神在月
「今年も、この季節が来ましたね」
山の木々は、すでに秋の色へと変わり始めていた。
その景色を眺めながら、生と死を司る神が静かに言った。
今日は、いつもの見え方とは少し違う。
人の世に降りるため、女性の姿を取っている。
傍らにいた黒い狼が、ゆっくりと顔を上げた。
「今年も、その姿なのですね」
「ええ。この姿のほうが馴染みがありますから」
それ以上の言葉は必要なかった。
長い付き合いなのだ。
神無月。
けれど、神々の集う出雲では神在月と呼ばれる季節。
二柱にとっては、もはや毎年の恒例だった。
「では、今年も向かいましょうか」
「お供します」
二柱の姿が、秋の山から消えた。
◇
「今年は少し、ゆっくりしてこようと思う」
白龍の言葉に、白は少し驚いたように顔を上げた。
「珍しいですね」
「そうか?」
「毎年、顔だけ出してすぐ帰ってくるじゃないですか」
「留守を長くするわけにもいかなかったからな」
白龍の視線の先では、赤、黄、青の三色の眷属たちが、それぞれ人々の願いに耳を傾けていた。
以前とは違う。
今では、三色それぞれが縁を結ぶ龍として知られている。
「赤龍様。これからも、ずっと仲良くいられますように」
「うん。大事にするといいよ」
少し離れたところでは、
「黄龍様。今度こそ、ちゃんと気持ちを伝えられるように……」
「なら、まずは話してみなきゃ始まらないよ」
さらに青のところには、
「青龍様。遠くにいるあの人と、また会えますように」
「縁が残っているなら、きっと繋がるさ」
三色とも、もう人の願いに戸惑うことはない。
自分たちが何を求められているのか、ちゃんと分かっている。
白龍は、その様子をしばらく見つめていた。
「ずいぶん頼もしくなったな」
白が笑う。
「もう白龍様がずっと見てなくても大丈夫そうですね」
「……そうだな」
そこへ三色が戻ってきた。
「白龍様。今年はこちらのことはお任せください」
赤が胸を張る。
「何かあっても、私たちで対応できます」
黄も続く。
「せっかくですから、今年はゆっくりしてきてください」
青までそう言った。
白龍は三色を見回す。
少し前なら、こんなことを言われても安心して任せられなかった。
だが今は違う。
「そうか」
短く答えてから、頷いた。
「なら、今年は任せる」
三色の顔が、ぱっと明るくなる。
白はその様子を見て、少し考えた。
「じゃあ、今年は久しぶりに家族みんなで行こうかな」
白龍が白を見る。
「そうするといい」
「子どもたちも喜ぶと思うので」
「目を離すなよ」
「分かってますよ」
「特に上の子だ」
「……去年のこと、まだ覚えてるんですか」
「我の尾を掴んだ」
「あれは本当にすみませんでした」
白龍は、少しだけ口元を緩めた。
◇
「そういえば、もうすぐ神無月じゃな」
ある日のこと。
桐箪笥が、ふと思い出したように言った。
鏡台がそれに答える。
「そうですね。今年はどうします?」
「どうするかのう」
二人の会話を聞いていた四毛猫が、首を傾げた。
「――神無月が、どうかしたんですか?」
鏡台が優しく笑う。
「出雲では、神在月になるんですよ」
「――神様が集まるところですか?」
「そうじゃ」
桐箪笥が頷く。
「儂らも昔、二度ほど行ったことがある」
「――お二人だけで?」
「おぬしはまだおらんかったからの」
四毛猫は少し考える。
「――出雲って、遠いんですよね?」
「心配なら日帰りにすればよかろう」
桐箪笥が何でもないことのように言う。
「娘が帰ってくる夕方までには戻ればよい」
「――そんなに簡単に行けるんですか?」
「儂らなら大丈夫じゃ」
鏡台も頷いた。
