◇十一 魔狼ブランカ
火傷の痕が痛む。
秋が唐突に別れを告げ、急激に冷え込んだ朝だった。
身体のあちこちにある古傷がじんじんと疼くが、取り分け激しい痛みを訴えるのは、顔の左半分から肩、左腕と続く大きな火傷の痕だ。
もう十年も前になるだろうか。
冬を迎える度に疼く醜い傷跡は、身体の痛みだけでなく、別の痛みも思い起こすようだ。
「部下にこんな姿は見せられないな……」
膝を抱えて背中を小さく丸め、痛みが通りすぎるのを待った。
白銀の鎧がカタカタと震える。
長く伸ばして火傷の痕を隠している前髪が、ひどく鬱陶しく感じてかきあげた。
頭の後ろで一つにまとめた金髪が揺れる。
しばらくうずくまって痛みが引くのを待つと、代わりに自信が満ちてくる。
自分はあの時とは違って、強くなった。
これから行う戦いで、勝てるかどうかは分からないが、自分はまだ死ぬ訳にはいかない。
十年前の遠征で、忽然と姿を消した三人を見つけるまでは――。
カリナは二十八歳になり、レイノ王国に降った神聖騎士団の騎士長を務めている。
十年前の遠征で大敗を喫した神聖騎士団は、例の王国軍に吸収されて、主に悪魔軍との戦いの前線に置かれている。
神聖騎士団という呼称は今では使われていない。
今は聖女もおらず、当時を知る殆どの者が過酷な戦いを生き抜けずに戦死し、残っているのは一小隊にも満たない程だ。
今、カリナが置かれている前線は神聖騎士団の生き残りと、レイノ王国出身の者で構成されている。
カリナは悪魔軍との熾烈な戦いを生き抜き、実戦の中で腕を磨き、周囲の兵たちを認めさせるに至った。
そして、前線を束ねる指揮官となり、自らの率いる隊の名を"神聖騎士団"と呼ばせるようにした。
もちろんこれは正式な名称ではない。
理由はただ一つ、行方不明のまま時は経ってしまったが、どこかでエミリオ、アマリア、セロの耳に神聖騎士団の名が届けば、いつか再び巡りあうことが出来るだろうと信じての事だ。
兄のエミリオにはひどい仕打ちを受けたが、今思い返せば異常事態の中でのことだ。
初めは恨みもしたが、時が経って考え方も変わった今では、ただ再開を望むのみとなった。
幼馴染の二人と実の兄の三人が、どこかで生きていてくれていることを、その中で誰か一人でもいい、再び会えることを支えにカリナは生きてきた。
「カリナ様、いらっしゃいますか? 騎士たちの準備が整いました」
カリナのいる天幕に部下の一人がそとから声をかける。
ゆっくりと立ち上がると緊迫した声を作って答えた。
「わかった。打って出るぞ」
戦地へと赴く覚悟を決めて、壁に立てかけた愛剣を握り外に出た。
何度味わってもこの感覚には慣れない。
相手は人間の常識の通用しない悪魔どもだ。
今回の戦いで命を落とす可能性だって十分にある。
今までだって運良く生き残れただけかもしれない。
恐怖がないわけではないが、カリナは今や騎士長だ。
多くの部下が過酷な悪魔との戦いを生き残った彼女の実力を認め、従っている。
彼らの命を預かっているという責任感で、恐怖をねじり消す。
「先手必勝だ。悪魔は攻めこむことには慣れているだろうが、防戦の経験はないはずだ。一気に畳み掛けるぞ」
己の不安を十分に隠せただろうか、そんなことを心配しながら部下の用意した馬に跨ると、精一杯手綱を引き絞った。
魔狼ブランカ。
十八熾将の一人であるその獣は、成人男性の二倍ほどもある真っ白な体毛に覆われた巨躯に鋭い牙と爪を持ち、狼特有の統制の取れた軍を指揮するうえ、嗅覚と聴覚も良いという非常に厄介な魔獣だ。
少し前にブランカの斥候部隊と思われる二足歩行の狼が神聖騎士団の野営にやってきた。
カリナのいた陣地に現れた狼をなんとか数匹を仕留めることに成功し、その臭いを全身に塗リつけることで神聖騎士団の奇襲は成り立っている。
