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神在月

掲載日:2026/10/06


「今年も、この季節が来ましたね」


山の木々は、すでに秋の色へと変わり始めていた。


その景色を眺めながら、生と死を司る神が静かに言った。


今日は、いつもの見え方とは少し違う。


人の世に降りるため、女性の姿を取っている。


傍らにいた黒い狼が、ゆっくりと顔を上げた。


「今年も、その姿なのですね」


「ええ。この姿のほうが馴染みがありますから」


それ以上の言葉は必要なかった。


長い付き合いなのだ。


神無月。


けれど、神々の集う出雲では神在月と呼ばれる季節。


二柱にとっては、もはや毎年の恒例だった。


「では、今年も向かいましょうか」


「お供します」


二柱の姿が、秋の山から消えた。



◇



「今年は少し、ゆっくりしてこようと思う」


白龍の言葉に、白は少し驚いたように顔を上げた。


「珍しいですね」


「そうか?」


「毎年、顔だけ出してすぐ帰ってくるじゃないですか」


「留守を長くするわけにもいかなかったからな」


白龍の視線の先では、赤、黄、青の三色の眷属たちが、それぞれ人々の願いに耳を傾けていた。


以前とは違う。


今では、三色それぞれが縁を結ぶ龍として知られている。


「赤龍様。これからも、ずっと仲良くいられますように」


「うん。大事にするといいよ」


少し離れたところでは、


「黄龍様。今度こそ、ちゃんと気持ちを伝えられるように……」


「なら、まずは話してみなきゃ始まらないよ」


さらに青のところには、


「青龍様。遠くにいるあの人と、また会えますように」


「縁が残っているなら、きっと繋がるさ」


三色とも、もう人の願いに戸惑うことはない。


自分たちが何を求められているのか、ちゃんと分かっている。


白龍は、その様子をしばらく見つめていた。


「ずいぶん頼もしくなったな」


白が笑う。


「もう白龍様がずっと見てなくても大丈夫そうですね」


「……そうだな」


そこへ三色が戻ってきた。


「白龍様。今年はこちらのことはお任せください」


赤が胸を張る。


「何かあっても、私たちで対応できます」


黄も続く。


「せっかくですから、今年はゆっくりしてきてください」


青までそう言った。


白龍は三色を見回す。


少し前なら、こんなことを言われても安心して任せられなかった。


だが今は違う。


「そうか」


短く答えてから、頷いた。


「なら、今年は任せる」


三色の顔が、ぱっと明るくなる。


白はその様子を見て、少し考えた。


「じゃあ、今年は久しぶりに家族みんなで行こうかな」


白龍が白を見る。


「そうするといい」


「子どもたちも喜ぶと思うので」


「目を離すなよ」


「分かってますよ」


「特に上の子だ」


「……去年のこと、まだ覚えてるんですか」


「我の尾を掴んだ」


「あれは本当にすみませんでした」


白龍は、少しだけ口元を緩めた。



◇



「そういえば、もうすぐ神無月じゃな」


ある日のこと。


桐箪笥が、ふと思い出したように言った。


鏡台がそれに答える。


「そうですね。今年はどうします?」


「どうするかのう」


二人の会話を聞いていた四毛猫が、首を傾げた。


「――神無月が、どうかしたんですか?」


鏡台が優しく笑う。


「出雲では、神在月になるんですよ」


「――神様が集まるところですか?」


「そうじゃ」


桐箪笥が頷く。


「儂らも昔、二度ほど行ったことがある」


「――お二人だけで?」


「おぬしはまだおらんかったからの」


四毛猫は少し考える。


「――出雲って、遠いんですよね?」


「心配なら日帰りにすればよかろう」


桐箪笥が何でもないことのように言う。


「娘が帰ってくる夕方までには戻ればよい」


「――そんなに簡単に行けるんですか?」


「儂らなら大丈夫じゃ」


鏡台も頷いた。


「心配しなくてもいいのよ、四毛ちゃん。私たちが一緒ですから」