「心配しなくてもいいのよ、四毛ちゃん。私たちが一緒ですから」
四毛猫は、二人の顔を交互に見る。
それから、少しだけ尻尾を揺らした。
「――それなら、行ってみたいです」
「決まりですね」
鏡台が笑った。
◇
出雲。
桐箪笥と鏡台は、かつて訪れた記憶を手掛かりに、人の姿で実体化した。
二人に導かれるように、四毛猫もその場に姿を現す。
「――ここが……出雲ですか」
四毛猫は、辺りを見回した。
見るものすべてが珍しい。
普段は感じることのない気配。
人ならざるもの。
眷属。
神。
名も知らぬ者たちが、当たり前のように行き交っている。
「久しぶりじゃのう」
桐箪笥が辺りを眺める。
鏡台も懐かしそうに目を細めた。
「ええ。変わったような、変わっていないような」
四毛猫が二人を見る。
「――本当に来たことがあるんですね」
桐箪笥が眉を上げる。
「疑っておったのか?」
「――少しだけ」
「失礼な猫じゃの」
「――招き猫です」
「似たようなもんじゃ」
「――違います」
鏡台が小さく笑う。
「はいはい」
桐箪笥は辺りを見回した。
「さて。昔の顔なじみにでも挨拶してくるか」
「そうですね」
四毛猫が首を傾げる。
「――私は?」
鏡台は四毛猫に目を向けた。
「四毛ちゃんは、せっかくですから神議りでも見ておいでなさい」
「――一人でですか?」
「大丈夫ですよ。私たちの力はちゃんと届いていますから」
桐箪笥も続ける。
「遠くへ行きすぎねば問題ない」
「――分かりました」
「迷子にならんようにな」
「――なりません」
「猫はそう言って勝手に歩いていくものじゃ」
「――招き猫です」
鏡台がくすくす笑う。
「行ってらっしゃい、四毛ちゃん」
「――行ってきます」
◇
一方その頃。
「神議りはまだ先ですが、ご挨拶などを済ませますか?」
生と死を司る神が、狼神に尋ねた。
「私は特に」
狼神は、淡々と答えた。
毎年来ている。
今さら慌ただしく挨拶回りをする必要もない。
――その直後だった。
「わんわんだぁ!」
元気な声が響く。
狼神の耳が、ぴくりと動いた。
白一家だった。
上の子がこちらを見つけるなり、一目散に走ってくる。
「わんわん!」
「こら、走るな!」
白が後ろから声を上げる。
だがもう遅い。
上の子は狼神のところへ飛び込むと、容赦なく頭や首元を撫で始めた。
「ひさしぶりー!」
「お久しぶりですね」
狼神は慣れた様子で身を低くする。
その様子を見ていた下の子に、上の子が手招きをした。
「おいでー! このわんわん、やさしいよ!」
白がため息をつく。
「いや、狼だって……まあいいや」
下の子は、まだ少し距離を取っている。
初めて見る大きな黒い狼。
怖くないわけではない。
だが、上の子が楽しそうに撫でている。
狼神も、じっと待っている。
やがて下の子が、少しずつ近づいてきた。
狼神はさらに身体を低くした。
「ゆっくりで大丈夫ですよ」
小さな手が、黒い毛に触れる。
「……ふわふわ」
「そうですか?」
下の子は、少し考える。
それから、狼神の顔を見上げた。
「ぎゅーしていい?」
狼神の目元が、わずかに柔らかくなる。
「もちろんですよ」
下の子は、黒い首元にぎゅっと抱きついた。
その横では、上の子が相変わらず容赦なく撫でている。
そこへ白龍がやってきた。
しばらくその光景を見る。
そして、首を傾げた。
「狼よ、そんなキャラだったか?」
狼神は、二人の子どもに撫で回されながら顔だけを白龍へ向けた。
「久しぶりだな、龍よ」
「いや、挨拶はいい」
白龍は目の前の光景を指す。
「その状況は何だ」
「何か問題でも?」
「問題がないと思っているのか」
白が横で笑いをこらえている。
生と死を司る神は、穏やかに微笑んだ。