嗅覚の鋭さによる防衛線をかいくぐらなければ、敵陣に近づくことも出来ない。
しかし、手に入れた狼の死体は少なく、神聖騎士団に少数精鋭での攻撃を強制させた。
まず、毛皮を被った数人で近づき、更に数匹の狼を仕留める。
その後に狼の血を塗りつけた部隊が加わる。
一度敵陣で狼の血を流さなければ、血で臭いを誤魔化した部隊は別の部隊に居場所がばれてしまうからだ。
カリナは毛皮を被った最初の部隊に参加するつもりだったが、それは部下たちに押し止められた。
代わりにカリナの次に腕のたつ者から順番に五名の騎士が作戦の皮切り役を務めることとなった。
当のカリナは第二陣、つまり狼の血を全身に施した部隊に身をおいている。
第一陣である毛皮の精鋭からの合図で戦線に加わる手筈だ。
第一陣の五名はカリナの信頼も厚く、彼女には劣るが長期にわたって最前線を生き抜いてきた猛者達だ。
まず、最年長のダグラスというレイノ王国出身の大男。
彼はその身体の大きさを活かし、一般的な例の王国軍に支給される剣より少し大ぶりの剣を振るって戦う戦士で、弓を使わせても神聖騎士団で右に出るものはいない。
元神聖騎士団領出身のテオという少年は、ダグラスとは対照的に小柄で腕力も他に劣るが、すばしっこい動きと剣術に多くの仲間が信頼を寄せている。
五人の中で唯一の女性であるベラは、カリナのひとつ年下の騎士で見習い時代からカリナに並ぶ成績を修めていた優秀な剣士だ。
彼女は細剣を好んで使い、他に投擲用の刃の暗器を鎧の隙間に隠し持ち、巧みにそれらを使って近距離と中距離の戦闘を有利に運ぶ。
次に馬上で斧槍を振るうことに長けたマウロが、敵陣までの雑兵の露払いを任せられている。
最後に長槍使いのキャスト。
彼は魔法の知識を少し修めていて、低練度ながら炎熱魔法を使うことが出来る。
ダグラス、テオ、ベラの三人を前衛として、マウロとキャストが後衛から援護する形で敵陣に突入し、第二陣の合流を促す。
それが、第一陣に与えられた任務だった。
「よし、好機だ。突っ込むぞ」
岩陰の向こうに鎧をつけた二足歩行の狼が六体。
それらの視線が死角を生んだ一瞬に、ダグラスは小さな声で呟いた。
声が掛かると同時に神聖騎士団の第一陣、五つの影が飛び出す。
必要最低限の物音と、夜の闇が彼らの位置情報を不可視にした。
狼の声が上がるより早く、三つの首が宙を舞う。
「ギャ!?」
続けて反射的に逃げ出そうとした残りの三体も、鶏を絞め殺すような短い断末魔を上げた。
虫の声ほどのそれは、直ぐに闇に呑まれて失せる。
迅速に五体の狼兵を排除した五人は、無言でその死体をバラバラに解体し、広範囲に渡って地面に撒いていく。
「合図は私が」
ベラは小さなランプを取り出すと進行方向に背中を向けて、後方にだけ明かりが見えるように振った。
「ここは終わりだ。次に行くぞ」
ダグラスの号令で第一陣は次の目標へと移動する。
狼兵の集団に遭遇する度にこれを繰り返し、少しずつ血の臭いを拡大して、第二陣の侵入を促すのだ。
「上手くいっているようね」
暗がりの中にちらつくランプの明かりを確認して、カリナが小さく呟く。
「第二陣。進軍を開始する」
自分の周囲に待機する騎士にだけ聞こえるように指示を出すと、その指示を聞いた騎士は、後方で待機している騎士に剣の鞘をコツンとぶつけて合図を送る。
合図を送った騎士は、無言のままゆっくりと歩みを進め始めた。
同じ合図が最後列まで届く頃には、カリナの率いる最前列は第一陣の最初の襲撃地点まで辿り着いていた。
ぶちまけられた狼兵の血肉は酷い臭いを放っているが、まだ他の地点の狼兵たちは奇襲に感づいてはいないらしい。
臭いに顔をしかめながらも、カリナは作戦が上手くいっていることに安心した。