四毛猫は、二人の顔を交互に見る。


それから、少しだけ尻尾を揺らした。


「――それなら、行ってみたいです」


「決まりですね」


鏡台が笑った。



◇



出雲。


桐箪笥と鏡台は、かつて訪れた記憶を手掛かりに、人の姿で実体化した。


二人に導かれるように、四毛猫もその場に姿を現す。


「――ここが……出雲ですか」


四毛猫は、辺りを見回した。


見るものすべてが珍しい。


普段は感じることのない気配。


人ならざるもの。


眷属。


神。


名も知らぬ者たちが、当たり前のように行き交っている。


「久しぶりじゃのう」


桐箪笥が辺りを眺める。


鏡台も懐かしそうに目を細めた。


「ええ。変わったような、変わっていないような」


四毛猫が二人を見る。


「――本当に来たことがあるんですね」


桐箪笥が眉を上げる。


「疑っておったのか?」


「――少しだけ」


「失礼な猫じゃの」


「――招き猫です」


「似たようなもんじゃ」


「――違います」


鏡台が小さく笑う。


「はいはい」


桐箪笥は辺りを見回した。


「さて。昔の顔なじみにでも挨拶してくるか」


「そうですね」


四毛猫が首を傾げる。


「――私は?」


鏡台は四毛猫に目を向けた。


「四毛ちゃんは、せっかくですから神議りでも見ておいでなさい」


「――一人でですか?」


「大丈夫ですよ。私たちの力はちゃんと届いていますから」


桐箪笥も続ける。


「遠くへ行きすぎねば問題ない」


「――分かりました」


「迷子にならんようにな」


「――なりません」


「猫はそう言って勝手に歩いていくものじゃ」


「――招き猫です」


鏡台がくすくす笑う。


「行ってらっしゃい、四毛ちゃん」


「――行ってきます」



◇



一方その頃。


「神議りはまだ先ですが、ご挨拶などを済ませますか?」


生と死を司る神が、狼神に尋ねた。


「私は特に」


狼神は、淡々と答えた。


毎年来ている。


今さら慌ただしく挨拶回りをする必要もない。


――その直後だった。


「わんわんだぁ!」


元気な声が響く。


狼神の耳が、ぴくりと動いた。


白一家だった。


上の子がこちらを見つけるなり、一目散に走ってくる。


「わんわん!」


「こら、走るな!」


白が後ろから声を上げる。


だがもう遅い。


上の子は狼神のところへ飛び込むと、容赦なく頭や首元を撫で始めた。


「ひさしぶりー!」


「お久しぶりですね」


狼神は慣れた様子で身を低くする。


その様子を見ていた下の子に、上の子が手招きをした。


「おいでー! このわんわん、やさしいよ!」


白がため息をつく。


「いや、狼だって……まあいいや」


下の子は、まだ少し距離を取っている。


初めて見る大きな黒い狼。


怖くないわけではない。


だが、上の子が楽しそうに撫でている。


狼神も、じっと待っている。


やがて下の子が、少しずつ近づいてきた。


狼神はさらに身体を低くした。


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


小さな手が、黒い毛に触れる。


「……ふわふわ」


「そうですか?」


下の子は、少し考える。


それから、狼神の顔を見上げた。


「ぎゅーしていい?」


狼神の目元が、わずかに柔らかくなる。


「もちろんですよ」


下の子は、黒い首元にぎゅっと抱きついた。


その横では、上の子が相変わらず容赦なく撫でている。


そこへ白龍がやってきた。


しばらくその光景を見る。


そして、首を傾げた。


「狼よ、そんなキャラだったか?」


狼神は、二人の子どもに撫で回されながら顔だけを白龍へ向けた。


「久しぶりだな、龍よ」


「いや、挨拶はいい」


白龍は目の前の光景を指す。


「その状況は何だ」


「何か問題でも?」


「問題がないと思っているのか」


白が横で笑いをこらえている。


生と死を司る神は、穏やかに微笑んだ。


