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じゅぅご 臆病





―――1944年 12月 22日

フランス東部 サン・ヴィット





あたりを満たす硝煙の臭いと土煙。耳に雪崩れ込んでくる銃声と爆発音。道路に転がる残骸と死体―――


その時僕は戦場にいた。

身を軍服に包み、小銃を携え、部隊からはぐれ、一人で民家の壁際で尻餅をつきながら。


体は微かに震えている。恐怖だ。僕は怖い。

今ここから一歩でも動いたら、流れ弾が頭を打ち抜くような。

少しでも腕を伸ばせば、手榴弾の破片で腕が吹き飛ばされそうな。

得体の知れない、戦場独特の恐怖。

これほどまでに死に近づいたことは今まで一回も無い。

小心者で、喧嘩もしたことがなく、骨折の一つだって経験したことがないのに、戦場で戦えと言われた。


―――そんなの無理だ。もう家に帰りたい。


どうしようもない恐怖心に抱きしめられながら、うっすらと涙をためた目蓋を、現実から逃げるように力強く閉じた。


体の震えはますます強くなる。


さっき、自分の横にいた同僚が、敵の放った弾丸で頭を撃ち抜かれた。

彼は豪快に脳髄を撒き散らして、地面に崩れ落ちた。

それきし動かない。

彼はこの戦場で、僕が唯一恐怖を共有できる生きた人間だった。

名前は確かヘンケル。年は20歳。

彼もついさっきまでは、僕と同じように恐怖に震えていた。


それが今は只の肉の塊。

頭が無くなった人形。

人は意図も簡単に、たった一瞬で死体に成れ果てる。


―――次は自分かもしれない。


そう思ってから、足は一歩も動かなくなり、腰は上半身を支えられなくなった。


恐怖に支配され不安から鼓動が早くなり、ストレスで気が狂いそう。


早く、早く終わって欲しい。こんなことは。

僕にはもう耐え切れない。


撃てもしない小銃を握り締めながら、涙粒が溢れ出す目をこすった。

子供のように三角座りをし、うつむき顔を隠す。

自殺する勇気も無い。

生殺し。

地獄のそこで、ただ一人恐怖に震えてひたすら悪夢が過ぎ去るのを待つ。

過ぎ去ろうとしない悪夢を。


ついに口から嗚咽が漏れ、情けない泣き声を上げそうになったとき、誰かが地面を踏みしめる音がした。


ヘンケルが殺されてから、初めて自分のいる空間に誰かが足を踏み入れたのだ。


敵?殺される?

それとも味方か。


僕は閉じた目蓋を開き、涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を上げた。


もし敵なら戦わなければならないが、小銃を構えることは無い。

もう僕は兵士としては死んだも同然なのだ。


だがそこにいたのは、敵ではなかった。


―――少女。

少しウェーブのかかった綺麗な長髪の、少女だった。

年は10ぐらいの。

戦場には全く不釣合いの、綺麗な少女。

可憐な姿と、身に纏う親衛隊の黒い戦闘服が、なんともちぐはぐに思えた。

そして、なぜこんな少女がこんなところにいるのかも。ちぐはぐだ。


「あ…」


とっさに声が漏れる。

だが彼女は僕に構うことなく、道端に斃れている頭部を失ったヘンケルの死体から、小銃と弾薬を剥ぎ取った。


そして血まみれの銃の感触を確かめつつ、僕に向けて華奢な口から言葉をはなつ。


「で、暇なら付き合ってくれないかしら?」


その言葉に、僕は一瞬呆気に取られた顔をした。


「え?」


「これから戦わなきゃならないの。まだアングロサクソンどもが道路にウジャウジャと溜まってるわ。アンタもこんなとこでサボってないで、ちゃんと仕事しなさいよ」


ふたまわりは年上の僕に対して、彼女は母親のように言い放った。

ただ僕は、大して大きな態度に出れない。


「前線はもっと先よ。アナタここでどんだけ時間つぶしてんのよ」


「き…君は…」


「私は負傷者の後送のためにここまで来たの。すぐに戻らなきゃならないわ」


「あ、そうじゃなくて……誰」


彼女は怪訝な顔をして、僕を見つめた。

僕の口から漏れた言葉は意識せずのものだ。

誰だって戦場に軍服に身を包んだ少女に出くわしたら、こんな言葉を吐く。


彼女は眉間に少ししわを寄せて、口を尖らせながら言う。


「いちいち尻餅ついてサボってる職務怠慢者に自己紹介しなければ駄目かしら?……エリノアよ」


彼女は嫌々ながらもそう答えた。

エリノア。彼女の名前らしい。


「これで満足ね。さぁ、行くわよ」


だが、僕は腰を上げない。

上げられなかった。

立ち去ろうとする少女は、そんな僕を見て足を止めた。


「ちょっと、人の話し聞いてた?」


「…む…無理だ」


僕は、情けない本音を絞り出す。


「た、立てない」


それは、10歳の少女に見せるにはあまりにも惨めな姿だった。


「…呆れた。こんなとこで何してるかと思ったら、臆病風に吹かれて逃げ出してた訳ね。…まぁ、アナタの顔見たら一目瞭然だけど」


僕は、鼻水をすすり、涙まみれになった頬を手で拭った。


「アナタが着てるその服、親衛隊の軍服でしょ?まさか、武装親衛隊にこんな臆病者がいるとは思わなかったわ。アナタ、それでいいわけ?自分の横で仲間の死体が転がってんのに、仕返しの一つもしたくないの?」


彼女は僕を蔑んでいた。返す言葉もなく、ただ内心で許しを請う。

こんなことにはいつの間にか慣れてしまっていた。

情けないと思うよりも、逃げ出したい。


「そう、じゃあ、そこで尻餅をついて全てが終わるのを待っているといいわ。子猫みたいに震えながら、ドブネズミのように惨めにね」


彼女はそう吐き捨て、立ち去ろうとする。

その姿を見ても、僕の情けない性根は変わろうとしない。

震える体をさらに震わせながら、ここにやってくるかもしれない敵兵を、少女が倒してくれることを願った。

本当に情けない自分。

僕は戦えない。

喧嘩の一つだって出来ないのだから。

戦場に来たのは、何かの間違いなのだ。

これが、等身大の自分。

戦えなくて当たり前だ。


だが、

そうだけれども、

そうとしても、


やはり僕は、それでも男なのだ。


あんな少女にあれほど言われて、黙っていることを、心のどこかにいる誰かが、よしとしなかった。


恐怖がまだ僕の足を絡め取っているにも関わらず、腰を上げた。


体は恐怖に震えている。

頬の涙はまだ乾ききっていない。

本音は逃げ出したい。

だが、戦わなければならない。


おぼつかない足取りで、僕は戦場に消えた少女の後姿を追いかけた。






―――それから61年後

日本




「うわーん恐かったよぉ!!」


「ったく、ゴキブリくらい一人で退治しなさいよ、サン!」


「む、無理だよぉ、ゴキブリ恐いよぉ」


「ゴキブリ一匹殺せないなんて、ホントに臆病者ね。ドブネズミのように惨めだわ」


「ど…ドブネズミって…酷すぎるよぉ…」





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