十八熾将はその十八名の全てが悪魔軍を率いているわけではないが、その強さは凄まじい。
一対一では一般的な悪魔にでさえ人間が勝つことは難しいのだ。
その更に上の力を持つ十八熾将を討つというならば、神聖騎士団は少しの戦力も欠けること無く、敵将と相対しなければならない。
剣を握る手に力がこもる。
この先は死地だ。如何に腕のたつカリナと言えども、十八熾将相手ではどうなるかわからない。
ましてや、カリナより実力の劣る騎士たちは十八熾将と戦えば多くのものが命を落とすだろう。
ぎゅっと握った手は、震えを抑えつけるためだった。
◆
うっそりと背中を丸め、ボリボリと頭を掻く。
茶色い毛皮に覆われた身体はよくノミが付いてかゆいのだ。
狼兵は器用にノミを捕まえて指先で潰した。
そのまま、指先を鼻先に持って行くと不機嫌な唸り声をあげる。
「グルル……」
たった一匹の虫けらを潰したにしては、血の匂いがし過ぎると思って辺りを見回した時には、その狼兵の運命が決まった後だった。
腹から突き出した刃は心臓を貫いている。
焼いた鉄を押し付けたような熱さを感じた直後に、喉を潰されて悲鳴を上げることもなく、狼兵は絶命した。
仲間の一人が急に倒れたのを見て、驚いた別の狼兵が身構える。
ヒュンと風を切る音を耳にしたら、音を聞いていた筈の耳が飛んでいった。
音に反応して身をかがめていなければ、首が飛んでいっただろう。
続けて暗闇からチッっと舌打ちが聞こえて、狼兵は気がついた。
「敵シュウダ! ブランカ様に――」
二人目の狼兵の首が切り飛ばされる。
その直後、その場にいた狼兵の仲間が一斉に遠吠えをした。
「遂にバレちまったな」
暗がりの中で声がする。
「十分な成果は上げた。後は突っ込むしかあるまい」
今度は、最初とは別の位置から声が聞こえた。
狼兵が声の正体を探るより早く、五人の人影が姿を表す。
黒塗りの鎧に身を包み、その上に泥で汚された毛皮を被っている。
手に持つ武器も、刃が黒く塗られて、徹底的に金属光沢が隠蔽されていた。
狼兵達は同胞を殺された怒りに身を任せて飛びかかるが、次々と切り伏せられる。
「冷静さを失った獣は楽なものね」
ベラが呆れたように漏らすと、ダグラスがギロリと睨みつけた。
「馬鹿者。隙を突いた上に、五人いるから勝てているのだ。油断していれば殺されるぞ」
「すみません」
「ベラ、合図だ。敵に気づかれた事を伝えてくれ」
「わかりました」
今までとは違う揺らし方で、ベラは後方に向かってランプを振った。
「では、我々はこのまま増援を潰しましょう」
「うむ」
ダグラスとベラの会話に、テオ、キャスト、マウロの三人も頷く。
五人が、取り決めてあった陣形を取ると、直ぐに増援の狼兵が現れた。
臭いと闇に紛れているうちは良かったが、存在が認知されている以上、騎士達にとって不利な状況に変わっている。
狼兵達は獣ならではの俊敏さで一気に距離を詰める。
「間に合った! ――ファイアボール!」
密かに魔法の準備をしていたキャストが詠唱を終え、火球が先頭の狼兵の頭を砕いた。
「ヒヤヒヤさせるな! あんたの詠唱は遅いんだよ!」
マウロが斧槍を振るって後続の狼兵一体を切り伏せる。
その後も次々と襲いかかる狼兵を、五人は連携して屍へと変えていく。
悪魔軍相手に獅子奮迅の大活躍と言えるが、それも長くは続かない。
このまま攻撃が続けられれば、体力を消耗した五人はジリ貧になる。
「くっ!」
何体目かの狼兵を突き殺したところで、ベラが大きくバランスを崩した。
膝をついた彼女に飛びかかる爪を、テオが剣で弾き返す。
今度は前に出すぎたテオを庇って、マウロとキャストが武器を割りこませる。
突き出された槍と斧槍に怯んだ狼兵を、ダグラスの放った矢が撃ちぬく。
