【7/6後日談追加】「浮気じゃないよね!?」と聞いたら、友人に会いに行くだけだと言っていました
読んで後悔は絶対にさせません。
*後日談書きました
*短編シリーズ化しました!ホクホクしたい方はシリーズの方へ! ( ദ്ദി。・ω・。)
ローゼン・クライゼンは北国の孤独な領主だった。
北の果てにあるクライゼン領は、一年の半分を雪と氷に閉ざされる。春が来ても土は固く、夏になっても風は冷たい。王都の者たちはこの地を辺境と呼び、地図の端にある寂しい土地だと語る。けれど、そこで暮らす者たちにとっては、ここが家だった。凍った畑を耕し、短い夏に麦を育て、冬の前には薪を積み、吹雪の夜には家族で暖炉を囲む。厳しい土地ではあるが、誰もがここで生きていた。
ローゼンは、その土地を治めていた。
若くして領主となり、戦乱を越え、多くの友人と部下を失い、荒れた北国を立て直してきた男である。人々は彼を強い領主だと言った。冷静で、判断が早く、どれほど困難な状況でも取り乱さない。国境に敵影があると聞けばすぐに兵を動かし、冬の食糧が足りないと分かれば、自分の屋敷の備蓄を先に開ける。領民から見れば、ローゼンは頼るに足る領主だった。
けれど、ローゼン自身は、自分を強い人間だと思ったことがなかった。
自分だけ死ななかっただけなのだ。
戦場には、彼よりよく笑う者がいた。彼より気前がよく、人に好かれ、酒場に入れば誰かしらが声をかけるような友人がいた。帰ったら母に謝るのだと言っていた者もいたし、婚約者に贈る指輪を、戦場の荷の中にまで大事にしまっていた者もいた。彼らは皆、帰れなかった。雪の降る夜、北の谷で、あるいは砦の崩れた壁の下で、あるいは血と泥にまみれた退却路で、死んでいったのだ。
だから彼は、帰ってきてからも、どこか帰りきれずにいた。
屋敷の中には自分の部屋がある。執務室がある。食堂がある。使用人たちがいて、家令がいて、領主としての仕事がある。
だが、それらは全て彼にとって、人生の延長線上でしかない。彼はいつも、あの場所に置き去りにされているような気がしてならないのだ。
本当なら、自分もあの場所で死ぬべきだったのではないか。ローゼンは、何度もそう思った。数多の素晴らしい未来を犠牲にした上に立っている自分が、今さら穏やかな日々を望んでいいはずがない。自分がそれを手に入れることは許されないと。
そう思っていたのだが、何年か前に、長く仕えている従者から誰がと婚約をして所帯を持ってほしいと懇願された。
最初にその話を持ち出された時、ローゼンは断っていた。クライゼン家の存続を考えれば、いずれ婚姻が必要になることくらい分かっていた。領主に後継ぎがいなければ、いざこざを生むだけだと。
しかし、従者たちは引き下がらなかった。それも一人ではない。家令も、古くから仕える侍女も、屋敷の管理を担う者たちも、皆が同じようにローゼンの婚姻を望んでいた。クライゼン家の存続のため。領地の安定のため。そして何より、ローゼン自身がこのまま一人で生き続けることを、彼らが案じていたためだった。
ローゼンは何度も断った。自分に家庭を持つ資格はない。誰かを迎え入れても、穏やかな夫にはなれない。北国の暮らしは厳しく、王都の令嬢にとって幸せな場所とは言えない。そう言って、婚約の話を遠ざけようとした。
けれど、従者たちは諦めなかった。
その必死さを前にして、ローゼンは最後まで拒み続けることができなかった。
結局、ローゼンは気負けするような形で、婚約を受け入れることにした。
とはいえ、それは家庭を望んだからではない。穏やかな未来を夢見たからでもない。クライゼン家のため、領地のため、従者たちの懇願をこれ以上退けられなくなったため。ただそれだけの理由で、彼は婚約の話を進めることを許したのだった。
