走れ、ばか馬。
「もう朝か」
昨日は早く床についたのだけど、結局寝入ることができたのはだいぶ時間が経ってからだった。浅い眠りから目覚め未だにじんわりと重い頭を朝の冷たい空気で覚醒させる。
外の天気は雨。まるで俺の心境を反映したかのような暗く重たい雨だった。
習慣に従い着替えを済ませ一階に下りていく。
正直に言ってしまえば今日も普段どおりに営業をしているだけでよいのか、いや、何をすればいいのか分からない。恥ずかしながらこういったときどうすればよいか考える力なんて俺にはないし、ジルさんも今はあまり頼りにすることができないからだ。
ただこうやって過ごしていては簡単に一年なんて過ぎてしまうのだろうけど。
「あ、おはようアス」
「おはようサイトウ」
こちらも習慣となっているのだろう。いつも通りの時間に二階から下りてくるアスとあいさつを交わす。
これだけ見ればいつもと変わらない光景。しかし今日は一点だけ違うところがあった。アスが普段着に着替えていないのだ。
「着替えが済んでないみたいだけどどうしたの?」
「それなのだがなにやらまだ体調が悪くてな。今日は休ませてもらえないだろうか」
「もちろんだよ。朝ごはんできたらもって行くから部屋で休んでて」
「すまんな、お願いしたい」
部屋に帰っていく足取りはしっかりしているものの、確かに今日のアスにはいつものような元気がない。よほどジルさんのことが堪えたのだろう。こればかりは俺が何かを言って無理に続けさせる訳にはいかない。続けるか辞めるか、アスが自分で判断してくれるのを待つしかない。
ただ、できれば俺はアスと一緒に頑張りたい。心の底からそう思う。
午前中最後のお客さんが店を後にしていく。こんなひどい雨だというのに来てくれるお客さんはなんてありがたいのだろう。帰っていく後姿に普段より深く頭を下げた。
「じゃあお昼は何を作ろうかな」
悲しんでいても、悩んでいてもおなかは空く。空腹を訴える体に従い台所に立ち昼食の準備を始めた。
さてお昼はアスに何を持っていってあげよう。体調が悪いのだから定番のお粥にでもしようか、それとも体自体は大丈夫なはずだから元気を出してもらうためにも少し豪勢なものにしようか。
「お料理中にお邪魔するわね~」
そんなことを考えていると後ろから間延びした声がかかった。相変わらずの神出鬼没ぶり。振り返るとそこには想像通り笑顔のミリアが立っていた。
以前なら驚いてしまっただろうけど今では何とか耐えられる。慣れたことに喜べばいいのか悲しめばいいのかいまいち判断に迷うところだ。
「大丈夫だよ。材料の補充はまだだったと思うけど今日はなんだったかな」
「それがミックが料理の試作を作りすぎちゃったみたいで材料が足りなくなってきちゃったの」
「ミックさん……。分かった、ご飯食べたら補充しにいくよ」
「あらお店のほうはいいの?」
「今日はこの通り雨だし、いろいろあってあまりやる気が起きないんだ」
これだけ聞けばどこのダメ人間のセリフだといった感じだけど、ミリアは事情も知らないだろうに「そう」と一言いってそれ以上追及はしてこなかった。
もしここで聞かれていれば事情だけでなく弱音や愚痴まで洗いざらい吐いてしまっていただろう。そんな醜態をさらさずに済ませてくれたミリアには本当に感謝したい。これが長年の経験の末に磨かれた距離感というやつなのだろう。
「いたっ」
「ユウくんも本当に懲りないわね~」
「前から思ってたんだけどそれって魔法だよね?」
「ううん、女の勘よ」
「そんな能力が女の人に備わってたら男はとっくに絶滅してるよ……」
げんなりした俺をミリアが上品に笑う。森にいた頃はいつもしていたやり取りだけど今の状況ではこれが何より心を癒してれる。
「それはそうとして、なんだかアスが体調悪いみたいなんだけど見に行ってあげてくれない? その間にミリアの分もご飯作っとくから」
「あの王女様が体調を悪くするなんて……。分かったわ、あと私のご飯には油揚げを入れてくれるとうれしいわ」