次は二体の狼兵が、マウロとキャストの武器を押さえつけた。
その狼兵をベラとテオが斬る。
ギリギリの攻防が続き、誰かが疲労で隙を作れば直ぐにそこから決壊してしまいそうだ。
五人ともが、どうやらもう保たないと思い始めた時、彼ら第一陣の役目が終わった。
「みな無事か!」
声は五人の後ろから聞こえたが、瞬く間に前方へと踊りだし、一度に三体もの狼兵を血祭りに上げた。
「騎士長殿!」
ダグラスが歓喜の声を上げる。
第二陣の合流が成った。
つまり、第二陣の布陣が終わり、狼兵どもは完全に包囲されたのだ。
「待たせた。一人も欠けていないな。ご苦労だ」
騎士長カリナは、血化粧で真っ赤に全身を濡らした姿で、鋭い目つきをして言った。
「包囲は済んだ。お前たちが多くの敵を惹きつけていたお陰だな。……他のものは先に進んでいる。我々は最後尾だ。いつでもブランカのいる本体を攻撃できるぞ」
「では、合図はもう出してしまっても?」
「そうだな。キャスト、頼む」
「わかりました」
キャストが上空に向けて、ファイアボールを放つ。
炎の明かりが夜の空に輝いて消えた。
離れた前方から剣撃の音が響き始める。
「私も行く。お前たちは少し休んでから来い」
カリナがそう言うと、ダグラス達はそれを断り、五人とも直ぐに戦う意志を示した。
カリナは彼らを休ませたかったが、その意志が固いことを悟ると、自分の援護としてついてくるように指示を出して走りだした。
魔狼ブランカのいる悪魔軍本隊へたどり着くと、カリナと第一陣の五人は信じられない光景を目にした。
転がる狼兵の死体。
距離を詰められず剣を構えたまま固まる騎士たち。
騎士たちに囲まれながら、暴れるブランカの巨躯。
そのブランカの周囲に舞うのは狼兵の千切れた肉片だ。
「なにが起こってるんだ……?」
キャストが呟くのも無理は無い。
敵本隊の狼兵を次々と殺戮しているのは、包囲した騎士たちではないのだ。
敵将であるはずのブランカ自身が、手下である狼兵たちを巨大な爪で切り裂き、顎で引きちぎり、また数体は踏み潰して殺していた。
作戦が巧くいき、上がっていた騎士たちの士気は、みるみるうちに失くなってしまっていた。
一通りの狼兵が死に絶えた時、ようやくブランカは口を開いた。
「まんまと侵入を許した愚か者どもは始末したよ。これを以って君たち人間への称賛としよう」
流暢な人語で話すブランカの態度は、騎士たちとは反対に堂々としていた。
異様だった。
味方であるはずの狼兵を虐殺してなお、落ち着いた雰囲気を纏う十八熾将の姿は、その巨躯からくる威圧感の他に、ただならぬ気配を感じさせる。
「……嘘だろ。あの魔物どもを……紙クズみてぇに……」
キャストは唇を震わせながら、かろうじて言葉を紡ぎだす。
ついさっきまで狼兵どもを、闇討ちながらも手玉に取り、このまま敵将も討ってしまえるという自信が生まれていたが、それは手のひらの砂を払いのけるように消えてしまった。
到底人間の手に負える怪物ではない、と。
「我を倒しに来たのではないのか? 君たちの奇襲は上手くいったのではないかね?」
ぎょろりとブランカの目玉が動き、周囲の騎士達の顔を順に見る。
視線を受けた騎士達はビクリと身を震わせていく。
「後は大将である我を倒せば、貴様らの作戦は成功……なのだろう? 先手をやるからかかってくるが良い」
ほくそ笑んで覗かせた牙を、裂けた頬から舌を出してベロリと舐める。
「……全軍聞け」
静まり返った戦場に落ち着いたカリナの声が木霊した。
「私が行く。皆は退いて増援と合流しろ」
カリナは敵将を見据えたまま、傍らに控える五人にだけ聞こえるように続けた。
「ダグラス、王国に増援の申請を頼む。可能な限り早く、多くの兵が必要だ」
