遺書
親が自殺や他殺された場合、まだ小学生の子供に死因を隠すのは珍しくないだろうことは分かる。それ以上に、お母さんの家系の話に衝撃を受けた。毎年のように夏休みは親戚の集まりに出かけていたから、お母さんと親戚の間にそんな確執があったなんて、想像すら出来なかった。
「それでも、お父さんとお母さんは結婚したんだよね?」
「うん。黒島家からしたら苗字を変えている時点で、駆け落ちも同然だろうね」
「でも、玲奈が生まれてから、母さんは夏は必ず黒島家に行くようになった。やっぱり母親になると、孫の顔を見せたいんだろうな、って安易に考えてたんだ」
「考えてたって・・・別の理由があったの?」
「分からない。はっきり聞いたことはなかった。黒島家のことを詳しく聞いたのは入籍前の1度きり。それ以上、母さんは頑なに語ろうとはしなかった」
そう言って、お父さんは一度話を区切ると、前置きが長くなったね、と言って先ほどからずっと握り締めていた便箋を私に渡した。
私は戸惑いながら便箋を受け取る。少し黄ばんだ1枚の紙は、ただ横に線が引かれただけのシンプルなものだった。見覚えのある、丁寧なお母さんの字が並んでいる。ところどころシワが出来ていてあまり綺麗な状態とは言えなかった。私はお父さんを見上げると、お父さんは目線を合わせて無言で頷いた。
これ以上何があるのか本当は怖かったが、いつも優しいお父さんが真剣な表情をしているから、向き合わなきゃいけない使命感のようなものも感じていた。
私は目線を下げ、その手紙を読んだ。
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涼平 ごめんなさい。
玲奈を 守っていってやってください。
諦めなければならなかったのに
それが出来なかった 私の責任です。
今までありがとう
少しの間だけだったけど
夢をみることができて
私は本当に 幸せでした。
有川 香葉子
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「これって……」
私は視線をお父さんに戻そうと上に上げた。私の垂れた頭をずっと見つめていたのだろう、瞬時にお父さんの色素の薄い瞳とかち合う。
「母さんの、遺書だ」
遺書、という言葉を聞いた途端、もう受け止めたと思っていた絶対的な存在の死を改めて実感する。鼻の奥がつんとして、思わずまた目線を下げた。そこでようやく、私が握っている手紙に無数にできているシミは涙の跡だということに気づく。
「それは?」お父さんの手元に置かれているキャンパスノートを指差す。これも、この手紙と一緒に封筒から出てきたのを見ていた。お母さんからのメッセージかもしれない。
「これは、父さんが母さんから直接預かったものだ」お父さんが差し出したノートを手に取る。ラベンダーカラーの表紙は、少し色あせていたが、大切に保管されていたという印象を持たせた。ドキドキしながら最初のページをめくる。そのままパラパラと最後のページまでめくってみたが、どのページにも何も書かれていなかった。ノートにもともとある横掛線が7mm間隔で、規則正しく並んでいるだけだった。
最後の遺品として、お父さんに何も書かれていないノートを渡したお母さん。お父さんも本意は分からないらしい。お父さんは遺書とノートを先ほどの封筒に戻す。封をすると、どっからどう見てもお父さんの勤務先の重要書類にしか見えない。ここまでして守るほどのものなのか、私には分からなかった。
「母さんが諦めなければならなかったこと、玲奈は何だと思う?」
父さんが封筒を自分のビジネスバッグに仕舞いながら聞いてきた。
遺書の内容のことだ、と気づくまで少し時間がかかる。
「えっと……」
お母さんが、諦めなければならなかったこと、ダメだと分かっていながらやってしまったこと。それがお母さんの死に繋がっていることなのだろうか。何に対しての責任が、そこまで追い詰めたのか。
「父さんも確信がある訳じゃないんだけど、聞いてくれるかな」
そう前置きがあって、お父さんは続けた。
「母さんは、黒島家を出てから、更に父さんと結婚してから苗字も変わって、黒島家からしたら許されざる存在だったんだ。それが、母さんが玲奈が生まれてから実家に顔を出すようになってる。とうとう最後まで、父さんを長野の実家に連れて行ってくれることはなかった。母さんを何度も説得したし、喧嘩した時もあったけど、そこだけはどうしても譲ってくれなかった。他の血は入れない、って。もしかしたら父さんに何か隠していたのかもしれない。もしくは」
そこでお父さんは一度言葉を切った。
「もしくは、黒島家に脅されていたのかもしれない」
「お母さんの親戚が、お母さんを……?何で?」
両親の馴れ初めから駆け落ちまで一気に知らされ、更には遺書まで出てきて、頭の整理が到底出来ていなかったのは事実だ。けれど、どうしても話の中に出てきた異質な黒島家と、私が昔遊んでいた親戚達が重ならない。更には脅されていたって、どういうことなのか分からなかった。
「分からない。本当は父さんも徹底的に調べようと思ったんだ。けど、それは出来ない」
「どうして?」
「母さんの、願いなんだ」
お父さんの手がこちらに伸びる。いつの間にか握り締めていた私の拳が優しく包まれた。
「このノートを渡されたとき、いやもっと前から、玲奈と黒島家が近づかないようにしてほしい、玲奈を守って欲しい、そう言われてきた。黒島家に近づくことで、玲奈までも母さんの二の舞になって欲しくないんだ」
私は、ただ頷くしか出来なかった。
お母さんが亡くなったのは10年前、長野に行ったのもその前の年の夏が最後だ。
お母さんの死と自分の親戚にこんな疑惑が残されたままこんなにも長い年月が過ぎているなんて。
お父さんが背負っている十字架
私が抱えなければならないもの
そのどちらもピンとは来なくて。
お父さんはああ言うけれど、恐怖よりお母さんの死の真実がうやむやなままなことの方が気がかりだった。けれど、何も行動が出来ないまま2年以上の月日が流れる。