結局食べきった俺。頑張ったと思う。
ミラからジルさんのことを聞いた翌日。俺が悩みを一つ持ったからと言って世界は変わることもなく、いつもと変わらない清々しい朝が訪れた。
窓を開け澄み切った空気を部屋に取り込み眠った頭を覚醒させる。大あくびしながらも着替えを終えた頃には完全に目が覚め、王女様を起こすために部屋を出た。
「アスー、朝だよー」
なぜ今日に限ってアスを起こすのかと問われればアスに頼まれたからと答えるほかない。
昨日ミラの店から遅くに帰ってきたアスは朝起きれるか不安だったのだろう。俺に朝起こしてくれるよう頼んできたのだ。
「アスー、ご飯できたよー」
これで起きたら面白いなと思いながらもう一度声をかけるが反応がない。よほどぐっすり寝ているようだ。
このまま寝かしてやりたい気もするが頼まれた以上は起こさねばなるまい。
ガチャリと派手に音をたてて部屋に入った。
「起きなー」
声をかけながらベットにずんずんと近づいていくがまるで反応なし。……この子、森で暮らしてたんだよねぇ?
あまりの無防備さに呆れ、布団を引っぺがしてやろうかと企むがいざ寝顔を見るとそんな気も失せてしまった。
「悩み、なにそれおいしいの?」と言わんばかりの幸せそうな寝顔。時折ぴくりと動く犬――狼の耳が日本にいた頃にはなかった、なんとも言えない和みを提供してくれる。
「なんだか……ねぇ?」
布団を引っぺがすという無体な方法をとる気はなくなってしまったが、こんな寝顔を見ているとなんとなくからかってやりたい気分になる。
とりあえずは気の向くままにほっぺをつまんでみた。
できもの一つないすべすべとした手触りにもっちりと感じるつまみ心地。うん、これは世界を狙える。
ふにふにと至高の触感を楽しんでいたが素晴らしい時間は短いもの。「んっ」という声と共に起きたアスと目が合った。
……やべぇ、ミスった。
心境を表す感想としてこれ以上のものはない。
眠っている女の子の部屋に入っている。これは起こすという理由があるから問題ない、はず。じゃあ現在進行形でつまんでいるほっぺは? ……正攻法での勝ち目はないだろう。
「おはよう。今日もいい天気だよ」
できる限り自然に手を放し、自分史上最高の爽やかさなんじゃないかと思う笑顔であいさつする。
もちろん現状に対する質問の機会なんて与えてはいけない。幸いアスはまだ頭が回っていないようだからなんとかなるはずだ。
こすこすと目を擦るに対し、心の中でファイティングポーズをとる。
「……うむ、いい朝だな。ところでなぜ我の頬をつまんで――」
「まったく、何回声かけても起きないんだもん。困っちゃったよ」
「……すまんな。それはさておきなぜ――」
「あ、もうこんな時間か。ご飯作っとくから着替えて降りてきてね」
やましさなんて一片も感じさせない……ことを希望する笑顔で言いたいことだけ言うと颯爽と扉から出て行く。よし、完璧だ。
扉を閉め冷や汗を拭うと危機を乗り切った開放感を胸に階下に向かった。
「さて朝食の支度でもしましょうかね」
本日のメニューはご飯、漬物、味噌汁に昨日の残りの焼きそば。大体朝はこんなメニューで、「こんな生活感のある異世界なんぞあっていいのか」とか以前は突っ込みたい気分になっていたものだ。ずずっと味噌汁をすするアスを見たとき諦めたけど。
そんなどうでもいいことを考えながら朝食の支度をしているとドンドンと扉を叩く音が聞こえた。
こんなに早くお客さんでも来たのだろうか。多少の期待を持って扉を開けるとつぼのようなものを持ったザックさんが立っていた。
「早くに悪いな、じゃまするぞ」
「はぁ、とりあえずどうぞ」
訳が分からないがとりあえず扉を開け中に招く。
「なんだ、立派な朝飯ができてるじゃねえか」
「まだ準備途中ですよ。ところでこんな朝早くどうしたんですか?」
「ああ、じつは――」
「む、ザックではないかどうしたのだ?」
ザックさん丁度喋ろうとしたタイミングでアスが着替えを済ませ降りてきた。始めは不思議そうにザックさんを見ていたのだが、一体何に気がついたのだろうか。途中で鼻をひくひくさせたかと思うとやけにいい笑顔を見せ始めた。
「その大なべには何が入っておるのだ?」