「わかりました。伝令を走らせます。だが、私も戦います」
カリナがダグラスに視線を移すと、ダグラスの他、キャスト、ベラ、テオ、マウロも覚悟を決めた眼差しで答えた。
「すまない。援護を頼む。だが、無理はするな。危険を感じたら直ぐに退け」
再びブランカの方を見ると、白狼の巨獣は退屈そうに首をぽきぽきと鳴らしている。
「待たせたな。私とこの五人が相手だ」
「構わん。他のものは見逃してやろう。さっさと帰るが良い」
ブランカはぐるると喉を鳴らしながら答えた。
「君は指揮官だろう? この中では最も腕も立ちそうだ……お楽しみにはもってこいではないか」
カリナを指差して投げかけたブランカの言葉に、ベラが眉を潜める。
「私らは眼中になし……か、流石にカチンと来るね」
「全くだ。少しは骨があるところを見せてやろう」
ベラの独り言に答えたのは、マウロだ。
第一陣を務めた五人に力がこもる。
それを感じ取ったのか、カリナはゆっくりと大きく頷くと、息を吸い込んで号令をかけた。
「第二陣以降は退却開始! ――第一陣は私に続け!」
ブランカの周囲を取り囲んでいた騎士達は号令を聞くや、踵を返して駆け出す。
逃げ帰る有象無象には、まるで興味が無いようにブランカは自分に向かって突進する一人の騎士のみを見据える。
「敵は強い! 指示は期待するな! 各々自分の判断で行動せよ!」
愛剣の放つ銀色の輝きをたなびかせ、一直線に喉元を狙う。
カリナはまさに神速といった速さで標的までの距離を縮めていく。
まずは一撃。
人間を格下と見る十八熾将は、必ず初撃は避けずに受けるだろうという直感から、無心に全力の一撃を叩き込もうとする。
キャストは魔法の詠唱を、ダグラスは弓を構えて隙を狙い、ベラとテオは両翼からカリナの援護を行うべく回りこむ。
マウロは斧槍の長さを活かしてカリナの真後ろに付き、多段攻撃を示唆する。
「ほう。やはり他の木偶とは動きが違うようだ」
ブランカが感嘆の台詞を聞いた直後、カリナは強い向かい風を受けて目を細めた。
そして、続いて巻き起こった追い風に身体のバランスを崩しそうになる。
「くっ! ――な!?」
まっすぐと捉えていたはずのブランカの姿が無くなっていた。
両翼から距離を詰めていたベラとテオも、目標を失って立ち止まる。
「消え――」
周囲を見渡そうと振り返ったカリナは、全身の毛穴が縮こまるのを感じた。
彼ら六人の一番後方で、魔法の詠唱をしていたはずのキャストの頭が無い。
そして、キャストの数歩分前で弓を構えていたダグラスの胸元から真っ黒な爪が突き出していた。
「速度は、まぁまぁと言ったところだが、所詮は人間か」
ダグラスの身体を貫いた爪の持ち主、ブランカはつまらなそうに、そして少し残念そうにこぼす。
「テオ、ベラ、マウロ。逃げなさい」
カリナはブランカの圧倒的な強さを目の当たりにし、即座に退却の指示を出した。
これは戦いではない。
十八熾将とは、これほどまでに人間の手の及ばない力を持つのか。
恐怖よりも諦めが先立つ。
「時間を稼げるとは思えないけど、とにかく逃げて」
ギリリと愛剣の柄を握る手に力を込める。
そうしないと、震えで落としてしまいそうなのだ。
「待とう」
右手を振り払って、ダグラスの身体から爪を引き抜くと、魔狼ブランカは遠くを眺めるように目を細めた。
転がったダグラスの身体は胸の中央から腹にまで至るほどの大きな穴が開いていて、声も出せずに絶命したことが分かった。
頭を失ったキャストも続いてどしゃりと崩れる。
「わ、我々に、カリナ様を置いて逃げろというのですか!」
声を荒げるマウロの手はガクガクと震えていた。
「そうよ。死ぬだけだわ」
段々と言葉遣いを取り繕う事も忘れている。
カリナも自らの恐怖を押し殺すのに精一杯なのだ。