「要求された。明らかに油揚げを食わせろと要求された」
笑顔で二階に向かっていくミリアを露骨な渋面を作って見送る。おい、磨かれた距離感とかいったやつ誰だよ。あれ完全にインファイトの距離じゃないか。
台所に立って魔法で食材を出していく。材料はうどんにネギに大きな油揚げ。暖かい狐うどんならば誰からも文句なんて出ないだろう。特にミリアにはこの後相談にのってもらわないといけないから油揚げを多めに載せて断われないようにしてやらなくては。ちなみにクーリングオフを受け付ける予定はありません。
なんか楽しくなってきた。俺は台所で不審者のような怪しい笑いを洩らし料理を作り始めた。
「それにしても少し遅くないか?」
うどんが完成してしばらく経つのだけど未だにミリアは戻ってこない。出汁をとったりしていたからそれなりに時間は掛かったはずだというのに一体どうしたのだろうか。
完成したときよっぽど呼びにいこうと思った。しかし二人が話しているだろうに、それを止めてまで呼びにいくこともないんじゃないかと考えこうして待っているわけだ。
「ごめんなさい。遅くなっちゃったわ」
「別にいいけどどうしたの?」
「弱ってる王女様が珍しくてからかってたら少し夢中になりすぎちゃったみたい」
「大丈夫だろうけどあまり無理させないようにしてよ。あとうどん温めなおしたの持ってってもらうけどそのときはからかわないように」
「頑張るわ~」
いつも通りの間延びした声からは自重しますというニュアンスがまるで感じ取れない。ミリアがからかったってことはアスもよっぽど大丈夫なんだろうけど、あまり怒らせて疲れさせてもなんだろうに。
「うどんもう温め直したりしないから、からかうならそのつもりでね」
アスの分のうどんを渡しながらミリアに忠告しておく。ミリアも好物を食べるのだから冷めた状態で食べたくなんてないだろう。俺にできるのはここまで。あとはミリアの良心、いや食欲を信じるのみっ。
「もう、王女様の分を届けたのに私の分の準備が終わってないなんてひどいじゃないの」
うどんを渡し心の中で拳を握っているとミリアから変なセリフが聞こえた気がした。ミリアのほうを見ると両手を腰に当ていかにもなポーズで怒っていた。
両手を腰にってちょっと待て。さっき渡したうどんはどうした?
「あれ、さっき渡したうどんは?」
「王女様の分は届けたって言ったでしょ」
これはもう間違いない。この距離で、数十秒時間を節約するためにミリアは転移魔法を行使したのだ。転移の魔具を開発してるミラが知ったら泣くんじゃないの、これ?
あんまりといえばあんまりだけど、頼んだことはやってくれているのだから文句を言うのは筋違いというものだろう。
俺は心の中で白旗をあげてミリアの分も盛り付けを始めた。
「はいお待ちどうさま」
「ん~、おいしそうだわ~」
二人とも軽く手を合わせうどんを食べ始める。
口に入れると出汁独特の風味が広がりちょっと自画自賛したくなる程度の味には仕上がっていた。ミリアも満足してくれているのか頬に手をあてるオーバーなリアクションで美味しさを表現してくれている。こんなときでもこれだけで幸せな気分になれてしまう自分の安上がりな性格がありがたい。
「おいしかったわ~」
「お粗末さまでした。そんなに喜んでくれると俺も嬉しいよ」
「お互いに幸せになれるならもっと頻繁に食べに来ちゃおうかしら」
「遠慮なく来てよ。ただいつも油揚げメインとは思わないでね?」
「ユウくんひどいわ~」
「正当な権利だと主張します」
果たしてそこまで要求する気がなかったのに濡れ衣を着せられたからひどいと言ったのか、いつも油揚げをメインにしないと言われたからひどいと言ったのか。
わざとらしく悲しげな顔をするミリアに刺すべき釘はしっかり刺しておく。
そりゃミリアが頻繁に食べに来てくれるのは嬉しい。でもこうでも言っておかないと狐うどんと稲荷ずしのループに嵌まる可能性が捨てきれないんだよね。つまりこれは正当な権利であり必要な防衛といえるのですよ。