「いい鼻してるな。サイトウに聞いたラーメンの試作ができたから持ってきたんだ」
ふたを開け見せてもらうと確かにスープのようなものが入っていた。そこまで熱いわけではない上アスとなべの距離はそれなりにある。にもかかわらず香りでもって反応するとは……これが獣人の力ということかっ。
「うむ、では早速味見しようではないか」
「いいのか? サイトウの奴がしっかり朝飯作ってくれたみたいだぞ?」
「ふっ、我を誰だと思っておる。誇り高き森の王女アスフェル! どちらも食べてみせようぞ!」
ザックさんはそれを聞くと大笑いを始めた。
なんと余裕溢れる態度だろうか。俺なんか「いや、王女関係ないし」というツッコミをこらえるのに必死だというのに。
「そりゃいい! ならぜひ食べて感想を聞かせてくれ」
どうやらこの流れは俺も食べないわけにはいかなさそうだ。以前のザックさんの様子を見るに食べ残しは絶対に駄目だろう。朝は小食なのになぁ……。
「さぁ、食ってくれ!」
朝食を食べ終えたタイミングで、俺たちの前に圧倒的威圧感を持ったラーメンが置かれる。いや、決して不味そうという訳ではない。ただ胃袋が完食は無理と訴えているだけだ。
「ではいただくぞ!」
アスはそんな俺を尻目に、まるで好敵手に会った戦士のような笑みを浮かべラーメンに取り掛かった。
「ん!」
一口食べ固まるアス。なんだなんだと覗き込むと再びはふはふと食べ始める。様子から察するにどうやらお気に召したようだ。
……アスを観察してないでそろそろ俺も食うか。
目の前で湯気を上げるラーメンに手を伸ばした。
「あ、おいしい」
食べてみて思わず感想が口から出る。見た目がしっかりしていたからある程度は期待していたけど、これは想像以上だ。材料はこちらのもので作ってもらったので俺が知っている味とは違うが、とにかくおいしい。日本で出てきても問題ないレベルだ。
「そうか、うまいか!」
「大体の作り方を教えたとはいえ、ここまでのものをこんなに早く作ってもらえるなんて思いもしませんでしたよ」
「なに、他のスープの作り方を応用しただけだ。麺は完全にお前任せだしな」
他のスープを応用したといってもこのラーメンを作るためには料理の腕はもちろんのこと、相当のセンスも必要なはず。以前は戦士が天職なんじゃないかと思っていたが、どうやら本格的に認識を改めなくてはいけないらしい。
「いえ、それでもザックさんの腕は想像以上でした。この味なら言うことなしなのでがんがん売っちゃってください」
お互いにやりと笑いながらしっかりと握手を交わす。
決めのシーンなのに横から「美味だった」と空気を読まない声がしたのはご愛嬌。
「じゃあ材料買ってってもいいか?」
「もちろんですよ。むしろこちらからお願いします」
もともとこちらはそれ目当てだったのだから断わる理由なんてカケラも存在しない。
ザックさんと相談し、とりあえず百食分ほどの材料を買ってもらうことになった。
「そうと決まればちゃっちゃと出しちゃいますね」
机の上に清潔な布を敷き麺を出すスペースを確保。そしてその間にアスが適度な大きさの樽を店の奥から持ってくる。
この辺りは慣れたもので、もはやアイコンタクトすら要らないコンビネーションに仕上がっている。
鍛え上げられたうちの従業員さんに満足感を味わいつつも魔法を発動。布の上に麺を、樽の中に醤油を出していく。
「いつ見てもすげぇ魔法だな」
何回か見ているはずなのだがザックさんが腕を組み、呆れたように呟いた。
「いやいや、そんなことないですよ」
ザックさんに返事を返すが別にこれは日本伝統の謙遜でもなんでもない。
そりゃ確かにこの場面だけ見たら何もない空間から食材が出てくるすごい魔法だろう。しかし実際はお金もしっかり払っているし外出のできない呪い付き。そんな裏方火の車っぷりを現在進行形で体感している身としては、『そんなことない』どころか『絶対違う』と断言したいところだ。
「お前からしたらそりゃそうだろうな」
ザックさんは苦笑しつつ、ひょいと食材と空になったつぼを持つ。もうそろそろ行くつもりなのだろう。
「ザックさんこれからどこいくんですか?」
「市場で他の食材を仕入れてから店に戻るな」
まだ市場に寄っていくということはザックさんの店は昼からということだろうか?