そんなこんなで遙か北方の地に嫁いできたのが、アリシア・レインフォードという令嬢だった。
アリシアは大陸の南部出身だ。
大陸南部といえば、クライゼン領とはまるで違う土地である。冬でも雪は珍しく、春になれば早くから花が咲き、夏には果実が甘く熟れる。海に近い地方では潮の匂いが風に混じり、王都よりさらに南へ行けば、白い石造りの屋敷と明るい庭園が並ぶという。
そんな土地で育った令嬢が、よりにもよって北の果てへ嫁いでくる。
ローゼンは、その話を聞いた時、やはり何かの間違いではないかと思った。北国の冬は、慣れている者でさえ時折うんざりする。風は頬を刺し、雪は窓を塞ぎ、日が短くなる頃には屋敷全体が静まり返る。南部で育った令嬢にとっては、寒さだけでなく、その静けさも堪える。華やかなものに囲まれて育った娘なら、数日でこの土地を嫌になってもおかしくなかった。
けれど、アリシアは意外にも北部の暮らしについて興味津々だったという。
それが嫁ぐ理由だったのかは今でも分からない。ただ、アリシアがこの婚姻をただの不運として受け止めていなかったことだけは確かだった。
◇
そんなこんなでアリシアとは夫婦になった。
婚約の時点でも、結婚した直後でも、ローゼンは自分が彼女と穏やかな家庭を築くとは考えていなかった。アリシアを嫌っていたわけではない。むしろ、彼女が北国で困らないようにすることには、かなり気を配っていた。
そして、彼の予想に反して、二人の関係性は良いものになっていた。
アリシアはよく笑い、よく話しかけ、ローゼンにも自然に寄り添ってきた。食事の席では、その日の天気や、使用人から教わった北国の習慣について楽しそうに話した。ローゼンが短く返すだけでも、彼女は退屈そうにはしなかった。時には彼の手の冷たさに気づいて、自分の両手で包むこともあった。ローゼンはそのたびに少し戸惑ったが、拒むことはできなかった。
アリシアは、ローゼンを当たり前のように夫として扱った。朝には「おはよう」と言い、夜には「おやすみ」と言い、廊下ですれ違えば必ず足を止めた。疲れているように見えれば心配し、食事を残せば少し不満そうに眉を寄せ、寒い日に彼が薄着でいれば、呆れたように注意した。
その姿には、ローゼンが申し訳ないと思ってしまうほどの温かさがあった。
「もー!ローゼンったらまたそんな薄着して!」
ローゼンは、自分の服装を見下ろした。厚手とは言えない上着を一枚羽織っているだけだったが、屋敷の中を歩く程度なら十分だと思っていた。けれどアリシアは、まるで重大な問題を見つけたかのように小走りで近づいてくると、彼の袖をつまんで信じられないと言いたげに眉を寄せた。
「これで外に出るつもりだったの?だめだよ。雪国の人だからって、寒さに勝てるわけじゃないんだから。貴方はすぐ平気そうにするけど、手も冷たいし、肩も冷えてるし、絶対にちゃんと寒いでしょ」
「これくらい大丈夫だよ。心配しないで。外に出るつもりはなくて、廊下を歩くだけだったから」
「廊下も寒いの。特にこの辺り、窓から冷気が入るでしょう?私、もう覚えたんだから。ほら、こっち来て。上着をもう一枚持ってくるから、そこで待ってて」
「アリシア、そこまでしなくても」
「します。私が気になるからします。あなたは領地のことなら小さな不安でも放っておかないのに、自分のことになると急に雑になるんだから。そういうところ、よくないよ」
そんなふうに言われると、ローゼンは強く断れなかった。アリシアの言葉は明るく、少し勢いがあり、時には子どもを叱るようでもある。だが、その根にあるのはいつも心配だった。