「それはさておきちょっと相談にのってもらいたいんだけど、この後時間ある?」
「ええ、大丈夫よ」
「それでなんだけど……」
俺は声を潜めてアスの部屋にちらりと目をやった。これからミリアに相談することはこの店のことだ。関係者であるアスもいたほうがいいのかも知れないけど、体調の悪いアスにその原因であろう話をあまり聞かせたくはない。しかし耳のいいアスのことだ。ここで話していたら気になって聞いてしまうだろう。
ミリアも元気のないアスを見たことで察してくれたのか頷いて反応してくれた。
「どうせ森には行くわけだし、相談はベイビーバードのほうでしてもいいかしら」
「あれ、アスは森に行かないの?」
「さっき話してたら今日はいいんですって」
森に行くのはミリアさえいればいつでもできるのだし今日は体調が悪いから寝ているということだろうか。俺としては無理してもらっても困るし、アスに聞かせずミリアに相談できるから都合がいい。そういうことなら森に行ってから相談にのってもらうとしよう。
「じゃあアスに一言いってから出発しよっか」
魔法の制約で外に出られなくなってからいってきますというのは初めてだ。まさかこのセリフをもう一回言えるなんて思ってもみなかったよ。
俺はそんなことを考えくすくす笑いながらミリアと一緒に二階のアスの部屋へと歩いていった。
「それで相談したいことっていうのは何なのかしら」
サンライズであまり元気のないアスにあいさつした後、俺はミリアに転移してもらいベイビーバードまでやってきた。物の種類や配置が少し変わっては知るけれど、基本的には俺がいた頃と変わらない店内。なんとなく気を張っているサンライズとは違ってただいるだけで気持ちが緩んでいく気がする。
「それよりミックさんとモールはいないの?」
「お昼から来てもらえるなんて思っていなかったからあの二人はまだしばらく来ないと思うわ」
それならちょうどいいかもしれない。これから話すのはあんまり面白い話でもないし、下手に話して不安をあおってしまうよりはとりあえずミリアに聞いてもらってそれから対応を考えても問題ないだろう。
「なら材料を出す前に相談したいんだけどいいかな」
「分かったわ。じゃあそこに座って」
俺がいない間も何度か手伝ってくれていたのだろう。俺を椅子に座らせミリアは慣れた手つきでお茶を持って来てくれた。
「じゃあユウくんのお話を聞くとしましょうか」
「聞いてもらいたいのは市長が来たときのことなんだ。その日は――――」
「そう、二人とも元気がなかったけどそんなことになっていたのね」
「ジルさんの置かれた立場が辛かったことは分かっているつもりなんだ。でも状況が厳しいなら俺たちを信じて前もって話して欲しかったし、こうなった後だって諦めるようなことは言ってほしくなかった」
出してもらったお茶がぬるくなった頃。俺は言いたいことを言い散らかしてようやく落ち着き始めた。
はじめはエバンス商会がどんな状況か話してどうすべきか意見を聞くだけのつもりだった。でも一度話し始めると言いたいことが次から次へと溢れてきて、状況を話して満足するなんてとてもできやしない。
頭の冷静な部分が「こんなことを言われてもミリアは困るだろう」とたしなめる。それでも口が止まらない。俺は辛かったのは分かっているなんて前置きをして不安を、不満を、失望を。愚痴としてミリアに思うままに吐き出した。
「そうね。ユウくんはジルに本気で恩を感じてて、本気で助けてあげたかったから、もっと信頼して話して欲しかったのよね」
俺が言いたいだけ吐き出して静かになるとミリアはポツリとそう言った。アスに言うわけにもいかず、市長達が来てから俺の中に溜まっていたドロドロが認められた気がして視界がぐにゃりとゆがみ始める。
「ジルは話すべきだったと私も思うわ。でもね、ユウくん達に辞めるって言われたらどうしようって不安で、不安で、切り出せなかったジルのこともわかってあげて欲しいの」