十八熾将という存在を甘く見ていた。
そんな後悔がカリナの心を支配する。
今までカリナが戦った悪魔達は、確かに強かったがカリナ個人より強いものはいなかった。
それに訓練を受けた騎士なら、多勢で攻めればなんとかなって来たのも事実だ。
"将"と言えども、その力が今までの経験の遥か上にあるとは思ってもいなかった。
つまるところ自分と戦えば互角かそのくらいだと考えていたのだ。
「待ってくれるそうよ。早く逃げて」
目を見開いたまま固まっていたテオは、二度目の指示でようやく我に返ったのか、カタカタと震えか頷きか分からない動きをして後ずさった。
「話し合いは手短にな」
焦れたのか、ブランカはどかりと乱暴に地面に座り込む。
「……余裕振りやがって……!」
その態度に腹を立てたマウロが斧槍を据えて駆けた。
瞬殺されたキャストとダグラスを除くと、最も後方に位置していたのはマウロである。
即ちブランカが後ろに回った今、最も至近距離での攻撃が可能な上、彼の操る斧槍は攻撃の射程が長い。
完全に虚を付けば、如何に高速で躱そうとも一太刀は浴びせられる。
斧槍による射程の長さを存分に活かした刺突は、瞬時に繰り出され座り込んだブランカの胸を捉える。
「――マウロ!」
咄嗟に叫んだカリナの声に反応して、マウロが身を捩る。
攻撃の軸はずれてしまったが、そもそも攻撃はその体をなさなかった。
マウロの右腕は斧槍を握ったままヒュンヒュンと回転し、身体とは離れた場所に落ちた。
「うああああ!?」
激痛に叫び声を上げて、右肩を掴みながらマウロがうずくまる。
「なんてこと!」
身悶えるマウロの元にカリナが駆け寄り、背中に手を置く。
右腕が根本からちぎれて、早まった心臓の鼓動に合わせてどぷどぷと血を噴き出している。
「腕……腕がぁ!」
「静かにしないか」
ぞぶり、ぽきぽきぽき。
マウロの背中に置いた手から、そんな振動が伝わる。
「ひっ……」
短い悲鳴が漏れた。
うずくまったマウロの脳天から長い爪が差し込まれ、背骨を砕いてめり込んでいた。
カリナの顔に息のかかるほど近くに、巨大な白い狼の顔があった。
「後ろの二人も逃げないのか?」
金縛りにあったように動かないカリナを無視して、ブランカはベラとテオに質問した。
マウロが駆け出した時に呼応し、細剣を構えていたベラは、その時の格好のまま時間が止まったように動かない。
後ずさりをしていたテオは、今や尻もちをついて震えている。
「……十八熾将、魔狼ブランカ。お願いがあります」
カリナは震えで歯がなるのを堪えながら提案した。
どちらにしろ、自分は殺されるだろう。
ならば、可能性は低くとも、言って見るに越したことはない。
カリナは自分の気が狂ってしまったのかと疑うほどに冷静になりつつあった。
恐怖からの震えはあるが、何故か言葉はまともに出てきた。
あまりの出来事に、感覚が麻痺してしまっているのだろうかとも思えた。
「なんだ?」
「場所を移して、私と戦いませんか?」
それを聞いて、魔狼は初めて驚いたような表情を見せる。
「ほう。確かにそのほうがてっとり早い。……捕まれ」
ブランカは血で濡れていない左手を差し出す。
それを見てカリナはまた一つ、ブランカの規格外の強さを思い知った。
キャストとダグラス、マウロ、多くの狼兵たち、その全てが右腕一本で虐殺されていたのだ。
死刑台に昇るような思いで、その左手を取る。
このまま力を込められれば自分の身体は貫かれるか、はたまた握りつぶされるか。
嫌な想像がよぎるが考えても仕方がない。
自分が死ぬということを、覚悟していれば案外に人は落ち着いて居られるものだと、カリナは思った。
「では、行こう」
しゃがみこんだ姿勢から、更に巨躯を縮こませると、ブランカはカリナを抱えて一息に跳んだ。