「それに、あんまり夜中に屋敷中を歩き回るのは良くないよ。身体にも悪いし、一緒に戻ろう?」
アリシアはそう言って、袖をそっと掴む。
「ごめんね、アリシア。迷惑かけちゃって」
ローゼンがそう言うと、アリシアはきょとんとしたあと、すぐに首を横に振った。
「なーんも!大丈夫だよ。迷惑っていうなら、私が勝手に心配しているだけだもん。貴方が謝るところじゃないよ。まあ、薄着で歩き回ったことについては、ちょっと反省してほしいけど」
「そこは反省するよ。君に心配をかけるつもりはなかったんだ。ただ、少し眠れなくて、部屋にいるより歩いた方が落ち着くかと思っただけなんだ」
アリシアはローゼンの隣へ寄ると、肩をぎゅっと寄せ、少しだけ上目遣いに彼を見た。
「眠れない日があるのは、仕方ないよ。私だって、南部からここに来たばかりの頃は、風の音が気になってなかなか眠れなかったもん。窓が鳴るたびに、何かが外にいるんじゃないかって思ったし、暖炉の火が小さくなると急に寂しくなった。でもね、そういう時、一人で我慢してると、どんどん寂しくなるんだよ」
ローゼンは黙ってアリシアを見た。
「だから、もっと私を頼って頂戴?私達、夫婦なんだから。貴方が全部一人で抱えようとするのは、あなたが優しいからだって分かってるよ。私に怖い思いをさせたくないとか、眠れない夜に付き合わせたくないとか、きっと色々考えてくれてるんだと思う。でもね、何も知らされないまま遠くに置かれる方が、私はずっと寂しいの。あなたが苦しんでるのに、私だけ何も出来ない方が嫌だよ」
ローゼンは、しばらく返事ができなかった。
優しい言葉を向けられることには、今でも慣れていない。責められる方が、まだ分かりやすい。怒られれば謝ればいいし、叱られれば改めればいい。けれどアリシアは、責める代わりに隣へ来て、当たり前のように肩を寄せてくる。
その温かさを、ローゼンはどう受け取ればいいのか分からなかった。
「……ありがとう、アリシア」
ようやく出た言葉に、アリシアは少しだけ嬉しそうに笑った。
「うん。どういたしまして」
ローゼンはその笑みを見てから、彼女の肩に視線を落とした。
「君も冷えただろう。とりあえず、何か温かい飲み物を作るよ。何か飲むかい?」
アリシアは少し驚いたようにローゼンを見つめ、それからふわりと笑った。
「じゃあ、私は蜂蜜を入れたお茶がいいな。少し甘いやつ。ローゼンも同じの飲もう? 眠れない夜には、苦いお茶より甘いお茶の方がいいと思うの」
「甘いものは、君の方が詳しいね」
「任せて。南部育ちだから、こういうのは詳しいのよ」
そうして、ローゼンはアリシアと並んで、暖炉のある部屋へ戻るために歩き出した。
◇
ある、雪解けの日だった。
長い冬の名残はまだ屋敷の周りに残っていたが、屋根から落ちる雪解け水の音が、朝の静けさの中にぽつりぽつりと響いていた。
ローゼンは、まだ日が昇りきらないうちから服を着替えていた。
普段の執務服ではない。外出用の厚手の上着に袖を通し、革手袋を卓上に置き、古い黒い外套を肩に掛ける。その外套は長く使い込まれていて、襟元にわずかな擦れがあった。屋敷の者なら誰もが知っているものだったが、最近はあまり使われていなかった。
机の上には、小さな花束が置かれていた。
北国で春の初めに咲く、色の淡い花だった。雪解けの土から最初に顔を出すその花は、クライゼン領では春を告げるものとして大切にされている。ローゼンはそれを手に取ると、しばらく黙って見下ろした。
今年も、この日が来た。