「昔からこうですよ」
白龍がそちらを見る。
「知っていたのか?」
「ええ」
白も頷く。
「毎年こんな感じですよ」
「お前まで」
狼神は特に気にしていない。
上の子に頭を撫でられながら、下の子を静かに抱き止めている。
白龍は、もう一度だけ呟いた。
「……そんなキャラだったか」
そこへ、白の妻が生と死を司る神を見て尋ねた。
「こちらの方は?」
白は少し考えた。
「うーん……昔からいる、すごく偉い神様」
「ずいぶんざっくりね」
「説明すると長いんだよ」
生と死を司る神は、それで構わないというように微笑んだ。
◇
四毛猫は、神議りを見に行くつもりだった。
本当に。
ただ、初めて見るものばかりだった。
あちらを見ては立ち止まり。
こちらを見ては首を傾げる。
まっすぐ進んでいるつもりなのに、どうにも進まない。
そして、ふと。
人の間から、大きな黒いものが見えた。
四毛猫は足を止める。
じっと見る。
もう少し近づく。
子どもが二人。
その間に、大きな黒い獣。
しかも、かなり撫で回されている。
四毛猫は思わず呟いた。
「――……大きな犬ですね」
少し離れたところから声が返ってきた。
「だから狼なんだって……」
四毛猫が、ぱっとそちらを見る。
白だった。
白も四毛猫を見て、すぐに思い出した。
「ああ。あの時の招き猫か」
四毛猫も白を見る。
「――龍の人」
「やっぱりその覚え方なんだな」
白は苦笑する。
四毛猫は首を傾げた。
「――私の声、聞こえるんですか?」
「聞こえるよ」
「――人間なのに?」
「まあ、いろいろあってな」
そのとき。
上の子が四毛猫に気づいた。
「ねこちゃん!」
四毛猫がそちらを見る。
「ねこちゃん、抱っこしていい?」
四毛猫は白を見る。
「――私に聞いていますよね?」
「そうだと思う」
「――構いません」
白が子どもに伝える。
「いいって」
「やった!」
上の子が、四毛猫をそっと抱き上げる。
四毛猫は少し緊張しながらも、大人しく腕の中に収まった。
狼神は相変わらず下の子に抱きつかれている。
白龍が、その様子を見ていた。
やがて四毛猫へ目を向ける。
「お前」
四毛猫が振り返る。
「――はい?」
「ただの付喪神ではないな」
四毛猫が少しだけ姿勢を正す。
白が横から言う。
「白龍様、この猫とは初めてですよね」
「そうだ」
白龍は、四毛猫をじっと見る。
「以前、人の子に降りかかった厄を退けたことがあるな」
四毛猫の目がわずかに見開かれる。
「――分かるんですか?」
「我は何の神だと思っている」
白が小さく答える。
「厄除けの神様」
白龍は構わず続けた。
「自ら傷つきながら、守ったか」
四毛猫は、少しだけ目を伏せる。
「――あの子は、大切な家族ですから」
白龍は短く頷いた。
「そうか」
そして、
「よく守ったな」
四毛猫は、しばらく何も言わなかった。
それから静かに頭を下げた。
「――ありがとうございます」
◇
「四毛ちゃん」
柔らかな声が聞こえた。
四毛猫が振り返る。
鏡台と桐箪笥が、人の姿でこちらへ歩いてくる。
「――鏡台さん。桐箪笥さん」
「こんなところにいたんですね」
鏡台が周囲を見回す。
「神議りを見に行ったんじゃなかったの?」
「――そのつもりだったんですが……」
桐箪笥が周囲を見る。
「随分と賑やかなところに入り込んだもんじゃな」
鏡台は狼神に気づく。
そして、四毛猫を見る。
「四毛ちゃん」
「――はい」
「もしかして、失礼なことを言っていませんよね?」
四毛猫は少し黙る。
「――大きな犬だと」
鏡台が額に手を当てた。
「まあ……」
すぐに狼神へ向き直る。
「うちの子がすみません」