「昔からこうですよ」


白龍がそちらを見る。


「知っていたのか?」


「ええ」


白も頷く。


「毎年こんな感じですよ」


「お前まで」


狼神は特に気にしていない。


上の子に頭を撫でられながら、下の子を静かに抱き止めている。


白龍は、もう一度だけ呟いた。


「……そんなキャラだったか」


そこへ、白の妻が生と死を司る神を見て尋ねた。


「こちらの方は?」


白は少し考えた。


「うーん……昔からいる、すごく偉い神様」


「ずいぶんざっくりね」


「説明すると長いんだよ」


生と死を司る神は、それで構わないというように微笑んだ。



◇



四毛猫は、神議りを見に行くつもりだった。


本当に。


ただ、初めて見るものばかりだった。


あちらを見ては立ち止まり。


こちらを見ては首を傾げる。


まっすぐ進んでいるつもりなのに、どうにも進まない。


そして、ふと。


人の間から、大きな黒いものが見えた。


四毛猫は足を止める。


じっと見る。


もう少し近づく。


子どもが二人。


その間に、大きな黒い獣。


しかも、かなり撫で回されている。


四毛猫は思わず呟いた。


「――……大きな犬ですね」


少し離れたところから声が返ってきた。


「だから狼なんだって……」


四毛猫が、ぱっとそちらを見る。


白だった。


白も四毛猫を見て、すぐに思い出した。


「ああ。あの時の招き猫か」


四毛猫も白を見る。


「――龍の人」


「やっぱりその覚え方なんだな」


白は苦笑する。


四毛猫は首を傾げた。


「――私の声、聞こえるんですか?」


「聞こえるよ」


「――人間なのに?」


「まあ、いろいろあってな」


そのとき。


上の子が四毛猫に気づいた。


「ねこちゃん!」


四毛猫がそちらを見る。


「ねこちゃん、抱っこしていい?」


四毛猫は白を見る。


「――私に聞いていますよね?」


「そうだと思う」


「――構いません」


白が子どもに伝える。


「いいって」


「やった!」


上の子が、四毛猫をそっと抱き上げる。


四毛猫は少し緊張しながらも、大人しく腕の中に収まった。


狼神は相変わらず下の子に抱きつかれている。


白龍が、その様子を見ていた。


やがて四毛猫へ目を向ける。


「お前」


四毛猫が振り返る。


「――はい?」


「ただの付喪神ではないな」


四毛猫が少しだけ姿勢を正す。


白が横から言う。


「白龍様、この猫とは初めてですよね」


「そうだ」


白龍は、四毛猫をじっと見る。


「以前、人の子に降りかかった厄を退けたことがあるな」


四毛猫の目がわずかに見開かれる。


「――分かるんですか?」


「我は何の神だと思っている」


白が小さく答える。


「厄除けの神様」


白龍は構わず続けた。


「自ら傷つきながら、守ったか」


四毛猫は、少しだけ目を伏せる。


「――あの子は、大切な家族ですから」


白龍は短く頷いた。


「そうか」


そして、


「よく守ったな」


四毛猫は、しばらく何も言わなかった。


それから静かに頭を下げた。


「――ありがとうございます」



◇



「四毛ちゃん」


柔らかな声が聞こえた。


四毛猫が振り返る。


鏡台と桐箪笥が、人の姿でこちらへ歩いてくる。


「――鏡台さん。桐箪笥さん」


「こんなところにいたんですね」


鏡台が周囲を見回す。


「神議りを見に行ったんじゃなかったの?」


「――そのつもりだったんですが……」


桐箪笥が周囲を見る。


「随分と賑やかなところに入り込んだもんじゃな」


鏡台は狼神に気づく。


そして、四毛猫を見る。


「四毛ちゃん」


「――はい」


「もしかして、失礼なことを言っていませんよね?」


四毛猫は少し黙る。


「――大きな犬だと」


鏡台が額に手を当てた。


「まあ……」


すぐに狼神へ向き直る。


「うちの子がすみません」


狼神は穏やかに返した。


「お気になさらず」


四毛猫が小さく言う。