そう思っても、胸の中に浮かぶ言葉はなかった。ただ、指先だけが少し冷える。窓の外を見れば、屋敷から続く道にはまだ薄く雪が残っている。馬車を出すほどの距離ではない。歩いて行ける場所だ。いや、歩いて行かなければならない場所だと、ローゼンは毎年そう思っていた。
支度を終え、部屋を出る。
廊下はまだ静かだった。使用人たちが動き始める時間には少し早い。ローゼンは誰にも声をかけず、そのまま玄関へ向かった。こういう時、誰かに見送られるのは苦手だった。どこへ行くのかと尋ねられれば答えなければならない。答えれば、余計な心配をかける。それが分かっていたから、彼は毎年、朝早くに一人で出ていた。
けれど、玄関前まで来たところで、背後から小さな足音が聞こえた。
「……ローゼン?」
振り向くと、アリシアが立っていた。
寝間着の上から厚手の羽織を引っかけ、髪もまだきちんと整えられていない。目元には眠気が残っていて、普段の明るさも少しだけぼんやりしている。それでも彼女は、扉の近くに立つローゼンを見つけると、ほっとしたように息を吐いた。
「貴方が部屋からいなくなっていたから」
それだけ言って、アリシアはゆっくり近づいてきた。
「こんな朝早くに出かけるの?一人で?ま、ま、まさか浮気じゃないよね!?」
「北方の地に君より可愛い人なんていないよ。そういうのじゃないから心配しないで」
「あはは!冗談だよ。貴方に限ってそんな事をしないって分かってるわ。起きたらいなかったのには、ちょっとびっくりしたけど」
アリシアの声は眠たげだったが、そこだけはしっかりしていた。
ローゼンは返す言葉を失った。
「……悪かった。君を心配させるつもりはなかったんだ」
「うん。貴方がそういうつもりじゃないのは分かってる。でも、つもりがなくても心配はするの」
アリシアはそう言って、ローゼンの手元を見た。
「どこか、大事なところへ行くの?」
ローゼンはしばらく黙っていた。
玄関の扉の向こうでは、雪解け水の音がしている。毎年この日は一人だった。誰にも告げず、朝早くに屋敷を出て、決まった場所へ向かう。ただ、それだけのことだった。誰かを連れて行くことなど、考えたこともなかった。
「……友人に会いに行くんだ」
「そう……昔から友人」
「そうだったんだ」
アリシアはそれ以上、すぐには尋ねなかった。花束を持っていることにも、黒い外套を着ていることにも気づいているはずだった。
「一人で行くつもりだったの?」
「そのつもりだった」
「私も行っていい?」
ローゼンは思わずアリシアを見た。
「楽しい場所ではないよ」
「うん。でも、貴方が毎年会いに行くくらい大事な人なら、私もちゃんとご挨拶したい」
「……挨拶?」
「そう。あなたの妻ですって。いつもローゼンを心配している妻ですって、ちゃんと言うの。それに話したい事も色々あるしね」
アリシアは少し照れたように笑った。
◇
山の麓へ着く頃には、朝の光が雪解けの地面を淡く照らしていた。
屋敷を出た時にはまだ白く霞んでいた空も、今は少しずつ青みを帯びている。道の端には冬の名残が残り、踏みしめるたびに湿った土が小さく音を立てた。アリシアは厚手の外套に身を包み、ローゼンの隣を歩いていた。途中で何度か足を取られそうになったが、そのたびに彼が手を差し出した。
「ここ、思っていたより歩くね」
アリシアは息を整えながら言った。
「疲れた?」
「大丈夫。ちゃんと歩けるよ」
「もう少ししたら着くよ」
山の麓に近づくにつれて、道は細くなっていった。屋敷から続いていた踏み固められた道は途中で途切れ、今は木々の間を抜けるような小道になっている。雪解け水がところどころに浅い流れを作り、土は柔らかく沈みやすい。アリシアは足元を確かめながら、慎重に歩いていた。