そんなことを考えていると、ふといい考えが頭に浮かんだ。
「申し訳ないんですけどアスも市場に連れて行ってくれませんか?」
「ん? 別に構わんぞ」
まさに即答。
ザックさんにも予定があるだろうし、獣人であるアスを市場に連れていけばバレた時に何らかの面倒ごとになるかもしれない。そんな懸念もあり正直駄目もとでのお願いだったのだが、予想外なほどあっさり連れて行ってもらえることが決まり軽く笑みがこぼれる。
「待つのだサイトウよ。我はおぬしが働いておる最中にのうのうと街に出ている気はないぞ!」
かと思ったら横からアスの突っ込みが入った。やはり人生そう思い通りにはいかないらしい。
「いやそれは前も聞いたけどさぁ……」
アスがこうやって町の散策を拒否するのは初めてではない。店に来てくれたお客さんからの誘いは論外としても、ジルさんの店の人の提案も断わっているのだ。
俺を気遣ってくれることは確かに嬉しい。しかし今度の休みには森に帰っていろいろしてこなくてはならないので、アスの言い分をそのまま聞いていては町の散策はまた随分延期ということになってしまう。
「第一我がいなくては売上が落ちるのではないか?」
得意げに、そして意地悪そうにアスが笑いかけてくる。
事実アスは少々偉そうながらも可愛げのある接客に加え、一度来てくれた人が道の前を通れば声をかけ商品を買ってもらうという荒業までこなし、ひれ伏して感謝しなければならないほどの貢献を見せているのだ。そんなアスが抜ければ確かに売上は落ちるだろう。
――しかしまぁ、引けない時というのもあるわけで。
「……うん、決めた。アスにはやっぱり市場に行ってもらうよ。で、売上の落ちた分をカバーできるぐらいの発見をしてきてもらいます。ちなみに業務命令なので悪しからず」
語尾に音符でも付きそうな口調であるか怪しい、いや確実にない命令権をを振りかざす。
そのままちらりとザックさんに視線を移しアイコンタクト。あらかた事情を察してくれたのだろう、ザックさんもいい笑顔を返してくれた。
「おーし、アス! 業務命令なら聞かなきゃいかんぞ」
ザックさんは未だ混乱しているアスを担ぎ上げると食材を持ち、有無を言わさぬ速度で店から出て行った。
彼女の旅に幸多からんことを。台所にあった手ぬぐいで目元を押さえてみた。
◆
普段とはまるで高さの違う視点。がやがやと活気溢れる人の多い大通りをザックに担がれ進んでいく。
正気に戻った直後は暴れたものだが、がっちりと固められた腕はびくともせずわずか数秒で無駄を悟った。
小さい頃は不届き者に連れて行かれないよう注意しろと父上に言われたものだが、まさかこの年になってから連れて行かれるとは。恥ずかしくてとても誰かに話せるものではないな……。
「ザックよ、もう逃げたりせぬから下ろしてくれ」
「やっと観念したか。ほれ」
意外にも丁寧に地面に下ろされ視線がゆっくりと元の高さに戻る。
地に足を着け何度か足踏みし前を見ると、少々真面目そうな目をしたザックがこちらを見ていた。
「ったく逃げようとしなくたっていいじゃねえか。街に出るのが嫌なのか?」
「……そうではないのだ」
道の真ん中で止まっている訳にも行かないのだろう。ザックに促され歩きだし、ぽつぽつと話し始めた。
「我だって始めて来た人間の街なのだ。いろいろな者と話してみたいし、いろいろな場所を見てみたい」
昨日だってベットに入ってしばらくはミラの店までの街並みや会話を思い出し、なかなか眠ることができなかった。
「だが我は街に出ることができてもサイトウは出ることができないのだ。それなのに我だけがのこのこと街に出て楽しむなどできるはずがなかろう」
今でも覚えておる。森で畑を作ったとき、柵の外に出ることのできなかったサイトウの悲しそうな顔を。
一通り話し終わるとザックと二人、無言で足を進めていく。回りの喧騒もどこか遠くに聞こえるような沈黙の中、おもむろにザックが口を開いた。
「そんな難しく考えなくてもいいんじゃねえか?」
「なっ……!」
予想外の言葉に思わず足を止めザックのほうを向く。我の心境など全く気にしないようにザックはそのまま言葉を続けた。
「俺が見る限りサイトウはお前に街を見てきて欲しそうだったが違ったか?」
「いや、その通りだと思うぞ」
この街に来てからたびたび勧めてくれるうえ、今だって半ば無理やり送り出してくれたのだ。おそらく間違いないだろう。
「そしてお前は街を見て回りたかった」
「……うむ」
「なら話は簡単だ。お前が街を見て回ればいい」
「…………は?」
さも当然とばかりにザックが言う。
「ったくどいつもこいつも難しく考えすぎなんだよ。行かせたい奴と行きたい奴がいるなら問題なくそこで解決じゃねえか」
あまりに簡単な答えに呆然としている我を無視してザックは喋り続ける。ジルだって遠慮しすぎだとか何とか。
話を聞いてもらっておるのか話を聞いてやっておるのか分からなくなってきた頃になると、なんだかうだうだと考えおったのがバカらしくなってきた。
そもそもここまで来てしまっている時点で街に出てしまったことに変わりはないのだしな。
「ザックよ、あの店はなんだ?」
ザックがなにやら言っておるのを無視して疑問を投げかける
「ん? あれは服屋だな。なかなか仕立ての腕がいいと評判だぞ」
「ザックよ、あれはなんだ?」
「あれは中央時計だな。よく待ち合わせに使われる……って急にどうした?」
我が突然質問し始めたのが不思議なのだろう。怪訝な顔で訊ねてくる。
「ふふん、我は散策を楽しむことに決めたのだ。ザックも覚悟するがよい。どんどん質問していくぞ!」
我がそう答えると何が面白いのか、ザックは大きな声で笑い始めた。人がやる気を出したというのに、まったく失礼な奴だ。
「そうだぞ、それでいいんだ! よし、どんどん答えてやるから質問してこいやぁ!」
ほほう、言ったな? 我は人間の街に来るのは初めてで分からない物だらけだからな、遠慮はせぬぞ。
それに……売上を補える発見をせねばならんからな!
まずは――
「ザックよ! あれはなんだ?」
お久しぶりです。
憶えてくださっている方はいらっしゃるでしょうか?