとした法衣に身を包み、肩には深紅のケープを羽織っている。
「あなたこそ、早く避難した方がいい。王城なら安全です。ご案内しましょう」
王都が悪魔軍の襲撃を受けている。
そんな事実さえすぐに頭から離れてしまう程に理性を失い、疲労しきったアポリーヌはこの言葉を出すのに少し時間がかかった。
噴水の広間なんて開けた場所は、空から攻撃する悪魔軍の目につきやすい。
黒い傘の女性の安全を考えると、一刻も早く女性を避難させるべきだ。
「あらあら、優しいのねぇ。でも大丈夫。わたくし、そこらの悪魔達より強いのよ?」
そう言って、ゆっくりと傘を上げた女性の顔は、青黒い肌に血のように赤い眼だった。