「ここ、毎年来ているの?一人で?」
「そうだね。そんな感じかな」
いつもの彼女なら、「それは寂しいよ」とすぐに言ったかもしれない。けれど今は、そうしなかった。ただ、ローゼンの隣を離れず、少し遅れそうになると小走りで追いついてくる。
「転ばないように」
ローゼンはそう言って、手を差し出した。
アリシアは一瞬だけ目を丸くしたあと、嬉しそうにその手を取った。
「ありがとう。今日はちゃんと頼るね」
「……それは、君に言われると少し困るね」
「いーの!夫婦だから、どっちが言ってもいいんです」
アリシアはそう言って笑った。
◇
二人は、やがて目的地へ着いた。
そこは、山の麓にひっそりと広がる、英霊を弔う墓地だった。城下の墓地のように人の出入りが多い場所ではない。木々に囲まれ、雪解け水の音だけが響いている。地面にはまだ白い雪が薄く残り、その間から春の淡い草が少しだけ顔を出していた。
墓地には、いくつもの十字架が立て付けられていた。新しいものではない。風雪に晒され、木の表面は少しずつ色を失っている。中には傾いたものもあり、根元に苔をまとったものもあった。その一つ一つに、かつて誰かがいた。名前があり、帰る場所があり、待っている人がいた。
アリシアは、そこで初めて足を止めた。
ローゼンが「友人に会いに行く」と言った意味を、改めて理解したのだろう。
彼は、アリシアの手をそっと離した。
それから、持ってきていた花束とは別に、外套の内側から小さな酒瓶を取り出した。古びた瓶だった。飾り気のない透明な瓶に、琥珀色の酒が入っている。
ローゼンは一番手前の十字架の前で足を止めた。
膝をつき、瓶の栓を開ける。冷えた空気の中に、強い酒の匂いがわずかに広がった。ローゼンはその酒を、ほんの少しだけ十字架の根元へ注いだ。雪解けの土に、琥珀色の酒が染み込んでいく。
それからローゼンは、次の十字架へ向かった。そこでも同じように膝をつき、酒を注ぐ。さらに次の十字架へ。ひとつ、またひとつ。どの十字架の前でも、必ず少しだけ足を止め、酒を注ぎ、何かを胸の内で確かめるように目を伏せた。
アリシアは、少し離れたところで見守っていた。
声をかけていいのか分からなかった。明るく励ますには、あまりにも静かな場所だった。
ローゼンは空になった瓶を外套の内側へしまうと、改めて十字架の並ぶ墓地へ向き直った。
そして、その場に膝をついた。
冷たい土に片膝をつき、両手を静かに組む。目を閉じ、頭を垂れるその姿は、領主として民の前に立つ時の彼とは少し違っていた。いつも背筋を伸ばし、何があっても動じないように見えるローゼンが、今はただ一人の生き残った友として、そこにいた。
アリシアも、彼の後ろでそっと膝をついた。
裾が土に触れることも、冷たさが膝に染みることも気にしなかった。ローゼンと同じように手を組み、十字架の並ぶ方へ静かに頭を下げる。
彼女は、ここに眠る人たちの名前を知らない。
どんな声で笑ったのかも、どんな酒を好んだのかも、誰を待たせていたのかも知らない。ローゼンが彼らとどんな話をして、どんな夜を越え、どんな別れをしたのかも分からない。
それでも、祈ることはできると思った。
どうか、安らかでありますように。どうか、ローゼンが今日ここへ来たことが、少しでも届きますように。
そして、もし許されるなら。アリシアは閉じた目の奥で、静かに願った。
やがて、ローゼンはゆっくりと目を開けた。
隣を見ると、アリシアはまだ頭を下げていた。彼女の肩に、春先の冷たい風が触れている。ローゼンは無意識に、自分の外套を少しだけ彼女の方へ寄せた。
