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短編小説

砂の上の麦わら帽子

「君がこれまでに書いた事は」

 と男が僕に言った。男はどこかで見た事のあるような風貌だった。彼は何故か麦わら帽子をかぶっていた。今、そんなものをかぶっているのは狂人くらいのものだ。

 「全て、君自身の人生に対する言い訳と定義する事ができる。君はずっと、自分自身に言い訳していたんだよ。それは、わかるかね?」

 男は僕にそう言った。そこは風の吹く砂丘で、まるでこの世ではない、どこか違う次元の惑星であるかのようだった。

 「そうですかね」

 と僕は気のない返事をした。

 「そんなつもりはないんですが」

 「君がそんなつもりがなくても」

 と男は帽子を風に飛ばされないように押さえながら言った。その声はさっきよりうわずっていた。

 「実際にそうなのさ。君はね、自分という存在ーーその壁に向かって飽くところなくボールをぶつけていたようなものだ。まるで少年が壁にボールを投げ続けるように。君はそうやって、自分自身をいたぶる事を楽しみにしていた。君は確かに…誰かに助けてもらいたかった。だから君はよく、文章の中で嘆いたり、助けを求めたりした。しかし、君はいつも、実際に誰かが助けにやってくると、すぐにその手を払いのけてしまった。そしてまた君は壁に向かってボールを投げ続ける。君の嘆きはどこまでも続く。この世の終わりまで」

 「ルソーも」

 と僕は言った。

 「そんな人間ですね。彼も、人が嫌いでした。でも、人類を愛していました。そしてその齟齬が『一般意志』とか、『自然』とかいう哲学に現れたんでしょうね。カントは生涯独身だったそうですが、でも、カントの生み出した哲学は、多くの子孫を生んだとも言えます。つまりーーカント以降の哲学者は皆、できのいいのもできの悪いのも含めて、カントの子供みたいなものですからね」

 僕がそう言うと、男はこれみよがしに「はあ」と深くため息をついてみせた。そして、言った。

 「私が言っているのは、今のその戯言だよ。君のその戯言ーーその哲学的な戯言、それこそが君の人生を曇らせ、君という人間を間違った方向に導いてきたのだ。いいか、君は何を知っている? 君は『自分が何を知らないか』を告白する事によって、知っている事の代用としようとしている。思えばニーチェのした事もそんな事だ。だが、君にしろ、ニーチェにしろ、君達は根底的に間違っているのだよ。君達は、まず、この世界で幸福となる事を目指すべきなのだ。君達の目指した事は不幸だ。いや、違うな。君達の目指している事は、『不幸を嘆く事』だ。それは今の一部の連中が、嫉妬する事を自分の運命と感じているのと変わらない。彼らは永遠に他人を呪詛し続ける連中だ。彼らは魂の底から不幸だから、いつもいつも『自分は幸福だ』と喚いていないと気がすまないのだよ。…君に、よく似ているな」

 そう言うと男は帽子のつばを押さえながら、遠い目で、風の吹いてくる方角を見つめた。その方向に何があるのかはわからなかったが、もしかしたら、僕には見えない、男にしか見えていないものが存在していたのかもしれない。

 僕は男の顔をはっきりと見定めようとした。しかし男の顔はどうしても陰になって見えなかった。僕は男の顔から目を逸らした。

 「でもねえ、どうしようもないんですよ」

 と僕は言った。僕としては投げやりな気持ちになっていた。

 「どうしようもない。自分というのはなかなか変わらないし、それにそれだって運命の一つじゃないですか? 僕は自分なり努力してきたし、考えもした。僕の人生の最後に、くだらない死があるって事はわかっています。でもだからと言って、どうすればいいんですか? 僕は過去を振り返るにも、未来を見るにも、すぐに悪い事ばかりが思い浮かぶんですよ。良い事はまず思い浮かばない。他人という他人はいつも、僕を攻撃しようと身構えているように見える。例え、他人が無垢な存在だとしても、それはまだ汚れる前の存在であってーーつまり、全ては汚れるんですよ。そして全ては死ぬ」

