冬の日、駅のホームにて
「少し……お話ししませんか?」
第一印象は『変な女』。
冬の日……俺とそいつ以外に誰もいない駅のホームで、見ず知らずの男に声をかけるのだ。
それを変と言わずなんと言おう。
年齢は俺と同じか少し下、低めの身長と細身の体は小動物を連想させる。
いかにもおとなしそうな『儚い少女』が第二印象だった。
変な女は俺の返事を待つことなく、隣の席へと腰掛けた。
その表情は明るく、良い暇潰し相手が出来た……なんて言いたそうにしている。
思わず溜め息を洩らしそうになったが、そんな事をしても気が滅入るだけと考え直し、寸手のところでやめる。
そんな俺の心情を知ってか知らずか、少女はこちらの顔を覗きこんで
「今日は寒いですねー」
と、楽しそうに言った。
「ああ」
気のない返事を返しながら、二時間先の事を考えてちょっとブルーになる。
「今日はどちらへ?」
少し赤みがかった、それでも俺よりだいぶ白い色をした小さな手へ、はぁーっと吐息を吹きかけながら脳天気に口を開く少女。
「実家」
素気なく答える。正直なところ、この話題にはあまり触れてほしくない。
だが、そんな事はおかまいなしと言わんばかりに、少女は残酷な質問を繰り出した。
「帰省……って時期じゃないですよね。何かあったんですか?」
普通初対面の人間に対して、こんな突っ込んだ事は聞かない。
プライバシーとか、そういうのも有るわけだし……。
だから俺も無視すれば良かったのに……。
何故か、言いたくなかった『その事』を、目の前の少女に向かって話してしまった。
「……ばあちゃんが死んだ」
ストレートに言い放つ。本当に、なんで俺こんな事を、こんな訳の解らない女に言ったんだろう?
自分でも不思議に思うが、言ってしまったモノはしょうがない。
しばし沈黙。
空気の重さに耐えきれず、自ら話題を変えようとしたちょうどその時、少女は予想だにしなかった言葉を発した。
―――じゃあ、私と一緒ですね?
「なっ」
冗談だろ?なんて言おうとした俺は、しかし少女の真剣なその眼差しに言葉を詰まらせた。
本当……なのか?
「私の所はお父さんです」
静かに、少女は澄んだ声で言った。
「事故だったんです……交差点で、車が信号を無視して……」
あっけないですよね……と小さく呟いた。
「お父さん、優しかったなあ……。
私が五つの時、すごく可愛いお洋服を買ってくれて…私、嬉しくってすぐに着てみたんです。
そうしたら全然サイズが合ってなくて……。
ごめんね、ごめんねって何度も何度も……。
本当に、優しくて……」
言って彼女は宙を見つめる。
冬の澄んだ空気は、亡くなった父を語っていたソイツに、少しだけ似ている気がした。
透明で儚いのに、どこか張りつめていて……。
僅かに憂いを含んだ表情を見せるのも束の間、すぐに先程の笑顔に戻った。
「人間って……弱いですよね」
少女は言った。
その言葉の真意が何なのか、それを理解する事は出来なかったが、かといって否定する理由もない。
俺は首を縦に振った。
「お父さんはずっと居てくれるんだって、自分勝手に思い込んで。
いつかは居なくなるって解ってたつもりで、その『いつか』を知らず先伸ばしてる。
そんな事は許されるワケないのに、ソレが永遠に続くものだって……。
ふふ、おかしいですよね?子供じゃないのに、こんな考え」
彼女は寂しそうに微笑むと、本当に私って馬鹿だなぁと続けた。
俺はふと、死んでしまったお婆ちゃんの事を思い出していた。
小学校に上がったばかりの頃、お祝いにってランドセルを買ってきてくれたお婆ちゃん。
お母さんが仕事の時、お昼ごはんを作ってくれたお婆ちゃん。
俺の成人式までは死んでも死ねないって、そう言っていたお婆ちゃん。
だから、お婆ちゃんは居なくならないって……そう思ってた。
誰にでも等しく訪れるのに、この人だけは……なんて。
例外なんてあるわけないのに、それでも例外を信じてる。
なんて馬鹿な幻想。
怖いからって目を反らして、ありもしない考えに逃げてる。
自分が死ぬ筈ないって……この人が死ぬ筈ないって!