その小さな動きに気づいたのか、アリシアがそっと顔を上げる。
「……終わった?」
ローゼンは少しだけ間を置いてから、頷いた。
「うん。終わったよ」
ローゼンは立ち上がり、土のついた膝を軽く払った。アリシアもそれに続いて立ち上がる。彼女の裾にも、雪解けの泥が少しついていた。ローゼンはそれを見て、何か言おうとしたが、アリシアは先に小さく笑った。
「大丈夫。これくらい、ちゃんと落ちるよ」
「……すまない。寒い中、付き合わせた」
「いいのいいの!伝えたいこともちゃんと伝えられたし」
アリシアはそう言って、十字架の並ぶ方へもう一度だけ頭を下げた。それからローゼンの隣に戻り、来た道の方を見る。
「戻ろうか」
◇
二人は、山の麓を後にした。来る時よりも、道は少し明るく見えた。
しばらく、二人は黙って歩いた。
先に口を開いたのは、ローゼンだった。
「時々分からなくなるんだ。何故、自分は生きているのだろうって。人より少し偉かったからなのか、それとも自分が愚かだったからなのか。私は、彼らの人生を見殺したような気がしてならない。彼らを殺したのは敵だけなのか。私の判断は、本当に彼らの死と無関係だったのか。そう考えると、今でも分からなくなる」
「ローゼン」
アリシアは、ローゼンの手をそっと離すと、彼の後ろへ回った。そして、その背中に額を寄せるようにして、両腕を回した。
ローゼンは息を止めた。
背中に、アリシアの温もりがある。外套越しでも分かるほど、確かな温かさだった。彼女の腕は細く、力も強くはない。それでも、今のローゼンをその場に繋ぎ留めるには十分だった。
「貴方が後ろめたい気持ちは分かるよ。簡単に忘れられるものじゃないし、きっと誰に何を言われても、貴方はこれからも考えてしまうんだと思う。でもね、救われた命にも目を向けて欲しい。私だって南部の生まれだけれども、貴方たちが北部で奮闘していなければ、今頃、死んでいたのかもしれないのよ。戦火が広がれば、北も南も関係なかったでしょう? 誰かが止めなければ、私の家も、私が知っていた町も、全部なくなっていたかもしれないわ」
ローゼンの肩が、かすかに震えた。
「私は、貴方が救えなかった人たちのことを、なかったことにしてほしいわけじゃない。忘れてほしいわけでもないよ。でも、貴方が救ったものまで見ないふりをしないでほしいの。救われた人のことを考えるのは、亡くなった人を軽んじることじゃないよ。貴方が守ったものを認めることは、貴方が失ったものを忘れることとは違うよ。どちらも、貴方の中にあっていいんだと思う」
ローゼンは、すぐには言葉を返せなかった。
「それに、私がなんで貴方についていったと思っているの」
アリシアは、ローゼンの背中に額を寄せたまま、少しだけ声を柔らかくした。
「彼らがいなかったら、この子もいなかったから。ちゃんと感謝を伝えようと思ったの」
そう言って、アリシアはそっと腕を緩めた。
ローゼンが振り返ると、アリシアは彼を見上げていた。頬は少し赤く、けれどその目は真っ直ぐだった。そして彼女は、厚い外套の上から、自分のお腹へ静かに手を添えた。
ローゼンは、その仕草の意味をすぐには理解できなかった。いや、理解したくても、頭が追いつかなかった。
「まさか、アリシア……!」
声が掠れた。
アリシアは、そんな彼の反応を見て、少しだけ照れたように笑った。
「あら、毎日、貴方と同じ部屋にいるのよ。それくらいは分かっていた事でしょう?」
いつものような軽い調子だった。けれど、アリシアはどこか嬉しそうだった。
ローゼンは息を呑んだまま、アリシアを見つめた。
彼女の手が触れている場所。まだ目に見えて分かるほどではない。けれど、そこに新しい命があるのだと、彼女は言った。
