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第八章 「手紙と、言えなかったこと」

芽依がくれた紙は、教科書の間に挟んだまま一週間が経った。


捨てる気にはなれない。かといって机の上に出しておく気にもなれない。教科書を開くたびに紙切れが見えて、見えるたびに少しだけ耳が熱くなる。その繰り返しが一週間続いた。

自分でも少し、おかしいと思う。


木曜日の放課後、芽依が「少し寄り道してもいいですか」と言った。


「どこに」

「文具屋さん。ノートがなくなりそうで」

「別にいい」


駅近くの小さな文具店に入った。山梨の田舎の文具店で、棚の半分が農業用の帳簿や領収書の束で占められているような店だが、奥の方に普通のノートや便箋もある。

芽依はノートを二冊選んでから、便箋の棚の前で足を止めた。


「便箋、探してるの?」

「はい。穂乃果に、手紙を書こうと思って」

「手紙? メッセージじゃなくて?」

「メッセージだと早く送れてしまうから。手紙だと、書きながら考えられる」


芽依が棚から薄青色の便箋を取り上げた。封筒とセットになっているやつで、端に小さな野草の絵が印刷されている。


「これにします」

「穂乃果さんに謝るの?」

「謝るだけじゃなくて。ちゃんと気持ちを書きたくて」


ちゃんと気持ちを書く。

私にはできることと、できないことがある。


会計を済ませて外に出た。十二月の風が頬を叩いた。


「凛って、手紙を書いたことありますか」

「小学校の時に遠足の感想を書いたくらい」

「恋文は?」

「ない」

「書いてみたいとも思わない?」


私は少し考えた。自転車を押しながら、砂利道を歩く。


「書きたいことはある。でも書けるかどうかはわからない」

「書きたいことって、どんな」

「……言ったら手紙の意味がない」


芽依が少し笑った。


「じゃあ、いつか書いてみてください。私でよければ、読みますから」


私でよければ。


その言葉を、しばらく頭の中で転がしていた。


その日の夜、私は机に向かった。


別に手紙を書くつもりではなかった。ただ、宿題を終わらせてから、なんとなくノートの端に何か書き始めた。


最初は「芽依へ」と書いた。

それだけで手が止まった。


次の言葉が出てこない。何を書けばいいのか、わからない。伝えたいことはある、と思っていたのに、いざペンを持つと何も形にならない。頭の中にあるのは言葉ではなく、場面だ。屋上の風景。農道の夕日。芽依の横顔。手のひらサイズの紙切れ。そういうものが浮かぶだけで、それを言葉にする術が私にはなかった。


……むずかしい。


芽依は手帳にぎっしりと言葉を書いていた。あれはどこから出てくるのだろう。感じたことをそのまま書く、と言っていたけれど、私が感じたことをそのまま書こうとすると、どうにも言葉が体の外に出てくれない。

山梨の子だから、とはさっき自分で言ったことだ。根っこが深いということは、言葉が出てくるのも遅いということかもしれない。


もう一度ペンを持った。

今度は「芽依へ」を消して、ただ書きたいことを書いた。手紙の形じゃなくていい。誰かに届けるためじゃなくていい。ただ書く。


屋上が好きだ。富士山が見えるから好きなのか、芽依がいるから好きなのか、最近わからなくなった。たぶん両方だと思う。両方でいいと思う。


書いてから少し考えて、その下に続けた。


芽依がいなくなったら屋上はただの屋上に戻る気がする。でも芽依がいる限り、ここは特別な場所だ。そういうことが、人によって起きるということを、私は今年初めて知った。


ペンを置いた。

読み返した。

恥ずかしくて、ページを折った。


でも捨てなかった。


土曜日の午後、芽依から連絡が来た。


芽依: 手紙、書き終わりました。

芽依: 穂乃果に送ります。


凛: 全部書けた?


芽依: 全部は無理でした。でも、今書けることは書いた感じがします。

芽依: 謝ること、それから山梨でのこと、凛のこと少しだけ書きました。


凛: 私のことも書いたの。


芽依: 少しだけ。「山梨にいい人がいる」って。


少し笑ってしまった。


凛: それだけ?