「それはそうかも知れないですけど」
返す答えに不満の色がにじむ。
ミリアのいいたいことは分かるけど、どうしても心の底からは頷くことができない。ジルさんのしてくれたことは俺にとって本当に大きなことだった。だからどんな厳しい状態だったとしても俺は決して辞めたりしなかったと断言できるし、その気持ちは今でも変わっていない。ジルさんならきっと分かってくれると思っていたのだ。
「……ユウくんはジルのことをどんな人だと思ってる?」
「ジルさんですか?」
思いもよらない質問に思わずミリアに聞き返す。
俺の中でジルさんといえば目標を作ってくれた恩人で、あの若さで商会を切り盛りしてるすごい商人で、豪快な性格をした姉御肌の女の人。他にもいくつか思いつくけど大体こんなところで間違いないだろう。
「たぶんユウくんはこう聞くと、強くて優秀なジルを想像するんでしょうね」
「そうですけど……」
「もちろんそれが間違ってるわけじゃない、でもそれだけじゃないの。
ジルが初めて森に来たとき、足も手も隠し切れないほど震えてたわ。ときどきこれでいいのかって相談してくることもある。
あ、あと取引が失敗したときなんてザックさんのところに良く愚痴を言いにいくそうよ?」
ミリアは笑いながら話してくれるけど俺はジルさんのそんな姿がまるで想像できない。森に始めて行った時だって堂々としてたと思うし、自分の考えでどんどん進んでいって間違ったとしてもさっさと修正してしまうはず。ミリアの言ってることなんて何かの勘違いじゃないかと思ってしまうほどだ。
でも考えてみれば一度だけ、自分のことで精一杯だったとはいえ、俺は確かに見たことがある。
市長たちが帰った後、支えてあげなければすぐにでも倒れてしまいそうなジルさんの姿を。
「ジルがユウくんの前でいい格好ばっかりしてたのが悪いんだけどね。
でも少しづつでいいから分かってあげて欲しいの。すごい商人のジルじゃなくて、強いところも弱いところもあるジル=エバンスという人間のことを」
俺の中でジル=エバンスという虚像がガラガラと音をたてて崩れていく。そしてそこには優秀な商人だけど、倒れそうになっても残って助けてくれという一言すらいえないジルさんが残っていた。
「それでね、ユウくんに余裕ができたら助けてあげて欲しいの。自分じゃどうにもならない状況に閉じ込められて、会って間もないユウくんたちを必死になって誘っていたジルのことを」
風が吹いた気がした。
自分じゃ出ることが出来ない檻の中。俺はたくさんの人たちに助けてもらってここまでくることができた。そんな俺の恩人がぼろぼろになって助けを求めているという。
ここで助けないなんて嘘だろう?
「ミリアごめん。急で悪いんだけどサンライズまで送ってもらえないかな。ちょっとやらないといけないことができたんだ」
まったく今までの俺はジルさんのことを完璧超人かなんかとでも思っていたのだろうか。それだけならまだしも勝手なイメージを持って、それにそぐわない行動を取ったら勝手に失望してなんて救いようのない。こりゃ馬車馬のように働いて許してもらうしかないなぁ。
「それはいいけどちゃんと材料は足してしていって欲しいわ~」
「あー、ごめん。忘れてた」
ミリアに言われて材料を補給していくがもはや心ここにあらず。意識はこれからどうやって巻き返していこうかという方向に完全に向いてしまっていた。
そんな俺をミリアはにこにこしながら見守っている。
「その気持ちがあれば大丈夫そうね。これから何があっても最後にはきっとうまくいくわ」
「本当にそうであって欲しいよ」
サンライズに初めて行ったときのギラギラした気持ちとは似ているようでちょっと違う、でも同じぐらい熱い気持ちが俺の中で渦巻いていた。とりあえずは帰ったらミラとザックさんに相談を持ちかけなきゃ。
魔物の森、ベイビーバード。俺とミリアを包んだ光がサンライズに向けて飛び立っていった。