違和感の正体
お母さんが私に手をあげるようになったのはいつからだっただろう。
普段はとても優しいのに、気づくと怒鳴られ、叩かれていた。私は何が悪いか分からないまま必死に謝る。
そう、何が悪いのか分からなかったのだ。
お手伝いをしないから、テストの点が悪かったから、お風呂に早く入らないから・・・お母さんが怒鳴り出すのはそんな時じゃなかった。私はだんだん、お母さんの機嫌を取ることが第一優先になっていた。
お母さんが死んだと知ったとき、私が良い子にしていなかったから居なくなったのかとずっと泣いていた。お父さんが、お母さんは事故で死んだから、玲奈のせいなんかじゃない、とずっと言い聞かせて抱きしめてくれていた。
夢に出てくるお母さんはいつも怒っていた。けれど、嫌な記憶に蓋をするように、だんだん自分でも忘れていく。そして、お母さんとの楽しかった記憶だけが鮮明に残されていた。
黒島家の記憶も、私が勝手に美化しているのだろうか。
紗知の、記憶も。
頭がキンキンと痛かった。お母さんに叩かれる映像がフラッシュバックしたまま離れない。
あの歌を聞いて、紗知や勇人との思い出が蘇ってきたなら分かる。何で、この記憶が溢れてくるのか分からない。
健康が取り柄の私が、初めて学校を早退した。
そっと玄関の鍵を開けて家に入る。お父さんは仕事なのは分かっていたが、おばあちゃんも見当たらない。カレンダーを見ると今日の日付の所にフラワーと書いてあって、最近おばあちゃんが知り合いの勧めでフラワーアレンジメントを始めたことを思い出す。リビングのテーブルの上にも、この間の体験教室で作ったと言っていた小ぶりな向日葵が飾られていた。
私はテーブルの横にある引き出しから頭痛薬を1錠取り出した。キッチンに行き食器乾燥機に置いてあるコップに水を注いで薬と一緒に飲む。
そのまま私はお父さんの寝室に向かった。
ドアを開けて部屋を見渡す。お父さんの部屋にしっかりと入るのは久しぶりだった。きれいだが、整頓されているというより物が少ない。ベッドと、書斎スペースがあってデスクトップのパソコンが置いてある。パソコンの横には親子3人の写真。私の9歳の誕生日、家族でディズニーランドへ行った時の写真だ。
お母さんの数少ない遺品がお父さんの部屋にあることを知っていた。
こんな泥棒みたいなこと本当は気が引けるが、お父さんはお母さんや黒島の人間について私が記憶を辿ってると知ったら良くは思わないだろう。頭痛はまだ止みそうになかったが、時間もどれくらいかかるか分からなかったので私は早速クローゼットを開けた。お父さんのスーツやジャケットがかかっていて、その下には洋服や下着類などが入った黒のボックスが3つ並んでいる。上を見上げると棚があって、ダンボール箱が2つ並んでいた。多分あの中に、お母さんの遺品がある。背伸びをしても到底届かないので、お父さんの書斎の椅子に上ろうと思ったが、キャスター付きだったので自分の部屋から椅子を持ってくる。椅子に上ってようやくダンボール箱を下ろすことができた。
2つの箱を下ろし終わってざっと中身を見る
最初に見た箱はお父さんのものと思われる書物や卒業アルバムが入っているだけだった。もう1つの箱を開けると和紙のようなものが入っていたので、めくってみると見覚えのある浴衣が出てきた。
白地に藍色で牡丹と菊が描かれているそれは、毎年夏祭りのときお母さんが着ていてとてもよく似合っていた。将来、この浴衣が似合うようになりたいと密かに思っていたことを思い出す。
浴衣をめくると、A4サイズの紙製の箱が出てきたのでそっと取り出して開けてみる。飛び込んできたのは子供の字だった。
『おかさん たんじょうび おめでとう』
文字の下にはホールケーキとロウソクの絵が描かれている。
いつだったか、お母さんの誕生日にプレゼントしたバースデーカードだ。
カーネーションを押し花にした栞があって、裏返すとクレヨンで『いつもありがとう』と書かれていた。幼稚園か何かで作った母の日のプレゼントだろう。
どれも、お母さんが一人娘の成長を喜びながら大切に大切に保管してくれていたことが伝わってくる。
そんな私からお母さんに宛てたプレゼントばかり入った箱の一番下に、2つ折にされた画用紙があった。これも手紙か何かと思い、何気なく広げてみる。
「これ……」
一面に描かれた星空とそれを見る人
あの、夢に出てきた絵日記だ。
『8月15日
今日はおばあちゃんちでお祭りがありました。
ゆかたを着ておどりました。
夜は勇人と山をたんけんしました。
流れ星をみつけました。
とてもきれいでした。』
え?
とてつもない違和感が私を襲う。何かがおかしい。紛れもなく自分で書いた日記なのに。
ふと、星空を見る2人に目をやる。緑のTシャツと青の短パンを履いた髪の短い男の子と、水色のワンピースを着たおかっぱ頭――これは多分、勇人と私だ。
私の隣がやけにしっかり黒で塗りつぶされていて注視する。ほとんど塗りつぶされた黒の向こう側に、肌色が見えた。
どくん。
心臓が波打つ。
私が祭りの日の夜冒険した記憶。流れ星を見つけたあの日。
悪夢で何度も見た絵日記に描かれた人は2人だけなんかじゃなかった筈だ。
耳の上で束ねられた漆黒のロングヘア、山のどこまでも届きそうな伸びのある声。
そう、あの歌声を、あの夜も聴いていた。
私は目の前の絵日記を眺める。でもこれは、恐らく私自身の手で塗りつぶしたのだ。
黒く、その存在を消すかのように。