芽依: 穂乃果への手紙に凛のことをたくさん書いたら変じゃないですか。

芽依: でも「いい人がいる」は本当のことだから書きました。


凛: 穂乃果さん、どう思うかな。


芽依: 「誰それ、会いたい」って言うと思います。

芽依: 穂乃果はそういう子なので。


凛: 今度来たら、ちゃんと話す。


芽依: ……本当ですか。


凛: 本当。


芽依: うれしいです。穂乃果も絶対うれしがると思う。

芽依: 凛のこと、気に入ってるから。


凛: 気に入られた記憶がない。最初から鋭かった。


芽依: あれが穂乃果の愛情表現です。

芽依: 本当に嫌いな人には、あんなに直球で話しかけません。


なるほどそういうものか、と思った。


凛: 手紙、ちゃんと届くといいね。


芽依: 届くと思います。

芽依: 今日、ポストに入れてきます。


それから少しして、また連絡が来た。


芽依: 入れてきました。

芽依: ポストの口に吸い込まれた瞬間、少しだけ怖かったです。

芽依: でも、さっぱりしました。


凛: それでいい。


芽依: はい。凛に言われると、それでいい気がします。

芽依: ありがとう、凛。


返信を打とうとして、止まった。

「どういたしまして」と打っても、なんか違う気がした。

少し考えてから、こう送った。


凛: 私も、今夜何か書いた。

凛: 手紙じゃないけど。


芽依: ……見せてもらえますか。


凛: まだ無理。

凛: もう少ししたら、たぶん。


芽依: 待ちます。

芽依: ゆっくりでいいです。


それで終わりにした。

スマートフォンを置いて、ページを折ったノートを机の引き出しにしまった。


まだ無理。でも、たぶん。


その「たぶん」は、今年の最初の頃にはなかった言葉だ。


一週間後、芽依のスマートフォンに穂乃果から返事が来た。


昼休み、芽依がいつもより足取りが軽くて、屋上に着いてすぐ「返事来ました」と言った。


「何て書いてあった?」

「読みますか」

「芽依が読んでいいと思うなら」


芽依がスマートフォンを開いて、スクロールした。それから少し考えてから、読み上げた。


「……「遅い。でも来た。ありがとう」って書いてありました。それから「山梨のいい人って誰ですか。写真送ってください」って」


私は少し笑った。


「それだけ?」

「あとは長いので省略します。でも、最後に一個だけ」


芽依が少し間を置いて、読んだ。


「「好きって言ったのに逃げた芽依のことを、私は今も好きです。その気持ちは変わらない。でも、山梨で変わっていくあなたを、遠くから応援する方が今は自然な気がする。だからちゃんと生きてください」って」


屋上に風が吹いた。

私は富士山の方を向いたまま、何も言わなかった。

芽依も少しの間、黙っていた。


それから芽依が、ふうと息を吐いた。深くはないけれど、長い息だった。


「……いい子ですね、穂乃果は」

「すごくいい子だ」

「こんな手紙が書けるなんて、私よりずっと大人です」

「そうかな。ただ正直なだけだと思う」


芽依が「そうですね」と言った。その顔は、泣きそうでも笑いそうでもなく、なんというか、ようやく落ち着いた人の顔をしていた。長い間ずっと少し傾いていたものが、やっと水平に戻ったような。


「凛」

「うん」

「私も、ちゃんと生きます」


言い方がまっすぐすぎて、少し笑いそうになった。でも笑わなかった。


「知ってる」

「知ってるって言い切るんですね」

「毎日見てるから」


芽依がやっと笑った。今日一番ちゃんとした笑顔だった。


冬休みが近づいていた。


終業式の前日、帰り支度をしていたら、芽依が「少し待ってください」と言って、リュックの中をがさごそした。


「これ」


薄青色の便箋を折りたたんだものを渡してきた。あの文具店で買っていたやつだ。


「手紙?」

「穂乃果への手紙を書いた時、もう一枚書きました。凛へのやつ」


「……今読む?」

「家で読んでください。今読まれると、恥ずかしくて隣にいられないので」


芽依の頬が少し赤かった。風邪かな、と思ったが、外は寒いから仕方ない、とも思った。どちらかは判断できなかった。


「わかった」

「……凛」

「なに」

「冬休み中も、連絡してもいいですか」

「どうぞ」

「毎日でも?」

「……まあ」


芽依がにっこりした。キツネみたいな目が細くなった。


「じゃあ、また来年」

「また来年」


帰り道、一人で農道を走りながら、便箋を上着のポケットの中で確かめた。折り目のある薄い紙の感触。

家に帰ってから部屋に入って、鍵もかけないのに鍵をかけた気持ちで椅子に座って、手紙を開いた。


芽依の字で、こう書いてあった。


凛へ


山梨に来てから、ずっと嘘をついていた気がします。

「家の事情で来ました」という嘘と、「なんでもないです」という嘘と、自分が何を感じているかわからないふりをする嘘。


でも屋上でおにぎりを食べるようになってから、少しずつ嘘が減った気がします。


凛は嘘をつかない人だと思う。言わないことはあるけど、嘘はつかない。そういう人の隣にいると、自分も少しだけ正直になれる気がしました。


ありがとう。これからも隣にいてください。


白石芽依


読み終えた。

しばらくの間、ただ持っていた。


窓の外は夕方になりかけていて、富士山が見えた。雪を頂いた冬の山が、橙色の空に静かに立っていた。


「これからも隣にいてください」。


私が引き出しに折り畳んでしまってあるノートには、こういうことが書いてある。

「芽依がいる限り、屋上は特別な場所だ」

「そういうことが、人によって起きるということを、私は今年初めて知った」


向こうも、たぶん、同じことを感じていた。

それがわかって、なんというか、胸がいっぱいになった。胸がいっぱいになることが恥ずかしくて、富士山を見た。富士山は何も言わなかった。ただそこにあった。


私は机の引き出しを開けた。

折りたたんであるノートのページを開いて、さっきまで書きかけだった文章の続きを書いた。


いつか、これを渡せる気がする。たぶん。


それだけ書いて、閉じた。

冬休みが始まる。

山梨の冬は長い。でも今年の冬は、なんか、それでいい気がした。

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