自分の子が。自分とアリシアの子が。
ローゼンの胸に、言葉にならないものが込み上げた。喜びなのか、恐れなのか、安堵なのか、分からない。ただ、胸の奥が強く揺れて、足元の雪解けの道さえ遠く感じた。
「……本当に?」
ようやく出た声は、ひどく頼りなかった。アリシアは頷いた。
「うん。本当。まだ皆には言ってないけど、先に貴方にはちゃんと言いたかったの。なのに、貴方ったら朝早くに一人で出て行こうとするんだもの。もう、びっくりしたんだからね」
「すまない……いや、違う。今は、謝るところではないね」
「そうだよ。今は謝るところじゃありません」
アリシアは少しだけ得意げに言った。
ローゼンは、一歩近づいた。
触れていいのか分からなかった。抱きしめたい。けれど、強く抱きしめてはいけない気もした。そんな迷いが表情に出ていたのだろう。アリシアは小さく笑って、両腕を広げた。
「そんなに困らなくても大丈夫だよ。抱きしめるくらいなら、してくれていいの」
その言葉で、ローゼンはようやく動いた。
アリシアを、そっと抱きしめる。
強くはできなかった。壊れ物に触れるように、けれど離したくないという思いだけは抑えきれず、彼女の背に腕を回す。アリシアは彼の胸元に頬を寄せ、満足そうに息を吐いた。
「……アリシア」
「うん」
「私は、父親になれるだろうか」
アリシアは、彼の胸元に額を寄せたまま答えた。
「なれるよ。最初から完璧じゃなくていいの。私だって、母親になるのは初めてだもの。二人で少しずつ覚えればいいよ」
アリシアは、彼の腕の中で顔を上げた。
「良い?貴方は生きなきゃいけないのよ。民の為に、私の為に、そしてお腹のこの子の為に」
ローゼンはゆっくりと息を吐き、アリシアの肩にかかっていた外套を少し直した。山の麓から吹いてくる風はまだ冷たい。雪解けの日とはいえ、彼女には十分すぎるほど寒いはずだった。
「帰ろう、家に。……もう少し厚いものを着せておけば良かったと思っている」
アリシアは、ぱちりと瞬きをしたあと、少しだけ照れたように笑ったのだった。
◇
屋敷へ戻った頃には、朝の支度が始まっていた。
厨房の方からは焼きたてのパンの匂いが漂い、廊下には使用人たちの足音が行き交っている。玄関扉が開くと、外の冷たい空気が屋敷の中へ流れ込み、近くにいた侍女が驚いたように顔を上げた。
「旦那様、奥様……!お帰りなさいませ」
屋敷へ戻った頃には、朝の支度が始まっていた。
アリシアは侍女に向かって、少し申し訳なさそうに笑った。
「ごめんね。彼の付き添いをしていたの。遅くなってごめんなさい」
侍女は慌てて首を横に振った。
「いえ、とんでもございません。ご無事で何よりでございます。ただ、お姿が見えませんでしたので、皆、少し心配しておりました」
その言葉に、ローゼンはわずかに視線を落とした。
「悪かった。何も告げずに出たのは、私の落ち度だ。今日は遠出をして疲れたから、私達は部屋で食べようと思う。食堂に用意していたものがあるなら、君たちが使いなさい」
「よろしいのですか?」
「構わない。朝から騒がせたからね。温かいうちに食べてくれ」
侍女はまた少し驚いた顔をしたあと、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。すぐに奥様のお部屋へ朝食をお持ちいたします」
「軽いものでいい。彼女は冷えているから、先に温かい茶を頼む」
「かしこまりました」
侍女が足早に廊下の奥へ向かうと、アリシアは隣でくすりと笑った。
「もう、心配しすぎよ」