「――狼でした」


「最初からそう言っています」


白がぼそっと言った。


桐箪笥が白を見る。


「おぬしが龍の人か」


白の眉がぴくっと動く。


「その呼び方、そっちにも伝わってるんですか」


四毛猫が答える。


「――分かりやすいので」


「分かりやすくない」


白龍が小さく笑った。


鏡台と桐箪笥は、それぞれ白や白龍、狼神へ挨拶をする。


そして最後に。


少し離れた場所に立つ女性へ目を向けた。


二人の表情が変わった。


桐箪笥が、静かに姿勢を正す。


鏡台も同じだった。


「……これは」


桐箪笥が小さく呟く。


「こりゃ、凄い方にお会いできたもんじゃ」


鏡台も深く頭を下げた。


「お目にかかれて光栄です」


四毛猫が二人を見る。


「――お知り合いなんですか?」


桐箪笥が四毛猫を見る。


「知り合いなどというものではないわい」


鏡台も小声で言う。


「四毛ちゃん。ちゃんとご挨拶なさい」


「――はい」


四毛猫も頭を下げる。


生と死を司る神は、穏やかに微笑んだ。


「そんなに畏まらなくても構いませんよ」


白の妻が、隣の白を見る。


「そんなにすごい方なの?」


白は少し困った顔をする。


「だから言っただろ。昔からいる、すごく偉い神様」


鏡台が思わず白を見る。


「ずいぶん簡単におっしゃるんですね」


「俺が詳しく説明するのも違うかなって」


「それは……まあ、そうですね」


桐箪笥が苦笑した。



◇



しばらく話しているうちに、鏡台がふと空を見上げた。


「あら」


「どうした?」


桐箪笥が尋ねる。


鏡台は少し考えてから言った。


「そろそろ娘が帰ってくる時間よ」


四毛猫が、はっとする。


「――もうそんな時間ですか?」


「日帰りのお約束だったでしょう?」


桐箪笥も頷く。


「もうそんな時間か。では、儂らも帰るとするかの」


四毛猫は少し名残惜しそうに周囲を見る。


白が笑う。


「また来年かな」


四毛猫は少し考えた。


「――たぶん」


白龍が四毛猫を見る。


「今度は神議りまで辿り着けるといいな」


四毛猫が固まる。


「――……まだ見ていません」


鏡台が振り返る。


「四毛ちゃん?」


桐箪笥が笑う。


「やはりのう」


「――来年があります」


「早くも来年頼みか」


鏡台が笑いながら、四毛猫の頭を撫でる。


「まあ、今日はそれでもよかったんじゃない?」


四毛猫は、少しだけ尻尾を揺らした。


「――はい」


三人は、それぞれ周囲へ挨拶をする。


鏡台が頭を下げた。


「それでは、失礼いたします」


桐箪笥も続く。


「また縁があれば」


四毛猫も、


「――失礼します」


と頭を下げた。


その姿が、ゆっくりと薄れていく。


やがて三人は、出雲から姿を消した。



◇



夕方。


「ただいまー」


娘が家へ帰ってきた。


いつもの部屋。


いつもの桐箪笥。


いつもの鏡台。


そして、いつもの招き猫。


何も変わっていない。


娘は鞄を置き、ふと足を止めた。


「……ん?」


招き猫の前に、見覚えのないものが置いてある。


近づいてみる。


「ぜんざい餅?」


誰が置いたのだろう。


両親だろうか。


娘は首を傾げる。


「誰か来たのかな」


もちろん、返事はない。


桐箪笥はただの箪笥。


鏡台はただの鏡台。


招き猫も、いつものようにそこにいるだけ。


娘は、もう一度ぜんざい餅を見る。


それから招き猫を見る。


「……まあ、いっか」


そう言って、少し笑った。


そのとき。


招き猫の口元が、ほんの少しだけ得意げに見えた。


神無月。


けれど、出雲では神在月。


何かを救わなくてもいい。


誰かを導かなくてもいい。


ただ会って。


話して。


少し笑って。


そして、それぞれの帰る場所へ戻る。


そんな年があってもいい。

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