脆く、か細い幻想を抱いて……死を忘れて生きている。
だから、人間は弱いのだろう。
「俺も……そう思ってた」
ポツリと小さく呟いた。
消え入りそうな声だったけど……それは、彼女の耳に届いたらしい。
こちらへ顔を向けて、僅かに微笑んだ。
「時間って、不思議ですよね……」
唐突にそんな事を言い出した。
「先に産まれた人からどんどん居なくなって、新しく産まれた人達もやっぱり時が経てば死んでしまう。
その時は悲しくても、時間は人を慰め、癒す。
人はそうして空いた穴を、別の何かで補って……。
お父さんも私も忘れられて……それでもセカイに変化はなくて、人はヒトとして生きていく」
「詩人みたいだな」
素直に思った。
「えへへ、ちょっとくさいですよね」
照れ笑いを浮かべる少女。
「寂しいけど……そんなモンじゃないのか? 現実ってヤツは」
あがいて、もがいて、それでも結局は死んでしまう。
時は移ろい、永遠なんてないと俺達に言い聞かせる。
それはもう、どうする事も出来ない……動かしようのない真実。
だからこそ、俺達に出来るのは日々を精一杯に生きる事だと、誰かが言っていた。
綺麗ごとだと否定するヤツも居るが、俺はわりと正解なんじゃないかなと思う。
俺が幸せなら、それが一番だと言ったお婆ちゃんは……幸せだったのだろうか?
それを確かめる事は出来ないけど……せめて俺はお婆ちゃんを忘れることのないようにしよう。
自己満足だけど、それが俺に出来る恩返しだと思うから。
「……」
静けさを含んだ北風が、俺の頬を撫でた。
澄んだ空気は肺を満たして、吐息は白く空に昇っていく。
重く垂れ込めた雲は、今にも雪を降らせそうだ。
時計の針は、正午を指そうとしている。
「あの……上りですか?」
突然そんな事を言った。それは『貴方の乗る電車は上りですか?』という意味と捉えて良いのだろうか?
「ん、俺は上りに乗るつもりだけど……」
とりあえず答えておく。すると、少女は明るい笑顔を浮かべて言った。
「良かった……。
あの……もしよければ……その……私と……賭けをしませんか?」
何を思ったのか、不意にそんな事を言い出した。
しばしの沈黙。
それを了解と勘違いしたのか、彼女は続きを話しだした。
実際にはイマイチ頭がついていかなかっただけなのだが……。
その楽しげな様子を見たら今更ダメとか言えなくなってしまった。
「賭けの内容は……どちらの電車が先に到着するか?負けたら何でも一つ、言うことを聞くって事で……」
一瞬、唖然とする。
電車の到着時間なんてダイヤで決まっているのだから、わざわざ賭けにする程の事じゃない。
というか賭けになっていない。
おまけに、この駅はちょくちょく利用していたのだ。大体の到着時間は暗記している。
つまり……。
絶対に負けない勝負……?
「あ、時刻表を見てくるのは反則ですよ〜?」
思い出したかのように付け加える。
無論、こちらにその気はない。
なんたって頭の中に入っているのだから。
とは言ったものの……。
実際のところ、ちょくちょく利用していたのはガキの頃の話であって、その記憶に絶対の自信があるかと問われたら、ないと答えるだろう。
記憶なんて意外と曖昧なモノだし、自信なんて持てる筈はない。
ない……のだけど……。
こう、なんて言うのだろうか?
いわゆる潜在意識に、刷りこまれているというかなんというか。
『上りは正午、下りは三分遅れ』というのが、頭に浮かんでくるのだ。
この記憶が正しければ、俺が乗る電車は正午、彼女の電車は十二時三分ということになる。
うん、きっとそうだ。
子供の時の事ってわりと憶えてるし、三子の魂百までって言うし。
大丈夫、自信を持つんだ俺。
そんな俺の無意味な葛藤も、正午ちょうどに鳴り響いたアナウンスによって掻き消えた。
「まもなく、一番ホームに下り電車がまいります。
黄色い線の内側に……」
―――何?
聞き間違いではない。
アナウンスは確かに『下り』と、そう告げた。
「賭けは……私の勝ちですね」
少女は立ち上がって俺の正面まで来ると、そっと言葉を紡いだ。
「明日、同じ時間に……駅前集合です!!」
今までで一番の笑顔を浮かべると、足早にホームの反対側へと行ってしまった。
到着した電車の駆動音の合間、風に乗ってその声が届いた。
「ダイヤ、変わったんだよ……去年から」
消えそうな、でも力強い声は……。
―――いつか聞いた、アイツの声に……似ていた―――
扉が閉まる。
電車の去った静かなホームにポツリと取り残された俺は、一人……空を見上げていた。
「本当に、時間って不思議だな……」
時の流れは、ああも人を変えるモノなのか。
「まったく……あれじゃ詐欺だ」
ごちて、思わず笑ってしまった。
今日の事を考えると気は重たいが、明日に比べりゃマシだろう。
―――厄介なヤツに会っちまった
ついに降り出した雪が、ポツリポツリと地面に落ちて……。
上り電車がホームに到着した頃。
俺は、忘れていたアイツの面影を思い出していた。