アリシアはそう言ったが、どちらかといえば、少し嬉しそうで、少し照れくさそうだった。
そうして二人は部屋へ戻る。
部屋に入ると、暖炉にはすでに火が入っていた。薪が小さく弾け、冷えた身体に柔らかな熱が届く。ローゼンはまず彼女を椅子へ座らせ、近くに畳まれていた毛布を取って膝に掛けた。アリシアは大人しくされるがままになっていたが、毛布を掛けられたところで、さすがに困ったように笑った。
「もう、本当に大げさなんだから」
そう言いながらも、彼女は毛布を押し返さなかった。冷えた指先をそっと毛布の中へ入れ、暖炉の火に向かって息を吐く。
「今日、貴方と一緒にあの場所に行けて良かったわ。結婚してからずっと元気がない理由が、ようやく分かったもの」
「……隠していたつもりだったんだけれどね」
「隠せていなかったわ。もうバレバレよ」
アリシアは続けて話す。
「最初は、私と結婚したことを後悔しているのかと思ったの。北国に来た私を気遣ってくれているのは分かっていたけど、貴方はいつもどこか遠くにいるみたいだったから」
ローゼンの胸が、わずかに痛んだ。
アリシアにそんな思いをさせていたとは、考えたこともなかった。
「今度からは、もっと悩み事を打ち明けることにするよ」
「当然よ。夫婦なんだから!」
アリシアはそう言って、当然のように胸を張る。その明るさに、ローゼンはほんの少し救われる気がした。
「アリシア」
「なあに?」
「落ち着いたら、南部へ行こう」
アリシアは瞬きをした。
「南部って……私の故郷?」
「そうだね。君の家族にも、きちんと挨拶をしたい。君が育った町や、よく話してくれる庭や市場も見てみたい」
アリシアはしばらく言葉を失っていた。
ローゼンは続けた。
「もちろん、すぐにとは言わない。君の身体のことがある。医師にも相談するし、長旅に耐えられる時期を選ぶ。数ヶ月後になるか、もっと先になるかもしれない。それでも、君が望むなら一緒に行きたい」
「本当!?」
アリシアの声が弾む。毛布を掛けられていることも忘れたように、彼女は身を乗り出した。
「あなたとデートって初めて!」
ローゼンは一瞬、返事に詰まった。
「……デート、なのかな」
「そうよ。二人で出かけて、私の好きな場所を案内して、美味しいものを食べて、花を見て歩くんでしょう?それはもう立派なデートよ」
アリシアは続けて話す。
「南部に行ったらね、まず庭を案内したいわ。春は白い花がたくさん咲くの。北国の花とは全然違って、風が吹くと花びらがふわっと舞うのよ。それから市場にも行きたい。果物がたくさん並んでいて、甘い焼き菓子を売っている店もあるの。あなた、甘いものはそこまで得意じゃないかもしれないけど、あそこの蜂蜜菓子は絶対に食べてほしいわ」
「君がそこまで言うなら、食べてみるよ」
「それから、海の近くにも行きたい。潮の匂いがする道を歩くの。北国とは風の匂いが違うから、きっと驚くわ」
話すうちに、アリシアの表情がどんどん明るくなっていく。
ローゼンはそれを見て、今まで彼女がどれほど故郷を恋しく思っていたのかを知った。
「もっと早く提案するべきだったね」
「いいの。今言ってくれたから」
アリシアはそう言って、毛布の上から自分のお腹に手を添えた。
「この子にも、いつか私の故郷を見せたいと思っていたの。北国も大好きだけど、南部にも綺麗な場所がたくさんあるから。凄く楽しみにしているね?」
その時、扉の向こうから足音が近づいてきた。温かい茶と朝食が運ばれてきたのだろう。焼きたてのパンの匂いが、部屋の中へふわりと届く。
アリシアは毛布を整えながら、まだ嬉しそうにしていたのだった。
続き書いています!是非シリーズの方へ!




