音の訪れ
1週間ほど前に梅雨明け宣言があった。
一気に夏らしくなった気候は、高校生活最後の夏休み目前である私たちの興奮を後押しする。
テスト明けで学校が早く終わり、友達の茉莉と夏のセール品を買いに来た帰り道。
駅前のスクランブル交差点。
信号待ちの間にも、太陽がじりじりと半袖のブラウスから出た腕を焦がす。
「ねぇ玲奈!さっき言ってた夏フェスあれ!!一緒に行こうよ!!」
茉莉がそう言って指さした先、左斜め上にある大型スクリーンにはアイドルグループやモデルなどが並び、8月下旬に行われる大型フェスの宣伝が映し出されていた。
「わぁ、出演者豪華だね!!行く行く!」
「チケット、ネットから取れたと思うんだけど……」
スマホを取り出して調べ始めた茉莉の方を向こうとしたとき、スクリーンの映像が別のCMに切り替わる。流れてきた透明感のある歌声に引き込まれるように、私は一度離れかけた目線を再びスクリーンに戻した。歌手が画面に写っている訳ではない。頭の中が引っ張られるような、えぐられるような、けれど心地いい感覚が一瞬にして身体を包み込んだ。
歩行者用の信号が青に変わる。一斉に人の波が動き出す。
「玲奈?」
人の流れに反して、その場に立ちすくむ私に、2・3歩進んだ茉莉が振り返って声をかける。ごめん、と呟いて慌てて追いかける。
「あのさ、これって何の曲だっけ?」
「え?」
「今スクリーンで流れてる曲!」
「えーっと……」茉莉は歩きながらスクリーンを振り返った。しかしすぐにCMは終わってしまう。「聞いたことない、と思う。メロディーは聞こえてたけど、聞き覚えなかったからスルーしちゃった。玲奈知ってるの?」
終わったはずのCM曲の続きが、脳内で反芻する。何でこの曲がこんなに引っかかるのか。続きが出てくるくらいだ、私はこの曲を知っている、しかもかなり聴き込んでいるはずだ。なのに題名はおろか歌手の名前さえも浮かんでこない。
「知ってるはずなんだけど・・忘れちゃって」
「でもほんと綺麗な声だったよね。思い出したら教えて。私も聴きたい!」
茉莉はトレンドに敏感でお洒落な、私の自慢の友達だ。ファッションも音楽もメイクも、私も疎いほうじゃないはずなのに大体情報を先に仕入れてくるのは茉莉だった。また好きな音楽の系統も似ていたため、CDの貸し借りは当たり前に行っていた。だから、CMに使われるような曲で私がよく知っていて、茉莉が聴いたことない曲なんて珍しい。
「やばい!」茉莉がスマホを見るなり慌て出す。
「もうすぐバイトの時間だから私もう行くね!また明日!!」言うか言い終わらないうちに茉莉は駆け出し、目の前の改札口に向かう。
「うん!また明日ねー!!」私が手を振ると、茉莉も少し振り向いて笑った。
本当は、私もすぐ電車に乗るはずなんだけど。
どうしてもさっきの曲が頭を離れない。最初のフレーズを聴いた瞬間から、鼓動が落ち着かないままだった。
スマホを取り出し、入っている曲の一覧を見る。どの題名を見てもピンと来ない。そもそもどのアーティスト名を見ても、あの歌声とリンクしない。
どこかでCMを見た記憶が残っているだけなのかも、と思いすぐに歌の続きを知っていることを思い出す。
しばらくの間、スクリーンが見える位置で同じCMが流れるのを待ったがなかなか出てこない。
スマホにも入っていない、茉莉も知らない・・・
「もしかして、昔の曲なのかな」
お母さんが聴いていた曲の記憶に思いを馳せる。
―――刹那。
耳の上で束ねられた漆黒のロングヘア、山のどこまでも届きそうな伸びのある声、ふとした周りの出来事を音楽に変えてしまう、遠い記憶の美しい少女が、歌いだした。
「……紗知の、歌だ……」
間違いない。この声は紗知のものだ。小さい頃、おばあちゃんの家に行った時に歌っていた、あの曲だ。
なんですぐ気付かなかったんだろう。そもそも何で、私は今の今まで紗知のことを思い出さなかったのか。
お母さんが生きていた頃は、毎年のようにおばあちゃん家に行っていた。紗知と、勇人と3人で1日中遊んでいたのを思い出す。しかしお母さんの死後、母方の親戚とは疎遠になりそれきりだった。
紗知が歌が大好きだったのは覚えている。アーティストとしてデビューしているのなら、是非祝福したい。
けれど。
紗知の記憶があるのになんだか非現実的で、絵本や夢物語だと言われるとそのような気がしてしまうほど儚いものだった。小学生の時の記憶ってこんなものなのか。
思い出そうとすればする程、心臓が息苦しいくらいに脈打つ。取り返しのつかないことをしたかのような絶望感がすぐそこでぱっかりと口を開けている、そんな錯覚さえ覚えた。電車や車の音、人の話し声、どこからか聞こえてくるBGMなど鼓膜に当たる音全てが、壊れたカセットテープのように不快な騒音となり、五感さえも狂おそうとしていた。
何が、起こっているのか分からない。冷静になろうと試みるが、巨大な不安感は消えない。
走馬灯のように、山と、勇人と、お母さんの遺体の残像が脳を駆け巡る。
こんなこと、最近はもうなかったのに。どうして。
私は、振り切るように改札に入った。
家に帰ったら確かめなければいけないことがある。
この違和感の原因に心当たりが1つ、あったのだ。