狼神は穏やかに返した。
「お気になさらず」
四毛猫が小さく言う。
「――狼でした」
「最初からそう言っています」
白がぼそっと言った。
桐箪笥が白を見る。
「おぬしが龍の人か」
白の眉がぴくっと動く。
「その呼び方、そっちにも伝わってるんですか」
四毛猫が答える。
「――分かりやすいので」
「分かりやすくない」
白龍が小さく笑った。
鏡台と桐箪笥は、それぞれ白や白龍、狼神へ挨拶をする。
そして最後に。
少し離れた場所に立つ女性へ目を向けた。
二人の表情が変わった。
桐箪笥が、静かに姿勢を正す。
鏡台も同じだった。
「……これは」
桐箪笥が小さく呟く。
「こりゃ、凄い方にお会いできたもんじゃ」
鏡台も深く頭を下げた。
「お目にかかれて光栄です」
四毛猫が二人を見る。
「――お知り合いなんですか?」
桐箪笥が四毛猫を見る。
「知り合いなどというものではないわい」
鏡台も小声で言う。
「四毛ちゃん。ちゃんとご挨拶なさい」
「――はい」
四毛猫も頭を下げる。
生と死を司る神は、穏やかに微笑んだ。
「そんなに畏まらなくても構いませんよ」
白の妻が、隣の白を見る。
「そんなにすごい方なの?」
白は少し困った顔をする。
「だから言っただろ。昔からいる、すごく偉い神様」
鏡台が思わず白を見る。
「ずいぶん簡単におっしゃるんですね」
「俺が詳しく説明するのも違うかなって」
「それは……まあ、そうですね」
桐箪笥が苦笑した。
◇
しばらく話しているうちに、鏡台がふと空を見上げた。
「あら」
「どうした?」
桐箪笥が尋ねる。
鏡台は少し考えてから言った。
「そろそろ娘が帰ってくる時間よ」
四毛猫が、はっとする。
「――もうそんな時間ですか?」
「日帰りのお約束だったでしょう?」
桐箪笥も頷く。
「もうそんな時間か。では、儂らも帰るとするかの」
四毛猫は少し名残惜しそうに周囲を見る。
白が笑う。
「また来年かな」
四毛猫は少し考えた。
「――たぶん」
白龍が四毛猫を見る。
「今度は神議りまで辿り着けるといいな」
四毛猫が固まる。
「――……まだ見ていません」
鏡台が振り返る。
「四毛ちゃん?」
桐箪笥が笑う。
「やはりのう」
「――来年があります」
「早くも来年頼みか」
鏡台が笑いながら、四毛猫の頭を撫でる。
「まあ、今日はそれでもよかったんじゃない?」
四毛猫は、少しだけ尻尾を揺らした。
「――はい」
三人は、それぞれ周囲へ挨拶をする。
鏡台が頭を下げた。
「それでは、失礼いたします」
桐箪笥も続く。
「また縁があれば」
四毛猫も、
「――失礼します」
と頭を下げた。
その姿が、ゆっくりと薄れていく。
やがて三人は、出雲から姿を消した。
◇
夕方。
「ただいまー」
娘が家へ帰ってきた。
いつもの部屋。
いつもの桐箪笥。
いつもの鏡台。
そして、いつもの招き猫。
何も変わっていない。
娘は鞄を置き、ふと足を止めた。
「……ん?」
招き猫の前に、見覚えのないものが置いてある。
近づいてみる。
「ぜんざい餅?」
誰が置いたのだろう。
両親だろうか。
娘は首を傾げる。
「誰か来たのかな」
もちろん、返事はない。
桐箪笥はただの箪笥。
鏡台はただの鏡台。
招き猫も、いつものようにそこにいるだけ。
娘は、もう一度ぜんざい餅を見る。
それから招き猫を見る。
「……まあ、いっか」
そう言って、少し笑った。
そのとき。
招き猫の口元が、ほんの少しだけ得意げに見えた。
神無月。
けれど、出雲では神在月。
何かを救わなくてもいい。
誰かを導かなくてもいい。
ただ会って。
話して。
少し笑って。
そして、それぞれの帰る場所へ戻る。
そんな年があってもいい。