 「君の言い方をたどると」

 と男が言った。不思議な事だが、男の姿は足元から、少しずつ消えかかっているようだった。

 「全てのものの先に死があるという事になる。君はまた間違いを犯しているな。君がいつもやる間違いだ。君はダーウィニズムと全く同じ間違いをしている。ただし、その方向は逆だがね。君は全てを未来の死の範疇に入れて、現在と過去を消し去ってしまう。そしてダーウィニズムは、発生と進歩の理論の中に個別的存在を入り込んで、全てわかったかのような顔をする。生物学者共が何を言うかはしらんが、彼らよりも、神の存在を頭上に感じていた古代人の方が遥かに賢かったという事になるのかな。…いや、しかし、古代人もまた、神の中に全てを溶かし込ましている点で、変わらない。つまり、そうやって多様で変化しているあらゆるものを無理矢理一つの理念の中に溶かしこんで、安心しようとするーーそれは君達人間がずっとやってきた思考上の慣習なんだよ。では、それを批判したニーチェは何をしたか? …何もしなかった。彼はただ、間違いを暴いただけなんだよ。なにせ、あらゆる真理を否定した以上、自分が新たな真理を提出するのは滑稽だからね。だから、君は君が嫌悪しているものと同じように間違っているのだよ。君は今生きている。これが全てだ。もちろん、君は死ぬがね。だが、君だけにこっそり教えてあげるなら、君が死の観念を持つ事は悪い事ではないよ。ただ、その死の観念を生の為に生かす事ができれば、の話だがね」

 「『生の哲学』というやつですか」

 と僕は言った。男は

 「そんなんじゃない。君の人生、君の今のあり方についての話だ」

 と言った。

 男はそれなり沈黙した。僕も黙った。二人の間を沈黙が支配した。そしてその間、風で砂が流れる音がした。全ては砂でありーー人間的世界は、僕と男の他にはちっとも見えなかった。そして男は不思議な事に、足元から少しずつ消えていこうとしていた。

 僕としては男が消えようと消えまいと、どうでもいい事だった。しかし、男がいなくなると、僕が寂しい気持ちになる事は確かだった。しかし、それでも、男がいるよりはいない方がマシだろう。僕はそう思った。

 「君は」

 と男が沈黙を破って言った。男はもう上半身だけになっていた。相変わらず麦わら帽子を手で押さえていたが。

 「自分が何をしているか、自分が何を間違えているか、もう十分に理解している。君にあと一つ足りないのはーー『愛』だ。この意味がわかるかね? 確かに、君は両親から愛されなかった。人はその生涯を、生涯の最初に受け取ったものを反復して暮らす。大抵の人間はそんなものだ。しかし、君は誰からも愛されなかった故に、誰かを愛さなければならない。そしてそれは人類ではなく、個別的な誰かだ。君はこの意味がわかるかね? 君の目の前にいる人々は決して、『人類』ではない。それは愚かで弱々しい個人なのだよ。しかし、人々は、その事を感じているが故に組織に、集団に逃げ込む。だが、君の愛は個別的であるべきだ。だから、君はーーーいいか。君は『誰か』を愛さなければならない。そしてその為には、まず自分を愛さなければならない。しかし、君達の世界で、自分を愛するというのは極めて難しい事だ。誰も彼もが、自分の不完全さにコンプレックスを抱いて生きている。彼らは様々なメディアによって『完全』を散々に見ている為に、自分が不完全だと否応なく思い込まざるを得ないのだ。しかし、彼らは根底的に自分というものを勘違いして生きている。完全な個人などこの世には存在しない。彼らは完全と不完全の意味そのものについて間違った観念を抱いている。ーーいいか、君。真実は、決して前方にあるのではない。それは『背後』にあるのだ。君は自分の裸身を見た時に、おそらくこの世界の真理を知る事になるだろう。そして、それにはまず、君が君を愛する事だ。そしてそれが直接、他人を愛する事になる。いいか、君が生きているのは、『今ここ』だ。君は、人間だ。いかに君が人間を嫌悪しようと、いかに君が人々にマシンガンをばらまこうと、それでも君は一人の人間なのだよ。例え、人々が認めなくとも、君は今ここに生きている一人の人間だ。定義は関係ない。定義などどうでもいい。いいか、君はーーーーー」

 しかし男はそれ以上言葉を続けられなかった。その時、男の消滅は男の顔にまで達したからだ。言葉は吐かれず、そして麦わら帽子だけが残った。帽子は音も経てず、砂の上に落ちた。

 僕は男の説教を面倒だと思いながら聞いていた。なんだよ、あいつは、と腹が煮えくり返ってもいた。しかし、その後、僕が取った行動は変なものだった。自分で後から考えても、妙な行動だったと思う。僕は落ちた帽子を拾い上げ、それを自分の頭に載せたのだ。

 そしてそれはおそろしいくらいによく似合っていた。真夏にTシャツではしゃいでいる少年がかぶる以上によく似合っていた。鏡がなくても、それくらいの事はわかる。

 そしてその時、風が一陣、ゴウッという音と共にひときわ強く吹いた。僕は風に巻かれた。砂で、視界が曇った。全てが一瞬見えなくなった。そうして、僕も消えた。



                             ※


 目が覚めると、僕は男の事は忘れていた。しかし、説教されたという事だけは感触として残っていた。そしてもう一つーーー僕は頭の上に手を置き、そして、

 「ない」

 と言ったのだった。現実に目覚めた僕の頭に、どこやらの麦わら帽子はもう存在しなかった。

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[一言] 自分を愛するとは自分に満足している状態でしょうか
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